海沿いのまちを、自転車に乗った“先生”が青いスカートを翻して駆け抜ける。今夏、放映されていた飲料水のCMを見たことはありますか? あのCMのロケ地は御手洗(みたらい)というまち。広島県呉市と愛媛県今治市の間、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(おおさきしもじま)の港町です。
江戸時代、風待ち・潮待ちの港として栄えた御手洗は、昭和に入ってからも長らくは海運の要所でした。ところが、戦後、新幹線や高速道路が整備されると、とうとう船の時代も幕引きに。若い人は都会に出て行き、年老いた店主たちは店を閉め、江戸時代の家も残る古い町並みは眠りについたように静かになりました。
映画やCMのロケ地に選ばれるたび、その風景をひと目見たいと思う人たちがたくさんやってくるのですが、みんなただ御手洗を通り過ぎていくだけ……。なぜなら、足を休めてゆっくりできる喫茶店やカフェ、世界中に自慢してもいい特産品やおみやげを買える場所が少なかったからです。
「じゃあ、カフェをつくってみよう」と立ち上がったのが、合同会社よーそろ・代表の井上明さん。この4年間のうちに、まちの人の信頼を得ながら、空き家を活用した店舗を4軒もオープン。仕事をつくっては新たな移住者を受け入れ、定住に至るまでのフォローもするという活躍ぶりです。
井上さんというチェンジメーカーを、御手洗地区の人たちはどんな風に受け入れたのでしょうか。そして、井上さんは御手洗地区に、どんな夢を描いているのでしょうか。潮風が心地よい古い船宿の二階で、目を輝かせて語ってくれるお話をじっくり聞かせていただきました。
合同会社よーそろ代表。南九州にて、外壁材メーカーに7年間勤務した後、妻の実家がある広島県呉市の中心部に移住。2011年より、同じく呉市豊町・大崎下島の御手洗地区で、地域資源を活用し、地域課題を逆手に取って、新しいビジネスモデルづくりに取り組む。船宿カフェ若長、薩摩藩船宿跡脇屋、鍋焼きうどん尾収屋、潮待ち館を運営。デザイン事業部や妻が講師を務める「シニアパソコン教室えーる」も展開。
船宿の窓から見えた海に引き寄せられて
天然の良港として知られる呉は、戦前は海軍、戦後は海上自衛隊の一大拠点。戦艦大和を建造したのも呉の海軍工廠だったことから、現在も「大和ミュージアム」や「てつのくじら館」などの博物館があります。
井上さんが御手洗に出会ったのは、呉に住みはじめてしばらく経った頃。「呉をもっと知りたい」と考え、「呉観光ボランティア養成講座」に参加したのでした。
ガイドとして御手洗に来て、こんなまちもあるのかと驚きました。軍港都市・呉の歴史もスゴいなと思うのですが、御手洗には、日本人として「日本人でよかった」と言えるような何かがあるような気がして。日本人が大事にして来たものとか、ずっと続いてきたもの、次の世代に伝えられるものがここにはありそうだなと思ったんです。
ある日、御手洗でガイドをしていた井上さんは、観光ボランティア会の会長さんが、海沿いの船宿跡の2階の窓を開け放つところに居合わせます。ガタガタと雨戸が開き、真っ暗な部屋に光が満ちた瞬間、思わず声が出たそうです。窓枠に仕切られたいつもの海が、あまりにも美しかったのです。
「これはもったいない」と井上さんは強く思いました。
階段を上がるとこの風景!窓辺に腰を落ち着けると、しばらく言葉が出てきませんでした
窓から顔を出すと、青くおだやかな瀬戸内の多島美を胸いっぱいに味わえます
そのとき、会長さんに「ここで、何かすればいいのに」と言われたのを真に受けてカフェを始めました(笑)
観光に来る人たちからは「ゆっくりできる場所がほしい」というニーズも聞いていましたから。この風景に浸りながら、島の素材をそのまま提供するだけでも、充分に喜んでもらえるだろう。僕は、御手洗がすでに持っている良いものを活かす表現をしてみたいと思いました。
こうして、2011年4月に「船宿cafe若長(わかちょう)」をオープン。「若長」は、この建物が船宿だった頃に呼ばれていた屋号をそのままつけました。「船宿cafe若長」の立ち上げには、住民有志で重要伝統的建造物群保存地区の町並み保存活動をする、「御手洗重伝建を考える会(以下、重伝建の会)」のみなさんが協力してくれたそうです。
「ここでカフェをやりたい」と重伝建の会長さんに話したら、「おお、やりんさい!」と。ようわからんやつの僕に言ってくれたわけです(笑) そして、「必要なものがあったら使わせてもらいんさい」と、まちの人たちに声を掛けてくれました。
「やりんさい!」と温かく受け入れてくれたまちの人たちの応援を追い風にして、井上さんは次々に「地域課題を逆手に取る」新しいビジネスづくりに着手していきました。
「数字」ではなく「お客さん」と向き合いたい
ところで、井上さんは御手洗に来るまでは、どんなことをしていたのでしょうか。少し時をさかのぼってお話を聞いてみましょう。
井上さんは広島市生まれ。大学卒業後は住宅の外壁材メーカーの営業として、南九州で7年間働いていたそう。結婚して子どもが生まれ、30歳を目前にしたとき、「一つの場所に根を下ろして、人脈も事業も自分の手でつくってみたい」という思いに急かされるようになりました。
会社では、「お客さん本位の仕事をするよりも、数字を達成することを優先してしまう」という壁にぶち当たっていたんです。でも、相手の課題や悩みを聞いて、その人がかなえたいことを本当に聞いて、相手が喜ぶことをして、その結果として自分の喜びにつながるのが、“本当の仕事”じゃないかって。
それは、会社員のままでもできたと今は思います。でも、その時の僕はまだ若くて「このままではできない」と退職して、自分でどこまでできるか新たにチャレンジしたいと思いました。
そこで思い切って、奥さんの実家のある呉に引っ越し。人生のリセット期間を過ごしているときに出会ったのが、御手洗のまちでした。その歴史と文化を知り、まちの人たちと知り合うなかで、井上さんは御手洗で“本当の仕事”を始めることになったのです。
まちに新しい風を巻き起こす熱源は「好奇心」
井上さんに、人生をリセットして新たなチャレンジに向かった動機を尋ねてみると「好奇心」という言葉が返ってきました。井上さんが言う「好奇心」とは、「自分はどこまで何をやれるのかを試してみたい」という気持ちのこと。その「好奇心」は、この御手洗のまちでフルに発揮されています。
御手洗のまちで使われてきたちゃぶ台などの家具がそのまま置かれています。壁には作家さんの絵の展示も
たとえば、「船宿cafe若長」のお店づくり。そもそも、「カフェがやりたかったのではなく、カフェがないからつくった」という井上さんには、カフェ経営の経験はありません。お客さんが入りやすいエントランスのデザイン、席のレイアウト、メニュー開発から厨房の導線づくりまで、気づいたことをどんどん試していきました。
この島には「大長(おおちょう)みかん」や、そのまま食べられるレモン「夏レモン」などの柑橘や、60年前から栽培されている「島アボカド」など、ここにしかないものがあります。それを、アレンジしすぎないようにアレンジして、お客さんに喜んでもらえるようにどう提供できるのか。僕の好奇心をくすぐるものがここには山のようにあります。
冷やしレモンぜんざい(500円)。小豆あんの甘さにレモンの香りがすごく合うのでビックリ(また食べたい!)。夏以降は焼き餅入りの温かいぜんざいでいただきます
「船宿cafe若長」をオープンしてから4年間で、井上さんは空き家を活用して4カ所もの新店舗を開発。オリジナルデザイン雑貨、小物などを販売する「薩摩藩船宿跡脇屋」、豊町の物産販売と小商いレンタルスペース「潮待ち館」、御手洗のソウルフード、鍋焼きうどんが食べられる「尾収屋」。いずれもすでに新たな御手洗の顔として人気を集めています。
井上さんがユニークなのは、新しい事業を展開するたびに、新しいプレイヤーとして移住者を呼び込んでいること。たとえば、今「潮待ち館」を運営しているのは、かつて井上さんのお子さんが通う保育園の先生だった矢野智之さん。井上さんが「まちの人に自信をもって紹介できる人」だと、御手洗に呼び寄せたひとりです。
今ではすっかりまちの人気者・矢野智之さん。いつかこのまちでゲストハウスをやりたいのだそう
「尾収屋」には呉の製麺所を営む女性、「脇屋」には画家のご夫婦。それぞれの場所とストーリーを活かせる人に入ってもらい、バックアップしています。みんなそれぞれに、まちにファンができているし、僕にはないものを持っている人ばかりです。次は、いよいよ矢野さんと一緒にゲストハウスを立ち上げようと、準備を進めています。また、新たに料理人などの人材を呼び込みたいですね。
そして、もうひとつ。このスピード感での店舗開発、さらには御手洗のまちづくり事業へと事業を拡大できた背景にあったのは、港町・御手洗が育んできた「よそもの」を受け入れる力だったようです。
港町の「お世話好き」と「受け入れ力」
井上さんが4軒のお店を開いた空き家は、主に重伝建の会のネットワークから紹介を受けたもの。重伝建の会は、1994年に御手洗が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された年に発足。以後、20年以上に渡って町並みの保存とまちおこし活動に取り組んで来た団体です。
重伝建の会女性部では、御手洗を訪れる人におもてなしの心を伝える「一輪挿し運動」を行っている。種から育てた花を家々の壁や格子に飾り、水を切らさぬよう見守る。2005年広島県景観づくり大賞特別賞をはじめ数々の賞を受賞
この重伝建の会の人たちが、「やりんさい!」と井上さんの背中を押し、まちの人たちを紹介してくれるからこそ、「よそものだと拒まれず、一緒になにができるかなと受け入れてもらえた」と井上さんは言います。
僕がここでやれているのは、ずっと歴史をつないできてくれた人、ここで生活してきた人がいるから。そして、みなさんが続けてきた活動があるからなんです。
僕は外から来た人間であって、このまちを尊敬しているし、その感覚は常に持ち続けています。第三者の目線と、中に入り込んだ目線と両方を持って、このまちで何かを表現したいと思います。
また、井上さんは、御手洗の人たちの「人を斜めに見ないで、距離の近いつきあいをしてくれるところ」にも助けられていると言います。
御手洗の人はすごいお世話好きで。しょっちゅう「ごはんはあるのか」「ここ片付けといたよ」と助けてくれます。一方で、人との距離感は近いけれど、栄えていた港町だから田舎過ぎず、あっさりした部分もあるんです。
そして今は、重伝建の会を通して井上さんがまちとの関係を結んだように、今度は井上さんがまちと新しい移住者の間に立って、マッチングをサポートする役割を担いはじめています。
昨年は、東京・有楽町にある広島県の移住相談窓口「ひろしま暮らしサポートセンター」を通して、井上さんの取り組みを知った一組の夫婦が御手洗への移住を決めました。ドキュメンタリーカメラマンと料理ライターのご夫妻は,大正時代に建てられた築100年の古民家に住むことを決意し,空き事務所を改修した写真館をオープンされています。
僕は、誰かを連れてくるのなら、まちの人に自信を持って紹介できる人に声をかけます。今このまちにないパーツとしてその人が活躍してくれるなら、プラスになることは間違いないと思うから。そして、「来いよ」と言ったからには、のたれ死にはさせません。
どんどん仕事をつくってもらわなきゃいけないし、悩みごとがあったら聞いてまわるしフォローもする。それができるコンパクトさも、御手洗のいいところかなと思います。
1時間ほどあれば、ぐるりと歩いて回れてしまう御手洗のまち。このサイズならではの人との距離感を上手に活かして、井上さんはまちにコミットしているようです。
御手洗のなかにあるはずの未来を見つけるために
井上さんのお話を聞いていて印象的だったのは、「オレがコレをやりたいんだ!」という感じがないこと。まちの課題、まちの人たちの思い、そして外からやってくる観光客や、移住者のニーズを見極めながら、コーディネートを楽しんでいるようなのです。
そうですね。譲れないところは持ちながらも、どうやって柔軟に相手に合わせられるかということが大切だと思うんです。僕も、もう少しその技術レベルを上げないと、いろんな人に喜んでもらえる価値の提供ができないと思っています。
今は、重伝建の会の事務局長として、御手洗のまちづくり全体にも目を向ける井上さん。昨年は、住民による「重伝建地区・御手洗」のマスタープランとして「御手洗みらい計画」を策定。まちの課題を洗い出し、その解決のためにやるべきことを整理しました。
たとえば、観光スポットの質を向上し、まちの理解を深めるような体験を提供するために考えられたのが、「御手洗ミュージアム構想(エコミュージアム)」。御手洗の町並み全体を“博物館”に見立てて、まちの見せ方を工夫すると同時に収益もあげ、残したいものを保存していこうという計画です。
「御手洗ミュージアム構想」委員会は、呉広域商工会を中心に、重伝建の会、せとうち観光推進機構、広島県、呉市、そして、外国人有識者や建築デザイナーなど26名の委員による、多方面の”よそもの目線”から街の方向性やビジョンを固めていく大規模な取り組みです。委員会で得た「よそものの目線や意見」は御手洗に持ち帰ってまち全体で共有。「外に合わせる表現と行動」につなげたいと考えているそうです。
「どこにでもある土産物」が並ぶ観光地ではなくて、「ここに来なければわからないもの」がある場所にしたいんです。たとえ、公共交通手段がなくても何とかして行きたいと思わせるまちになること。それが、ミュージアム構想の目指すところです。
それぞれの団体や個人でやるべきこともありますが、ここで暮らす住民が御手洗の未来をどう描きどう進めていくのか思いを共有し行動していくことが大事だと考えています。暮らしてよかったと思えるまちにするために。
もし、この記事を読んでなにか感じることがあったら、井上さんや矢野さんに会いに、あの風景のなかを旅してほしいと思います。
そして、「ここに来なければわからないもの」を味わってください。
秋は、甘くて味が濃いという「大長みかん」収穫の季節。まずは、ゆったりと流れる時間を感じながらのんびり海を眺めて過ごすことから、御手洗にであってみませんか?
(撮影: 吉田亮人)
– INFORMATION –
「ひろびろ」ひろしま移住サポートメディア
http://www.hiroshima-hirobiro.jp/