チェルノブイリ原発事故が発生したのは今から25年前のこと、福島第一原発事故の今後を考えるためにも現在のチェルノブイリがどうなっているのかが非常に注目されています。
そんな中、現在ではなく今から13年前、つまり事故から12年前のチェルノブイリ原発とその周辺地域の様子を記録したドキュメンタリー映画が現在公開されています。そこに映っているのは、なんと依然としてそこで働き、そこで暮らす人々の姿なのです…。
舞台はチェルノブイリ原発から約4キロ離れた町
この映画『プリピャチ』はチェルノブイリ原発そのものとチェルノブイリ原発から約4キロ離れた原発労働者が多く暮らしていた町プリピャチを舞台にしたドキュメンタリー映画、撮ったのは後に『いのちの食べかた』を撮ることになるニコラウス・ゲイハルター監督です。
チェルノブイリでは周辺30キロメートルが「ゾーン」と呼ばれる立ち入り制限区域とされ、出入りは検問所で厳しくチェックされています。しかしその中に入ると未だ暮らしを続けている人がいるのです。
主人公の一人はそんな一組の老夫婦、原発からの冷却水が流れ出るプリピャチ川で取れる魚を食べ、森で採ったきのこを食べて暮らしています。といっても放射性物質について無知なわけではなく、「年寄りに放射能が何をするんだ」と言ってそこで暮らし続けることを選んだのです。
さらに驚くことは未だチェルノブイリ原発やプリピャチで働く人がいるということです。その理由のひとつは事故を起こした4号機の隣にある3号機が当時まだ稼働中であったことです。この映画ではその3号機で働く技師が発電所内を案内し、「事故は起こさない」と断言するシーンもあるのです。
現実感を奪ってしまうもの
このようなゾーン内の日常が淡々と白黒の映像で映し出されるこの映画を観て私が感じたのは「あまりに現実感がない」ということです。老夫婦の暮らしも、原発の技術者の話も、立ち入り禁止区域を管理する検問所の様子も、どれもこれも夢の中のようなふわふわした印象が覚えます。「本当にこれが現実なのか?」という漠然とした疑問をいだいてしまうのです。
しかし、その印象が破られるシーンがあります。それは、もう一人の主要登場人物であるプリピャチ市内の研究所で働く女性が撮影班をかつて住んでいた家に撮影班を案内するシーンです。彼女は草が生い茂るかつて道だったところやかつて学校だったところを進みます。彼女の説明を聞いてもやはりそこには現実を感じられません。
しかし、彼女がかつて住んでいた建物に入った瞬間、一気に現実が襲ってくるのです。それはおそらくその場所が私達に馴染みのある場所と非常に似通った場所であり、現実に存在する人とのつながりを感じやすい場所だからでしょう。このシーンで私は「あ、ここには人が住んでいたんだ」とリアルに感じたのです。
このことから思うのは、この映画から「現実感のなさ」を感じるのは、原発と原発事故がこの場所から現実感を奪っていたからだということです。ここに住む人々によって築かれていた生活が根こそぎ奪われ、この町からは現実感も失われてしまったのです。この町はゴーストタウンと言うよりはもはや文明の遺構のように見えます。
しかしそれでもここを「ふるさと」だと考える人もやはりいるのです。ここでプリピャチはフクシマとダブります。(カタカナの「フクシマ」という言葉はあまり好きではないのですが、「福島」ではなく福島第一原発事故の影響を強く受けてしまった地域という意味で使っています)
福島県双葉郡の方との意見交換
この公開に先立つ3月1日、渋谷アップリンクで福島県双葉郡の方や出身者に映画を観てもらい、意見交換を行うという上映会がありました。その時、参加者の一人はこうおっしゃっていました。
プリピャチの光景が今まさに始まっている。ブタクサが茂り、崩れた建物がそのまま放置されている。草はどんどん生い茂り、建物は崩壊していくばかりだ。
「フクシマ」の12年後はこのプリピャチに近い状態になってしまうかもしれないのです。そうさせないためにはどうするのか、他の参加者の方はこうおっしゃいます。
記録を残し、調査をすることが必要なのに許可がなかなかおりない。
ここまでのことは起こらないだろうが、中央と地方という図式は共通していて、ないがしろにされてしまう可能性はある。操作せないためには起こらないといけない。
プリピャチの人もそうですが、双葉郡の方も確かに原発の恩恵は受けていましたが、原発事故に対して責任があるわけではありません。にもかかわらず故郷を追われ、もう二度と住めなくなってしまうかもしれない。そのことについてはもっと怒るべきだ、それはそのとおりだと思います。
そして私達はそれを支えていかなければいけない。具体的にどうすればいいのかは今の段階ではわからいません。しかし、その解決策を見出すために、現状を記録し、分析し、同時に先例としてチェルノブイリやプリピャチについても勉強して、未来に目を向けなければいけません。
参加者からは「この映画は国民全員に見てもらいたい。そうじゃないと福島で起こっている事態がわからない」との声も聞かれました。なかなか警戒区域内の現状が伝わってこない以上、私たちはどうなっているか想像するしかありません。そのためにはこの『プリピャチ』を見ることはその想像の材料としては非常に有効なものになるはずです。
震災の日の再現ドラマをみて感動するのもいいかもしれませんが、未来に眼を向けるためにこの『プリピャチ』もぜひ観てみてください。
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