思春期の頃から10年以上、家族の悩みをひとりで抱え続けていた。
「言えなかった」のともちがう。そもそも、「誰かに相談する」という発想がなかった。無意識に、「家族の悩みは、誰かにいうものじゃない」と思い込んでいた気がする。
20代なかばで海外に滞在したとき、現地で出会った日本人の友人たちに、はじめて打ち明けることができた。そのとき、おおげさなようだけど「自分は存在していていいんだ」と思った。あの日は、僕のもうひとつの誕生日のようなものだった。
「家族の悩みは自分で解決すべき」と思っているのは、どうやら僕だけじゃないみたいだと、家族について取材するなかで気づいた。
「家族のことは自分で」という「家族の自己責任論」は、呪いのようにその人を縛って、「助けて」と言えなくさせる。そのせいで、つらい状況にあるのに、さらに追い込まれてしまう人がいる。
どうしたら僕らは、そんな「家族の自己責任論」をのりこえていけるんだろう?
ヤングケアラー当事者たちのストーリーをまとめた『ヤングケアラーの歩き方』(風鳴舎)の著者であり、「母子支援活動家」として家族以外の居場所をつくる活動などに取り組んでいる大庭美代子(おおば・みよこ)さんは、自身が機能不全家族(※)で育ったり、産後うつを経験したりしながら、誰にも相談できなかった過去を持っている。
大庭さんは、「家族の自己責任論」をどうやって乗り越えてきたのだろうか。話を聞いてみることにした。
(※)機能不全家族
家族が持つべき機能が働いていない家族。特に弱い立場にある人に対して、身体的・精神的ダメージを与える機会が日常的に存在している状態の家族をさす。
家族以外の居場所をつくる
東京、池袋。雑居ビルにかこまれた一角にひっそりとたたずむその古民家カフェは、秋の木漏れ日がうららかにふりそそいでいた。
今回の取材は、重い話になるかもしれない。そう思って、あえて明るい空間で話を聞くことにしたのだった。
けれど、「こんにちは〜!」と大庭さんがあらわれて、すぐに心配はふきとんだ。「実は事務所がこのへんなんですけど、こんな素敵なカフェあったんですね!」と、嬉しそうにいう。ほがらかな笑顔と、あかるい声。会ってすぐに、心の壁が溶けていくのを感じた。
座敷でお茶をすすりながら、まずは大庭さんの活動について聞いてみることにした。
「母子支援活動家」。大庭さんの肩書きは、あまり聞き慣れない。けれど、彼女の活動を言い表すにはぴったりだ。
大庭さんは、「認定NPO法人ピッコラーレ」の相談支援員として妊娠葛藤相談や、クリニックの助産師として育児相談を受けつつ、育児講座の講師をするなど、母親の支援等を行っている。
それだけでも幅広いが、他にもユニークな活動に取り組んでいる。それが、「家族以外の居場所づくり」。「子どもたちがどんな環境に生まれたとしても、心身共に健康で幸せに生きていける社会」の実現を目指す「任意団体あゆみ YELL」の代表として、親や子どもの居場所をつくっているのだ。
たとえば「おしゃべりサロンあゆみ」では、神奈川県川崎市多摩区で毎月第1月曜日、第3土曜日の月2回、ものづくりのワークショップ、ヨガやフダンス体験などのリラクゼーション講座、おしゃべり会などを開催。子育て中の母親同士が交流する機会を提供している。
さらに「おしゃべりサロンあゆみ」から派生して、子どもの居場所づくりも。毎月第3土曜日の午後に、10代を中心とする若者が勉強したりおしゃべりしたりすることができる居場所として、「つながるカフェ」を開いている。活動には保健師・看護師・助産師・カウンセラー・介護士なども関わり、家や学校で話せない悩みを相談することもできるそうだ。
大庭さんの活動は多岐にわたるけれど、根っこにある思いはひとつ。「どんな家庭環境に生まれたとしても、誰しも幸せになる権利がある」ということ。そして「幸せになるためには、家族以外の居場所が大事なんです」と、大庭さんは力をこめて語ってくれた。
大庭さん 家庭環境は、ひとりじゃどうしようもない。だからこそ、家族以外の居場所をたくさんつくりたいんです。家族じゃない誰かから救われることがあるし、安心できる場所がひとつでもあれば、それを励みに生きていけると思うので。
大庭さんが、「家族以外の居場所づくり」に強い思いを持つのには、わけがある。実は彼女自身が、親のアルコール依存、貧困、暴力…といった家庭で生きづらさを抱えながら、誰にも頼れずくるしんだ過去を持っているのだ。
父のアルコール依存症、そして暴力
話は、大庭さんの幼少期にさかのぼる。
大庭さんの両親は、熊本のある街でラーメン屋を営んでいた。父親が脱サラし、夫婦で立ち上げた店は、繁華街にあったこともあり、賑わいをみせるようになった。
しかし、次第に父は常連客と飲み歩くように。あまり家に帰って来なくなった父の穴を埋め、店は母親が一人で切り盛りするようになった。
大庭さん 母が一人で、夕方から朝まで働いてたんです。父は母が寝ているときに家に帰ってきて、こっそり箪笥から売り上げを持ち出して、また飲みに行くんですよ。当時の父は、飲んでばっかり。あとから振り返れば、アルコール依存症だったんだと思います。
父親からの暴力も、日常茶飯事だった。
大庭さん 酔うと大声を出して暴れるんです。包丁が飛んできたり、投げ飛ばされたり。自分に対する暴力もありますし、母に対する暴力を目の前でされるっていう、面前暴力もありました。
母親は、朝方に仕事が終わってから睡眠をとり、お昼頃に起きて仕込みをする生活。家事や育児にさく時間も労力もない。そのため、大庭さんは物ごころついたときには、2人の妹の身の回りの世話やケアをするようになっていた。
「ほんと、小さいお母さんみたいな感じだった」と、大庭さんは当時を振り返る。
小学校に上がっても、常に親や妹たちのことを気にかける生活を送っていたが、現在のように「ヤングケアラー」という言葉も知られていない時代。大庭さんにとってはそれが当たり前で、つらさも感じていなかった。
父の蒸発、そして貧困
小学校2年生のある日、父親が蒸発した。
酒の席で借金の保証人になってしまい、借りた本人が逃げたため、父が多額の借金を背負うことに。取り立てから逃げるため、父も姿を消したのだった。もちろん、家族にはなにも告げずに。
残された母が、多額の借金を返済しなければいけなくなった。
大庭さん 怖い人が家に取り立てに来るんですよ。だから電気を消して、いないふりして。もう、本当にドラマの世界です(笑)
母親はラーメン屋の権利を売り、パートを掛け持ちしながら、借金を返済していった。手元に残される生活費はわずか。1万円の家電製品を買うのにも、1000円ずつ、2000円ずつ…と分割払いでなければ買えないような生活だった。
アルコール依存、暴力、貧困…。大庭さんの家庭の状態は、周囲も知るところとなる。大庭さんは子どもながら、差別や偏見の目を感じ取っていた。
大庭さん 「あそこの家とは関わらない方がいい」っていう目を感じました。学校に行ったら、持ち物がないのでばかにされることもあったし、妹は「あそこの家の子とは遊ぶな」って言われたりしていましたし。だから、すごく心も暗かった。幼少期の写真を見ると、いつもこんな(暗い)顔をしてますよね。
住む場所も転々としていた。家賃が払えないこともあったし、「子どもが騒ぐから苦情が出ている」と、家主から退去を命じられたりしたこともあった。引越しの数は、大庭さんが覚えているだけでも小学校低学年までに6回を数えた。
家族の問題を背負い続けてきた
過酷な状況にありながら、ヤングケアラーとよばれる子どもの多くがそうであるように、大庭さんは逃げ出すことも、助けを求めることもできなかった。
大庭さん ほんとは飛び出したかったですよ。だけど、飛び出してしまうと、母と父が2人きりになるから、暴力が、直接母にいくじゃないですか。私がいたら、あいだに入ることもできるし。だからやっぱり、家から出れなくて。
ジェンガのピースのように、自分が抜けると家族が崩壊してしまう。その思いが、大庭さんに逃げることをゆるさなかった。
それに、「まわりに迷惑をかけてはいけない」という思いもあった。アルコール依存や貧困、暴力は、あくまでも家庭内で起きていること。家族のことは自分で解決しなければいけない、と思っていた。
しかも、数少ない居場所だった学校でトラブルや偏見の目を持たれたら、居場所を失ってしまうかもしれない。「迷惑をかけない、いい子でいる」ことは、すこしでも安心して生きていくための、大庭さんの生存戦略だった。
だから、大庭さんは家族の問題を、ひとりでずっと背負い続けてきたのだ。
大庭さんの話に聴き入ってしまった僕は、お茶を飲むのも忘れていた。思い出して口をつけると熱々だったお茶は、すこしぬるくなっていた。
淡々と、ときおり笑顔もみせながら語る大庭さん。話の中に出てくる、誰にも頼ることのできず、暗い顔をした少女のイメージと、今目の前にいる、「家族以外の居場所づくり」のことを明るく語る大庭さんの姿が、まだ僕の中で重ならなかった。
家族を救った民生委員
そのイメージが重なったのは、何人かの人たちとの出会いについて話を聞いたときだった。
大庭さんは、著書『ヤングケアラーの歩き方』で、「たった一人の応援団の存在が未来を変えることもある」と書いている。彼女は人生のおりおりで、「一人の応援団」に支えられてきたのだ。
そのひとりは、民生委員だった。
父が蒸発し、母が必死に働いて家計を支えていた頃、夜中に子どもだけで留守番をしていることが耳に入ったのか、ひとりの民生委員が訪ねてきた。
母が事情を話すと、「母子家庭の手当や、シングルマザーが入れる県営団地がありますよ」と教えてくれた。
大庭さん 母も、母親をはやくに亡くしたこともあってか、誰かに頼ることができない人だったんですよ。だから母子家庭の手当も知らなくて、はじめて民生委員さんに聞いて、「そんなのがあるんですね」って。
民生委員さんと一緒に区役所に手続きに行ったら、すぐ手当てももらえるようになって。それから1、2ヶ月で、県営団地に入ることができたんです。
安心して住むことができる住まいと、手当を得ることができて、大庭さんたちの生活は大きく変わった。母も、掛け持ちしていた仕事の一部を手放すことができ、家にいる時間も増えた。
この民生委員との出会いが、「ほんっとに、大きかった」と、大庭さんはいう。
大庭さん 母親も、役所に助けを求められなかったわけですよ。行っていいことも知らないし、行くような余裕もないし、情報もないし。地域に、家庭の問題を見つけて、解決する方法を教えてくれた人がいたから助かった。わたしの人生も変わりました。
民生委員は無報酬、実質ボランティアである。しかしそんな存在が、おおげさでなく誰かのいのちを救うことがあるのだ。
居場所と、学びの機会と、夢を与えてくれた先生
応援団の二人目は、小学校の先生だった。
小学校の頃の大庭さんは、学校の授業についていくことがむずかしくなっていた。家庭は勉強できる環境になかったし、学校が変わるたび、授業の進度がちがう。それに、機嫌が悪い父親が酔って帰ってくる前に親戚の家に逃げることもあり、学校を休まざるをえなくなることも、勉強についていくことをむずかしくした。
しかし、ある転校先の学校で、担任の先生が大庭さんたちクラスの何人かを家に招いて、勉強を教えてくれるようになった。
放課後、4人ぐらいの生徒が先生の家に集まって勉強をした。休憩時間には先生の奥さんがおやつをだしてくれて、みんなでおしゃべり。車での送迎も、先生がしてくれた。
そんな集まりの甲斐もあって、次第に大庭さんは授業についていけるように。しかも、大庭さんは「他の生徒に教えるのが上手い」と見込まれて、教える役も任されるようになった。
先生がしてくれたことは、大庭さんにとってとても深く印象に刻まれた。大庭さんに居場所と、学びの機会と、そして夢を与えてくれたのだ。
大庭さん 先生は当たり前にしてたと思うんですけど、わたしにとっては本当に大きくて。その先生と出会って、「将来、先生になりたい!」って思ったんです。こういう風に、困っている子どもを助けられる存在になりたい、って。その夢が支えになって、そのあと、ずっと強く生きてこられました。
「助けを求めていい」と思うきっかけとなった区役所の職員
もうひとり、応援団がいた。その人との出会いは、大庭さんが大人になってからのこと。
教師になるという夢を持った大庭さんは、アルバイトをしながら予備校に通い、1浪ののち地元熊本の大学の教育学部に進学。奨学金とアルバイトでなんとか学費を払いながら、教員免許を取得した。
しかし、教師になればはじめの数年は実家から離れた場所に赴任となり、家族から離れなければならなくなる。「親の面倒をみなければ」という思いがあった大庭さんは、悩んだ末に教師になるという夢を諦め、家から通えるIT企業に就職した。
やがて、同じ会社の同僚と結婚。31歳のときに第一子を出産する。「教育を学んできたし、子育ても問題なくできるだろう」と思っていた大庭さんを待っていたのは、深刻な産後うつだった。
「自分が機能不全家庭で育ったからこそ、子どもはちゃんと育てたい」。その思いがプレッシャーとなって、大庭さんを追い詰めた。睡眠も食事もままならなくなり、出産から2ヶ月経つ頃には体重が17キロ落ちていた。
しかし、辛い状況にあっても、周囲に助けはもとめられなかった。
大庭さん 「育児も、自分の家で起きてることだから、自分で解決しなきゃいけない」「相談したところでどうなるんだろう」と思ってるから、誰かに言えないし、言おうとも思わないんですよね。
しかし出産から3ヶ月、心身ともに限界を迎えた大庭さんは、市政だよりに書いてあった育児相談に、思い切って参加してみることにした。
扉を開けると、目に飛び込んできたのは楽しそうに談笑する他の参加者の姿。「来る場所を間違えたかな」と感じて帰ろうとした大庭さんに、ひとりの区役所職員が「だいじょうぶ?」と声をかけた。
大庭さんは、その職員に現状を打ち明けた。話し出すと涙が止まらなくなった。ちゃんと子育てをしなければいけない、というプレッシャーで押しつぶされそうになっていた大庭さんに、その職員は「お母さんも笑っていていいんですよ」と教えてくれた。
自分が楽になることが、結果的に子どものためにもなるのかもしれない。大庭さんはその日から、「人に助けをもとめよう」と思えるようになった。
それまで助けを求めなかった母親にも連絡し、サポートしてもらえるように。その結果、出産から4カ月が経った頃には、産後うつの状態から徐々に抜け出すことができた。
家族でも制度でもなく、「人のつながり」で問題に対処する
話に耳を傾けるなかで、だんだんと、話の中の大庭さんと目の前にいる大庭さんの像が、ひとつに重なっていく気がした。
大庭さんは、家族にまつわるさまざまな困難に直面しながら、そのときどきで周囲の人に救われてきた。だからこそ今、家族以外の居場所をつくっているのかもしれない。
現在の大庭さんは、自分自身が生きづらさを抱えた誰かの応援団となり、また大庭さん以外の応援団とも出会える場所をつくっている。「家族の問題だからって、自己責任だと感じる必要はない」という思いを、胸に秘めながら。
大庭さん 家族の問題だからって、あなただけで抱え込む必要ないよ、と。「助けて」と言ってもいい、絶対助けてくれる人はいるからっていうことは、本当に伝えたいんですよね。
一方で大庭さんは、「相談って、すっごくハードルが高いですよね」ともいう。たとえば、子育てに悩む親に向けた支援制度やサポートする人の存在があっても、「できない親だと思われてしまう」「虐待を疑われるんじゃないか」といったことが気になって、相談できない人もいるのだそうだ。
つまり、制度やサービスをつくることも大切だが、必要な人に届かない場合も多い。だからこそ、「隣にいるだれか」が大事なのだという。大庭さんが取り組んでいる居場所づくりも、「隣にいるだれか」をつくる取り組みだ。
たとえば子育て中の母親に向けた「おしゃべりサロンあゆみ」では、子連れでも参加できる、ミニチュア作りなどのワークショップを開催している。子どもをおんぶしながら作業をして、おしゃべりをしていると、そのなかでポロっと、悩みが溢れてくることがある。そうして悩みを誰かにうけとってもらうことで、すこし楽になる人もいるんだろう。
従来の医療の枠組みでは対処がむずかしい問題に対して、薬ではなく「地域での人のつながり」を処方する「社会的処方」が各地でひろまっている。
大庭さんの取り組みも、家族はもちろん、制度だけでは対処が難しい問題に対して、「隣にいるだれか」という人とのつながりを処方している活動だととらえることもできそうだ。
周りの人が、「わかった気になる」あやうさ
大庭さんの話を聞いて、「じゃあ、どうしたら自分が『隣にいるだれか』になれるのだろう」と思った。家族の困りごとを抱えた人、たとえばヤングケアラーの若者に会ったら、僕はなにができるだろう? と。
大庭さんのもとにも、よくそんな質問がよせられるらしい。けれど、「申し訳ないけど、『私もわかりません』っていうのが答えで」と、すこし困ったようにいう。
大庭さん みんな、わかりやすい答えを知りたいんですよね。でも、必要なことは人によって違うと思うんです。自分が「支援してやるぞ」と思ってやったことが、正解じゃないことはいっぱいある。
そう言われて、はっとした。たしかに、今すぐにでも手を差し伸べて欲しい人もいるだろう。でも、家族で問題を抱えていることをあまり知られたくないし、手を差し伸べられても拒絶してしまうような人もいるはずだ。隣にいるだれかが「こうしてほしいだろう」と勝手に決めつけ、善意を押し付けることは、むしろ相手を傷つけかねない。
「じゃあ、『隣にいるだれか』になるためには、どうしたらいいんでしょうか?」。ちょっと途方にくれて尋ねると、大庭さんはやさしく微笑みながら、「それはね、思いを寄せて、悩むことが大事だと思うんです」と教えてくれた。
大庭さん 偏見のまなざしでも、「支援してあげよう」でもなくて、「何か自分にできることないかな」って思いを寄せて、悩むことが大事。そういう温かい目で見守ってくれる人がいてくれると、どれだけ救われるか。
そうか。「ヤングケアラー」や「産後うつ」など、こんな困りごとを抱えている人がいるということを「知る」ことは、もちろん大事。だけど一方で、「こうすればいいんでしょ」とわかった気になったら、支援の押し付けになる。
だから、「なにができるだろうか」と、悩みを手放さないことが大切だ。「知る」と「わかった気にならない」という、一見矛盾するようなふたつを両立することが、見守りを成り立たせるんだろう。
大庭さん そう。本当の見守りって、あらかじめ準備して、「こういうことができる、ああいうことができる」ってやれることじゃないんです。だって、対「人」だから。相手によって求めてることがちがって当然じゃないですか。だから、何ができるかを考え続けることが大事だと思います。
でも別に、気負ってやらなくていいんですよ! 大庭さんはつけくわえる。目の前にいる人が、いつもと違う雰囲気で「あれ?」って思った時に、自分がその時にできることでトライすればいい、と。
例えば大庭さんの知り合いのエピソード。
大庭さん 犬の散歩で行く公園に、いつもポツンとしてる子どもがいたらしいんです。なんでいつも一人でいるんだろう? って思いながらも、関わることはなかったそうなんですけど。
その人が、私の本を読んで「困りごとを抱えている子どもが世の中にいるんだな」と知ってくれたらしくて。その子の居場所が増えたらと、ある日「犬、触ってみる?」って話しかけたそうで、それ以来、公園に行くたびにちょっと話すようになったらしいんですよ。もう、それだけで立派な見守りですよね。
話を聞きながら、ふと思った。もしかしたら、大庭さんが夢を持つきっかけとなった先生も、実は大庭さんが置かれた状況を知っていたのかもしれない。何ができるだろうか、と考えて、行動したのが、勉強の場に声をかけることだった…というのは、考えすぎだろうか。
本当のところはわからないが、決してわかった気にならず、「自分にはなにができるだろう」と考えてくれる人がたくさんいる、と思えたら、家族問題の重荷をすこしその背中からおろすことができる人も増える気がする。
家族のわかちあい論
夢中で話を聞いていたら、もう約束の時間だ。カフェを出ると、日が傾き始めていた。
歩きながら、最後に、家族について悩んでいるひとになにか伝えたいことはあるか聞いてみた。
まずは、子どもに対して。
大庭さん 「こんな家庭に生まれたら、もう未来はない」って思ってしまう人もいると思うんです。でも、ちゃんと明るい未来があること、そんな未来のために手伝ってくれる人がいるってことを知ってほしいな。わたしも大変な経験をしてきましたけど、いますっごく幸せですから!
それから、と大庭さんは言葉を続ける。「親も、助けを求めていい」と。
大庭さん 親も、自己責任論で苦しんでいると思うんです。親自身も複雑な家庭環境で育ったりして、つらい状態でも助けてと言えないことがある。だから、親にも「助けてくれる人はいるよ」と伝えたいです。
大庭さんと別れてからの帰り道。電車に揺られながらニュースアプリを開くと、「電車で親子連れに対して『うるさい、静かにさせろ』と怒鳴る人がいて、トラブルになった」という記事があった。
またか。僕は胸が少し痛むのを感じた。世の中にひそむ「家族の自己責任論」は、そうした言動やまなざしというかたちであらわれて、ただでさえ困難な状況にある人をさらに追い詰める。
家族の問題を当事者に背負わせる「家族の自己責任論」は、根強く存在している。でも、それに対して、家族の問題を人とのつながりのなかでわかちあうという「家族のわかちあい論」のような考え方もあるんだな、と、大庭さんの話を聞きながら感じていた。
そんな「家族のわかちあい論」は、大庭さんがいうようにわかりやすい答えがあるわけじゃない。だから、わかりやすく、しかも強い言葉で語られる「家族の自己責任論」の声に打ち消されてしまいそうだ。
でも、家族の問題をわかちえる人はちゃんといる。学校に、職場に、役場に、カフェに、地域の居場所に。目を凝らしてみれば、日常の中に、「自分になにができるかな」と悩んでいる人が、きっといるんだと、大庭さんの話を聴いた今は少し信じられる。
そう思っていたら、ふと友達の顔が思い浮かんだ。そういえば、あいつどうしてるんだろ。最近悩んでること、ちょっと話してみようかな。
僕はLINEをひらいた。まわりの人たちも、みんなスマホをいじっていた。あのスーツ姿の男性も、あの女子高生も、おじさんも、ひとりでいるように見えて、実はその先で、家族の悩みをわかちあえる誰かにつながっているのかもしれなかった。
参考文献
ヤングケアラーに関する相談窓口
子育ての悩みに関する相談窓口
(編集:佐藤伶)
– INFORMATION –
これからもさまざまな「家族」のかたちを探究していきたく、取材先を募集しています。
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