2012年度にスタートした「ミニふくおか」。会場に入場した後、ハローワークに並び仕事を探す子どもたち
公園の遊具に色を塗る。街の一角に住人が集えるスペースを作る。こういったことをするのは「行政」の仕事だと思い込んでいませんか?
けれども、まちづくりは本来“人ごと”ではなく、“自分ごと”のはず。きちんとした手順さえ踏めば、私たち住民が、このような取り組みを実現させることができるのです。
実際に福岡のいくつかの公園では、子どもたちが公園の遊具に色を塗ったり、公園内で民間の事業者がカフェを運営したりといったことが起きています。そのキーパーソンが、「住民」と「行政」を結びつけ、住民主体のまちづくりをサポートする福田忠昭さん。
シンプルながらも一見難しそうにみえる取り組みを実現するには、どうしたらいいのでしょうか。福田さんにお話を伺いました。
海が見える事務所の屋上でインタビューを行いました
LOCAL & DESIGN(株)代表取締役。1972年生まれ。福岡市出身。1997年、大阪大学大学院環境工学専攻修了後、建築設計・コンサルタント事務所を経て現職。福岡市・福岡県を中心に都市計画や住民参加型のまちづくりの実践に取り組み、特に景観、環境、地域活性化などの調査・計画策定・実務に携わる一方、こどもやアート・芸術によるまちづくりを行うNPO等の活動にも参加している。
「行政」と「民間」の橋渡し役として活動する
福田さんは2010年度から2013年度の4年間、「WeLove天神協議会」のまちづくりディレクターとして、天神地区の官民共同のまちづくりに関わっています。
2014年度以降も非常勤として、天神地区の交通戦略やまち歩き事業、ボランティアによるまちの案内事業のコーディネートを行ってきました。
例えば、福岡市内を流れる那珂川の河畔敷で、オープンカフェを実施しました。
このスペースは西中洲公園という公共の公園ですので、民間事業者が営業活動を行うことはできません。でも、私たち「WeLove天神協議会」が福岡市とカフェを運営する民間事業者の間に入って協定を結び、営業活動を行うことができたのです。
ここでは収益の3%を寄付していただき、その資金をまちづくりに活用するというスキームをつくり、まちづくりの財源確保の工夫をしました。
かつての西中洲公園は放置自転車が並び、お世辞にもキレイとはいえなかった公園でした。しかし、行政が規制を緩和し、椅子やテーブルを設置したことで、市民が楽しく利用できる魅力的なスペースに変身したのです。
2012年度より那珂川河畔敷の「西中洲公園」で開催されているオープンカフェ
福田さんはほかにも、子どもたちが実際の店鋪や企業で本物の仕事を体験する「天神ワーク体験!」や、「ミニ・ミュンヘン」をモデルに、子どもがまちの住民となり、まちづくりを体感できるイベント「ミニふくおか」などにも関わっています。
特に「ミニふくおか」は、応募人数が3,000人を超えてしまうほどの人気。このような取り組みは子どもたちにとって自分たちの暮らすまちに関心を持ち、まちづくりへの参画意識を持つきっかけになっています。
子どもたちが映画館のスタッフとなり実際の仕事を体験する「天神ワーク体験!」の様子
また、この4月からは福岡市に隣接する那珂川町の「まちづくりオフィス」運営業務を受託。那珂川町が所有する博多南駅前ビルを拠点に、町の魅力づくりとその情報発信を行っていくことになったそうです。
いちばん問題なのは、誰一人まちに対して働きかけない”無関心な状態になること”だと思うんです。人口は減り、高齢化が進み、公共施設や公共空間の管理や運営に使われる税金も、減少の一途を辿っています。
そのピークを迎えると言われているのが、私たち世代が65歳になる2030年代。そうなってしまってはマズいので、行政任せではなく、住民や企業が一緒に”エリアマネジメント”の発想で考えていければ、いい解決策が生まれるのでは? と考えています。
大学院進学直前、阪神・淡路大震災の被災者に
福田さんがまちづくりに関わるきっかけとなったのは、1995年の阪神・淡路大震災でした。都市計画について学んでいた福田さんは、大学院に進学するため深夜まで大学で論文を執筆し帰宅。就寝してすぐ、家が大きく揺れました。
地震の少ない九州で生まれ育ったため、福田さんは、当初、その揺れが地震だとは気づかなかったそう。
それからしばらくは、断片的な記憶しか残っておらず、4月に大学院に進学し、都市計画に関わる研究室に籍を置いてすぐ、本格的な復興調査がスタート。いきなり現場に出ての被災地調査に携わることになりました。
当時はGPSなどもなく、海側から山側へ全て歩いて、来る日も来る日も、目視で全壊、半壊、一部損壊などを調べる日々。同時に、仮設住宅のコミュニティを図るための仕組みづくりや、被災マンションの建て替えに関するプロジェクトにも携わったそうです。
それまで机上で学んでいた私にとって、阪神・淡路大震災はまさに青天の霹靂でした。目の前にどうにかしなければならないことを突きつけられ、復興調査などの活動を通して現場を知ることになります。
マンションの建て替えひとつとっても、そこにどんな人が住んでいるのかがわかって初めていろんな問題や課題が見えてくる。実社会に出てやることは、こんなにもシビアな世界であることを思い知らされましたね。
このときの経験は、現在の福田さんの活動に大きく活かされているそうです。
たとえば、禁止事項がたくさんありすぎて、子どもたちが公園で遊ばなくなり、行政の管理が行き届かなくなって犯罪が起きてしまうといった悪循環が生まれる現状があります。
このような問題を解決するには、近隣の人を含めて話し合いの場を持ったり、子どもたちと一緒に検討の場をつくったりすることが、私にとってはごく普通のやり方なのですが、多くの人は、そのような丁寧な対話をしたがらない傾向があるようです。
阪神・淡路大震災のときは、とにかくみんな膝を付き合わせて侃々諤々やっているような状況でしたので、私にとっては、対話の場をつくることが当たり前になっているんですよね。
また同じ頃、福田さんは大阪の下町に関する研究にも取り組んでいました。
そこでは、バス停の前に住んでいる人が、手書きの時刻表や時計、イスを勝手に配置するなど、バス停を利用する人のためのことを思って行動を起こしている。その行動力に興味を惹かれたのです。
民家の前にバス停があり、ドアには手書きの時刻表が、その上には時計が、バス停の前にはベンチが設けられている
道路にも関わらず、自宅の軒先を子どもの遊び場として提供している人も!
他にも、自宅の前の、車がほとんど通らない道路の一部を“よい子のあそびば”と名付け、遊び場にしている人もいました。
普通だったら「時計が遅れてしまって、乗り遅れた人からクレームがあったらどうしよう」とか、「子どもがケガしたらどうしよう」と考えてしまいますが、大阪の下町に暮らす人たちは、いとも簡単にそれをやってのけてしまう。それがとても面白くて。
一般の人にとって、まちづくりは「行政や企業がやること」と捉えてしまいがちですが、下町では自然に「自分ごと」になっている。そんな社会への働きかけ方が、その後の仕事のテーマとなっていきす。
「子ども」と「アート」がまちづくりのヒントに!
阪神・淡路大震災後は、復興やまちづくりの活動が活発になった時期でもありました。しかし福田さんは、大学院修了後、地元・福岡に帰ることを決めます。
大阪で就職する道はたくさんあったものの、震災以前の様子が全くわからず、もとの姿が想像できないことに、よりどころのなさや不安を覚えていたのです。その後、福岡のコンサルティング会社に入社して関わったのが、那珂川沿いにあった工場跡地の再開発プロジェクトでした。
そこは今でこそ、マンションが建ち、河畔敷が整備され、キレイな公園や遊歩道があり、人びとが行き交っていますが、かつては鬱蒼としたあまり人通りのないエリア。そのプロジェクトの一環で、福田さんはこのエリアの公園の遊具を塗り替えるという活動に携わることになります。
その鍵となったのは、地域の子どもたちを巻き込むことでした。
普通に考えたら、遊具に色を塗ろうなんて想像できないですよね。実際、勝手にやったら怒られるわけですが、誰かが間に入ってしかるべき手続きを踏んでいけば、けっこう好きなことができることに気づいたんです。
近所のビール工場から数百個のビールケースを借り、駅前の広場に設置。テーブル&イスにしてお弁当を食べたり、ステージにしてLIVEをしたり。使う人の想像力を掻き立てる工夫が施されたアーティストの活動
「子ども」に加えて、「アート」も福田さんのキーワードのひとつです。そのきっかけとなったのが、福岡で1990年にスタートした「福岡ミュージアム・シティ・プロジェクト」でした。
今でこそ、日本中でアートプロジェクトが開催されていますが、福岡はその先駆けだったんです。
ちょうど、福岡市の屋外彫刻の見直しの業務に関わり、屋外彫刻のように街にアートを置くだけでなく、その作品によっていかにコミュニティを生み出すか。そして、地域にどんな影響を及ぼすのか。そんな方向転換を提案していました。
この頃、福田さんは2人の尊敬するアーティストに出会います。
橋の名前を付けたり、橋の親柱をデザインしたり、架け替えによって不要になった石材を活用してオブジェをつくったり。福田さんは山野さんやアーティストの方と共に地域の子どもたちとアートを通じたまちづくりを実践した
そのひとりは、現在、横浜の「黄金町エリアマネジメントセンター」事務局長を務める山野真悟さん。
福田さんが山野さんと初めて手掛けた仕事は、先述の再開発プロジェクトでした。新しい住民の皆さんに、まちに愛着を持ってもらうため、橋や広場のデザインを考える仕事に取り組むことになったのです。
その地域に住む人と一緒に考えようと思ったとき、ファシリテーターとして進行を担当する私だけでなく、楽しくそういったことを考えられるアーティストの方のサポートが欲しかったんです。
山野さんは、表現活動をしているアーティストだからこそできることを把握されていたので、私が相談すれば、「○○くん連れてこようか」といろんな方を紹介してくださったりと、まちづくりに参加していただきました。
このような活動ではカタチにすることがとても大切です。アーティストの方はそれを感覚的に理解されるので、アーティストの力は凄いと思いました。
多くのアーティストを知り、つながっている山野さんという存在があったからこそ、「自身が考えていたまちづくりをカタチにすることができた」と福田さんはいいます。
有田校区での室見川灯明まつりの様子
そしてもうひとりが、「十和田市現代美術館」館長の藤浩志さんです。いまや福岡の秋の風物詩となっている「博多灯明ウォッチング」の地上絵を始めたのが藤さんでした。
廃校になった小学校の校庭に、近くにあるお寺の龍の絵を描き、紙の袋に砂を入れ、ロウソクを立て、一つひとつ並べ始めたんですね。
そうしているうちに近所の人たちが集まり、最終的には何十人もの人がその作業を手伝ってくれて。ようやく深夜、地上絵が完成したのですが、その美しさや凄さにみんなが感動し、翌年以降も地上絵が続くことになりました。
こうした仕組みをつくるのが藤さんの凄さ。たくさんの人が参加し、簡単な作業をする。その作品が自分が暮らすまちに展示され、それをきっかけに普段は気づいていなかった地域の魅力に触れる。
「まちづくりのエッセンスが、この灯明づくりに完璧に入っていた」と福田さんは言います。
2人と出会い、私の中でまちづくりの考えが大きく変わりました。アートやアーティストと住民が一緒になってプロジェクトを行うことで、大阪の下町で気づいた“社会への働きかけ”の方法が見えてきたんです。
博多部で始まった「灯明プロジェクト」は、現在、福岡市早良区の有田校区など、他の地域にも広がりを見せています。
有田では大きな道路が地域を分断するので、地域のつながりがなくなるのではと心配されていました。そこで「まちづくりの一環として地域に新しいお祭りをつくりませんか?」と提案をしたんです。
お祭りを継続するには、資金が必要なので、最初に街に点在するお店から協賛をいただきました。町内全員で集め、一度協賛をいただければ、翌年以降も「あ、あのお祭りね」と快く協賛してくださいます。
最初にこの仕組みをつくって、お金が集まるようになれば、あとは人がどう関わるのかが大切。小学校ではちょうど総合学習のカリキュラムの一環として組み込んでくれていて、校区をあげて人が集まるいい循環が生まれています。
一番大切なのは、信頼関係を築くこと
まちづくりの問題の根源には、「社会的ジレンマ」(社会において、個人の合理的な選択が社会としての最適な選択に一致せず乖離が生ずる場合の葛藤)があると言われています。
そのようなジレンマを解消するために、福田さんが大切にしているのは、良好なコミュニケーションというシンプルなことでした。
僕もルールを守るから、あなたも守ってくれますよね。そんな感覚がとても有効です。それを築くためには、コミュニケーションを図り、信頼関係を築くことが何より大事なんですよね。
例えば、福岡のまちで後を絶たない放置自転車の問題も、税金で人を雇って自転車を回収するよりも、人と人との信頼関係によって放置自転車をさせないことの方が断然いい。
福岡は人と人との距離が近く、初めて会った人とでも、何かしらの共通項を見つけて、感覚を近づけることができます。そういう信頼関係を築きやすい土壌だからこそ、できることはあると思います。
しかるべき手順を踏みながら、ひとつひとつ形にしていけば、市民と行政の信頼関係が生まれていく。そうすることで、ジレンマの解消に無駄なお金を掛ける代わりに、もっと面白いことを起こすためにお金をいかせるのかもしれません。
みなさんも「こんなことできたらいいな」とアンテナを立てることから、自分ごとのまちづくりをはじめてみませんか?