デモに参加すること。投票に行くこと。寄付をすること。
そうした行動が大切なのはわかる。僕は平和な社会を実現したいから。
けれども、大きな声では言いづらいのだが……「今の自分には、ちょっとむずかしいな」と感じてしまうことがある。
あるとき、心身の調子をくずして、じゅうぶんに下調べができないまま投票してしまったことがあった。行きたいと思っていたデモの日なのに、気持ちが落ちていて足が向かないことだってしょっちゅうだ。好きなだけ寄付できるほどの蓄えもない。SNSでみるあの人のように、活発に平和活動ができない自分が、うしろめたく、情けなさを感じる日もある。
だけど、ふと思う。
平和活動は、デモや投票、寄付だけなんだろうか。
もっと日々の生活のなかで実践しやすい、日常の平和活動はないんだろうか。
コンビニに行くとか、コーヒー豆を挽くとか、あるいは歯をみがくとか。そういった営みと同じくらいの、ささやかな実践。そうしたものがあるなら、調子がわるくても、お金がなくても、平和活動を続けられるかもしれない。そして、水滴が石を穿つみたいに、そうしたささやかな実践が、いつか社会を変えるかもしれない。
僕は、あの人がどんなふうに歯をみがいているのかを知らない。同じように、あの人がどんなふうに、日常のなかで平和に向けた実践をしているのかを知らない。
だから知りたい、のぞいてみたい。できるものなら、真似してみたい。
そんな思いで話を聞きにいったのは、安達茉莉子さんだ。作家・文筆家として、『毛布 -あなたをくるんでくれるもの』、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』、『臆病者の自転車生活』などの著書がある安達さんは、ちかごろ政治について語るZINEをつくったり、デモにもっていくためのプラカードを描いたりしている。
安達さんにとっての、日々の平和活動とは、そして平和とは、どんなものなんだろう?
作家・文筆家。大分県日田市出身。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関での勤務、限界集落での生活、英国大学院留学などを経て、言葉と絵による表現の世界へ。著書に『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE 』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『らせんの日々 作家、福祉に出会う』(ぼくみん出版会)、『とりあえず話そう、お悩み相談の森 解決しようとしないで対話をひらく』(エムディエヌコーポレーション)、詩集『世界に放りこまれた』(twililight)など。(X/Instagram: andmariobooks)
愛のない社会にはいられない
山中 安達さんは『私の生活改善運動』などで、身近な生活のことを書いてきました。一方で最近では、政治についての発信も積極的にするようになりましたよね。
安達さん 前から、フェミニズムの話や戦争の話はちょくちょくしてたんですよ。「言うべきときには言うぞ」っていうスタンスは、ずっともっていました。
山中 今は「言うべきときが来た」という感覚があるんでしょうか?
安達さん 最近は「明確にきた!」と感じてますね。2026年2月の総選挙で自民党が大勝して、投票結果を見た瞬間に「これはやばい!」と、危機感を覚えました。政権の中枢を担うことになったのは、改憲に強い意欲を見せる人たち。「これは改憲まで、一気にいってしまうぞ……」と。しかもその内容も、自民党が過去に提案している改憲草案などを考えると、民主主義や表現の自由などにとっては、おそらく最悪なかたちで。
私は別に、「なにがなんでも改憲に反対」というわけではないんです。たとえば、同性婚が可能になるような改憲なら、喜んで賛成する。
だけど、今与党が進めようとしている改憲の草案は、「憲法は国家権力が暴走しないように縛るものだ」という立憲主義の原則を考えると、それを壊してまで行う必要性を感じず、かつとても支持できるものではないんですよね。だから、「少なくとも、あなたたちが考える憲法には賛成しません」と意思表示をするために、「変わるのは憲法じゃなくて政治だ」と書いたデモのプラカードをつくりました。
山中 これまで、安達さんの生活についての発信にふれてきた読者のなかには、政治的な発信をすることに違和感を感じる方もいませんか?
安達さん いると思います。でも私の中では、生活と政治はつながってるんですよ。
私、「大変な社会から目を背けて美しいことを書いたって、しょうがないよね」って感覚があって。世の中の危機的な状況を認識しながら、なにもしないでいると、「あれ? ふだん『自分の快不快を大事にしよう』とか『自分が生きられる世界をつくる』とか、綺麗なこと書いてるのに、こっち(政治的なこと)にはふれないんですか?」って、自分の声が聞こえてくるんです。
山中 『私の生活改善運動』で、「愛がないところにはもういられない」と書いていましたよね。身の回りの生活だけではなく、社会という範囲でも、「愛がないところにはいられない」という感覚があるのかな、と思いながら聞いていました。
安達さん そうです、そうです。
小学生のときに保健室で読んだ『ブッタとシッタカブッタ』っていう漫画で、「本当の愛は、安心感のあるところにしかない」みたいな趣旨の言葉があって。その言葉が、すごく印象に残ってるんです。
安心と愛はつながってる。安心がないと、愛があるところは生まれない。
世界を見渡せば、何か政治的な発言をすると投獄される国だってあるじゃないですか。そういう「精神の自由(※)」がない状態じゃ、安心できない。私はそんな愛がないところには絶対いられないです。日本がそうならないか心配ですけど、杞憂ですめばいいなって思いながら、発信してます。
※精神の自由
個人の内心やその表現に対して、国家などの権力が一切の干渉や強制を加えることを禁じる基本的人権。一般的には「精神的自由権」と呼ばれる。日本国憲法では、「思想・良心の自由」「信教の自由」「表現の自由」「学問の自由」の4要素で構成されている。
「言いたいことを言う」のは、いちばんの平和活動
山中 僕も、今の社会に危機感があって、なにか平和につながるような活動をしたいと思っているんですが、自分の状態が整わず、むずかしいときがあるんです。安達さんも、平和活動がむずかしいと感じることはないですか?
安達さん あります、あります! ここ数ヶ月、仕事が大変で、体力の限界だったんですよね。だからデモにもなかなか行けなくて、「申し訳ない」とか、思いますし……。
これまで政治についてのZINEをつくったり、デモに参加したり、政治についての勉強会を開催したりしてきて気づいたのが、「平和活動をするのって、本当に大変なんだな」っていうこと。慣れてないから、平和活動を続けるための筋力が、まだないからだと思うんですけど。
山中 そうか、安達さんも。自分だけじゃないんだと、ちょっと安心しました(笑)。では、平和活動がむずかしいと感じるときでもできるような、日常の中で意識している平和活動はありますか?
安達さん 普段から「言いたいことを言う」のは、いちばんの平和活動だと思います。それは、精神の自由の行使でもあるし。
山中 それは、必ずしも政治的な発言に限らず?
安達さん なんでもそうだと思います。日常のなかで、「変だな」って思うこと……たとえば、「今の言い方って差別ですよね」とか、「その言い方、ちょっと馬鹿にしてますよね」とか。そういうのって、言えなくて、ぐぐぐってなっちゃったりもするけど。そのときに、「それはおかしい」って、ちゃんと言う。
すぐに言い返したりできなくても、「いや、なんか違う」って、違和感を感じる。その時点から、すでに平和活動は始まってると思うんですよ。戦争のことに限らず、「女は都会に出てもしょうがない」って言われたときや、「あなたの努力が足りないんじゃないの?」と言われたときに、「いや、違う」って、思う。すべての平和活動って、その違和感の延長線上にあるんじゃないかな。そこから、「じゃあ、なにができるだろう」って、考えることが始まるから。
表現の自由を、自主返納してしまっていないか
安達さん 「表現の自由(※)」って言葉がありますけど、今の日本だと、その自由を多くの人が自主返納しちゃってる気がするんです。表現の自由が、“使わない有給”みたいになってる。
私、会社員だったとき、有給完全消化だったんですよ。だけど、そんなことすると、「あいつ、ちょっと休みすぎだろ!」って言われないか、怖くなったりもしますよね。それと同じで、「ふざけんな!」みたいな批判とか違和感は、言っちゃダメだってしつけられちゃってますよね。
山中 わかります。学校では、校則に黙って従わなきゃいけない空気があったし、家では「親に口答えするな」と言われる。そうするうちに、言いたいことがあっても、口にすることをためらうようになった気がします。
安達さん うん。憲法改正によって表現の自由が制限される以前に、自分たちで表現の自由を制限しちゃってるんですよね。その制限を解除していくのが、すごく大事。最近ずっと考えてるのはそのことなんですよ。いかに表現の自由への制限を解除していくか。
その点、文化の力ってすごく大きいと思うんです。文筆業の人はとくに、言葉で生きてるわけだから、“自分の言葉”を発信していった方がいい。「あの人も書いてるじゃん」って気づくと、その言葉にふれた人も「違和感を言葉にしていいんだ!」って勇気が出るから。
実は政治について語るZINEは、「文筆業界が、表現の自由への制限を解除し合える空間になるといいな」っていう思いもあって、つくったんです。
※表現の自由
人が自分の考えや意見、感情などを、文章・言葉・映像・音楽などさまざまなかたちで発表できる権利。民主主義社会の土台となる基本的人権であり、国家権力などから不当に妨げられないことが重視されている。一方で、他者への差別や名誉毀損などを防ぐため、一定の制限も設けられている。日本国憲法では21条などで保障されている。

ZINE『私たちにはことばがあった vol.1〈政治と私〉』は、不安定な政治情勢の中、執筆者9人がそれぞれの生活からまなざした政治やデモのことを綴ったアンソロジー。本屋・生活綴方にあるリソグラフという印刷機(写真右下)で製作された。こうした個人の出版の取り組みも、表現の自由を行使する平和活動だ
“自分の言葉”は、垂直に上がってくる
山中 安達さんがつくった、政治について語るZINE『私たちにはことばがあった vol.1〈政治と私〉』のなかで、「私たちにはやれることがある。言葉がある」と書かれていたのが、とても印象的でした。もしかしたら「自分の言葉をもつ」ことが、平和活動になるんだろうか、と。
安達さん そうですね。ただ、私は“自分の言葉”っていうぱっきりとしたものが、はじめから自分の中にあるとは思ってないんですよ。“自分の言葉”は、いろんな人の話を聞いていると湧き上がってくるものだったりする。
以前、精神科医の星野概念さんが「言葉が垂直に上がってくる」っておっしゃっていて、なるほど! と思ったんです。「言葉が垂直に上がってくるのを待てばいいのか」って。
山中 言葉が垂直に上がってくる。
安達さん 自分のなかにある、たったひとつの言葉を掘り当てるんじゃなくて、いろんな人の考えに触れてるうちに、言葉が自分のうちがわから湧き上がってくる。だから、それを待つんです。
私が以前から参加している「オープンダイアローグ(※)」では、第三者が自分のことについて話しているのをただ聞く、「リフレクティング」の時間があります。目の前でみんなが私の話をしてると、なにか言いたくなってくるんですよね。「それ違うよ!」とか、「あっ、それはこういうことで」とか。まさにあの、他者と関わるなかで言葉が垂直に湧き上がってくる感覚を待てばいいんじゃないかな。
山中 その意味ではSNSも、人の言葉に触れて、なにか言いたくなるじゃないですか。でも、“垂直に上がってくる”ことばじゃない感覚がありますよね。
安達さん なんかSNSって、はやいですよね。呼吸が浅い、というか。パパパパって応酬し合ってるけど、みんなどれだけ本気で言ってるかもわからないし。あと、自分のタイムラインはアルゴリズムにかなり左右されてる。政治的なツイートがぶわーって伸びて、それに対する反対意見もぶわーって広まって。で、見てるとイライラしてくるじゃないですか。そういう状態で文章を書くと、「あいつは敵だ!打倒せよ!」みたいな感じの言葉に、どんどんなっていく。
それも、本当に思ってることかもしれないですよ? だけど、やっぱりカーっとなってるときの言葉だな、って思います。「本当は自分はどうしたいんだっけ?」とか、「どうなってほしいんだっけ」って、SNSよりももうちょっと落ち着いたところで、私は“自分の言葉”を考えたいんです。
※オープンダイアローグ
困難を抱える本人と関係者が集まり、対等な立場で声を交わしながら、状況や物語を共同で編み直していく「開かれた対話」の実践。もともとは精神医療の現場で取り組まれていたが、現在は福祉・教育・職場・地域などで応用されている。
他者の言葉にふれる
山中 “自分の言葉”が思うように見つからないとき、安達さんはどうしてますか?
安達さん そういうときは、まだ自分の中に十分な材料が揃ってないのかもしれないから、私は本を読みます。読んでるうちに、「こういうことが言いたかったんだ!」って気付いたりするから。
本屋さんに行ってみるだけでも、いいと思うんですよ。本屋さんに置いてある本のなかには、自分と同じような考えの人が書いたものもある。だから、そういう場所に身を置くだけでも、言葉が湧いてくることってありますし。
あとは、自分と同じ考えの人がいそうなところに、足を運んでみるとか。私もこのあいだ、政治についての勉強会を開催したんですけど、そういうイベントをやってる人は各地にいると思うので。自分が今、なにか明確な主張が言えなかったりしても、そういうところに行ってみるだけで、じゅうぶん大きな1歩だと思います。
今はすごく「言語化、言語化!」って言われる時代ですけど、言葉にならないときもいっぱいある。そのときは、むしろ人の言葉にふれる時間にすればいいんじゃないかな。そうするうちに、自分のなかで湧き上がってきたものがあれば、ちょっと出してみる。
山中 垂直に上がってきた言葉を。
安達さん そうそう。
普段から“自分の言葉”でしゃべり慣れてないのに、いきなり人と話すのはハードルが高いかもしれない。なので、まずは日記ぐらいから始めるといいと思います。「今日あの人にこんなことを言われて、微妙な気持ちになった。なんでだろう?」みたいな。それぐらいから始めるので、いいと思うんですよ。
デモも、絵も、踊りも、“ことば”になる
山中 ZINEのタイトルでは、「言葉」ではなく“ことば”と、表記をひらいてましたよね。
安達さん 表現を、いわゆる「言葉」だけに閉じ込める必要はぜんぜんなくて。たとえば、私はデモはボディーランゲージだと思ってます。プラカードをもって歩くだけでも、じゅうぶん表現。とくに政治って、みんなに関係がある内容だから、発信の方法を「言葉」だけに閉じ込めない方がいいと思うんですよね。
山中 “ことば”っていうのは、今おっしゃったような、ボディーランゲージとか絵とかも含めて……。
安達さん そうです。自分にとってやりやすい表現方法があると思うんですよね。
私は絵も描くんですけど、「言葉にはできないことも、絵なら表現できる」っていう感覚が、すごくわかる。絵じゃなくても、「レインボーフラッグを部屋で掲げる」とか、「デモの近くまで行ってみる」とかだって、自分のなかのなにかを表現してるわけだから、立派な“ことば”です。
山中 踊りが得意だったら、「社会への不満を踊る」とか。
安達さん そうそう!みんながそういう風に、自分なりの“ことば”で表現することができるんだよ、っていう思いを込めて、「言葉」じゃなく“ことば”にしてます。

安達さんが最近携わった本たち。左から、発案・編著したZINE『私たちにはことばがあった vol.1〈政治と私〉』、政治についての勉強会のルポが掲載された『すばる 2026年7月号』、題字と装画を担当した『メガホンとペンライト 韓国の「騒ぎながら民主主義」』
正解ではなく、正当性を大切にする
山中 自分の考えを表現することのハードルの高さのひとつは、「正しいことを表現しなければ」と思ってしまうことにあると思うんです。「こんなことを表現したら、批判されないかな」と思って、引っ込めてしまいそうになる。そういった経験、安達さんはないですか?
安達さん ありますよ〜、それは。自己検閲みたいなことも、すぐやってしまいそうになるし。のんびりと書いてる暮らしの話にだって、批判は飛んでくるから。
きっと、誰もが納得できるような正解はないんですよね。でも、正解はないけど、正当性は大切にしたいなと思っていて。
山中 正解と正当性は違う?
安達さん 違うと思います。以前、沖縄の戦没者追悼式で高市首相のスピーチ中に「戦争反対」といった声が飛んだことに対して、「追悼の場なのに、大声で野次をするなんて非常識だ」といった批判がありましたよね(※)。
でも、「尊い犠牲なんかじゃなく、国によって殺されたんだ」と声を上げることは、私はその方にとっての正当性があると思う。それを、「そんな強い言い方をするのはよくない」って批判してしまうと、いわゆる「トーンポリシング(※)」になって、その正当性をかなり揺るがしてるわけですよね。
山中 すべての人が納得できる正解であるわけではないけれど、その人自身にとっては、そのことばを発する、正当な理由がある。
安達さん はい。そして、正当性は人それぞれです。たとえば、「国のかたちを保つことが正当なんだ。そのためには犠牲は必要だ」って考える人もいると思う。そういう人からしたら、私が言ってることは「はあ?」みたいな感じじゃないですか。
つまり、みんなが納得できるような、唯一の正解があるわけじゃない。だから、“自分の言葉”が正しいことなのかは、わからない。でも、自分が本当に思っていることだとしたら、それは自分にとって正当な言葉なので、大切にしていいと思う。
それに、自分にとっての正当性は変わっていい。「最初はこう思ってたけど、人と話すうちにこう思うようになった」っていう風に、学びながら“自分の言葉”が変わっていくことを恐れなくていいと思うんです。
※戦没者追悼式での抗議
2026年6月23日の沖縄全戦没者追悼式で、高市首相のあいさつ中に「戦争反対」「9条を守れ」などの声が上がった。これに対し、追悼の場にふさわしくないとの批判がある一方、沖縄戦の記憶や基地負担、安保政策への正当な抗議として受け止める声もあり、一部で論争が起こった。
※トーンポリシング
発言の内容ではなく「言い方」「態度」「感情の出し方」を問題視して、論点をすり替えたり、批判や訴えの力を弱めてしまう振る舞いを指す言葉。
敵に思える人も、“未来をつくる仲間”だととらえてみる
山中 “自分の言葉”は、必ずしも正解でなくていいし、変わっていってもいい。そう思えると、表現することのハードルも下がりそうです。一方で、それぞれの人が自分にとって正当なことを表現すると、対立する場面も増えそうですね。
安達さん 私たち……というと主語が大きすぎる気もしますけど、日本で育った多くの人たちって、政治的な話をしないように育てられてきたような気がします。少なくとも、私はそうで。その結果、異なる正当性をもつ人と話すすべが、「黙るか、話を逸らすか」しかなくなっちゃってるんですよね。
たとえばデモに行くと、警官の方が道を塞いでたりする。だから一見、敵に思えてしまう。そんなふうに、異なる正当性をもつ人と出会ったときに、お互いを“敵”だとみなしてしまうと、口もきかなくなってしまうと思うんですよ。
でも、先日政治についての勉強会にゲストで来てくださった政治学者・国際政治学者の五野井郁夫先生は、「敵と思える相手を、同じ未来を一緒につくる仲間だととらえてみるといい」って言っていました。「この人とも、同じ未来をつくってるんだな」って感覚をもつと、接し方は変わりますよね。
山中 たしかに、「どうしたら相手を倒せるか」から、「どうしたら一緒に未来をつくれるか」に、問いが変わる気がします。
安達さん そう。今の社会は、いろんな人が「敵アンド敵!」みたいな状態で、誰かと戦ってる。リベラル同士もそうです。みんな譲れない主張があるだろうから、そうなるのもわかるんですけど。一見すると敵だと思ってしまいそうになる人とでも、手を組んで、未来を一緒につくっていけるかもしれない。そういう可能性のことを、私はすこし、頭の片隅に置いておきたいんです。
異なる正当性をもつ人と出会ったとき、私は、何が正解かを議論するよりももっと手前で、「その人が何に恐れているか」とか、「何を大事にしてるか」を知りたいんですよね。「ロシアや中国が攻めてくる。だから軍拡しなければなんだ!」と言う人も、その人にとっては正当な、恐れや不安の理由があるかもしれない。その話を聞けたら、「その不安は、すごくわかります」って思える。そこから、「だけど、軍拡をすればその不安が解消できるわけじゃなくないですか?」っていう対話を始めることは、できると思うんです。

安達さんが題字と装画を担当した『メガホンとペンライト』は、韓国の市民運動の様子を観察し続けてきたメディア人類学者の著者が、「デモ」という手段がどのように拡張され、どのように社会を変えてきたのかを読み解いた一冊
弱々しい状態からはじめる
安達さん さっき話したみたいに、私は体力が続かなくて、思うように平和活動ができないときもある。でも、私はこの、弱々しい状態から始めた方がいいんじゃないかな、と思っていて。
山中 弱々しい状態からはじめる?
安達さん ちょっと言い方が難しいんですけど……私は“強い革命闘士”みたいには、たぶんなれない。極端な表現かもしれませんが……。
そこまでいかなくても、ずっと地道に活動を続けてこられた方々もたくさんいて、そういう方々には尊敬の念しかありません。だけど、だからといって、自分も強くなろうと無理に思わなくてもいい。社会を動かすには、そうした強さのある存在が必要です。だけど、全員が全員そうなれるわけではないから。
山中 とても共感します。どうしたらこの弱さをもったまま、平和活動ができるんでしょう?
安達さん まずは、日々の生活を安心なものにしてくこと、じゃないですかね。
だって、この政治状況になる以前から、すでにしんどいことってなかったですか?ウクライナやパレスチナやイランで戦争が起こる前から、気持ちが落ち込んで、自分が崩れていくような日も、私はあったので。今はそれにこの政治不安が乗っかってきてるわけで、それはしんどくもなりますよね。
だから、「ケアの目線を自分にも向けてあげること」が、すごく大事なんだと思います。「今は家でゆっくりご飯食べて、寝ておいたら?」みたいな。
だって、自分の大切な飼い犬に、「お前、世の中がこんなに大変なんだから、メシなんか食うな!」なんて言わないじゃないですか。そうじゃなくて、「ごはんいっぱい食べな」ってなりますよね。そんなふうに、自分を大切に扱って、ごはんを与えてあげる。そっちの方が、自分を犠牲にして頑張るより、私はずっと好きです。
山中 僕も、そっちの方が好きだな。ただ、他の人がデモに行ったりしてるなか、自分は家で休んでることに対して、後ろめたさを感じてしまうこともあるんですよね。
安達さん うん。でも、私たちって、なにかの目的のために生きてるわけじゃない。なんていうか、“ただ、生きている”ので。
平和活動を、生きる目的にする必要はないと思います。それよりも、日々を大事にした方がいい。「もっと活動しろ!」って批判する人もいるだろうけど、そういう批判は、別の抑圧になっちゃうから。
今は夏だから、暑くてデモに行けないときもありますよね。それを「申し訳ない」って思う気持ちもすごいあるんですけど、その気持ちの先に何があるかなって考えると、「別に何もなくない?」って思う。「今この弱い状態のままで、できることはなんだろう?」って考えた方が、よっぽどいい気がします。背負いすぎないの、大事。本当に大事です。
生存が平和活動
安達さん ほんと、生存が、自分にとっての平和活動なんですよね。
山中 生存が平和活動。
安達さん 私は、「自分が平和に暮らしてれば、世界は平和になる」とは、正直思ってない。さすがにそうはならんやろ、と思うんですけど。ならなかったとしても、自分は平和でいた方がいい。なぜならば、私たちは“ただ、生きている”ので。
世の中が変わろうと変わるまいと、自分は平和でいるべきだと思います。自分が生存していること、それ自体にちゃんと意味がある。世の中の平和につながってなくても、です。むしろ、平和にはつながってないけど、それでも、自分のことを安らかにした方がいいに決まってる。
だって、私たちはなにかの目的のために生きてるわけじゃない。日々を、“ただ、生きている”ので。「こんな状態になっても、私は絶対に自分の幸せを奪わせない」って思ってるぐらいでもいいんじゃないかな、と、私は思います。
あと、あえて合理性を考えるなら、いざというときに踏ん張れるように、普段はなるべく平和に自由に過ごすのがいいと思っています(笑)。
私は以前、防衛省で勤めていたんですけど、「有事」って言葉をよく使ってたんです。今の日本は、ちょっと有事を先取りしてる感じがある。やっぱり有事って特殊な状況なので、通常のことができなくなったりするんですよね。ずっと有事でいると、人は耐えられない。政治的なことを見たり、聞いたりするのが、ぜんぶ嫌になっちゃったりする。心は平時に戻りたいから。
そういう心の動きだってあるから、人はずっと有事モードではいられないわけです。だから、いつか大事なときに戦うために、「元気がないときは自分を大事にしとくのがいいよ」って思います。
野党は、育てていくことができる
安達さん 今は、権力が暴走しまくっていて、やりたい放題やってますよね。だから、「本当になんとかしなきゃいけない」という危機感がある。だけど一方で、私たちが感じてる危機感の受け皿となる野党がいないような、もどかしさもあって。
そんなもどかしさを、政治についての勉強会で五野井さんに話したら、「野党っていうのは、いきなり都合よく出てくるわけじゃない。我々で育てていくものですよ」と。
今は多くの人が、「信頼できる野党がいない」と感じてると思います。でも、野党は市民との対話によって育っていくもの。野党は私たちが育てていくことができる。五野井さんは、「こんなふうに政治についての勉強会に参加してる人は、野党からするとぜひとも協力したい人です」とも言っていました。だから、勉強会を開くことも野党を育てることにつながるかもしれない。
最近はそんなふうに、「政界の勢力図を変えること」に、具体的に取り組んでいかないといけない、と思っています。
山中 「政界の勢力図を変える」機会は、選挙のときだけではないと。ただ……この平和に向けての戦いは、長くなりそうですよね。
安達さん いやぁ、長いですよねぇ……。なんか、「何十年、何百年単位の話だぞこれは」っていう感じがして。本当、気が遠くなりそうなくらい。
……でも、希望を捨てないことが大事なんじゃないかな。
私、楽観主義って、すごく大切だなと思うんですよ。たまに、どんどん悪くなっていく未来しか見えなくて、無力感を感じるときもあるけど。そうすると、自分自身もどんどん弱っていってしまう。
そういうときは、「もしかしたら、別の未来の可能性があるかもしれない」っていうふうに、くるしい状況に、酸素をちょっととりいれてみるんです。過去には、本当にひどい状況を経験しながら抵抗してきてた人たちもいるので、そういう人たちの本を読むのもいいですよ。たとえば私は、レベッカ・ソルニットの『暗闇のなかの希望』(※)っていう本を、好きなときに好きなページを開いて読んでます。
そういうふうにしながら、希望を捨てずに日々を過ごしていくことが大事なんじゃないかな、と思います。
※『暗闇のなかの希望』
作家、歴史家、アクティヴィストであるレベッカ・ソルニットが、イラク戦争が始まった2003年に「希望を擁護する」ために書いた一冊。度重なる戦争や気候変動、それに伴う絶望と冷笑主義が残りつづける現代において、「希望をもつことはいかに可能なのか」を問いかけている。
(撮影:山中散歩)





