地域によって、蔵元によって、そして素材や造り方によって異なる味わいが楽しめる日本酒。口に含み、舌で転がすとともに広がる風味とともに、その酒を育んだ自然と人に思いを馳せるひとときは格別なものです。
どんなに時代が変わっても、地域の風土と職人の手による古くからの酒造りにこだわる酒蔵があります。そんな酒蔵のひとつが、福島県郡山市田村町にある「仁井田本家」。酒造りの技だけではなく、酒造りに欠かせない水を育む「山」を守り続けている酒蔵です。
自然とともに生業を営んできた酒造だからこそ、自然に、地域に、人に、もっとできることがあるはず。そんな想いで、次々とこれまでにない取り組みを行っているという仁井田本家を訪ねました。
郡山市の市街から山の方に向かうと、だんだんと、田んぼが広がるのどかな風景に。青々とした山に近づいた頃、「自然酒」と書かれた大きな木桶が目に飛び込んできます。そこが、仁井田本家です。
300年前からの約束が、自社山の木を活用した木桶での酒造りに
古民家を改装したお部屋で私たちを迎えてくれたのは、十八代の蔵元で杜氏でもある仁井田穏彦(にいだ・やすひこ)さんと、女将で発酵食品部の仁井田真樹(にいだ・まき)さん。「何からお話ししましょうか」と、微笑むお二人に、まずは仁井田本家が受け継いできたことと、これから紡いでいきたいことをお聞きしました。
仁井田本家は1711年に創業。自社田の近くにある「竹の内の井戸水」(硬水)と自社の山から湧き出る「水抜きの湧水」(軟水)という二つの天然水を使った昔ながらの酒造りを代々受け継いでいます。また、現代の日本酒の仕込みにおいては純粋培養された醸造用の酵母を添加することが多い中、仁井田本家では蔵に住み着く酵母が自然に降りてくるのを待って発酵を促すという、手間も時間もはるかにかかる伝統的な仕込み方にこだわっています。
そんな仁井田本家の経営理念は「約束を守る」。昔ながらの酒造りとともに自社が持つ100haもの山を守り続けてきた同社は、先祖との「山には絶対に手をつけてはいけない」という約束を経営理念に反映しています。酒の仕込みにはもちろん、洗米やタンクの洗浄にも山の天然水を使ってきたため、水を育む山は何よりも大切にしないといけないという想いを守りつづけているのです。
穏彦さん 健全な木が生きているからこそ、山の保水力が維持される。その結果、水が枯れることがなくなる。山を売ったり木を伐って開発したりすると、短期的な利益は得られるかもしれないけれど、長期的には取り返しのつかない損失を招くことになります。だから、絶対に山には手をつけないという約束を代々守り続けているんです。この環境って、先祖からということはもちろんですが、地球からの預かりものですからね。目先にどれだけの利益をもたらすかではなく、次世代に何を残せるか。この約束は、先祖との約束でもあり、山との約束でもあり、これからの仁井田本家との約束でもあるんです。
林業も営んでいた十六代がたくさん残してくれた杉。伐りどきを迎えていたものの、高度経済成長期に安い外国産の材木が大量に入ってくるようになったため、先代の十七代からは杉の林は最低限の手入れをするだけになっていました。しかし、山を健全に保つためには、適切に間伐をしていかなければいけない。どうせ間伐するのなら、その木を酒造ならではの使い方ができないか。穏彦さんのそんな発想で始まったのが、自社林の杉材を使った木桶での酒造りでした。
穏彦さん 地元で間伐を手伝ってくれている人が『木桶をつくったらどうか』と提案してくれまして。それは面白いと地元の大工さんに相談したら興味を持ってくれて、木桶をつくってくれたんです。醤油造り用の木桶をつくっている小豆島まで行ってつくり方を習得してくれてね。そうやって、自社林の杉を地元の製材所で材木にして、地元の大工さんと木桶をつくる、という流れができていきました。地域で、何か面白いことをしようという気持ちでつながれる人たちがいるというのは、本当にありがたいことです。
現代の酒造りでは、扱いやすい金属や樹脂のタンクを用いるのが主流で、木桶での仕込みはかなり珍しいこと。仁井田本家の酒は蔵に住み着いた酵母で発酵させているので、木桶に住み着いた微生物と蔵付きの菌が相まって他にない味わいのお酒が醸されるそうです。しかし、桶からの酒造りは手間も費用もかさむと思うのですが…。
真樹さん いま世の中には、新しい日本酒がどんどん出てきています。どの日本酒もそれぞれ趣向を凝らしていて、本当に美味しい。そんな中で、どういう個性を出していくのか、どういうお酒を次の世代に残していくべきなのかを常に考え続けています。自分たちの蔵に住んでいる菌が、自分たちの山で育った木の桶で発酵に導く。そんなお酒を造れるのはうちだけですから。他にないやり方で、他にない味わいのお酒を造る。それだけでも、チャレンジする意義があると思っています。
自然栽培から、リジェネラティブ・オーガニック認証をめざす田んぼへ
仁井田本家では、原材料を自然栽培の米にこだわり続けています。今でこそオーガニックという概念はすっかり広まっていますが、仁井田本家では早々と1967年から農薬や化学肥料を一切使わない自然農法での酒米づくりに取り組んでおり、最近では土を撹拌して発芽したての雑草を取り除く「中野式除草」で草取りを行っています。
当初は県内外の契約農家に協力してもらう形で始まった米の自然栽培は、2003年から社員とともに自社田でも取り組むかたちに。2010年には、酒米は自然米100%(内86%が有機JAS認証)、日本酒のラインナップも米と麹、水のみを原材料とする純米酒100%を達成しました。
穏彦さん 2003年に法律が変わって、企業も農業生産法人の資格を持てば農地を買うことができるようになりました。そこで、『仁井田本家あぐり』という会社を設立し、自社で田んぼを持って自然栽培で酒米をつくる取り組みをはじめました。基本的に、夏は米づくりをして、冬は酒造りをするという感じですね。役員を含め、社員26人全員が、田植えや草取りをしているんですよ。
米づくりに関して仁井田本家では、自然栽培をベースにしながらさらに、栽培することでより土壌が健康になり、地域の環境が豊かになるリジェネラティブ・オーガニック農法(RO農法)にも取り組んでいます。田んぼでのRO農法は世界でもあまり例がないだけに、まさに手探りでの挑戦です。
穏彦さん 田んぼまわりで、土のために、環境のためにできることをトコトンやろうと。化石燃料の使用を減らすために、草取りはほぼ人力です。そして、稲藁を堆肥化する実験もしています。稲藁に籾殻、酒粕などで堆肥をつくり、田んぼに戻す。そうすることで、化学肥料を使うことなく、土壌環境を改善させることができるんですね。また、田んぼをビオトープにして、この地域ならではの生態系を取り戻すことも意識しています。自社林を健全にする活動も、山と田んぼの両面で生物多様性を豊かにする取り組みとして大切にしています。
田んぼと蔵元を未来に動かす、パタゴニアとの取り組み
仁井田本家が自社田で取り組むRO農法のパートナーとなっているのがアウトドア企業の「パタゴニア」です。酒蔵とアウトドアブランドという組み合わせには意外性がありますが、どのような出会いがあったのでしょうか。
穏彦さん 自然をフィールドにしたアパレル事業が中心のパタゴニアは、地球環境の悪化を食い止めるためにアパレル商品の素材を環境に配慮したものに次々と変えていっていますよね。でも、あまりにも地球環境が悪化するスピードが速いから、アパレルだけでは不十分だと。環境破壊の大きな原因となっている農業を変革しようとして、「パタゴニア プロビジョンズ」という食品部門を立ち上げて展開し始めたんです。
パタゴニアは「パタゴニア プロビジョンズ」を通して、自然環境を再生させるRO農法でつくられた素材を積極的に選んで製品化を進めています。2017年にはアメリカで「リジェネラティブ・オーガニック認証」の設立に参画し、「環境を再生する有機農業」を明確に定義した上で、有機農業に基づくリジェネラティブ農業の拡大を支援しています。山と田んぼの両面で環境の再生に取り組んでいる仁井田本家の米づくりも、日本初となる認証の取得を目指しています。
農業における環境への課題は、大量に排出される二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガス。耕作によって植物の根や微生物が土壌に貯めた炭素が大気に放出されたり、化学農薬や化学肥料をつくるために化石燃料が使われたりするためです。中でも温室効果ガスの排出量が多いのが水田。水田の土壌にはメタン生成菌がいて、稲わらなどの有機物を餌としてメタンを発生させるからです。
穏彦さん パタゴニアとしては、日本をはじめアジアにたくさんある水田で、水田生態系を守り豊かにしていきながらも、温室効果ガスにも配慮できる取り組みを探究できないかと考えていたそうです。
水田には課題もありますが、農薬や化学肥料を使っていない田んぼには、暮らしのそばにあるビオトープとして生物多様性を育む役割があります。そこで、古くから自然栽培に取り組んで、その米で酒造りをしている仁井田本家に、リジェネラティブな田んぼをつくるパートナーとしてお声がけいただいたということです。
パタゴニアとRO農法の実践を進める中で、水田には畑にはないポジティブな面があることもわかってきました。例えば、水田は連作障害が起きにくく土壌の環境が保たれやすいことや、海と山の間で水を貯めるダムのような役割を担うことなど。環境にもたらす価値と、安定した収量をあげられるという経済的な価値を示すことで、日本の米づくりのあり方を少しずつ変えていく。仁井田本家とパタゴニアのこうした挑戦は「しぜんしゅ やまもり」というプロビジョンズオリジナルの自然酒を送り出すことにつながりました。
パタゴニアとの出会いは、仁井田本家にさらに新しい出会いをもたらしています。
真樹さん 山登りが好きな人たちやアウトドアを楽しむ人たちが注目してくれて、私たちのお酒を楽しんでくださっているようです。それを受けて社員も、山にフィットするお酒ってどんなのだろうとか、新しいアイデアを膨らませるようになりました。環境に対する意識も変わりましたね。酒造りから田んぼや山の環境、地球全体のことに思いを馳せるようになるきっかけになっているのではないでしょうか。
自給自足だからこそできる、もっと自然で自由な酒造りを
桶も米も、地元の、自分のところからつくる。仁井田本家は「自給自足の蔵になり、自給自足のまちを目指す」という目標を設定し、着実に歩みを進めています。その想いは、2011年の東日本大震災を経てより強くなったと二人は語ります。
穏彦さん 遠くからもってきた資源や材料に頼るのではなくて、ぜんぶ、地元のもので賄うのが夢ですね。震災が起きたときは福島にいる私たちも落ち込みましたが、たくさんの人に応援していただきました。それで、これを機会に新しい道をつくっていこうという気持ちも強くなったんです。米も、水もそうですが、エネルギーも自分たちで賄いたい。発酵も、自然に住み着いている菌だけで醸す。仁井田の酒造りとしては『造らない酒づくり』をめざそうと。造るのではなく、自然にできる。そんなお酒ですね。
現代では、酒造りは冬の仕事ということが当たり前になっています。冬は菌たちが大人しくなるので雑菌が入りにくくなったり、低温で発酵が長くなることで繊細な風味になりやすかったりするというメリットがあるからです。ところが、貯蔵が難しかった昔は、年中お酒を供給するために夏にも酒造りが行われていました。その夏の酒造りを、仁井田本家は現代にふさわしい味わいにして蘇らせようとしています。
穏彦さん うちの蔵にはすでに菌が根付いているものですから、夏の間に、生の米に水を入れて置いておくと、菌たちが寄ってくるんですよ。それで、自然とシュワシュワと発酵してきてね。ドリアンみたいな不思議な香りを漂わせたりして。それを蒸して仕込むと、ちゃんとお酒ができる。改めて、酒って面白いなあと。いまの人間って、とかく自然をコントロールしようとしがちじゃないですか。でも、僕ら人間がわかってることなんてちっぽけなもんです。自然に任せることで、とんでもなく美味しくなる可能性がある。人間が設計した風味を超える美味しさに出会えるかもしれないと思うと、本当にワクワクするんですよね。
真樹さん 今年はどんな味のお酒と出会えるんだろうっていう、蔵元とワクワクを共有するような、新しいお酒の楽しみ方をお客さまと一緒につくっていきたいですね。『えっ、去年と比べて酸っぱいじゃん!』『なるほど、今年はこうきたか!』とか『来年はどうなるんだろうなぁ…』とか。最近は私たちのチャレンジを面白がってくれる寛容なお客さまも増えているので、夏酒も、きっと楽しんでもらえるのではと、期待しています。
古い伝統があるだけに、日本酒はどこかストイックな雰囲気をまとっています。しかし、二人の話を聞いていると、自然の恵みである日本酒は、移り変わる自然の風景のように、もっと自由になりたがっているのかもしれないと思わされます。
真樹さん 今って、思ってもないものを楽しもうっていう空気がありますよね。音楽でも、完成されたものよりもライブで体験したいとか。お酒とか食べ物でも、そういう楽しみ方がもっと広がればいいなって思います。野生の菌が住み着いている蔵から生み出されるハプニングも面白がる仁井田の酒造りを、一緒に楽しんでいだければと。
「真に豊かな田舎」を、蔵元から地域へ、世界へ
伝統に根差しながら、新しい動きを生み出していく。その眼差しは、地域にも注がれています。年に一度の「にいだの感謝祭」、月に一度の「にいだの日」には蔵見学やブース出店やワークショップを実施。田植えや稲刈りを楽しみながら自然のことを学ぶ「田んぼのがっこう」、そして焚き火や仕込水の水風呂つきサウナが楽しめる「蔵アウトドア」など。仁井田本家では、地域の人たちが楽しめるさまざまなイベントを実施しています。
穏彦さん 自給自足を目指す動きや環境に対しての考え方を、地域に少しでも広げていきたいという想いはありますね。うちの蔵元から、田村町、郡山市、福島県、日本、そして世界へと、いい波を少しでも、少しでも、という。自分たちが引っ張っていこうというのではなくて、みんなが自発的に動いていくようなきっかけづくりをお手伝いしたい、という感じです。
仁井田本家がめざす地域のあり方は、「真に豊かな田舎」だと語る穏彦さん。
穏彦さん 単純にお金に換算できない豊かさが、田舎にはあるんですよね。そこの水でお茶を立てたらすごく美味いとか、ボーッとしているだけで気持ちいいとか。本当は都会になりたいのだけれど、立地が悪かったり交通の便が悪かったりして田舎になった、ということではなくて、積極的に、自分たちで選んだ結果としての田舎だと胸を張って言えるような田舎を、まず地元からつくっていきたいんです。都会の人たちが憧れてやまないような田舎をね。
300年を超える伝統を守りながら、新しい流れを生み出していくことは並大抵のことではないでしょう。それでも、自分たちの蔵だけではなく、地域、そして次世代の豊かさにつながる夢を描き、さまざまな人たちと一緒にその実現に向けて汗を流すよろこびが、本当に楽しそうに話すお二人の表情から感じられたのでした。
次に訪れるとき、仁井田本家が蔵を構える田村町の風景はどう変わっているのだろう。これから、お酒の楽しみ方をどんな風に広げてくれるのだろう。田んぼの奥に見える山を見上げながら、極上の日本酒を味わったあとのような余韻に浸ったのでした。
(撮影:松井良寛)
(編集:村崎恭子、増村江利子)