岡山県美作市(みまさかし)の上山という小さな村で、棚田の再生活動が始まったのは17年ほど前。「8,300枚の棚田」を再生しようと「英田上山棚田団」が結成されました(以前グリーンズで紹介した記事はこちら)。この活動は今も続いていて、団体として毎年10ヘクタールほどの棚田を維持し、その2ヘクタールで米がつくられています。
ただ以前とは、活動の意味合いが変わってきています。
人口約140人の集落に、42人の移住者がともに暮らすようになり、里山での暮らし、自然と共生する実践の場として進化している。
以前は都市部から通ってくる人たちの、余暇の楽しみだった草刈りや田仕事が、いまは現地に暮らす若い人たちの日課にしっかり組み込まれ、「自然と暮らす力を身につける場」「集落の一員として里山に関わる場」として、求心力をもつコミュニティになっています。
地区の役(水当番やお宮総代などの役職)も含めて、草刈り支援や移動販売など、若手が高齢者の生活に目を配りながら信頼関係を築いている様子は、ほかの地域ではなかなかみられません。個別にはたくさんあると思いますが、しくみという意味では珍しいのではないでしょうか。これから先、「里山を維持していく試み」としては最前線をいっているかもしれない。
昔の農村の暮らしをなぞるのではなく、一人ひとりの“やりたいこと”、生業を実現しながら、地域全体を支える営みがどうなされているのか。始まっているトライの数々を見てきました。
棚田は、 移住者も地元民も根っこでつなぐインフラ
筆者である私が初めて取材で上山を訪れたのは8年前でした。「棚田団」は2007年の結成当初、棚田の再生を行うために大阪府から通っていたチームでした。都市で働く人たちが、週末に岡山県の山を訪れ、草刈りで汗をかいて温泉に入って帰る。かつて広がっていた「8,300枚の棚田」を蘇らせるという大きな目標を掲げて取り組んでいました。
そこへ美作市の地域おこし協力隊の若者も加わり、再生活動は加速し、移住する人が増えていきます。
当初から関わり、いま上山へ移住して棚田団の代表をつとめる井上寿美さんは、こう話します。
井上さん 今思うと、あの頃は棚田団のゼロイチのフェーズで、荒れた田んぼをとにかく使えるようにしようとみんなでがむしゃらに草刈りして達成感を得ていたようなところがありました。
井上さん その熱が少し落ち着いて、ここで暮らす人が増え始めた頃から、再生した田んぼをどう活用するかのほうが大事だと気づいたんです。仮に8,300枚を再生できても、私たちだけで米をつくるのは現実的じゃない。棚田は手がかかるし、活用されて初めて維持できる。じゃあこの田んぼ一枚を必要な人と、どうつながるかが重要なんじゃないかと。
井上さん自身、上山に暮らし、棚田というシステムが暮らしの中にある意味や大切さを根っこの部分で感じるようになっていったと言います。
井上さん 広い区画整備された田んぼと違って、棚田は大型の機械が入らない分、いろんな人が関われる懐の広さがあります。力仕事もあれば、ひたすら紐を結ぶ人も必要だし、子どもでも手伝えることがある。体力がある人もない人も、老若男女一緒に仕事ができてみんな自分が一員だと思える。平地の広い田んぼだったら、このコミュニティは生まれないと思います。
棚田は、移住者どうしをつなぎ一つのチームにする傘であると同時に、昔からの地元の住人ともつながることのできる暮らしのインフラとして機能しています。
「稲株主制度」をスタートし、関係人口を超える共同体へ
いま、上山に移住し定着している人は42人、約20世帯。それぞれ、宿、キャンプ場の運営、鹿肉の販売、ワラ細工づくり、近隣の診療所勤め、高齢者の暮らしを支援する「みんなの孫プロジェクト」と思い思いの方法で生業をつくっています。
その一方で、田んぼの時期が始まると、みなで集まって働く時間を大事にしている。夏の間は朝の2時間、5〜7時や6〜8時を草刈りに当て、収穫や脱穀は共同作業で。棚田の仕事があるからこそ、暮らしの面でも助け合うコミュニティの土台ができていると、みんな話していました。
以前は「田んぼを再生する」比重が高く、今の倍以上の面積で作付けをしていましたが、個々の生業や家族との暮らしの時間を確保し、必要なお米の量を考えて作付けをするようになりました。そうすると、せっかく再生した農地が活用できなくなってしまう。そこで、都市部に暮らす人たちなど、一人でも多くに田んぼを活用してもらいたいと始まったのが、「稲株主制度」や「米友達/マイフレンズ」です。
井上さん 米だけじゃなく田んぼに花を植えてもいいし、生き物調査などのフィールドとして活用してもいい。田んぼ一枚が誰か一人の役に立てば維持することができます。そのためにも、仲間を増やしたいんです。
都市の人が生産地に通って稲作を行う「田んぼのオーナー制度」などはよく耳にしますが、上山の「稲株主制度」は、共同で棚田での農業や里山での暮らしを体験してもらうための制度です。
稲株主になると、1口7,500円で稲株を100株保有でき、以下の特典があります。
いま、稲株主は100名を超えました。基本は、顔の見える関係性で成り立っているのが特徴です。
さらに、上山へ来てくれた人たちや、関心をもってくれる人たちとの交流を深めようと始まったのが「米友達/マイフレンズ」。農繁期は多くの人に農作業を助けてもらうため、収穫が終わったら、今度は棚田団のメンバーが新米を持って都市部へ出向き、株主の仲間とお米を炊いて食べるイベント。岡山市や大阪、東京などの都市部で開催していますが、「うちにも来てほしい」という要望があれば検討したいとのこと。
生活支援と、地域住民の声
移住者の若手は、集落の一員として生活面でも、地元の年配者たちと一層深く付き合い始めています。移動スーパーやカーシェアをはじめ、住民間で助け合うための「助け英田(あいだ)しちゃろう会」を発足(*1)。
地域で車の維持費を捻出するために、月に一度、会費制の「ランチ会」も始めました。
このランチ会が、みんなの見守り機能や、何かあった際に問題が見えやすくなる機能も果たしています。
棚田団とともに生活支援の取り組みを進めてきた、地元のえっちゃんこと、須田悦子さんはこう話します。
悦子さん トヨタのみんなのモビリティプロジェクト(*2)が始まった頃から、棚田団と一緒に活動することが増えました。もともと上山には10の集落があって広いので、地区間でそれほど行き来がなかったんです。棚田団のメンバーと一緒に全戸をまわり高齢者に生活のアンケートを取りながら、ほかの地区の人とも関係性が深くなっていきました。
その後、集落を越えてバスツアーが企画されるようになり、いまはランチ会に各地区の女性たちが、そして移住者もこぞって参加するようになっています。
地元の人たちに棚田団の印象を聞いてみると、一様に返ってくるのが、「棚田団なら安心」という言葉。悦子さんは言います。
悦子さん 彼らには彼らのモットーがあって、あいさつはきちんとしようとか、行事には参加しようとか。新しい人が入った時、ちゃんと伝えていく文化があるんです。だから棚田団を通して入ってきた人なら、安心やなと。
でもあの子たちの生き方を見ていたら、そりゃあ最初はびっくりしますよ。こんな生き方もあるのかなって。わざわざ上山を選んで来てくれて。年寄りにはなかなか理解できんから、あの子らはこの先大丈夫なんやろうかと、未だに心配している人もいます。
上山区長の藤原茂さんも、感謝とともに心配の気持を口にしました。
藤原さん 最初の頃は、正直あまり信用してなかったかもしれんね。いつ帰るんかな?って感じで。それがいつまでも持続しておるからね。でもあの子らはもっといいところに勤めよう思うたらできる優秀な子ばかりなんですよ。上山で貴重な人生をダメにせんといいなという心配はあります。だからせめてね、彼らがやろうと言い出すことにはできるだけ協力しようという気持やね、今は。
上山の中でも、移住者の若手が暮らす地区と、そうでない地区で、生活面に大きな差ができつつあるのだそう。たとえば悦子さんのいる後迫(うしろざこ)地区には、いま4人の若手が住んでいるため、神社の仕事や田んぼの草刈りなどで協力し合うことができ、おおいに助かっているそうです。
悦子さん それに、何かあったらやっぱり助けてくれるんじゃないかって。安心感がありますね。
(*1)上山は旧英田町にあたるため
(*2)2016年~2019年、トヨタ財団からの助成を受けて取り組まれた「上山集楽みんなのモビリティプロジェクト」のこと。生活支援、農業支援、仕事の創出面でプロジェクトが進められた。成果報告書はこちら
机上の空論ではなく「実践して形にする」のが大事だと思った
ではなぜ、いまここに暮らす人たちは上山を選んだのでしょうか。
一つは、上山は米づくりや棚田のことを学び、里山暮らしを実践するには最高のフィールドであること。「ここほど、“生きる”を感じられる場所はない」と話した人もいました。移住の先人がいるので、集落に溶け込みやすい。そして、棚田団として共有の農機具などももっているため、新規就農でも困らないのです。
そしてもう一つ、上山には個性的で面白い生き方をしている人がたくさんいること。彼らと関わりを持てることも、稲株主になる大きな魅力ではないかと思います。
岡山の大学院を出てすぐに上山へ来て、いまも暮らし続ける一人が、梅谷真慈さん。在学中から上山に通い、卒業後は決まっていた就職を蹴って、上山での暮らしを選びました。
梅谷さん 大学では環境保全や循環型農業の勉強をしていました。持続可能な暮らしって、みんな言うじゃないですか。行政も『バイオマスタウン構想』と言って、牛から出た糞を堆肥化してコーンをつくって飼料にして、ナスやトマトができて、ほらちゃんと循環するでしょうって。コンサルタントが理想的な絵を描いたりもする。でもそうした話を机上で聞くだけでは、まったく実感がわかなかったんです。
それではと農村を訪れてみると、耕作放棄地だらけ。過疎高齢化で、そもそも農業のプレイヤーがいない。まず「担い手が必要だ」という気付きと、環境保全を声高に言う前に、「自分が最低限のスキルを身につけるのが先だ」と考えるようになります。
梅谷さん 田舎の人たちが当たり前にできる基本的なこと、米をつくる、木を伐るとか、草を刈るとかを、自分ができるようになるのが大前提だなと。
3年間は地域おこし協力隊として上山に入り、棚田団の一員として田んぼの再生活動を始めます。地元の年配者に棚田のしくみ、水の管理、狩猟なども教わるうちに、「環境保全ってこういうことでは」という実感を得ていったのだとか。
それと同時に、里山で環境の保全管理をするためにはスキルも必要だけれど、「人とのつながり」、つまり集団で行うことや地域とのつながりが欠かせないと感じるようになっていきます。
梅谷さん 実際にやってみると、一人でできることは本当に限られるんです。みんなで活動するから水路掃除も短時間でできるし、棚田で米をつくれば、山の上から隅々まで水が行き渡って、棚田の循環システムがまわる。
決して、人と何かを行うことが好きなわけじゃないですが、集落での暮らしには、そうしたみんなでやるというつながりが欠かせない。この気づきは自分の人生に影響する大きな変化でした。
棚田や米づくりが、結果として人をつなぐ装置になっている。
そしてもう一つ。梅谷さんが思い知ったのは、里山と一口にいっても、山や田んぼなどの土地はすべて誰かの所有物であるという事実でした。「環境保全」など目的や理想があっても、よそ者が勝手に手を加えることはできない。
梅谷さん あるとき思い余って、田んぼを荒らしたままでどうするんだって、地主さんに言っちゃったことがあったんです。怒らせてしまって、もうお前らには貸さんと言われて。
田畑を荒らしてしまっているもどかしさや悔しさを地元の人たちも抱えていて、その気持に寄り添う大切さも学びます。
梅谷さん 自分たちが地元の信頼を得て、借りられる土地が多くなるほど、新しい人を受け入れることができる。保全できる面積が増えて、そこまできてやっと、僕の思う、地に足のついた「里山の循環」や「保全」が進むんだと。この10年は、地元の人たちと関係性を築きながら、自分の暮らしの基盤をつくること、新しい人たちを受け入れるためのフィールドづくりをやってきたつもりです。
いま、梅谷さんはお世話になってきた「善ちゃん」というおじいちゃんが大事にしていた一軒家を借りて、一棟貸しの宿を運営しています。
「里山の保全活用」への第一歩を、学問や企業の理論からではなく、自分の体験と目の前にある「里山の現状」に向き合うことから始めている。農村にある理不尽や矛盾、地元の人たちの感情、移住者の状況、困難さなどすべてを引き受けた上で、前へ進んでいる。梅谷さんが選んだのは、そういう道なのだとわかってきました。
棚田団のメンバーは、大袈裟にいえば、一人ひとりがやりたいことを実現しながら、農村の現状に向きあっている人たち。移住者と地元民が協力して、どう山間での生活を成り立たせていくか?といった高度な命題に挑戦している人たちなのかもしれません。
地元住民とともに、暮らしの土台をつくっていく
「やりたいことをやる」といっても、上山で好きなことで生きていくのは容易ではありません。「お金を稼げれば幸せ」という一般的な幸福ではなく、みんな自分たちなりの「これが実現できていたら幸せ」を追求しています。
水柿大地さんも、大学生の頃から地域おこし協力隊として上山集落に来て、棚田団に加わり、14年間にわたって上山に暮らし続ける一人。地元の暮らしや知恵を学び、受け継ぐことを大事にしてきました。上山で途絶えていた獅子舞を復活させたのも、水柿さんです。
生業としては「みんなの孫プロジェクト」というサービスを立ち上げ、草刈りや送迎など高齢者の困りごとサポートを有償で引き受ける仕事をしています。そうして習得した山間地のノウハウをほかの地域に共有することも仕事になっています。
水柿さんたちが、これから集落で始めようとしているのが「集落の教科書」づくり。
今の集落での暮らしを整理して、ここは集約できる、ここは今後も大切にしていこうと分解して、今の体制に合った形に再編していくことを視野に入れています。
水柿さん 地域の暮らしや文化で、これだけは大事にしたいというもの、なくしてもいいものをみんなで決めるのが大事だと思うんです。トライアンドエラーになるだろうけれど。
上山へ来て、生活するためのいろんな知恵や術をじいちゃんやばあちゃんに教えてもらいました。炭焼きもその一つで、いま集落で炭焼きの方法を伝えられるのは僕しかいない。教えてくれた人たちに恩返ししたい気持があるし、受け継いだものを、次の世代に受け継ぐのが役目だとも思うんです。
いまはみんな何かあるとすぐ外部に頼りがちですよね。この樹を切ってくれ、あそこの溝が詰まっとる、あれをどうにかしてくれと。それが自分たちでできるってことを見せる地域でありたいし、その術を伝えていきたいと思っています。
一人一人にとっての上山と棚田団
いまここに暮らす人たちに話を伺ってみると、移住のきっかけやタイミングは違っていても、根底で大切にしていることには共通点があるように見えます。
三宅康太さんは、証券会社の営業マンを辞めて、2016年に上山へ。妻の七帆さんと共に「大芦高原キャンプ場」をリニューアルオープンし人気のキャンプ場に。DIYで家を建てて子どもも産まれ、今年からは地元の人たちの信頼の表れでもある「宮総代長」という大役を史上最年少で任されています。
蟻正敏雅さんは、アパレルの仕事をしてきた方で、震災後、生きることの意味を考えて放浪に出ます。一度はアパレルの世界に戻ったものの、今度こそ消費社会でないところで生きてみたいと上山へ。羊や山羊を飼い、上山の暮らしを体験できる宿やサウナ「と或る農園」や「クラインガルテン」を運営しています。
熊さんこと、熊丸博樹さんは、もとは農機具メーカーの設計・営業だった方。営業のために上山へ来ましたが、棚田の活動に参加して「農作業をしたこともないのに農機具をつくっていた」と気付き一念発起し、42歳で地域おこし協力隊になり上山集落へ。みなが古い農機具を使っているのを見て、卒業後は農機具メンテナンスの分野で独立する予定。集落のおじいちゃんたちにも頼りにされています。
与謝野祥子さんは、娘と二人で上山へ移住。もとは東京のIT企業で働いていましたが、震災後に田舎に住みたいという願望が生まれ、出産してからはますますその思いが強くなります。「子育てしやすい町」に惹かれてまずは隣の和気町へ。上山を知って移住。人との距離感が近く、子どもにも兄弟ができたようで嬉しいと話します。現在は英田上山棚田団のPR活動の一環で、YouTubeチャンネル「アロハめし子」を運営。
親子で米づくりに参加してみたい方、より「自然」に近いところで暮らしたいと思っている方、食べ物の生まれる生産の現場を見たい方、新しい自然教育などのフィールドを求めている方。さまざまな角度から棚田を活用したい方は誰でも、稲株主になって、ぜひ上山に出かけてみてください。
– INFORMATION –
「上山棚田の稲株主制度」は、英田上山棚田団の活動を応援いただくとともに、棚田での農業や里山での暮らしを体験していただける取り組みです。稲株主は、1口出資で棚田に植えられた稲株を100株保有することができ、秋には保有株数に応じて「配当米」が届きます。その他にも現地の宿や温泉で使える「稲株主優待」、上山の地域づくりに関して意見交換を行う「稲株主総会」への参加権などが付いています。
※この記事は「地球環境基金」の助成を受けて作成しています。
(撮影:上田亜美)
(編集:増村江利子)