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サッカーの聖地から、地域復興のシンボルへ。Jヴィレッジが再開に向けて歩んだ、7年半の軌跡

そこには、「神が宿る」と言われたピッチがありました。

福島県双葉郡楢葉町・広野町が跨る場所に立地する「Jヴィレッジ」。東京ドーム約10個分の敷地内に全11面のグラウンドと5000人収容のスタジアム、そして宿泊施設などを備えた、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターです。

1997年にオープンしたこの施設は、サッカー日本代表やJリーグのクラブといったプロの合宿から、企業の研修、草サッカーチームの合宿まで幅広く利用され、年間約50万人の来場者が集まるなど、「日本サッカーの聖地」として多くの人々に愛されてきました。

Jヴィレッジの大きな特徴が、青々と広がる天然芝のピッチです。Jヴィレッジの職員の間では「神が宿る」と言われるほど大切に扱われ、1年中最高の状態を保てるよう、徹底して管理されてきました。

そんな日本サッカーの歴史とともにあったJヴィレッジが、ある出来事を境に姿を変えてしまいました。2011年に起こった東日本大震災と、福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)の事故です。

震災が発生した3月11日、Jヴィレッジの体育館はスタッフや地域の人々の避難場所となりました。翌3月12日には、福島第一原発1号機で水素爆発が発生。福島第一原発から約20kmの位置にあるJヴィレッジは、避難指示区域(のちに警戒区域)に指定され、スタッフは避難を余儀なくされました。

当時ここで働いていたスタッフは、事故直後に避難しなくてはいけなかったので、Jヴィレッジの様子がしばらくわからなかったそうです。でも震災から約1週間後、あるスタッフが様子を見に行くことができて、ピッチにたくさんの車が乗り入れている状況を目の当たりにしたと。それを聞いてみんな大きなショックを受けたと聞いています。

そう教えてくれたのは、株式会社Jヴィレッジ広報担当の猪狩安博さん

実は震災直後から、Jヴィレッジには事故の収束作業の前線基地が置かれました。天然芝のピッチには砂利が敷き詰められ、作業に関わる車両の駐車場やヘリポート、作業員のための仮設の住居が並んでいたといいます。

「神が宿る」と呼ばれたピッチが、まさかそのような景色に様変わりすると、いったい誰が予想したでしょう。

それから約8年が経った2019年4月20日。この場所にようやく、生命力あふれる天然芝のピッチでボールを追いかける人々の姿が戻ってきました。震災以後、休業を余儀なくされていたJヴィレッジが、営業を全面再開したのです。
Jヴィレッジは再開までにどのように歩みを進めてきたのか。猪狩さんにJヴィレッジを案内してもらいながら、その軌跡を追いました。

日本サッカーの歴史とともにあった場所

ピッチは豊かな緑に囲まれていて、その向こうには海が見えるでしょう? ここは自然に囲まれた静かな環境で、サッカーによく集中できるんですよ。また、ピッチと宿泊施設、研修室、コンベンションホール、フィットネスクラブにはプールもあり、この施設でトレーニングキャンプの全てが完結してしまう、国内をみても他にはない施設なんです。

天然芝のピッチ

人工芝のグラウンドがドームで覆われた全天候型練習場

かつては練習場として最高のロケーションを誇っていたJヴィレッジ。2002年の日韓ワールドカップの際はアルゼンチン代表の合宿地となり、日本代表はもちろん、中田英寿や中村俊輔、バティストゥータといったスター選手たちがこの場所で汗を流しました。

2006年に開催されたドイツワールドカップの直前に日本代表が行なった合宿のときは、練習を見にきた方でピッチの周りが埋め尽くされて、植栽の中にも人がいるような状況でした。

代表合宿の際の様子。

震災後、駐車場になったJヴィレッジのピッチ。

しかし震災後、施設は福島第一原発事故の収束拠点となったため営業中止となりました。Jヴィレッジ内にあるホテルで働いていたスタッフの一部は、転勤や異動を余儀なくされ辞めてしまう方も。以前の活気は見る影もなくなってしまったそうです。(ホテルスタッフはホテル委託会社の社員。ホテルの委託契約が解除。)

サッカー事業部やフィットネス事業部で引き続き雇用されたスタッフも、現場に何年も戻ることができませんでした。その間、隣のいわき市に活動の拠点を移し、スポーツクラブでの活動を再開します。「もとのように営業を再開するのは無理なんじゃないか」との声もありましたが、今日までJヴィレッジを辞めずに働き続けたスタッフたちは、「いつか元に戻したい」という思いを捨て切れなかったのだと猪狩さんは語ります。

かつて年間50万人を集めたときの景色を知っているわけですから、あの賑わいをとり戻したいという気持ちが強かったのだと思います。

そんなスタッフの思いが通じたのか、2014年から徐々に福島県内の避難指示が解除されていった状況のなかで、Jヴィレッジは再始動に向けて大きく動き出しました。

まず、2014年5月に「Jヴィレッジ復興プロジェクト」が結成されました。翌年2015年1月には「新生Jヴィレッジ復興再整備計画」が策定され、その後2016年10月からJヴィレッジに置かれていた福島第一原発事故の対応拠点の機能が段階的に移転します(2017年3月末に完全移転)。そして2016年7月には、福島県が「Jヴィレッジ復興サポーター」の募集を開始しました。

さらに再開への動きを加速させたのは、2013年9月の東京2020オリンピック・パラリンピックの開催決定という出来事でした。

東京でオリンピック・パラリンピックが開催される前までに、Jヴィレッジの安全性が確かなものとなっていれば、合宿地として使われる可能性もある。そうして、福島県の復興のシンボルとして、Jヴィレッジ再開への機運が徐々に高まっていったのです。

高まる再開への機運

猪狩さん自身は、Jヴィレッジが再始動に向けて動き出したとのニュースを、前職の会社で働いていたときに知りました。そのとき思い切って「働かせてください」と電話をかけたのが転職のきっかけだったそう。

その頃までは、まったくサッカーとは無縁の仕事をしていました。本当はずっと、学生時代に夢中になったサッカーに関わる仕事をしたかったんです。就職活動をしていたときにも、地元にあるJヴィレッジで働きたいと思っていました。

ただ、当時は就職氷河期。Jヴィレッジへの就職は叶わず、いわき市の運送会社に就職しました。でもJヴィレッジへの憧れを持ち続けていて。そんななか、再始動に向けて職員を募集し始めたと知り、「大好きなサッカーに関わりながら、地元のために働きたい」という気持ちが抑えられなかったんです。

僕がまず担当したのは、「Jヴィレッジ復興プロジェクト」の事務局です。福島県と日本サッカー協会、広野町、楢葉町などが連携し、復興のシンボルとしての再開を目指す企画でした。そのなかでも、全国の皆様からのお力をお借りしてJヴィレッジの復興を実現させたいとの思いから、2016年の夏に発足した「Jヴィレッジ復興サポーター」の募集に取り組みました。

憧れのJヴィレッジで働くという想いを実現した猪狩さん。当時はどんな気持ちだったのでしょう。

駐車場となったピッチを見て、本当に再開できるのか不安はありましたよ。しかし、「Jヴィレッジ復興サポーター」への応募が集まってくるのを見て、Jヴィレッジの再開を多くの方が期待していることを実感していきました。

2015年には、Jヴィレッジを復興のシンボルとして再生するため、福島県が「Jヴィレッジ復興プロジェクト委員会」を発足。「新生Jヴィレッジ復興・再整備計画」が策定されました。その計画をもとに2016年10月から施設のリニューアル工事が着工。いよいよピッチにも天然芝を張る作業が始まります。

天然芝の上に砂利やコンクリートを敷いて駐車場にしていたので、まずはそれを取り除いて、そのあとに芝を貼りました。天然芝を張るのって、全部手作業なんですよ。横約50センチ、縦2メートルの芝のロールを転がして、ピッチの端から敷き詰めていくんです。だから1つのピッチにつき、貼り終えるのに約1ヶ月半もかかりました。

ピッチ1面を張り終え、また次の1面を張り終え…ゆっくりと、しかし確実に、震災以来止まっていた時間が動き始めようとしていました。しかし、猪狩さんはじめスタッフは、「本当にもとのように戻れるんだろうか?」という疑いを、最後まで拭い切れなかったといいます。

「実感が湧かない」とみんな言っていましたね。工事が始まったときも、「本当に2018年夏にオープンできるのか?」って。かつての、ピッチの周りがたくさんの来場者の方で埋め尽くされている景色と、震災後の車で埋めつくされている駐車場の景色は、それくらいギャップがあったんです。だから、当時の僕たちは「もとに戻したい。でも、本当にできるの?」ってずっと半信半疑の状態でした。

取り戻しつつある本来の姿

福島県では、2011年に政府が定めた「除染に関する緊急実施基本方針」、翌年1月1日に施行された「放射性物質汚染対処特別措置法」に基づいて除染作業を進めてきました。一定の範囲内で全体をくまなく除染する面的除染については、2018年1月に県が保有する施設と、同3月末に市町村除染地域(36市町村)で作業が終了しています。

Jヴィレッジが立地する広野町と楢葉町には住民の姿が戻ってきています。広野町は震災から約1年後の2012年3月31日に避難指示が解除。2019年1月末の帰還率(※1)は86.5% です。一方楢葉町は2015年9月5日の段階で避難指示が解除され、2017年4月には小中学校とこども園が再開。2018年6月にはスーパーやホームセンター、飲食店やパン屋など10店が入居する商業施設「ここなら笑(しょう)店街」が開業するなど、地域の住環境も徐々に整いつつあり、2018年12月31日時点の居住率(※2)は51.83% となっています。

※1. 旧避難指示区域に戻った住民の割合
※2. 住民基本台帳人口に対する町内居住者数の割合

このように、地域の復興が進むなかで迎えた、2018年7月28日。震災からおよそ7年4か月の時間を経たこの日、ついにJヴィレッジは再始動記念式典の日を迎えました。

この日に営業再開したのは、天然芝ピッチ5面と人工芝ピッチ1面、そしてスタジアム。さらに改装したホテルが利用可能となりました。現在の放射線量は、ホテル棟正面玄関が毎時0.126μSv/h(マイクロシーベルト)とのこと。原子力規制員会が公表している「放射線モニタリング情報」 によると、東京都新宿区が毎時0.028~0.079μSv/h、山口県山口市が0.084~0.128μSv/hなので、比較してみると分かりやすいと思います。

イベントでは、福島県U-15選抜とJヴィレッジスポーツクラブとのエキシビジョンマッチが行われました。

記念式典で行われた、エキシビションマッチの様子。当日は、Jヴィレッジの関係者やサッカーファンなど約1000人の方々が訪れ、声援を送った。

Jヴィレッジの時計は、地震が起きた14時46分で止まったままだったのですが、その時間に合わせてキックオフをしました。スタッフや来場者、みんなで10秒前からカウントダウンしているとき、思わずポロポロと涙が流れてきましたね。

その光景を見てはじめて、それまで半信半疑だった思いが確信に変わったんです。「本当に再始動できるんだ」って。そして「ここからがスタートだ」って。僕以外のスタッフは、イベント運営で忙しくて涙を流すどころじゃなかったみたいですが(笑)

7月28日の再始動以来、2ヶ月で述べ6000人の方がJヴィレッジを訪れたそう。この数は、震災前の同時期の来場者数と同水準です。

来ていただいた方に、「やっぱJヴィレッジはこれが本来の姿だよね」と言っていただけて。多くの方が待っていてくれたんだなと、とても嬉しかったです。でも、これで満足しているわけじゃない。再始動して宿泊施設の部屋数も増えましたし、もっとたくさんの方に訪れていただきたいです。

その後9月にはドーム形の全天候型練習場がオープンしました。取材に訪れたこの日も宿泊客の姿に加え、海外からの取材クルーの姿もあるなど、Jヴィレッジは少しずつ震災前の賑わいを取り戻しつつあります。

サッカーの聖地から、地域を活性化する拠点へ。

そしてついに2019年4月20日、Jヴィレッジは施設の全面再開の日を迎えました。さらに、イベント開催時のみ停車する臨時駅であるJR常磐線「Jヴィレッジ駅」も開業するなど、Jヴィレッジは大きな節目を迎えています。

震災を経て、Jヴィレッジの役割も大きく変わりました。サッカーのナショナルトレーニングセンターという役割だけでなく、今後はJヴィレッジを通じて広野町や楢葉町、そして福島県が活性化していくような、「地域の復興のシンボル」となることが大事な役割だと思うんです。

その意味では、施設の全面オープンや駅の開設など、ハードは整って来た一方で、まだまだコンテンツは十分じゃないなと思っています。たとえば2018年12月16日に開催した「新生Jヴィレッジスポーツフェスタ」など、よりJヴィレッジを身近に感じてもらえるような催しをどんどん開催して、たくさんの方に足を運んでいただきたいです。

「新生Jヴィレッジスポーツフェスタ」の様子。

猪狩さんの話を聞きながら、私は愛媛県今治市のサッカークラブ、FC今治のオーナー岡田武史さんが唱える「フットボールパーク構想」を思い出していました。FC今治が拠点を置くスタジアムを単にサッカー観戦だけの場所ではなく、ショッピングモールやホテル、レストラン、ダンス教室やジム、医療施設などさまざまな機能を持つ複合型の「フットボールパーク」にしていこう、という構想です。

もしかしたら、震災を経験したJヴィレッジだからこそ実現できる、フットボールパークもあるのではないでしょうか。たとえば、サッカーを通して防災を学ぶことができるフットボールパークができれば、世界にも類を見ない場所になるはずです。

しかしそうだとしても、その道のりは平坦ではないでしょう。Jヴィレッジは今後も「本当に安全なんだろうか?」という人々の疑問と向き合っていくことになるはず。その先にある5年後や10年後の将来、Jヴィレッジは一体どんな姿になっているのでしょう。

Jヴィレッジが復興のシンボルとなる未来へ歩みは、まだ始まったばかりです。

(撮影:赤間 政昭)