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我が子の名前がわからなくなる、その前に。農業、テクノロジー、福祉を紡ぎ、若年性認知症のための新たな事業をつくる一般社団法人「きずなや」。若野達也さんインタビュー

若年性認知症という言葉を聞いたことはありますか? まだ働き盛りの40代後半から60代前半に発症する認知症のことです。

2009年の厚生労働省の調査によると患者数は4万人弱。女性より男性に発症が多く、推定発症年齢の平均は51歳。家族を持つ人なら子どもが高校生や大学生となり、学費などの出費がかさむ頃です。若年性認知症は広く知られていないため、高齢者の認知症と比べるとサポートの受け入れ先もまだまだ少ないのが現状です。

そんな中、「一般社団法人SPSラボ若年認知症サポートセンターきずなや(以下、きずなや)」は、奈良市を拠点に相談業務や就労支援など若年性認知症の人たちのサポートや、施設利用者の新しい仕事づくりに取り組んでいます。

まだ広く知られていない若年性認知症の人たちが抱える課題と、若野達也さんの生き方を決めた瞬間から現在に至るまでの活動の軌跡をお聞きしました。

若野達也(わかの・たつや)
小学生の頃、祖父が認知症となったことをきっかけに福祉の道を歩むと決意。1996年に日本福祉大学卒業後、医療ソーシャルワーカーとして病院や行政機関に勤務。2004年に奈良市に認知症グループホーム「古都の家 学園前」を設立。2009年から若年性認知症の人の就労支援や相談業務に取り組み、2014年「一般社団法人SPSラボ若年認知症サポートセンターきずなや」を設立。全国若年認知症支援者・家族連絡協議会事務局次長。認知症フレンドシップクラブ理事などを務める。

若野さんは大学を卒業後、精神保健福祉士として病院や行政機関に勤務しながら若年性認知症の方を取り巻く状況を見てきました。2000年に介護保険が制定されていたものの、当時若年性認知症の人たちの受け入れ先はほとんどなく、当事者も家族も行き場がない状況でした。

若年性認知症の人が暴れてしまったら、当時の主な対処方法では精神科に入院をするか薬を処方してもらって症状を落ち着けるんです。そうすると、まだ元気に動けるはずの人が薬の副作用で意思の疎通すらできなくなり、車いす生活を余儀なくされる。家族としては、施設に入れるなら自分で面倒をみようと踏ん張ってしまう。なにより、ご本人の意思を反映できていない状況でした。

若年性認知症の人が精神科から退院できたとしてもその後の受け入れ先がない。そんな状況にいてもたってもいられず、若野さんは2004年に認知症グループホーム「古都の家 学園前」(以下、「古都の家」)を設立。

立ち上げたグループホームは受け入れを開始してすぐに定員に到達。若年性認知症に関する情報が少ない中で、ひとりひとりの症状に寄り添い、日常の行動から患者さんの意思を読み解いていく、そんな毎日でした。

ある50代の男性が毎朝7時になると決まって「ドンドン!」とドアを蹴るんです。働きざかりの男性なら当たり前なのですが、会社に行こうとしているんですよね。そういう行動を一つずつひもといて、理解を深め、それぞれにあう対応方法を模索する日々でした。ご本人がその段階に本来あるべき状態に戻していくことが、僕たちに与えられたミッションだったんです。

こうした活動を続ける中で、若野さんはずっと「なぜ重度の状態になってから患者と出会うのか」という疑問を抱えていました。

症状がゆるやかな状態から出会い、寄り添うことができれば、ご本人の精神的なつらさやご家族の介護のしんどさを早くから共有して、進行を抑えることができるのに、相談窓口すらない。認知症になるかもしれないと診断されたけれどどうしようもない人たちがたくさんいたのです。

そういった課題を解決するための制度や場がないのなら、自らつくればいいと再び考えた若野さんは、2009年に現在の「きずなや」の前身となる「若年性認知症サポートセンター絆や」(以下、「サポートセンター絆や」)を開設。奈良市内の団地のショッピングセンターの一角に、グループホームで得た資金を投じて2つのフロアを借り、1階を当事者の方のためのコミュニティスペース兼店舗として、2階をその家族が集う場として運営をはじめます。

少しでもストレスを軽減できたらなという思いで、当事者の人たちはしたいことを叶えてもらう場に、家族の方たちは相談しあって情報共有できる場にしました。

若年性認知症の方を抱える家族は、明日、今日と同じように生きられるかわからないところまで追い込まれているんです。こうした人々が、明日一日を懸命に生き切ることのできる居場所をつくりたかったんです。

そしてここには若年性認知症の人やその家族だけではなく、近隣の子どもたちも集いました。ご本人やご家族のアイデアで駄菓子屋にトライしたり、ときにはお祭りの運営に携わるなど、主体的に関わりを持つことで地域との関係を築いていったのです。

「きずなや」の事務所内に併設されている「なないろカフェ」は学生と若年性認知症の人たちがともに研究を行ったり、地域の人たちも集う場となっている。

就労をテーマに、農業と福祉の協業がスタート

若野さんは若年性認知症の人たちの意思の具現化や家族のサポートに注力してきましたが、活動そのものを持続可能にするために、継続した利益ができる仕組みを考えました。そのヒントは若年性認知症の人たちが抱える課題の中にこそあったのです。若年性認知症の人たちは、まだまだ働き盛りの年齢。そう、就労という課題です。

働き盛りなのに自分の子どもの名前を忘れてしまい、いつか顔も分からなくなってしまう。その前に自分のお金で子どもになにかプレゼントをしてあげたいとか、働いていたら可能であったであろう望みを持っている人もいます。だからこそ若年性認知症を抱えるご本人が自分で動き、お金を生み出せる仕組みが必要なのではないかと思いはじめたんです。

若野さんは若年性認知症の人や障がいのある人、がん患者や子育て中の人たちもあらゆる人たちが集い、ともに働ける場所づくりができないかと考えました。そんなときに出会ったのが追分梅林。およそ10ヘクタール以上ある広大な敷地に以前は4000本の梅の木が植えられ、梅の名所としてにぎわっていました。しかし地域では高齢化が進み、10年近く休園状態が続いている状況だったのです。

追分梅林の一部。3月には梅が花を咲かせ見ごろを迎える

僕らは活動の場所を探していたし、梅林には人手が必要でした。お互いの必要なものがマッチしていたので、すぐに話はまとまりました。それから1年ほどかけて、関係者の方たちとビジョンを共有し現在の活動へと至っています。

かつてにぎわっていた地域にもう一度花を咲かせようと、地域の農家と若年性認知症の人たちがともに背丈ほどまでに伸びていた雑草を刈り取り整備。現在は、およそ400本の梅の木を植樹され、商品開発やイベント開催などをしながら、少しずつ以前のにぎわいを取り戻そうとしています。

追分梅林で開催した若年性認知症と地域の方たちの交流会のようす。

また、梅林のそばにある事務所には相談センターを併設。診断されてから発症するまでの“はざま”にいる人たちへの支援が2017年から奈良県の相談事業がはじまり、若年性認知症の人たちのサポート体制も大きく前進しました。

それまで県内では、認知症の確定診断を受けて3年以上が経過し、すでに症状が進行している状態で相談を受けることが約8割だったんです。

けれど、相談センターができてからは、確定診断前もしくは診断を受けて1年未満の方と出会うことが約8割に。また、それまではほぼ0に等しかった、確定診断を受けたあとも企業勤めをしている方たちへの支援もできる状況になってきました。

奈良県からの委託で相談事業を行うようになってからは、過去には年間10名程度だった相談件数が70名程度まで伸びました。どこへ相談にいかばよいのかわからず思いつめていた人たちがかけこめる場ができたことは大きな一歩です。

企業や学生と課題を共有し、新たな活動フィールドを開拓

そして今、「きずなや」のある追分梅林は関西圏の大学生や企業の若い人材が集っています。農学部の学生が農産物の活用を企画したり、NECや日立といった企業社員の社会活動メンバーと連携し、おもにテクノロジーを専門分野とする開発者が認知症に関するサービスを考案したり、大学や企業が実験を行うハッカソン(注1)の場としても活用しています。
(注1)ハッカソン: デザイナーやエンジニアなどがチームになり、短期間集中で新しいサービスやシステムを開発すること。

また、民間資金を活用し官民が連携して社会課題に取り組むSIB(ソーシャルインパクトボンド・注2)の実証実験の場としても認定され、活動のすそのを広げています。
(注2)SIB: 2010年にイギリスで始まる。日本では、行政と業務委託契約を結んだ中間支援組織が社会課題解決のためのサービスを開発し提供する体制がとられている。

現在福祉の世界ではスマホで操作できるような車いすや介護ロボットの研究が進んでいますが、それが普及したとしても、高価であれば小さな団体がその技術を導入することは難しい。現場の視点に立って正直に言うと、「ないよりは、あるほうがマシ」なレベルのものでもいい。知恵を生かした簡易的なシステムを開発してもらえたらうれしいと、ここに集う人たちによく話しています。

ハーブの鉢で、作業と研究を同時に。柑橘系のハーブは日中の集中力が高まり、ラベンダーは睡眠に良い影響をもたらす。直接触って出る香りが脳血流にいいとの仮説も。

高齢化が進み、社会保障費の確保がこれからさらに困難になっていくであろうことを考えると、これからは認知症の人でも暮らしやすい地域や社会づくりが求められていくでしょう。

福祉の未来を考えると、今ある制度や補助金がこのまま継続していくかどうかはわからない。今あるものに頼らず、自分たちで維持し若年性認知症の人たちが地域の中でともに生きていける方法を模索していかないと。

そして地域の中で暮らし続けるためには、社会が変わらないといけない。そのために、認知症のご本人に寄り添って希望を叶えるための活動をしてきました。けれどもっと大きな視点で社会を変えていくためには、メーカーや大学とも協業すべきだし、福祉の未来を背負っている大学生たちの能力を活かすフィールドを広げるべきだと思うんです。だから僕にはあらゆる分野の人たちと出会い、つなげていく役割があるんです。

そして今、若野さんが必要だと感じているのは、数値化しにくい情報を可視化して共有していくこと。質の高い福祉サービスを提供し、事業レベルで企業と協業して商品を開発したり、SIBを活用していくためには、エビデンスと呼ばれる科学的根拠が欠かせません。

梅林にて地域の子どもたちの教育の一環として、梅狩りを行ったことも。

医療分野では、エビデンスのデータ化が進み同じような症状を持つ患者さんの治療に役立っています。しかし福祉の分野では、その実現が難しいんです。でも若年性認知症の人たちの症例も現場で吸い上げてデータとして蓄積できれば、認知症の進行を防ぐための貴重な材料になります。

将来、認知症になる可能性があると診断された人たちの心理的な不安を取り除く一助にもなるし、今よりもっと手前で予防することができる。ここに集うIT関係の人たちなら、そういう情報をデータとして蓄積ができるシステムをきっとつくれると思うんです。

テクノロジーが進化して福祉との融合が進み、身体介護の補助が可能になれば、力の弱い人でも介護ができるようになるかもしれません。

遠い将来の話かもしれないけれど、高齢化が進み働き手が減っていく社会の中で人材を育て、ひとりでも多くの若年性認知症の人たちが適切なサービスを受けられる社会にするためにはテクノロジーの力も必要です。将来のことを思うのは、自分たちの子ども世代がつらくない生き方を選択できるようにとの願いもあります。

そう語る若野さんの原点は、ご自身の体験でした。小学5年生の頃、大好きだった祖父が認知症を発症して入院。1970年代当時はまだ認知症を対象とした福祉制度が整っておらず、病院の中でベッドに縛りつけられたり、裸のままストレッチャーに乗せられて廊下に放置されているような場面を見てきたのだといいます。

納得できなくて、看護師さんや周りにいる大人たちにやめてほしいと訴えたものの、「だったら家でめんどうを見て」と言われた記憶があるんです。あの経験がきっかけとなって、自分の手でこの状況を変えてやるんだと決意したんです。

若野さんは幼い頃に誰よりも大切にしてくれた人への個人的な願いを胸に秘め、小学生の頃に生まれた感情を今も持ち続けて、社会で必要とされていることに変換しています。個人の小さな願いも、社会との接点や人とのつながりを増やしていけば社会課題を解決する力となる。そんな生き方を私はこのインタビューで教えてもらいました。