成長社会から成熟社会に移行する時代といわれて久しい。その成長社会の最たる指標であるのが、GDP(国内総生産)。その名の通り、国内で生産される総額を示す。このGDPへの人々の批判的視線から、世界各地で新しい経済指標の議論や実践が拡がっている。
その批判的視線を代表する一つの演説がある。1968年に暗殺されたアメリカの政治家ロバート・ケネディによるものである。(*GNP(国民総生産)と表記されているが今日ではGDPと読み替えて差し支えない。)
なんとも痛烈だ。GDPは私たちの幸せを脅かす可能性がある生産も加算し、同時に私たちの幸せをつくる暮らしの質は測ることはできない。彼のメッセージが示したいことはこのことに凝縮されるものと思う。
GDPの生みの親・経済学者クズネッツの痛みに寄り添う
GDPを批判する前に、まずはその起源を知っておきたい。
GDPは1930年代にアメリカ政府から国民所得推計の依頼を受け、経済学者サイモン・クズネッツが中心となり開発された。後にクズネッツはその貢献からノーベル経済学賞を受賞することになるのだが、私はそのクズネッツの痛みを想像してみたい。クズネッツが開発したGDPは一躍国際的に重用され、経済成長を測るためのグローバルスタンダードな物差しとして確固たる地位を得る。
しかしながら時を経て、GDPの増加と人々の幸福度は比例しないという研究結果がアメリカや日本を含めさまざまな国で明らかになると、GDPへの風当たりは徐々に強くなってくる。国の豊かさや人の幸せを測るものとして適切な指標とは言えないのではないかという批判である。
私は、クズネッツは晩年そのような意見に囲まれ痛みを感じたのではないかと想像する。というのは、クズネッツはGDPの開発当初から「国民の福祉はGNPからほとんど推測することはできない」と議会に向けた報告書にて意見を提出していたのだ(*1)。
GDPが測っているのは、要は物やサービスなどの生産量である。第二次世界大戦後の経済成長時代において、その時代の政府や社会がその生産量の増加を、国の豊かさや人の幸せの向上と結びつけただけであり、クズネッツとしては、GDPの意味を勝手に拡大解釈しておいて的外れな批判をしないでほしいと思っていたのではないだろうか。そんな風に思えて仕方ない。
GNHの誕生と痛みからの解放
そんな中、ヒマラヤの小国であるブータンから「GNPよりもGNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)が大事だ」というシンプルながら国づくりの考え方のパラダイムシフトとなる発言が第4代ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクから生まれる。1970年代のことである。
この発言をクズネッツが聞いたのであれば、ほっとしたのではないか。GDPが国の状態を測る重要な指標の一つであることには変わりないが、GDPよりも人々の幸せを表すGNHの方がより大事だというのは誰から見ても自明なのだから。
国王の発言後、ブータンは、国の最上位の目標をGDPではなく、人々の幸せであると決め、金銭的・物質的豊かさだけを偏重して追求するのではなく、伝統的な社会や文化、環境などにも配慮し、国民一人一人の精神的な豊かさを重視するという GNH の追及を国是(国家の目標)に掲げ、唯一無二の国の舵取りを行っていくことになる。
人々の幸せを測る試み・GNH指標とは
このブータン憲法の第9条に記されたGNHの追求を目指し、人々の幸せに必要な環境要件を可視化するために、9つの領域と33のインディケーターで構成されるGNH指標がブータン王立研究所から生まれる。
「精神的な幸せ」、「健康」、「時間の使い方」、「教育」、「文化の多様性」、「ガバナンスの質」、「地域コミュニティの活力」、「環境の多様性」、「生活水準」。
この9つの領域がバランスよく充たされていると人々はより幸せに生きることができると考えられている。人生においてこれら9つが相互に関わり合って等価に大事だと捉える。例えばGDPが直接的に関係する「生活水準」は人々の幸せにおいて1/9だけ必要な環境要件として整理し、そのほかの人々の暮らしの質に関する8つの領域も1/9ずつ同様に大事であると仮定している。
幸せをPDCAするガバナンス
GNHも国是として掲げているだけでは絵に描いた餅だが、ブータン政府はこのGNH指標を用いて実際に人々の幸せを中心としたPlan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)のPDCAサイクルを回すガバナンスを実行し始めた。
国の計画を9つの領域の観点から作成し、政策を実行。
その評価も改善も人々の幸せの観点から行う。
そして、このガバナンスの要として、象徴的な2つの政府組織が存在する。
一つは、人々の幸せの状態を調査し測定するブータン王立研究所。もう一つは、幸せを司る省庁とも言えるGNH委員会という省庁で、国家計画策定から幸せの観点に基づく事業の各省庁への予算配分も行う権限を有する。
この2つのユニークな機能を持つ組織が連携することにより、他国とは違うGNHに基づいた国づくりというのが可能となる。その一端を紹介したい。
「困ったときに頼りにできる人は何人いますか?」社会関係資本をも測る指標
ブータン王立研究所は、GNH指標を用いて、ブータン国民の幸せの状況を測るGNH調査を継続的に実施している。調査はブータン全土20県、約8000世帯(人口の約1%)におよび、対象者1人に対して148の質問を2時間半ほどかけてゆっくり行っていく。時にはお茶やお菓子を楽しみながら。
この調査結果はGNH委員会に提供され、実際に政策評価や政策作成のために活用される。例えばこれまでに、調査結果から人々の「精神的な幸せ」が下がっていることが明らかになり、すべての学校に瞑想プログラムを導入する政策を採ったこともある。
このGNH調査に私も参画したが、一番記憶に残っている場面と質問がある。ブータン南部の人口300人ほどのとある村。「あなたが病気になった時にとても頼りにできる人は何人いますか?」という質問。9つの領域の一つである「地域コミュニティ」に該当するこの調査項目に対して、成人をむかえたばかりのブータン人男性は「50人ぐらいですね」と答えてくれた。
その表情から、彼が人と人との関係性の中に幸せを見出し、助け合える家族のような関係を重視しているブータンらしい生き方を感じた。
GNHはこうした、GDPに加算されることのない、人々の幸せにとって大事な社会関係資本も測ってくれる。直接的には目に見えない大事なものを可視化することの役割を感じた瞬間だ。
国の政策は人々の幸せをもとに
加えて、GNH委員会は、すべての省庁が作成する新規の政策に関して、GNH政策スクリーニングツールという、GNHの観点を守っているか・促進できるかを審査する仕組みをもち、人々の幸せを守る体制をとっている。
GNH政策スクリーニングツールは、GNHの9つの領域に基づき20数個の項目があり、項目ごとに4段階(4=Positive(正に影響)、3= Neutral(特に影響しない)、2=Uncertain(影響不明)、1=Negative(負に影響))の評価をしていき、平均で3点以上でないと、政策として承認されないという仕組みだ。
審査に関しては、政策を策定する担当省庁が全省庁のとりまとめ役となるGNH委員会に政策を提出し、GNH委員会の20数名がGNH政策スクリーニングツールにて審査を行う。また、私もこの外部委員を務めさせてもらい審査を行っている。
平均で3点以上であれば、その政策はGNH委員会から内閣に提出され、承認プロセスに進む。平均3点未満であれば、政策の変更すべき点を担当省庁に指示し、3点以上になるまで改善が求められる。また、改善に至らないと判断した場合は却下となる。
例えば、この仕組みによりWTO への加盟が却下された。「文化の多様性」、「地域コミュニティの活力」や「環境の多様性」などに負の影響があると判断されたためである。また昨今では、鉱物開発政策が、「環境の多様性」などの観点で一度却下。その後、数年を経て改善を行い、承認された。
この仕組みにより、GDPだけを見ていたのでは守ることのできない、人々の幸せの環境要因を国として守ることができるのだ。
GNHという健康カルテ。「GDPだけでは国の進歩は測れない」
ブータン政府のみなさんと国づくりを共にした経験から、私が感じた新しい指標・GNHの役割。それは、GNHは国の幸せな健康状態を測る包括的なカルテだ、ということだ。
成長社会にはGDPの測定で事は済んだのかもしれない。これは一つの例え話だが、身体が大きく成長する幼少期には身長と体重を測っていれば健康状態はある程度推測できるかもしれない。
しかし、年を重ねていけばそうはいかない。身長と体重だけでなく、血圧や体脂肪率など多種多様な健康項目を定期的に測り、病を未然に予防していくことが必要だ。成熟社会にはこのような包括的なカルテが求められる。GNH指標はその役割を果たしてくれている。
ブータンではGDPに基づいた経済成長率は近年4〜8%(世界銀行調べ)となっているが、「精神的な幸せ」と「地域コミュニティの活力」は下降傾向にあることがGNH調査により明らかになっている。
GDPだけに注目すればなんら問題点のない国家運営ということになるが、GDPをあくまで国際比較におけるピン留めに使い、そこにブータン独自のGNH指標があることによって、開発のあり方を再考し、さまざまな社会問題を継続的に把握。政府や公務員がそれを改善するアクションに向かうシステムを形成することができている。
実際に、ブータン現首相のロテ・ツェリン(元医師)は「GDPだけでは国の進歩は測れない」とし、「経済成長率は5〜6%程度が望ましく、8%以上となると格差を拡げ、社会の不調和を引き起こしかねない」と自国新聞紙に意見を表明している。また、政策のほとんどは、低中所得者のための地域医療の改革などGDPには貢献しないものだ、としているのはなんともブータンらしい姿勢だ。
もちろん、日本にこのGNHをそのまま当てはめようという話ではない。そのカルテの内容や項目は国によって地域によって当然変わってくる。幸せは国や地域を越えて同じ尺度で比較することは決してできない。比較する行為自体が幸せを遠ざける行為とも言える。
しっかりとローカル性に立脚し、各々の地域で自分たちの幸せにとって大事な暮らしの質とは何かを明らかにしていき、GNHのような人々の主観的な幸福も反映される新しい指標を創っていくことが重要だ。
自治体にも企業にもGNH指標を。GNHの実践から見えてくるローカル経済の未来
また、ブータン王立研究所が主導し、政府や自治体が実行する経済プロジェクトのインパクト評価(行政評価)を、人々の「生活水準」の影響面だけでなく、幸せの土台となる9つの領域全体で行うことを始めた。
加えて、民間企業を対象としたビジネス版のGNH指標も開発し、企業の経済活動がGNH指標の示す9つの領域に基づき人々の幸せに貢献しているか、または何が欠けているかを特定。それを満たす企業に対してGNH認証を付与する仕組みを検討中だ。これができれば、どの企業が、売上だけでなく人々の幸福に寄与しているか、見えやすくなる。
例えば、日本の農業協力で実施してきたプロジェクト(「園芸作物研究開発・普及支援プロジェクト」)は、上記のインパクト評価によって、プロジェクトの人々への効果が「生活水準」向上だけでなく、「地域コミュニティの活力」と「精神的な幸せ」に関する指標においても統計的にポジティブな影響が見られることが分かった。
従来の農業と違い、自発的な学びのある農業は、生活水準の向上だけでなくコミュニティの力や充足度を高めることを示してくれる。また、ビジネス版GNHによって、企業活動が人々の「生活水準」ばかりでなく、「文化の多様性」や「地域コミュニティの活力」、「環境の多様性」などを向上させやすい状況を生み出してくれる。
人々の幸せを起点とする新しい指標の存在。新しい経済では、その指標によって導かれた社会基盤の上で、一人ひとりが主観的に幸福を感じられる暮らしを共創造していくことができる。
ブータンでは、経済のことをペルジョアと呼び、「ペル」はprosperous、「ジョア」はwell-being。つまり、経済の語源が「持続繁栄する集合的な幸せ」である。
一人ひとりの幸せにもとづいた、ローカル経済の未来があるのではないか。
(*1)引用元:
Kuznets, S. (1934) National Income, 1929-1932. 73rd US Congress, 2d session, Senate document no.124, Page 7.
(Text: 高野翔)
高野翔(たかの・しょう)
1983年、福井県生まれ。大学院卒業後、2009年、JICA(国際協力機構)に入構し、これまでに約20ケ国のアジア・アフリカ地域で持続可能な都市計画・開発プロジェクトを担当。直近(2014-2017)ではブータンにて人々の幸せを国是とするGross National Happiness(GNH)を軸とした国づくりを展開。現在はブータン政府のGNH外部アドバイザーとしても活躍。地元福井では、仲間たちとまちづくり活動を行っており、2013年、福井の人の魅力を紹介する観光ガイドブック「Community Travel Guide 福井人」を作成し、「グッドデザイン賞」を受賞。2017年8月末からブータンから英国に渡り、スモール イズ ビューティフルを執筆した経済学者 E. F. Schumacher の系譜を引く、Schumacher Collegeで新しい経済学を学ぶ日々。