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石見銀山の文化財を守ろうとする地元の熱量が行政を動かした。大田市役所・遠藤浩巳さんに聞く、文化財を守り、活かし、伝えるために行政がしてきたこと、これからしていくこと。

今、日本の世界遺産は何件あるかご存知ですか?

2018年の時点では22件。1993年に、屋久島や白神山地、法隆寺地域の仏教建造物や姫路城が初めて世界遺産として登録されたころから比べると、ずいぶん数が増えました。とはいえ、「世界遺産」という響きには、やはり特別なものがあります。

世界遺産に登録されたことで観光客が増え、地域の経済が活性化するのはよいことですが、一方で地域住民の生活に支障が出るという問題を抱えている地域もあります。

島根県大田市にある石見銀山が「石見銀山遺跡とその文化的景観」という名称で世界文化遺産に登録されたのは2007年のことでした。それから11年が経った今、石見銀山は「世界遺産の保全と活用」という点で、日本のトップランナーとなっており、各地からの視察が絶えないといいます。

大田市役所で石見銀山の保全に関わってきた遠藤さんが開口一番に話してくれたのはこんな言葉でした。

「世界遺産を構成する資産のひとつである『大森の町並み』の保存については、地域の力が大きかったんです」

行政の立場から見た、「地域の力」とはどのようなものだったのでしょう。
行政と民間とで町並みを守ってきた歩みの中で、行政が果たした役割とは?
遠藤浩巳さんに聞きました。

遠藤浩巳(えんどう・ひろみ)
1960年、島根県生まれ。島根大学法文学部文学科歴史学専攻卒業。1989年より大田市教育委員会文化財技師として発掘調査等を担当した。現在は大田市役所石見銀山課で課長を務めている。

鉱山の火が消えた。さて、どんなまちにしていこうか

石見銀山が閉山したのは1923年。鉱山町であったまちの様子は激変します。

石見銀山が閉山する前、大森町の人口は1889(明治22)年の時点で約2600人でした。その当時、大森町にある大森小学校の全校児童数は約600名。石見銀山の閉山によって、同じ系列の鉱山があった岡山へ家族で移った人も多かったようです。以降、大森町の人口は減少の一途をたどり、現在は約400名。大森小学校の全校児童数は16名です。

明治28年に建設された清水谷製錬所の跡。石垣が残る

かつて鉱山町として栄えたまちは、閉山にともなって、「これから、どういうまちにしていったらよいのか」という問いをつきつけられます。住む人の生業は変わり、人の数も減っていくという変化の中で、1956年に大森町は大田市に編入されました。

鉱山はなくなり、残されているのは文化財。そこで、大森町は歴史的なものを活かしたまちづくりへと舵を切ったんです。

1967年には、「石見銀山遺跡」が県指定史跡となり、1969年には代官所跡や龍源寺間歩など14か所が国指定史跡となります。

代官所跡

龍源寺間歩

通常、国や県の史跡として指定されるように働きかけることは行政の仕事です。しかし、大森町の場合、住民からの要望を吸い上げる形で指定につながりました。地元の人が想いをもってやってきた「素地」があったんです。

遠藤さんがいう「素地」とはどのようなものなのでしょう。

全町民が加入した大森町文化財保存会

石見銀山を歴史的な文化財として守っていこうという活動の第一歩は、住民による「大森町文化財保存会」の結成でした。1957年のことです。

きっかけとなったのは、その前年に大森町が大田市と合併したことでした。合併により、町内の文化財が埋没してしまうのではないかという危機感から設立され、大森町の全世帯が会員となったのです。大森町について、遠藤さんは次のように言います。

大森町には、話し合いをすることで、みんなで同じ方向を向いてやっていこうという風土があるように思います。

さらに、1966年には大森町の有志によって大森観光開発協会が設立されました。

加えて、石見銀山遺跡が国史跡に指定された1969年には、大森小学校の全校児童による「石見銀山遺跡愛護少年団」が結成され、現在に至るまで、史跡の掃除や勉強会を行っています。

また、1976年には、地域の力によって石見銀山資料館が開設されました。前述の大森観光開発協会が大田市に計画案を提示し、代官所跡にあった大森幼稚園の建物を譲り受けて、補修改造工事を行ったのです。

石見銀山地区では初めての博物館だったため、資料の持ち込みや調査の依頼が次々と入り、地域の貴重な資料が散逸することを防ぐことに一役買いました。

自治体が町並み保存のためにしてきたこと

地元の人々による、このような素地があったうえで、自治体も町並み保存のために動きます。

大森と銀山の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区と記載)に選定されるための取り組みです。

選定にあたっては、全世帯の同意を得ることが必要でした。大森が地域ぐるみで文化財を大切にする土地柄だったとはいえ、家屋は生活に直接関わることです。そのため、全世帯に同意してもらうことは容易ではなかったと遠藤さんは振り返ります。

町並みを保存するにあたって、建てられた時期が戦前か戦後かで分け、戦前の建物について”文化財として価値のあるもの”とする線引きをしました。また、戦後の建物であっても、修理をするときには周囲の景観に合うようにしましょうという方向で整備を進めました。

整備の方針は、外観と基礎構造を変えずに、「建築当初」に戻すというものです。「建築当初に戻す」ための工事であれば、補助金が出ます。工事にかかったお金のうち、現在の制度では国から65%の補助があり、残りを島根県、大田市、家屋の所有者で均等に負担します。

補助金が出るならよさそうなものですが、話はそう単純ではありません。

補助金が出るのは、あくまで「建築当初に戻すための工事」の部分だけです。たとえば、浴室のリフォームをしようと思ったとき、浴室の面積を減らしたうえで工事をすれば、より安く済ませることができます。しかし、重伝建地区に指定されると、間取りが変えられないので、そういった調整ができず、割高な工事費を自己負担しなければならないことになります。

また、間取りが変えられないということは、自分の家でありながら、自分のライフスタイルに合わせて改築することができないということです。それなのに、修理する際には自己負担額が発生します。そういったことで、不満の声があったのも事実です。

住民の不満の声も受け止めながら、市役所の職員は自治会を回って根気よく説明を続けていきました。意見交換をくり返し、結果として大森町は重伝建地区となることを選びました。

1987年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、現在までの整備率は全戸数に対して、補助を受けて修理を行ったものが50%。規制に沿いつつ完全自費で行ったものを合わせると70%にのぼるといいます。文化財を活かしたまちづくりを目指すという方向性を共有し、自分たちにできることから行動に移していくという地域の素地があったうえに、行政の取り組みが功を奏した結果だといえるでしょう。

完全自費で改築がおこなわれた宿泊施設「只今加藤家」。武家屋敷の面影を残しつつも、現代人が暮らしやすいように随所に工夫が凝らされている。一棟貸しなので、まるでこの地に暮らしているかのように時間を過ごせる

そして、2007年には「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、世界遺産に登録されました。

世界遺産への登録によって、観光客が急増して地元の人々の生活が脅かされないようにと、地域の人と行政とが一緒に考えたのが、「歩く観光」と「パーク&ライド」です。

世界遺産への登録によって、登録の前年には40万人だった観光客数は70万人に激増。さらに翌年には80万人に増加しました。路線バスの本数を増やして対応しようとしたものの、それでも住民がバスを利用できなくなったり、排気ガスが増えたりといった影響が出ました。

そこで、石見銀山遺跡の代表的な観光名所のひとつである「龍源寺間歩」と大森の町並みの間を走っていた路線バスを廃止。観光客は世界遺産センターに車を停め、バスで石見銀山公園まで行き、そこから徒歩か自転車で町並みを味わい、龍源寺間歩を観光するというスタイルにしたのです。

「国の重要伝統的建造物群保存地区になる」ということは、町並みを保存するための一つの選択肢でした。行政も試行錯誤しながら進めてきましたが、今の状況を見ると、この道を選んでよかったといえると思います。文化財を守るということは所有者の生活も含めて守るということなのです。

おだやかさとにぎわいの両立を目指し、大森町自治会協議会によって住民憲章が定められた

持続可能な担い手を育む教育

重伝建地区への指定に代表されるように、行政も町並みの保存に尽力してきましたが、行政には限界があります。それは予算の問題です。

予算という限界を超えて、石見銀山の文化財や町並み保存を持続可能なものにするための仕組みとして、「石見銀山基金」があります。2008年に石見銀山基金募金委員会が設立され、募金活動がスタートしました。現在は、NPO法人石見銀山恊働会議が運営しており、民間事業を中心に助成しています。

基金が助成しているもののひとつに、「石見銀山学習」があります。これは、大田市内の小中学校で、児童生徒が石見銀山の歴史や自然などへの理解を深めるための学習です。学習に使う教材費や、講師をお願いするときの講師料、子どもたちが現地へ見学などに行くバス代などを、全額助成しています。

これからも歴史や自然と人の暮らしが調和したまちづくりをしていくためには、文化財や自然を守るのと同時に、未来の担い手である子どもたちへの教育にも力を入れていく必要があります。

”石見銀山全体”という行政の視点

ここまで紹介してきたように、文化財を保全し、活用していくという面で、大森地区は非常にうまくいっています。

しかし、行政の立場から石見銀山”全体”を見ると、まだ難しい課題が残されていると遠藤さんは言います。

世界遺産として登録されている石見銀山は複数のエリアからなります。大きく分けると、銀鉱山跡と鉱山町、石見銀山街道、港と港町の3つです。

世界遺産・石見銀山遺跡の範囲

世界遺産である石見銀山遺跡の中でも、港湾集落である鞆ケ浦(ともがうら)や沖泊(おきどまり)は、それぞれ30軒ほどある住居のうち20軒強が空き家になっています。住んでいる人の高齢化も進み、これから保存して活用しようとしても手だてがないというのが現状です。

上空から見た沖泊。かつての街道の整備やアクセスが課題となっている

沖泊の集落

近くに大森地区の成功事例があるとはいえ、これまでの経過がちがうので、同じように進めても思うようにはいきません。

大森では住民と行政とが連携し、外部の専門家の助言も得ながらお互いに尊重しつつ、時間をかけて保全と活用に取り組んできました。

大森には「このまちが好き」という気持ちがベースにあり、楽しみながら、やりたいことをやっていこうという人が集まっていたんです。地域の人も行政の人間も一緒になって、「これからのまちづくりはどうするのか」ということを、昼間に仕事としてだけでなく、夜に食事をしながらも議論したものです。近年では、外からの移住者の新たな視点も加わって、ますますよい循環が生まれています。

一方、鞆ケ浦や沖泊の集落は、一人暮らしのお年寄りが住んでいるか空き家という状況で、有害鳥獣をどうするかという問題や、漂着ゴミをどうするのかといった港湾ならではの課題も抱えています。

今は、地域おこし協力隊のメンバーが、お住まいの方々と直接話をして、建物の情報を整理しているそうです。これによって、集落の全体像が徐々に明らかになってきていますが、まちづくりという観点からは、やっとスタートラインが見えてきたというところでしょう。

地域ぐるみの取り組みがなければ、もしかしたら大森地区も同じ道をたどっていたのかもしれません。そう考えると、地域主導で60年前からこつこつと行われてきた取り組みが、いかに大きな成果をもたらしたのかがよく分かります。

世界遺産として、価値が認められているにもかかわらず、そこで暮らす人の生活の灯が今にも消えそうだという現実。こうした地域が、いかに文化財を保全し、活用できるように道筋をつけるのか。

行政が管理して市営住宅にしたり、民泊として活用したりすることも視野に入れているそうですが、行政主導の施策には、地域の理解と協力が不可欠です。

地域の実情に寄り添ったうえで、生活者とはちがった視点から、新たな策を講じていくことが求められています。