東京から飛行機で出雲空港まで約1時間半、そこから電車とバスを乗り継いでさらに約1時間半。島根県大田市大森町は、世界遺産の石見銀山がある町ですが、決して交通の便がよいとはいえないところです。
そんな町に、日高晃作さんが営む「ベッカライ&コンディトライ ヒダカ」はあります。日高さんはドイツで修行を積み、パンのマイスターを首席で取得したほどの人物です。開業する場所なら、ほかにいくらでもあったはず。なぜ、あえて縁もゆかりもない大森町を選んだのでしょうか。日高さんがたどりついたのは、どのような暮らし方なのでしょう。お話をうかがいました。
1981年、岡山県生まれ。日本でパンづくりの修行を積んだのち、ドイツへ渡りパンのマイスターを主席で取得。島根県大田市大森町でドイツパンを中心としたパン屋「ベッカライ&コンディトライ ヒダカ」を営む。
400年前と同じ風景が目の前に! 「天空の朝ごはん」
あなたは今日の朝ごはんのことを覚えていますか?
いつも通りの時間に、いつも通りのメニューで、ゆったりと味わったという人もいれば、今日は急ぎだったので、手軽にぱぱっと済ませたという人もいるでしょう。そもそも、朝ごはんを食べていないという人もいるかもしれません。
住み慣れた地元なのに、非日常の朝ごはんが味わえる体験。それが「天空の朝ごはん」です。
きっかけは、日高さんが友人の投稿を見たことでした。
兵庫県丹波市在住の友人が「早朝に山で朝ごはんを食べた」という投稿をしているのを見て、自分が住んでいる町でもやってみたいと思いました。石見銀山でガイドをしている知人に相談し、大森町にある要害山の山吹城跡で開催することにしました。
山吹城は、戦国時代に武将たちが石見銀山を奪い合ってしのぎを削っていた時代から、この地の人々の営みを見守ってきた山城です。朝ごはんは、地元でイタリア式のコーヒーを提供している町内のカフェと、日高さんの営むドイツパンのお店「ベッカライ&コンディトライ ヒダカ」とで準備することになりました。
まだ夜が明ける前の朝5時から登山を始め、山道を1時間強歩くと、道のりの最後には600段の石段がそびえます。やっとの思いで登り切ったとき、目の前に広がるのは雲海の下に広がる山々。神々しいばかりの朝日。おそらく、400年前と変わらぬ景色です。
「こんな光景、初めて見た……」
地元に生まれ育った人の口からも、自然とそんなつぶやきが漏れます。そして、手元にはあたたかいコーヒーと、地元の食材を使ってつくられたパン。その地で生まれ育った人ほど見落としがちな、地元の魅力を再発見する時間だといえるでしょう。
日高さんが自分で企画したのはこの初回のみで、以降は各所からのリクエストに応える形で続いているのだそうです。
ドイツパンのマイスターがなぜこの町へ?
この「天空の朝ごはん」をはじめ、地元の魅力を次々と掘り起こしている日高さん。実は、ドイツで修行してマイスター試験をトップの成績で合格した凄腕のパン職人です。なぜ、縁もゆかりもない大森町にやってきたのでしょうか。
日高さんは「どこから話せばいいのかな……」、と迷いつつも、ちょっと長めの経緯を教えてくれました。
高校卒業後、山形の大学に進学して、美術品修復と文化財保存の勉強をしていました。でも、学ぶうちに修復より、ものをつくり出す側に回りたいという思いが強くなって、20歳で大学を辞めました。大学は辞めたものの、山形のことは好きだったので、そのまま山形に住み、果樹園で1年ほど働きました。その後、地元の岡山に戻って、板金の仕事をしている叔父を手伝うことに。そこでは屋根を張る仕事をしていました。
そんな折に、日高さんをパンづくりの道へ誘う機会が訪れます。
仕事に行く途中、電信柱に貼ってあるパン屋の求人を見かけたんです。勤務時間が4:00〜6:00になっていたので、これなら昼間に板金の仕事をしながら働けるぞと思いました。
もともとパンが好きだったという日高さん。その貼り紙がきっかけとなって、パン屋さんで働くことになりました。そして、ひとつめの重要な出会いに恵まれます。
岡山はサンマルクカフェの創業の地なのですが、アルバイトで入った職場に、サンマルクカフェの立ち上げに関わった経験のあるパン職人がいたんです。職人気質の強い人でした。
日高さんは、この先輩職人と2年ほど一緒に働くなかで、パンづくりを教わりました。そして24歳のとき、ドイツへの道が開ける転機がやってきます。
もともと、ヨーロッパで勉強したいという漠然とした思いはありました。ちょうど職業訓練の募集があって、ドイツへ行けることになったんです。ドイツでは、高校生にあたる生徒たちと一緒に、学校でパンづくりを学びながら、現場で経験を積みました。
ドイツに渡って2年後、日高さんは職人試験に合格します。しかし、労働ビザへの切替更新ができなかったために、一時帰国することになりました。ここでついに、日高さんと大森町とを結びつける出会いが訪れます。
帰国して、新しく開業する能登半島のお店に応援に入ることになりました。そこで石見銀山出身のパン職人に出会ったんです。彼は、かつて大森町にあった「中村製パン店」の長男でした。
ただ、このご縁が日高さんを大森へ引き寄せるのは、まだ先の話。もう少し日高さんのストーリーを続けましょう。
能登半島で半年ほど働いた後、再びドイツへ渡りました。今度は、マイスターの取得を目指し、全日制の学校に通いました。ワーキングホリデーを利用して、約半年は職人として働き、学費を稼ぎました。
ドイツの「マイスター」とは、技能資格ではなく独立開業に必要な資格なんです。パンづくりに関する専門的な技術や知識はもちろん、簿記、法律、経営学、そして弟子を指導するための教育学も学びました。生徒はドイツ国内をはじめ、ロシアやリヒテンシュタインなどからも来ていましたね。
そして、日高さんはドイツのマイスター試験に挑戦し、首席で合格。ドイツでパン職人として経験を積みます。
ドイツでは、のちに結婚する女性との出会いもありました。それが、現在一緒にパン屋で働く妻の直子さんです。直子さんもドイツで製菓マイスターの資格を取得しています。2011年に、二人そろって帰国し、ご縁のあった広島の菓子店で働き始めました。
単身赴任で大森へ
その後、日高さん一家は長男の誕生に合わせて、直子さんの実家のある東京へ引っ越しました。
お義母さんが一人暮らしをしていたところに、娘が孫を連れて帰ってきたというので、親族からも「よかったねぇ」と言われていました。
日高さんは東京のお店で働くことになりますが、雇われる立場でパンをつくることに限界を感じはじめていた頃でした。自分が開業するなら、1階を店舗にして、2階・3階を住居にしたいという理想を思い描いていたのだそうです。
そんなところへ、大森町で義肢装具を制作する中村ブレイスの当時の社長であった中村俊郎さんから連絡が入りました。「大森でパン屋をやらないか」というお誘いでした。中村さんは大森町で古民家再生事業をしており、空き家になった古民家を再生させるという取り組みを1970年代からしてきた人物です。
実は、前述の能登半島で日高さんが出会った大森出身のパン職人が、この中村さんの親戚でした。しかし、彼はすでに岡山で開業していたので、大森に戻ることはできません。それなら、腕のよい職人がいるということで、日高さんの名前が挙がったのでした。
最初は断りました。でも一度は話を聞かなければ失礼だろうと、2月に大森へ行きました。
「場所だけでも見てみますか?」との言葉についていくと、お店をする人はまだ決まっていなかったのに、土地と建物はすでに中村さんが買い取り、改修工事が始まっていました。建物を柱だけにして、基礎・骨組みから直しているところでした。
作業をしている大工さんに「あなたが日高さんですか!」と言われ、「ここはどうしましょう?」と次々に相談されたんです。話しているうちに、どんどんイメージが湧いてきて、すっかりその気になってしまいました。
とはいえ、東京から大森へ移住し、パン屋を開業するというのは、それなりの覚悟が必要です。家族は大反対。話し合いの結果、どうしてもやりたいなら単身赴任でということになり、日高さんは単身で大森町へ移り住みます。
「なんとかして結果を出すぞ!」という意気込みで開業しました。オープンしてみると、地域のニュースで取り上げていただいたこともあり、開店前から行列ができて製造が追いつかないほどでした。
そして、日高さんはどんどん地元になじんでいきます。大森に来るきっかけとなった中村ブレイスはもちろん、同じく大森町にある会社で、若い単身者も多い群言堂の人たちとの交流も深めていきました。
群言堂の人たちが晩ごはんに呼んでくれて、群言堂の持ち寄りの食事会に、社員よりも頻繁に参加していたかもしれません。皆勤賞でしたね(笑)
さらに、パンを買いに来てくれる地元の人たちとのやり取りを通じて、お店のあり方も地域の実情に寄り添ったものになっていきました。
最初は「ドイツパンの専門店」というふれこみでしたが、ドイツパンというと、かたくてお年寄りには食べにくいこともあります。あんパンがほしいという要望に応えて、あんパンなどもつくるようになりました。
地元で見過ごされてきた食材がパンになる
その延長として、日高さんは地元で今まで見過ごされてきた素材をパンにすることをはじめます。
町を散歩していると、庭にゆずが実っていたり、夏みかんが熟していたりするのがそのままになっているのをよく目にするんです。こちらから「このゆず、どうするんですか?」などと尋ねて、分けてもらうようになりました。果樹園で働いていたので、収穫は慣れてますし(笑)
そうして、日高さんはゆずや夏みかん、フキノトウなど、地元に当たり前のようにあるものをパンに取り入れるようになります。
また、意外なものがパンになるのを発見したこともありました。
高級爪楊枝の材料になる「クロモジ」という植物があるのですが、群言堂では染料にしているという話を聞いたんです。葉の香りがよくて、お茶にもなると教えてもらい、少し分けてもらいました。実際に、お茶にして飲んでみたら、確かに香りがいいんです。ふと思いついて、出がらしをパンに練り込んでみたら、香りのよいパンができあがりました。
収穫されることなく朽ちていた素材や、人との交流から生まれたアイデアが、日高さんの手によって次々と美味しいパンとなっていきます。かつて、大学時代に抱いた「新しいものを生み出したい」という日高さんの志が、今、次々と結実しているかのようです。
たどり着いたのは、仕事の隣に暮らしがある生活
開業から1年半が経った頃、東京で暮らしていた家族が大森に引っ越してくることになりました。
「そろそろ行くか」と思ってくれたみたいで、よかった、よかった、と思いました。単身赴任だった頃、お正月に家族が島根に来たときには、生後4か月で離ればなれになっていた娘に「だれ?」という感じで見られたりしていて(笑)
直子さん曰く、「大森へのなじみっぷりを目の当たりにして、もうこれは行くしかないんだなと思った」とのこと。
大森は山間の小さな町です。生活道路が1本通っていて、それに沿って家が並んでいる、日高さんの言葉を借りれば「コンパクトな町」。少し歩いてみただけでも、何人もの町の人とすれ違います。外から移り住んできた人にとって、この町の居心地はどのようなものなのでしょう。
外から来た人をあたたかく受け入れる土壌があるように感じます。銀山が稼働していた頃、よそからの労働者を数多く受け入れてきた歴史があるからでしょうね。
日高さんの日常は、自宅とお店が近接していて、仕事の隣に暮らしがある。そんな生活です。このスタイルは、かつて思い描いていた理想に限りなく近いのだそう。
子どもをおんぶ紐で背負いながらパンをつくっていた日があったんです。その姿を見た近所のおばあさんが「私も昔はそうだったのよ」と、声をかけてくれたこともありました。
お子さんも日高さんが仕事をする姿を身近に見ながら、すくすくと育っています。
長男は5歳ですが、見よう見まねでパンを一緒につくりたがります。保育園がお休みの日に、自分からエプロンをして店先に立ち、「いらっしゃいませ」とお客さんを呼びこんでくれることもあります。
小さな町で商いをすることはドラクエのようなもの
日高さんからは、家族と共に大森での暮らしを楽しんでいる様子が伝わってきます。
これからは、大森町に根を張って、ここでお店を続けていくつもりです。お店でカフェをやってみたいと思ったりもしますが、やっぱり一番は地道にコツコツとパンをつくっていくことかな、と。
そんな日高さんのお店は、これからも地元の人に愛され、しかも世界中からお客さんを引き寄せるような存在になっていくことでしょう。
大森町での開業を迷っていたとき、日高さんは中村俊郎さんの言葉にはっとしたと言います。
中村さんに「石見銀山から世界に向けてパン屋をやってみないか」と言われたんです。確かに、中村ブレイスは、大森から世界に向けて製品を届けている。パンも、保存がきくものなら遠くまで届けることができるな、と思って。今は、伊勢丹オンラインでパンの販売もしています。
そして、日高さんは地方の小さな町で商いをすることに可能性を見出だしています。
大森町は400名程度のこじんまりした町ですが、人が少ないということが、逆に強みなんだと思います。素材は有り余っているし、人に埋もれず話題になりやすい。しかも、今はインターネットを使って世界中に発信できる時代です。もし、30年前だったら大変だったんだろうと思いますが、時代が味方してくれたと感じています。
小さな町で商いをするという生き方を選ぼうとするとき、決断に至るまでには、さまざまなハードルがあります。家族がいればなおさらです。
小さな町で商いをするということは、仲間を探して、アイテムを見つけて、新しい道を進んでいく。まるでドラクエですね。
その言葉の通り、日高さんはこれまでの道のりの中でたくさんの仲間やアイテムを得て、今、自分の選んだ道を確かな足取りで歩んでいるように見えました。
冒険への第一歩を踏み出すのは、とてつもない勇気がいることかもしれません。でも、その先にあなたの理想の暮らしがあるとしたら……。
あなたの理想の働き方や暮らし方はどんなものですか?
そんな問いに向き合うことで、踏み出すべき一歩が見えてくるのかもしれません。