目の前に困っている人がいるから、力になりたい。でも一人の力ではどうにもならないとあきらめたり、一歩踏み出せずにもどかしくなったり…。日々の生活の中で、そんな気持ちになったことは誰にでもあるのではないでしょうか。
こうした気持ちを原動力にして、目の前にある課題に常に夢中になって取り組んできたのが今日ご紹介する「み・らいず2」の河内崇典さんです。
河内さんは、1998年に福祉作業所のアルバイトで出会ったメンバーとともに、知的障がいのある人たちの外出のサポートや入浴介助などの生活支援を行うヘルパー事業をスタートさせました。(以前の記事はこちら)
その後、河内さんが結成したボランティアサークルは2001年にNPO法人化し、「み・らいず」が誕生。現在は大阪を中心に6つの事業を展開し、3~6歳を対象にした発達支援事業、ひきこもりや不登校の状態にある子どもや若者のための相談業務、小学生から高校生までが通える個別学習塾など、おもに子どもを対象としたサービスを提供しています。
発足以来20年にわたりずっと変わらず福祉サービスの提供を続けてきた「み・らいず」は2018年に、「み・らいず2」へと名称を変更しました。
今回は代表の河内崇典さんと、創業メンバーとして学生時代からともに走り続けてきた広報担当の山中文さんに、「み・らいず」の軌跡と、新たに「み・らいず2」へ進化を遂げた経緯をうかがいました。
大学在学中に障がいのある男性とそのお母さんとの出会いがきっかけとなり、1998年に「み・らいず」の前身となるガイドヘルパーのボランティアサークルを設立。2001年、NPO法人「み・らいず」を立ち上げる。誰もが当たり前に地域で暮らせる社会を目標に、障がい児、子ども、若者支援の活動を幅広く手がける。NPO法人「edge」代表理事、一般社団法人「Face to FUKUSHI」共同代表、一般社団法人「コレクティブフォーチルドレン」共同代表、近畿大学非常勤講師。
新たな事業は「なんとかしたい!」気持ちから
河内さん 2003年に障害者福祉制度が導入されるまで、ヘルパー派遣事業では子どものサービスはなかったんですよ。活動を続けるうちに、家族としか出かけたことがないとか車での移動しかしたことがないなどさまざまな事情を持つ子どもと出会って、「知的障がいのある子どもがもっと家の外で遊べる機会をつくりたい、だったら事業をつくろう!」とはじめたんです。
僕たちは、こうした福祉の制度やサービスからもれてしまう人たちが必要とするサービスを提供したい一心で活動を続けてきました。
「み・らいず2」が、創業時からいつも目を向けてきたのは、福祉サービスの対象にならないけれど本当はサービスを必要としている“隙間”にいる人たち。たとえば、2001年にスタートした家庭教師派遣事業「ラーンメイト」は、学びづらさを抱える子どもたちを対象にした学習支援サービスです。
サービス開始当初は、障がいのある子どものきょうだいも利用していました。きょうだいが障がいを持っている場合、保護者はどうしても障がいのある子に関わる時間が多くなりそのきょうだいになかなかかまってあげられないという実情があります。福祉の現場では障がいを持つ人に対してサービスを提供するのが一般的です。しかし河内さんたちは、このように制度から抜け落ちてしまう人たちに、前例のない事業をつくることで支援を実現してきたのです。
河内さん 社会的に福祉サービスが拡充されても、制度だけではリーチできない人たちが必ずいます。僕たちは、常にそういったところで支援を求めている人たちの課題を解決するために活動してきたんです。
山中さん 当時は福祉サービスとして提供できなかったので、家庭教師として私的契約を結んで各家庭に足を運び、学習支援や外出支援を行っていました。あの頃はまだ、お金をいただいて福祉サービスを提供するという社会的な土壌がなかったので、有料で支援を行うことに辛らつな声があがることもありました。けれど、2005年頃から発達障がいという概念が認識されて、保護者も子どもの課題に気づくようになり、ニーズが増えていったんです。
それにしても20年もの間、ほぼ同じメンバーで走ってこられた秘訣はどこにあるにあるのでしょうか。
河内さん 今では梅田に事務所を構えることができましたが、僕にとってこの場所は部室みたいなもの。会社として起業したのではなくて、サークル活動からはじまって、そのフレッシュなモチベーションのままでいるから20年も続けてこられたのかもしれません。
社会が変化していくとともに、「み・らいず2」のメンバーが提供したいサービス、解決したい課題は次々に変化していきます。河内さんたちは、常に前へ、前へ進みます。はじめは、知的障がいのある人たちの生活支援事業が中心だった「み・らいず」が、子どもへの支援を軸に置くようになったのには、他にも理由がありました。
山中さん 知的障がいのある人たちが外に出ることで、公共交通機関を使ったり、保護者以外の人と出かけるというこれまで経験したことのない経験を重ねて彼らが変化していく姿を見ているうちに、「大人になってこんなにも変われる。ならば、子どもの頃からサービスを受けられたなら、もっともっと変われるのではないか?」という思いが大きくなっていったんです。
出発は、いつもゼロ地点から
地道な活動を続けた結果、利用者の数が増え、売上もぐんと上がってきた2004年。「み・らいず」に大きな転機が訪れます。当時、山中さんが外出サポートを担当していた障がいを持つ利用者さんのお母さんが入院することに。その利用者さんは、お母さんの入院期間中、それまで暮らしていた自宅から福祉施設へ入所することになりました。山中さんは、外出サービスを終えて利用者さんを施設へ送るたびに、つらい気持ちをぐっとこらえていたのだといいます。
河内さん 障がいがある人も施設に入所するという一択ではなくて、地域で一緒に生活していける未来を描いて「み・らいず」を立ち上げたのに、実現できていなかった。制度が新しくなって、サービスを幅広く提供できるようになったことで、いつの間にかその制度事業を運営することに必死になっていたのかもしれません。本当は、制度はうまく利用すべきものなのに。
山中さん 売上が上がって法人として金銭的に余裕ができれば、提供できるサービスが増えて、利用者さんの生活を今まで以上に支えられると思って必死に仕事をがんばってきました。けれど、今、目の前にいるたった一人の利用者さんを地域で支援し続けることができない。これまで信じてきたものがガタガタと崩れていくような感覚で…。私たちがやってきたことは、いったいなんだったんだろうって。
当時、事業規模は1億円にまで達していました。事業規模をさらに拡大すれば、もっと大きな収益を得ることもできました。けれども、創業メンバーで散々話し合った結果「売上にとらわれず、必要なことをやろう!」と、もう一度原点へ立ち返ります。これまでヘルパー派遣中心だった事業の在り方を見直し、相談業務や学習支援など、子どもを対象にした事業をさらに拡大していきます。
河内さん ふと気がつくと、いつも部室みたいにごちゃごちゃしていた事務所に学生ボランティアがいなくなっていた。そうなるまで、変化に気づけなかったんです。
以前の記事でもご紹介した通り、「み・らいず」の事務所はいつも学生ボランティアのスタッフで溢れていました。これまで、約2,000人以上の大学生がボランティア活動に携わってきました。そして今でも学生ボランティアは「み・らいず2」の活動の根幹を支える大切な人材なのです。
河内さん もう一度原点に立ち戻って、ちゃんと必要な支援をやろうと。例えば、山中が2004年に行った「のーまらいず」のような障がいのある人のアート活動支援事業や、地域のイベントに力を入れていこうと話しました。ボランティアスタッフに謝礼すら払えない状況になったけれど、僕たちの気持ちの変化が学生に伝わったのか、以前以上に学生ボランティアが来るようになったんです。
“気づき”を見落とさずに、すぐに次のアクションを
子どもへの支援事業に本格的に力を入れ始め、それまで私的契約を結んで行っていた家庭教師派遣事業「ラーンメイト」が個別学習支援塾へと生まれ変わります。
きっかけは、一人の障がいのある女の子との出会いでした。電動車椅子に乗る小学生の女の子の「自宅で習いごとを受けるのではなく、外へ習いに行きたい」という望みを叶えるために、空室だった住之江の事務所の1部屋を利用して開始しました。こうして始まったサービス「ラーンメイト」は、今では学びづらさを抱えるすべての子どもたちのための個別学習支援塾へと発展しています。
利用者との関わりの中に“気づき”があれば、その都度課題を見つめ、車座になって話し合いを繰り返して、次のアクションを起こしていく。「み・らいず」が、いつも新しい活動をしていると言われるのは、利益を優先するのではなく、ただただまっすぐに、目の前にあることをなんとかしようというシンプルな思いに立ち返ってきたからではないでしょうか。
危機を乗り越えたから生まれた、かたい絆
2011年、「み・らいず」にさらなる転機が訪れます。東日本大震災が発生し、河内さんは2ヶ月以上にわたり現地でボランティア活動を続けていましたが、度重なる飛行機での移動や寝袋での生活により自律神経を乱し体調を崩してしまいます。また、この年「み・らいず」は初めて赤字を出し、それまで現場を守ってきてくれた中堅層が退職し、コアスタッフの妊娠・出産など変化が続きました。本当に、これまでにない危機だったと言います。
河内さん 組織が変わっていく中で、自分自身も身の回りを整理したり、これからのことを考えました。僕はもっと「み・らいず」をやりたい、最大限ここに時間を費やしたいと思ったんです。
そして、組織を大改革。経営基盤を整えるために、改めて各事業状況を把握し、部署を明確化して責任者を配置。さらに、スタッフ全員で利用者ニーズの把握につとめました。
こうして、現在「み・らいず2」の根幹をつくる描く・学ぶ・遊ぶ・育む・働く・暮らすという6つの事業部の核ができていきました。ちなみに、創業メンバーとともにこの頃一緒に踏ん張った学生のボランティアスタッフは、今では経営の中枢を担う人材へと育っています。
これからの「み・らいず2」は予防支援に注力する
20年にわたる活動の中で、スタッフそれぞれがサービス利用者と関係を築き、さまざまな経験をする中で、課題の初期に支援をはじめることの重要性に気づきました。例えば、ひきこもりの人は、子どもの頃に不登校であったなどのサインが出ていることもあるでしょう。
そのサインを、大人が見過ごしてしまったことでより大きな課題に発展してしまうこともあるのです。そこで今、河内さんたちが改めて大事にしたいことは、予防支援だと語ります。その意気込みを込めて、「み・らいず」は2018年に「み・らいず2」へと名称を変更しました。
河内さん 危機を脱して、一息ついた頃に第2創業を考える時期が来たのだなと感じて。支援のあり方を変えていくためには、子どもの頃から関わりを持って、問題を未然に防ぐことが必要なのではないかと思ったのです。そんな思いを込めて、みんなに覚えてもらった「み・らいず」という名前を活かして、「み・らいず2」と名づけました。
普通なら、風邪をひいてから病院に行って治療をしますが、そうではなくて風邪をひかないように予防していこう、それを事業化するのが僕たちの役割なのではないかと思ったんです。
山中さん どんな子どもも、成長する上で「自分は大事にされる存在だ」と実感することが必要です。それが、生きていくための土台になると思うんです。だから、私たちが両親やきょうだい、教師たちとも違う斜めの関係を築くことで、子ども自身が自分は大事にされる存在なのだと感じてもらいたいんです。
課題を未然に防ぐには、相談に来るのを待つのではなくて、支援者が家庭に足を運んで会いに行くサービスをつくることが必要です。そして、その訪問をするのは「み・らいず2」のスタッフだけではなく、保健師や行政職員、学校の先生と子どもに関わる人たちで行いたいと河内さんらは考えました。
そこでともに活動するネットワークへ発信できるように、新たに「実践研究所」を立ち上げました。社会福祉領域における調査や研究を行い、それらの検証結果を可視化して関係者と課題を共有し、政策提言や啓発活動をしていこう、というものです。
山中さん 課題を抱えるすべての人たちへ支援サービスを提供することは、私たちだけではできません。さまざまな事情が重なって複合化した課題を解決していくためには、支援者同士のネットワークをつくっておくことは必須。お互いに必要なサービスを紹介しあって、協力体制ができることで課題の早期解決につなげることができます。
また、近年、日本各地で立て続けに起こっている自然災害でも、現場最前線で支援を行う河内さん。2011年以来、災害の現場でも新たな支援ができないかと考えています。
障がいのある人たちは、災害時に「迷惑をかけてしまうから」と遠慮をして避難所にすら行かず、危険な状態にある家屋の中で生活を続ける人も少なくないと言います。そこで、「み・らいず2」では災害時でも、福祉サービスの提供がストップしないよう、支援する側の人たちへ研修を行う事業を展開しようと考えています。
常に現場で耳を傾け、課題があればそれらに向き合っていく。「み・らいず2」が先進的な事例を生み出し、さらには予防という観点で新たな事業を立ち上げるのはまだ見ぬ理想の未来を描き、それを信じて、懸命に取り組んでいるからこそ。こうした思いが、子どもたちの心に届き、支援が広がっているのではないでしょうか。
人々に必要とされる新しいコトがはじまるのは、“何か新しいことを仕掛けてやる”という野望からではなく、周りの人たちや目の前にある小さなことに地道に真摯に取り組んだ時なのかもしれません。