いつかは地方に移住してみたいけど、どんな暮らしなのか、都市と何がどう違うのかリアルなイメージがつかめない…。そんな人も少なくないのではないでしょうか。
世界遺産登録された石見銀山遺跡のお膝元、島根県大田市大森町に根を張る「石見銀山生活文化研究所」のシリーズ第4回に登場するのは、東京での暮らしを経験した後、夫と大森にUターンした松場奈緒子さん。
4人の子どもの母親であり、石見銀山生活文化研究所の一員でもあります。奈緒子さんに、大森での暮らしや魅力を語っていただきました。
1984年生まれ、大田市大森町出身。文化服装学院を卒業後、polka dot soielleでアシスタントとして働く。その後、結婚を機に、現在の会社(株)石見銀山生活文化研究所に入社。東京事務所で企画や営業を経験し、2012年大森町にUターン。その後、大森町で4人の子どもに恵まれ、もうすぐ5人目も出産予定。現在は大森町の子育て支援サークル「森のどんぐりクラブ」の代表をつとめ、子育て世代の交流活動と子どもたちの放課後の居場所づくりのために、放課後子ども教室を運営している。
移住してくる家族の子育てが”孤育て”にならないために
大森町の住民は約400人。少子高齢化の一途をたどっていましたが、2017年には2歳児が7人、1歳児が4人、0歳児が10人と大きく増えました。その要因の1つが、石見銀山生活文化研究所の社員やその家族などUターン者、Iターン者の存在です。
ここ数年、子どもたちが増え始めて、大森町の“第1次ベビーブーム”と言われているんです。ただ、Iターンの人やお嫁さんが来られた新婚さんなど、地域の人とのつながりがなかなかできないという現状もあります。そういった家族を見ていると、子育てじゃなくて “孤育て”になっているように感じ、これじゃあいかんな、と。
そんな想いから、奈緒子さんは2015年に地域の子育てサークル「森のどんぐりくらぶ」を仲間と設立。代表を務めています。さらに、保育士の資格をとりました。
メンバーは子育て中のお父さんお母さんなど25家庭。月2回、地区内にある「大森まちづくりセンター」に集まり、ベビーマッサージやヨガ、料理教室、工作などを楽しみながら交流しています。
森のどんぐりくらぶは一緒に子育てするのが目的です。町内のひな祭り会や町民運動会に一緒に出ますし、地域の中で子どもたちが一人の町民として受け入れられるように、町民と一緒にワークショップを年に1度企画しています。
前身には私の母たちの世代が設立した「ぬのんこクラブ」があります。イメージとしては私が新しく設立したというより、子や地域を思う親の思いを今の時代に合わせてつないだ感じです。
地域の人に見守られて育った大森町での暮らし
今では地域の一員として活動している奈緒子さんですが、以前はそうではなかったといいます。少し時間をさかのぼってみましょう。奈緒子さんが子どものころの大森町はどんな感じだったのでしょうか。
大森にある小学校の全校生徒は現在11人。私の通っていた頃ですら31人と小規模で、2つの学年が1つの教室で学ぶ複式学級でした。とはいえ、楽しく暮らしていたし、不満はなかったですよ。比べるところさえも知らないというのもあったかもしれませんが。
奈緒子さんの両親は、石見銀山生活文化研究所の創業者である松場大吉さんと登美さん。三人姉妹の三女として育ちました。
小さいころ、七夕のたんざくで「受け継ぐ」って、呪いのように書いたそうです(笑) 家を姉妹の誰も継がないという選択肢はなかったです。松場家イコール会社ではありませんでしたが、創業家の一員としてこの地に生きるということに、小さな誇りを子どもながらもっていたのかもしれません。
奈緒子さんの両親は忙しく働いていたので、育ててくれたのは、祖母と地域の人たちでした。
父は基本的に出張で、母は夜遅くまでアトリエ。小さい頃は祖母が「奈緒子、奈緒子」ってかわいがって育ててくれました。学校が終わってから、家には寄らずに、友人の家にランドセルを背負ったまま遊びに行くこともよくありましたね。地域のおばちゃんに「よく奈緒子の面倒を見たわ」って言われます。
両親があまり家にいなかったので、「さみしい」と言った覚えはありますが、祖父母や地域の人に見守ってもらえたのは、今となってはありがたいですね。
奈緒子さんは、わずか12歳で住み慣れた大森の地を離れ、120キロ離れた島根県松江市の中高に進学した後、東京にある専門学校・文化服装学院に入学します。その選択には、両親の影響がありました。
大森で暮らしていた小学校6年生までは、どうしても狭い社会に身を置かざるを得ませんでした。「このまちの良さがわかるから、1回大森町から出てみなさい」と言われました。
文化服装学院を選んだのも、実家を意識したんでしょうね。勉強も運動もできなくて、私が成し遂げたことで喜んだことなかったのに、このときは両親が喜んでいるのが実感としてあって。もともと”つくること”は好きで、母を見ているからミシンを使ったり刺繍したりしていました。
東京での子育ては社会とのかかわりがなく、孤独だった
その後、東京での自由な生活を楽しみ、クリエイターブランドのアシスタントとして働いていた奈緒子さん。この連載の第2回に登場していただいた忠さんと24歳で結婚し、婿として迎えました。
もともと仕事を楽しんでいましたし、何も疑問も抱くことなかったんです。目の前の仕事と格闘し、いかに表現するか。三女だけど婿に入ってもらったのは、大森町で生まれ育って、おばあちゃんにかわいがられたことに恩を感じていたから。”さだめ”だったのかなと思います。
26歳で出産を経験しました。
東京では子育てどころか妊娠中さえも上手に過ごせなくて。大きなお腹抱えて会社に通って、日々の仕事の中で子どもを産むイメージがつかなかった。産後は社会とのかかわりがなくなり、会うのは主人だけ。”○○ちゃんの母”としてしか人間関係がつくれない息苦しさもあって。とにかく孤独でした。
そんなとき起こったのが、2011年3月11日の東日本大震災です。
国分寺に一軒家を借りていたんですが、生後半年の長男に離乳食を食べさせていたら大揺れして、すぐにだっこして逃げて。怖かった。
揺れが収まって外出ても、どうしていいのかわかんないし、頼れるのは大家さんしかいなくて、主人とも連絡が取れない。福島で原発の事故があって、いろんな情報が飛び交っていて、ミルクやご飯をつくるのに水道でいいのかミネラルウォーターでやるべきか、インターネットで調べてもわからなくて。
その後、長男の育児休業が終了する期限が近づくにつれて、仕事復帰するのか、しないのか。奈緒子さんの心は揺れました。
復帰するなら、子どもは保育園に預けることになるので離ればなれになる。もし災害が起こったとき、どうやって子どものもとに帰ってきたらいいのかなど、イメージがわきませんでした。
そして、2012年春、大森町へのUターンを決意。パタンナーとして、石見銀山生活文化研究所の本社企画部に入りました。
12歳でこのまちを出ていたので、大人になってから住むのは初めて。田舎社会のリアルというか、大人の事情も見えて、想像はしてたけどやっぱり息苦しさもあったかなあ。「松場」として働く息苦しさとか、400人のまちの中で一人の母として、妻として見られることとか。
子育てについても、都会とはまた違う苦しさがあったそうです。
長男を幼稚園に預けて復帰しました。東京のような孤独感はなかったけど、子育てはうまくできなくて。周りのお母さんと比べてしまったんです。孤独ではないけど周りの家庭の様子がよくわかる分、過剰に意識してしまったというか。3年くらいはすったもんだしていました。仕事も子育ても中途半端になってしまって、自分で嫌になっていましたね。
このまちのために、自分にできること。自分にしかできないこと。
大きな転機は、長男が3歳のときにやってきました。
祭りの準備で地域の人たちが花飾りを木の枝にくっつける作業をしていたんですが、長男がその光景を見たときに「僕もやる。僕だって役に立ちたいんだ」って言ったんです。何かご褒美をもらえるという期待ではなくて、小さな社会に対して役に立ちたいと。まだ幼い息子に言われ、びっくりしました。
その言葉を受けて「やっておいで」と送り出した奈緒子さん。息子さんの変化に驚いたのだそう。
おばちゃんたちと会話しながら仕事をやり終えて「ありがとう」って言われて。身近な社会にかかわれた第一歩だったんだと思います。それからそのお祭りのたびに、自分で参加するようになって。
それは、奈緒子さんにも大きな影響を与えました。
小さな子どもでも社会を守ろう、役に立とうとして動いている。しかも、自分しかできないこととか、このまちに対して自分ができることを意識して。それなのに私は家庭での役割と会社での役割しか考えていなくて、それも中途半端で…外の社会を意識していなかったなって。子どもに教えられて、人間として気付かされました。
このことがきっかけで、奈緒子さんは保育士の資格をとることにしました。
これまでに、家族で移住してきた従業員の子どもさんの面倒を見ることがありましたが、人の子どもを預かるのは思っていたよりずっと難しくて。なかなかうまくかかわれなかったんです。今の私では役に立てないと思いながら、幼稚園や行政の文句を言っていました。そうしたら「保育士の資格をとれば?」と言われて。人生で初めての国家試験を受けました。
長い歴史や場所、物事を紡いでいく人の一人
奈緒子さんはいま、大森の古い町並みの中にある古民家を改修し、夫の忠さんと4人のお子さんたちと暮らしています。自宅を出て道を歩けば、顔見知りの住民に出会い、「こんにちは」と会話が始まります。
このまちが好きなのは、自分がまちの人に育ててもらったから好きなんだと思います。祖母と同い年だった地域のおばあちゃんから「あんたよく寺におばあさんと来とってなあ、あんたのおむつも替えたよ」って言われるんですね。うちの子たちも、いずれきっとそう言われるんでしょうね(笑)
まちの人とのつながり。それは、目に見えるものだけではなく、目に見えないものもあるそう。
この前、家系図を書いてもらったんですが、私と忠さんからさかのぼって、あらためて先祖を意識しました。法事をするときやおばあちゃんを思い出すときもそうです。いま見えるものだけではなくて、古くからつながっているものを意識する。つなげて生かされている。東京にいたときはこの感覚はなかったです。
その延長線上に、森のどんぐりくらぶもあります。
畑耕して食べさせて、今まであったことをただただ淡々と、このまちのためになる役割をただただ淡々と、つないでいてくれた人がいっぱいいる。
森のどんぐりくらぶの活動内容は、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に参加するし、活動する子どもさんたちがこのまちで楽しい思い出をつくって、このまちの人が好きになって、いつか戻ってくれたら、私たちのいた時代につながるかなとも思います。
そんな奈緒子さんは、今後の人生をどんな風に考えているのでしょうか。
このまちが続いていく中をつなぐ、一瞬の部分みたいな感じ。なんて言うんだろう、長い歴史とか場所、物事を紡いでいく人の一人、というか。この小さな社会をつなぐ一人として、役に立ちたいかな。自分自身の子育てが終わってからも。
久しぶりに戻ったふるさとで最初は戸惑い、もがきながらも、少しずつ自分の役割を見つけた奈緒子さん。いまはいきいきと活動し、地域で生きることを楽しんでいます。
次回以降もgreenz.jpでは、石見銀山生活文化研究所や大森町のプレーヤーを紹介していきます。どうぞお楽しみに!