人生は、ターニングポイントの連続です。
私たちはその都度、進む道を選択し、自らの人生をつくりあげています。いったいどれだけのターニングポイントが積み重なって、今につながっているのでしょうか。
神奈川県相模原市緑区(旧津久井郡相模湖町)で暮らすフリーライター・柳澤史樹さんも、やはり多くのターニングポイントを経て、2016年、この地で農的暮らしをスタートさせることになりました。
つい最近まで、暮らしはおろか、人生にさえ向き合っていなかったという柳澤さんが、根本となる問いに向き合い、自ら選び取った先に待っていたのが、現在の暮らしと生き方です。そんな柳澤さんのこれまでを振り返り“消費されない生き方”とはなんなのかを探ってみたいと思います。
「史樹」という名前の由来から人生が変わる
多くの人がそうであったように、柳澤さんもまた、人生を変えた直接的なきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災でした。しかし柳澤さんの場合、そこに至るまでに大きな伏線がありました。その伏線とは、柳澤さんの“名前”にあります。
1968年、柳澤さんが生まれる半年前、広島でひとりの男の子が亡くなりました。名前は名越史樹くん。お母さんが広島で被曝し、被爆二世として生まれた史樹くんは、2歳のときに白血病を発症。半年間の闘病の末、亡くなりました。
柳澤さんのお父さんは編集者で、ちょうど被爆者の取材をしていてこのことを知りました。そして平和への願いを込めて、生まれてくる子に「史樹」という名前をつけたのだそう。
柳澤さんは小学6年生のとき、両親から初めて名前の由来を聞きました。そして、実際に名越史樹くんのお母さんにも会いに行ったそう。
お母さんがすっごく喜んでくれてね。初めて会ったのに「大きくなったわねー」とか言うんです。「史樹くんの代わりに頑張ってね!」って。もう、うわー! みたいな感じで。それが原体験としてすごく大きかったんです。
しかし小学生が受け止めるには、この事実と体験は少々重すぎました。
なんでこのお母さんはこんなに悲しい思いをしなくちゃいけなかったんだろう、なんで誰も僕の疑問に答えてくれないんだろうという気持ちがすごくあった。12歳の自分には、あまりにも「なぜ?」が大きすぎたんです。
そこからどうなったかというと、僕はそのとき、史樹という名前に向き合いませんでした。いろいろなことに折り合いをつけるために、自分を、なんていうかな、隠した、というか。
柳澤さんは、悶々とした思いを抱えたまま、社会をひねた目で見るようになります。中学生になるとパンクロックにハマり、その怒りやジレンマを音楽を通してぶつけるようになりました。
だけど、結局誰も僕の疑問には答えてくれないし、核戦争の危険はずっとあって、周りは何も変わらない。そういうことを全部、斜に見てましたね。かといって、自分にも力はありません。結果も出せないで、ただ文句ばかり言ってる生意気なガキでしかなかったんです。
12歳の時の体験が、今につながる
そうすると、社会に出てサラリーマンになっても続かないんですよ。周りから「社会なんて所詮こういうもんなんだよ」って言われても「そういうお前はどうなんだよ」という目でしか見れませんでした。
仕事も続かず、お金もなく、かといってこれがやりたいということも特にありません。混沌とした期間は、なんと40歳ごろまで続いたと言います。しかし現在の奥様と出会い、なんとかやっていくしかない、という気持ちになっていたときに起こったのが、東日本大震災でした。そのとき、柳澤さんの頭の中に、心の奥底にしまいこんでいた史樹という名前の由来が飛び込んできました。
原発事故が起きたとき、これはもう向き合わないといけない、なにか伝えないといけないという気持ちが爆発したんです。小学生の時に会ったお母さんのこととか『はだしのゲン』を読んでいたこととか、とにかく自分の知っていることを、頼まれてもいないのに自分が伝えなきゃ、やらなきゃという感じになりました。
アクションを起こすと、ものごとはそこからさらに動いていくもの。地元・横浜で、柳澤さんと同じような思いをもつ仲間とつながり「Team LINKS」というユニットを結成。原発に関する映画上映会などのイベントプロデュースを行なったり、個人でも震災復興の情報ボランティアなどを始めました。
今思うと、あれだけイベントをやったりして、どうやって生活してたんだろうと思う(笑)
原発やエネルギー関連のさまざまなイベントを、精力的に仕掛けてきた柳澤さん。柳澤さんのSNSには、かなりの割合で政治や社会問題が取り上げられていて、それだけを見ていると、本格的なアクティビストの印象です。しかし、実際にお会いして話を聞いてみると、発信しなくては、という強い思いはある反面、時代を冷静に、客観的に見ていると感じました。
そうは見えないかもしれないけど(笑)、自分は闇雲に反対したいわけではないんです。まやかしと嘘ばかりが通って、自分たちの権利がシュリンクするのは嫌じゃないですか。大事なのは本当の目的は何かっていう話で、もうちょっとバランスを整えようよっていうことを言いたいだけなんです。
自分たちが幸せになることから始めよう
「震災前にいったいどんな会話をしていたのか、もはや思い出せない」と笑う柳澤さん夫妻。こうした活動を続け、さまざまなアクションを起こす一方で、自分たちの足元、つまり、暮らしについても意識を向けるようになっていきます。
震災で、それまでの価値観が崩壊したわけです。生き方を変えようと思ったり、お金に殺されたくないと思うようになったり。
そんなふたりに、また、大きなターニングポイントがやってきました。
奥様が、旧相模湖町で農ライフを営むご夫婦と知り合い、手づくり味噌の味に感動したことをきっかけに、横浜から旧相模湖町へ、週末のたびに通うようになったのです。そこで実際に土に触れ、野菜を育て、調味料などを手づくりしているうちに、ご夫妻とも、みるみる農ライフに魅せられていきます。
じつは最初は「お金に殺されたくない」という恐怖心から、ライフスタイルを変えようと思ったという柳澤さん。
でも実際にいろいろな人と会って農ライフに近づいていくと、こっちのほうがすごく豊かじゃん! こっちのほうが絶対いい! と思ったんです。
横浜でのイベント運営も、壁にぶつかっていました。事態を静観している人は多く、変化の兆しは見られません。かといって、本格的なアクティビストとして市政に入ったり、ロビー活動を行なうのは「ちょっと違う」と感じました。
夫婦で、自分たちの暮らしのイメージはできていました。じゃあもう、まず僕らが幸せになろう。こっちのほうが楽しいって伝えて幸せになるのを見てもらうのが、いちばん説得力があるんじゃないかと思ったんですね。
まるで原点回帰するかのように選んだのは「自分たちの暮らしを変える、そして伝える」という、小さくともポジティブな一歩でした。しかもそれは、柳澤さんにとって、豊かで楽しいことばかり。
そして2016年11月、それまでやっていた大きな仕事が終了し、現在の家が見つかったのを機に移住しました。目の前の畑も借りることができ、リモートでライターの仕事をしながら、野良仕事にいそしむ日々です。
ここにきて感じるんです。畑もおぼつかないし、足がヨロヨロしちゃったり。そうすると、御託並べてないで、いいから薪運んでこいよ、みたいにね。思い知らされるんだよね。
机上の空論より、リアルな体験から語られる言葉は、力強い。それに勝る説得力はないのではないかと、私も思います。
ライフワークとしての「自分史」
そしてもうひとつ、柳澤さんがライフワークとしているのが「自分史」を広げる取り組みです。柳澤さんは「一般社団法人自分史活用推進協議会」の自分史活用アドバイザーの資格を取得して、特に若年層へ、自分史を書くことの魅力を伝えています。
こういう仕事をしているから、いろいろな人に会うじゃないですか。そうすると、面白い人がたくさんいてね。取材しながら「すごいですね!」なんていうと、相手がものすごく嬉しそうな顔をしたりするんです。だったら、こういう話をみんながしたほうがいいし、残していったほうがいいよなと漠然と思っていて。そこから自分史にたどり着いたのが3年前かな。
自分史というと、ご高齢の方が人生を振り返る意味で残されることが多いように感じます。しかし柳澤さんは、若い人にこそ、自分史というものに触れてほしいと考えています。自分について書き残すことには、さまざまな価値があるからです。
ひとつは、過去を振り返って棚卸しすることで自分自身を見つめ直すという「自分にとっての価値」、もうひとつは、その人の人生や考えを知ることができる、家族や友人などの「周りの人にとっての価値」、そしてもうひとつが、こういう人がいたという記録が誰かの目に止まるという「社会に対しての価値」。
100年後に、誰かがあなたの自分史を見て、過去を知ることもあるかもしれない。記録を残しておくことには、そうした価値もあるのです。
取材でもありますよね。謙遜しているけれども、第三者にとったらものすごいことやってるんですよっていうこと。そういう自分の価値を知ったら、もっと自己肯定感が高まるんじゃないかと思うんです。
思い出したくない辛い過去がある人もいるだろうけど、自分史に細かい決まりはないから、全部を吐露しなくてもいい。それをどういうふうに前向きに捉えるかが大切で、若い人たちが過去を見つめ直すことで、この先の時間を無駄遣いしなくなるような気がするんだよね。
問題を解決するカギは「独立したスモールコミュニティ」
暮らし、生業、ライフワーク。個としてのさまざまな側面を急速に確立してきた柳澤さん。とはいえ、同じように積極的にアクションを起こせる人はそれほど多くないかもしれません。子育て、家のローン、仕事、世間体、そうした種々の問題が、暮らしや生き方を変えたいという人を足止めしてしまいます。
本来は、地域のなかで仕事もできる「独立したスモールコミュニティ」がたくさんできて、コミュニティ内で循環させていくことが、今のいろいろな問題を解決するキーだと思っています。クリエイティブも含めて、地域にソフトをつくる人たちの雇用が生まれれば、もっともっと変わっていけるなと。
今はひとつのコミュニティが大きすぎて、全体像が見えづらくなっています。巨大なものを前に、自分の無力さを感じてしまうこともあるでしょう。スモールコミュニティならば、仕事も暮らしも、そして社会も、切り離されることなく、自分の手の届く範囲で循環していきます。
たとえば柳澤さんは「お金の価値が落ちているのではないか」と話します。コストや効率が重視されたチェーン店になんとなく入るのか、地元でおばあちゃんがやっている定食屋に行って、おいしい手づくりの定食を食べるのかで、同じ値段でもお金の価値は変わってくるのだと。
では、そうした「独立したスモールコミュニティ」が生み出されるためにはどうしたらいいのでしょうか。柳澤さんはそのひとつに「個の成熟」をあげます。
結局、個の感覚が大切なんです。日本はもう、昔とはかなり違うフェーズに入っていて、個が成熟さえしていけば、いろいろなものがミックスされてとっくに新しいところにいけてると思うんですよね。
周りに流された選択は、ただただ、社会に消費されていくばかりです。周りがどう言うか、社会がどうなのかは関係なく、自分という「個」がどう思うか。そして、自分のものさしで何を選択していくのか。そうしたひとりひとりの選択が、やがて大きなシステムを変えていきます。
自らの意思による選択が、社会を変える
暮らしを変えた今も、柳澤さんはそれまでやってきたことを、完全にやめたわけではありません。Team LINKSの活動は続いていますし、脱原発を表明する「LOVE the EARTH NO NUKES」のTシャツやピンズなどのグッズは今も売れ続けています。自分史の普及活動も、これからますます進めていくでしょう。もちろん、暮らしの発信も忘れていません。それらすべてが「柳澤史樹」という人の人生です。
僕がそうだったように、きっかけがいつくるのかは人によって違う。だからその時に「ここに仲間がいるよ!」と少数でも言い続けているやつがいたほうがいいと思って、僕はそのひとりになりたいなと思っているんです。
社会が変わらないと嘆く前に、自分の人生に向き合い、心地よく、豊かだと思う生き方を選び取ること。それが、自らの意思による選択であるかどうかということ。それこそが、消費されない生き方への第一歩なのではないでしょうか。
社会がどのように移り変わっていくのかは、そうしたひとりひとりの選択の先に委ねられた「結果」でしかないのかもしれません。しかしその先の未来は、どのような「結果」であっても明るいような気がするのです。
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