白くてキラキラしていて、キレイだなぁ。空気を含んでいるようで、塩なのにやわらかそう? そして、やさしく深みのある味わい。こんなの食べたことない!
今回「福岡移住カタログ」の第4弾として取り上げさせていただく、糸島在住の「新三郎商店株式会社」代表取締役・平川秀一さんがつくる「またいちの塩」を初めて目にし、口にしたときの感想です。
どんな人がこの美味しいお塩をつくっているのだろう?
単純に興味は尽きません。もともと料理人だった平川さんが塩づくりに目覚めたきっかけや、週に数千個売れるという大ヒット商品「花塩プリン」誕生に込められた想い、家族や地域との関わりについてなど、多岐にわたってお話をうかがいました。
現在では移住の先進地域として注目を浴びる糸島市ですが、平川さんが糸島半島のとったん(はじっこ)で製塩所「工房とったん」を構えた17年前は、閑散とした、まさしく過疎地域。
「とりあえずやってみて、ものにならなかったら返してくれたらいいから」。土地を所有していた方からそんな言葉をもらい、平川さんがこの地に工房を構えたのが2000年のこと。26歳のときでした。
20代前半を海外で過ごす
福岡市内の新興住宅地で育った平川さんは、20歳から24歳の間でトータル2年半ほどをカナダやスウェーデンといった海外で過ごされています。海外生活への憧れというよりは、違う場所に行きたかった、とのこと。カナダで初めて料理を覚え、本格的に日本料理を学ぶため帰国。その後、縁あって今度はスウェーデンへ。
多民族国家であるカナダで、人の多様性や多面性に触れ、ヨーロッパでは、長い歳月に支えられた伝統や文化を肌で感じました。
何を見ても、何を食べても面白かったですね。
特に、サラダには衝撃を受けたとか。それまでサラダにはドレッシングをかけることが“普通”だった当時の平川さんにとって、塩とオリーブオイルだけが基本の欧米のスタイルとともに、塩自体の美味しさ、味の多様さは驚きでした。
そんな平川さんの帰国のきっかけは、ヨーロッパの物価の高さだったそう。
20歳そこそこの若造では、なかなか稼げず生活が苦しかったですね。スウェーデンは消費税が当時23パーセントとかでしたから。働きに来たのに、そんな貯金額で来たのかと言われる始末で(笑)
若干物価の安いロンドンに移っても、今度は美味しい食材も美味しいお店もなく、平川さんは再び日本に戻り、料理を学ぶ道を選びました。
日本の「塩」が変わった1997年
平川さんが料理を本格的にこころざして帰国した頃、日本では大きな変化が起こっていました。ちょうど20年前の1997年に、それまで国が専売していた「塩」の製造・販売が自由化されたのです。
そういえば、「伯方の塩」のCMが始まったのもこの頃ですね。思い起こすと、それまでの「食塩」が、画一的でしょっぱいだけのものだったのに対し、自由化によりミネラル分の多い天然の塩が少しずつ出回り始めました。
料理人である平川さんにとっても、毎日使う塩の味が変わるという、とてつもなく大きな変化でした。味の構成や組み立て方、塩自体の扱い方といったすべてを変えることになったのですから。
海外の多種多様な塩の味や文化を知っていたこともあり、俄然「塩」そのものへの興味が深まった平川さんは、天然の塩づくりを行っている熊本県の天草へ休日に通うようになりました。
美味しい海水を探して
通うだけでは飽き足らず、製塩所をみずからつくることにした平川さんがたどり着いたのが、同じ福岡県内にある糸島半島の突端でした。人の気配がなく、玄界灘の内海と外海がちょうどぶつかり合い、山と海の豊富なミネラルが混ざりあう場所。
美味しい海水と、福岡の市街地から車で1時間ほどという立地に惚れ込んだ平川さんは、土地の所有者の元へ何度も通い、開墾からすべて自分たちでやるので貸してほしいと頼み込みます。
夜は福岡市内の飲食店で仕事をし、昼は塩づくりという生活が始まりました。塩田の規模は、なんと現在の3分の1ほどだったそう。
冷ややかだった地元の反応
平川さんが工房を構えた2000年当時、塩の価値は低く、工場でつくられる塩化ナトリウム99パーセントの食塩と天然塩の違いを理解してくれる人はほとんどいませんでした。バケツ1杯が数百円という時代です。設備とお金をかけても採れる塩の量はわずか。
地元の人たちの反応は、福岡の市街地からやってきた20代の若者を遠巻きにしつつ、「塩なんぞで暮らしていけるわけなかろうもん」「そんなもんつくってどうする」といった、冷淡なものだったそうです。
しかし、地元の女性たちを雇ったり、少しずつ平川さんの塩のファンが増えて外から工房を訪れる人が多くなっていくと、ゆっくりとその関係性は変化していきました。
また、独身だった平川さん自身がこの地で家庭を持ったことも大きかったようです。9歳の長男を筆頭に3人の子どもにも恵まれ、子育てをしていくなかでも地元のコミュニティに関わっておられます。
「おじいちゃんおばあちゃんの言葉はいまだにわからないものも多いです」と話す平川さんですが、その表情はとても穏やか。
いわゆる新興住宅地で育った平川さんは、田舎ならではの連帯意識の高さやつながりの濃さに最初はとまどいます。ですが「焦ってもしょうがない」とやってきたことが徐々に地域に受け入れられるようになりました。
つくり続けていくための塩の値段
現在、新三郎商店で扱う「またいちの塩『炊塩』」の値段は500グラムで1500円ほど。500グラムで200円前後の一般的な食塩とすると、明らかに高価ですよね。ですが、その味を知り、つくられる工程を知れば、けっして高いという印象は受けません。そして、それこそが平川さんが「工房とったん」で17年をかけてやりたかったことにつながっています。
ここに来てもらわないことには、僕たちがつくっている塩の価値がきちんと伝わらないだろうと思ったんです。他にはない景色を見せられるように、そこは頑張ってやってきました。
やはりなんと言っても、本当に塩の価値が低かったですから。
実際にどうやってつくられているのか、その一連の流れをお見せすると、塩自体の値段に納得してもらえる。だからこそ、工房がこういった開放的なつくりの場所になってきたんです。
塩づくりにはどうしても人手を必要とします。現在は塩のつくり手だけで11人。製品化していくためには、そのほかに塩に入っているゴミを取り除いたり、出荷や販売のための人員も確保しないといけません。塩をつくるという性質上、機械を入れてもすぐに錆びてしまいますから、その費用も考えていく必要があります。
最初は塩の値段を高い高いと言われましたが、この場所を維持し、関わっている人が生活をしていくことができる値段でなければ意味はありません。最近では同じような価格帯の塩も出てきていますし、少しずつ特別ではなくなってきました。
平川さんは、お話を伺っている途中に何度も「塩の価値を元に戻す」という言葉を使われました。
素材の味をしっかり味わって食べてもらうためには、根幹となる塩が美味しくなければいけません。僕自身、海外で塩にはこんなに種類があって、こんな食べ方をするんだ。加工せずに、塩で素材の味をそのまま味わう、という課題を投げかけられました。しかしそれは、日本でも、もともと日常にあったものなんです。
たしかに、連綿と続いてきた日本の塩づくりの歴史のなかで、食塩が使われはじめてからそんなに時間は経っていません。不当に貶められたその価値を、どうやったら元の状態に戻すことができるのか。平川さんはそのために「美味しい塩」にこだわり、より美味しく味わってもらうための工夫を凝らしています。
インパクト重視だった「またいち」の命名
ところで、平川さんは、社名に祖父の新三郎さん、そして塩の商品名に父親の又一さんのお名前を使われています。さぞかしお二人への思い入れがあっての命名と思いきや、「最初はインパクト重視でつけたんですよ(笑)」とのこと。
ですが、「美味しいものを美味しいと感じられる味覚に育ててくれたのは両親であり、これまで代々伝わってきたものがあるからだ」ということに気づいてからは、塩の名前や社名がもっと深い意味を持つものに変わってきたと言います。それは、お子さんとの関わりのなかで気づいたことでもあるそうです。
「これ美味しいよ」自分が美味しいと思うものに出会ったとき、親であれば自然と子どもにそう言いながら食べさせます。子どもは「これは美味しいものなんだ」と刷り込まれながら育つわけで、親が何を“美味しいもの”として子どもに食べさせるのかで、味覚は大きく変わってきます。
「いまの自分があるのは、ちゃんとしたものを食べさせてくれていた親のおかげです」と語る平川さん。
綿々と受け継がれてきた「舌」を、いまはお子さんたちに少しずつ伝えていっているそう。しかしそれは、「食育」といった堅苦しいものではなく、「美味しいものを子どもに食べさせたいのは、(生物としての)本能のようなもの」、と平川さんは笑います。
さらに糸島での子育てについてお聞きしたところ、「子どもという、なんとも言えない存在と対峙するとき、心が穏やかでフラットでいられる場所で育てられていることは大きいでしょうね」とのこと。
工房の柱には、お子さんたちの身長が刻まれており、平川さんご夫妻の愛情と糸島の豊かな自然のもと、子どもたちがのびのびと成長していることがうかがえました。
慢心しないために生まれた「花塩プリン」
近年糸島への注目度が上がり、平川さんの「工房とったん」にも毎日たくさんの人が訪れています。その大多数のお目当てといえば、冒頭でもお話しした「花塩プリン」! とろっとろのカスタードにカリッとした花塩をかけたあっさりしたカラメルソースが絶妙で、日に2000個売れることもザラだとか。
他にも「塩ジンジャー」と名づけられたほんのり塩味の大人のためのジンジャーエールや、「塩釜ゆで玉子」(秋〜春のみ販売)などが海を目前にした絶好のロケーションで味わえます。
こういった、ある意味肩の力を抜いたものをつくると、僕らも仕事がしやすいんです。
花塩プリンをつくられたときのことをうかがうと、こんな答えが返ってきました。
高級料亭に卸すような、ある意味硬い路線の塩ばかりつくって慢心していたらしょうがないですよね。お客様がたくさん来てくださっているいまだからこそ、自信過剰にならないように気をつけています。
ここを選んだのは、やっぱりここの海水を美味しいと思ったからなんですが、そこは維持しながらも、より進化できればな、と思っています。チョコチョコいろいろな種類の塩を増やしていっているのですが、それはより塩で楽しんでもらえるようにとの思いからです。
せっかく素材とも言えない素材である海水からお塩をつくっていますので、その先の、塩だけではないものをつくって美味しいと言っていただけるように考えています。
工房に来られるお客様からの声を丹念に拾い上げ、現在では「工房とったん」のみならず、カフェや食事処、直売店の経営にも乗り出しました。必要とされることに応えていく。その繰り返しがいまにつながっています。
こういった次々に変化を起こし、また変化が起こっていく現在の状況を平川さんは楽しんでいるようです。
予想を超えていくから面白いんでしょうね。あまり振り返ったり立ち返ることはないですが、やはりベストな方向に行きたいと努力して、それをチョイスして進んできた甲斐があったな、とは思います。これからも一歩一歩進化をさせていくし、だからこそ未来はわからないし面白くなっていくんでしょう。
そして、先を面白くしていくためのコツコツした仕事があります。やはりそこを面倒臭がったら終わってしまいます。あえて踏み込んで、これからも面倒臭い仕事をやっていこうかなあと思いますね。
思わず何度も足を運びたくなる場所。非日常でありながら、日常に溶け込む場所を、平川さんは糸島のとったんにつくってこられました。それは、とても特別なことであると同時に、日々のコツコツとした暮らしの積み重ねがなくては、成し遂げられなかったことだと強く感じました。
ゆるやかに変化し続けてきた先で、“ほしい未来”を手繰り寄せてきた平川さん。お客様たちの美味しい笑顔のために、今日も釜に向かい続けています。
私たちは、ともすると日常にある「変化」や「違和感」を見逃しがちです。人生に劇的な変化というものはなかなかなく、いつの間にか、徐々に変わっていっている、ということが多いのではないでしょうか。
平川さんにとっては「塩の味」が、料理人としての日常を変えたきっかけでした。国策だったわけですから、主体的な変化というより、とても受動的なものだったはずですよね。
自分にとっての“ほしい未来”には、きっかけ探しのアンテナを少しだけ立ててみることで、ゆっくりと、でも確実に近づいていくことができる。今回、平川さんの17年の歩みを取材させていただき、そんな勇気をいただきました。
自分の記憶のとったんにある“小さな違和感”、探してみませんか? 振り返ってみれば、それが大きな人生の転機へとつながっていくかもしれませんよ。
(Text: 池田愛子)