都会を離れて、自然と暮らす生活に憧れる。綺麗な水で育ったおいしいごはんを食べて、家族と健康的に。だから山や海の広がる地域に引っ越してみたいけど、そこにはどんな仕事があるんだろう? 本当に生計を立てていけるのかな…。
そんな疑問を抱いているなら、実際に、暮らしていけるのかどうか、自然に囲まれる環境に住んで試してみてはいかがでしょうか。2017年7月から参加受付を開始した、北海道厚真町と岡山県西粟倉村で実施する、「ローカルライフラボ」は、地域に入って自分に合った暮らし方と働き方を探せるプログラムです。
このラボでは、厚真町なら3年、西粟倉村なら1年、研究生として過ごす猶予が得られて、その間に地域の中でどんな暮らし方や働き方ができるのか自分の可能性を考えることができます。そして、起業してもいいし、就職してもいいし、ダメなら元の生活に戻ってもいいという、自分に嘘をつかないで身の振り方を決められる自由も用意されています。
ダメなら戻っていいなんて…そんな迷った考えで、本当に新しい人生が歩めるの? ところが「私なんかに実現できるのかなぁ」という弱気な人にこそ、地域で生きていける可能性が広がっているのだとか。ローカルライフラボを立ち上げた、エーゼロ株式会社の代表・牧大介さんはこんな「弱虫仮説」を立てています。
牧さん これからは弱虫こそが地域をつくるんじゃないかと思っているんです。弱虫というのは、やりたいことはあるけれど迷っている人、次のステージに行くことは決めたけど、次の一手がわからない人。人生を真剣に考えているから、挑戦しようとするから悩む。臆病になる。そんな人です。
そういう人が移住して地域の可能性を見つけていく。ゆったりした時間の中で自分の可能性を見出していく。その結果、起業する人は起業するし、しない人にも、大事な役割がある。そんな関係性の中から本当の豊かな地域が生まれるのではないか?
連載「弱虫が地域をつくる」では、そんな仮説を持って研究生を募集しているローカルライフラボが、どんな人にぴったりなプログラムなのか、開催地に暮らす人を通じて紹介します。今回ご登場いただくのは、西粟倉村の田邊亜希子さんです。
「このラボが気になる人に、どうしても亜希子さんの生き方を知ってほしかった」というエーゼロの林春野さん。推薦理由を聞くと、「自分らしさ全開ですごしているから」なんだとか。
林さん 亜希子さんには、家族と健康を大事にしたいって気持ちがあります。それが大事にできるなら、あとはどんなやり方で暮らしていてもいいよねっていう考え方や、まずは住んでからそこで何ができるのか考えていこうという生き方が素敵です。
どうしたら亜希子さんのように自分らしく生きられるのか、1度も聞いたことがありませんでした。だから、今までどんな人生を送っていて、どんなことをしてきたのか、ラボに興味がある人と一緒に亜希子さんの話を聞いてみたかったんです。
それでは、亜希子さんの人生をたどっていきましょう!
1979年10月13日生まれ。神奈川県小田原市出身。地域おこし協力隊をしつつ、木工とアイロンの工房で家具づくりに精を出す夫を支えながら、オンラインのカスタマーサポート業とヨガ教室の先生、家事をこなす2児の母。2015年、西粟倉村に移住し、現在はローカルベンチャースクールに夫の通訳係として参加中
サラリーマン、サラリーマン!
東京都大田区で暮らしていた田邊家は、長男が小児喘息を患ったため、自然豊かな小田原市に引っ越します。そこで亜希子さんは生まれました。
亜希子さん 子どもの頃は、運動も好きじゃないし、やることも中途半端。部活だって、友だちが入っているからやっておこうかなぁという感じで。小、中学校を早く卒業したい、外に出たいって感じていました。自己評価が低くて、自分の居場所を見つけられなかったからです。
そんな私の夢は温かい家族をつくることでした。恥ずかしくて、誰にも言えなかったけど、夢でした。
歯科技工士の父は東京勤務。小田原市から新幹線通勤で、家に帰ってこない日が増えていました。亜希子さんが小学生になると、父が不在の期間は長くなっていきます。1ヶ月…2ヶ月…3ヶ月…。次第に母と過ごす時間が増えていきました。
父の収入は安定せず、お金に困る母の姿を見て育ったそうです。
亜希子さん お母さんからは、よく「サラリーマンと結婚すべきよ」と言われていたような印象が残っています。だからか私の頭は「サラリーマンにならなければ!」みたいな考えでいっぱい。絵を習っていて、とっても好きだったけど、でもお金稼げないじゃんって、思っていました。
短大時代にアメリカへ旅行したときに「これだ!」と海外の面白さを実感した亜希子さんは、自分も留学しようと決めて、サラリーマンになって貯金しはじめます。ところが?
亜希子さん 留学費用って、すっごい高いんですね。なかなか貯まらないことに途中で気づいて、そもそも勉強したいわけじゃないから、留学じゃなくてもいいんじゃないかなぁって思うようになりました。その時、ワーキングホリデーを知って、退職してオーストラリアに行こうと決めました。
子どもの頃から感じている「外に出たい」という亜希子さんの気持ちは、22歳にして海の向こうに広がります。それは同時に、どこかにあるかもしれない自分の居場所を探す旅の幕開けだったのかもしれません。
インドで、つるん!
22歳から2年間で、亜希子さんは2度のワーキングホリデーを経験し、バックパッカーにもなってアジア諸国をめぐりました。憧れのインドにはまだ行けなかったけれど、24歳の時に旅をやりきった気持ちで帰国し、外資系のIT企業に勤めます。
日中は仕事のできる人たちと働く楽しさを感じ、退勤後は渋谷辺りで毎晩終電まで遊ぶ充実した生活。ところが3年も経つと、肌は荒れ、むくみが取れなくなりました。
「疲れたから、田舎で暮らそうかなぁー」
そこで、一緒に夜遊びしていた友だちを誘って、憧れのまま行けずにいたインドに行ってみることにします。
亜希子さん インドがすごかったんですよ。日本なら、ああしたい、こうしたいってプランをすぐ行動に移せます。でもインドでは何もできない。インターネットはつながらない。道路はふさがっている。電気は通ってない。1日のプランを立てたところで、何もできずに終わる日はたくさんありました。
自分の思い通りにならない環境や自然に働く大きな力の中に身を置くことで、だんだんと目の前のことに集中していった亜希子さんの意識は、自分自身の内側の、奥の奥のほうへと向かっていきました。
亜希子さん 子どもの頃からの家族の悩みや、自分の中でつくっていた外向きの“顔”みたいな何層もの膜を、1枚ずつ、つるん、つるん、って脱いでいったんです。
ちょうどリファと出会ったのもこの時でした。彼にはじめて会った時、「私はまだ赤ちゃんなのよ」って、伝えたんですよ。
のちに夫になるリファさんと出会ったインドには、7ヶ月滞在しました。ヨガのようなインドならではの体験をしつつも、この時の亜希子さんは、インドとは関係なくても、自分にとっては大きい経験になる2つのことに取り組んでいます。
亜希子さん お父さんやお母さんに手紙を書きました。実は子どもの頃にこんなことが言えなかったんだって。勝手に吐き出して、返事も期待せずに、送りつけたんです。
それと、自分のことを子ども時代から思い出すノートもつくりました。小さい頃から思い出すものをすべて書き出し、つながりをマップにしてみたりしました。
手紙やノートを書いてみると、そんなすべての経験があったから、今こうしてリファに会うことができたんだって気づけたんです。私の中で、全部必要なプロセスだったんだなって飲み込むことができて、今に集中できるようになりました。
「両親に手紙を送ること」と「ノートで人生を振り返ること」によって、過去の憑き物を脱ぎ去った亜希子さん。心から自分らしくしていいんだと思えるようになり、再び帰国します。しかし、リファさんとの生活をはじめるために28歳で移り住んだイスラエルで、脱いだはずの「顔」をまた被ってしまうのでした…。
ヘイ・ベイビー!
28歳の亜希子さんが見たイスラエルは、とても厳しい国でした。仕事をするにしても、雇われているだけでは搾取される。自分で交渉しないと日本のようにちゃんと給与が支払われません。
また、言葉も使えません。飛び交うヘブライ語は理解できませんし、ちょっとした気持ちさえ誰にも伝わらない。もちろん、日本食は食べられないし、食習慣も異なる。水も合わなくて、髪が抜けてしまうようなことも体験した日々。
お国柄、気性の荒い運転手が多く、怖くて車の運転さえできなかった亜希子さんにとって、イスラエルは外に向かって身動きが取りにくい場所で、これまでに自分が築いてきたものがゼロになってしまうような感覚に陥りました。
亜希子さん 自分に、力がなくなっちゃった感じがしていきました。せっかくインドで、つるんと脱いだのに、どんどん気持ちが落ちていって鬱になってしまって。“顔”を脱いで素の自分になったら、ダメな自分ばかり見つけてしまって、ネガティブになっていきました。
インドの時とは異なり、この時の亜希子さんは自分のマイナス面にばかり意識が向いてしまい、自信をなくしていってしまいました。
そんな亜希子さんは、自信を取り戻すまでにさまざまな体験をしました。
亜希子さん 特に29歳の時は、一旦、日本に戻って、友人や家族と会う時間をつくりました。自分がつくってきた関係や環境に身を置いてみて、もう一度、自分の生きてきた道を受け入れるようにしたんです。
その後、帰国後に亜希子さんはもう1度インドで体験したヨガに取り組んでみます。
亜希子さん ヨガをしたら、体が元気になるだけでなく、心もどんどん元気になっていきました。あの頃の私を助けてくれたのは、ヨガです。
そして、人生を楽しむ時間を持てるようになった32歳の時、第一子・長男の桜守くんを出産します。
亜希子さん 出産すると、女性の体って変わるんです。体が変わると、心も変わったんですね。本当に自分の体とつながれました。出産ってすごいことでした。
この出産をきっかけに、体が変化すると心も変化することを深く実感した亜希子さんは、ヨガを教える側になりたいと思いはじめます。
そんなやりたいことが見えてきた時、不思議とタイミングが重なりました。自宅の前にあった木々が伐られてしまったのです。お気に入りの風景だった木々がなくなると、隣の工場が丸見えに。家にいても気分が悪くなってしまったことをいいタイミングだと考えて、亜希子さんは、「インドでヨガをもっと学びたい!」と声に出すことができました。
亜希子さん リファのお母さんには、「ついでに日本を旅行してくる」と言ったんです。すると、「そのまま日本に住むの?」って聞かれました。そんな気は全然なかったんですけど、いいアイデアだなって思って。それでインドの後、日本に戻ることを決めました。
半年間、インドでヨガを学んだのち、亜希子さんは3度目の帰国を果たします。
ギブ・ミー・ジョブ!
帰国から数ヶ月が経ち、「綺麗な海が近くにある山に住みたい」と亜希子さんは条件をしぼって居住地を探していました。この際だから、じっくり自分たちの居場所を探そうと、リファさんと一緒に長男・桜守くんを連れて、3ヶ月間の自動車旅行を計画。出発する前日にたまたまテレビで「西粟倉・森の学校」が特集されていたこともあり、中国・九州地方を巡って、西粟倉村にも寄ってみることにします。
亜希子さん 鳥取に住む友だちに薦められて、智頭町に行ってみたり、ほかの町に寄ってみたりしても、気持ちが乗らなくて、そんな時に限って道を間違えてしまい、予定になかった場所にも着いてしまって…。もう3ヶ月も車で巡っているのに、全然住みたいところが見つからなくて、私はストレスを感じていきました。
そんな時、リファは「焦ったってしょうがないんだよ。来るものは来るからね」って言ってくれて。支えられながら、帰り道で西粟倉に寄ったんですよ。
予算も尽きかけ、最後にたどり着いた西粟倉村で、亜希子さんたちが最初に訪ねたのは村役場でした。自動車旅行も終盤で、思いつくところには当たって回ろうと思ってのことでした。
亜希子さん 「仕事、ありますか?」って聞いたんです。そうしたら、役場の人の対応が面白くて、それで、西粟倉村に魅力を感じました。
ふつう、突然そんなこと聞かれたら困りますよね。役場の課長さんも「困ったなぁ…」って顔をしていました。でも、誰かに電話してくれたんですよ。それで、「ちょっと待っていられる?」って聞かれて、連絡先を伝えた後、役場を出て道の駅で待つことにしました。
しばらくしたら電話が鳴って、「明日、面接だから」って言われたんですね。それがテレビで見ていた「森の学校」の所長さんとの面接だったんですよ。
翌日、面接を受けた亜希子さんとリファさんは、働きながら、リファさんが好きな木と鉄の家具づくりをしていきたいと、希望を伝えます。すると、亜希子さんたちの希望を叶えながら暮らしをつくっていけることや、住居や保育園の準備も手伝ってくれるという返事をくれました。それで、亜希子さんたちは西粟倉村に移住することを決めます。
その時、「移住してきたら、うちの社長に相談してみなよ」と伝えられて、そうして会ったのがこの記事で最初に「弱虫仮説」を話してくれたエーゼロの牧さんでした。
今でこそ、ローカルライフラボや、西粟倉村での創業を支援する「ローカルベンチャースクール」などに取り組むエーゼロですが、当時はまだローカルベンチャースクールを準備中の時期。牧さんは、亜希子さんたちに「これから起業支援をはじめる予定なんですよ」と構想を伝え、正式なスタートを切る前だけど力になりたいという気持ちを告げます。
こうして亜希子さんたちの西粟倉村での暮らしがはじまりました。
WEST-AWAKURA
亜希子さん一家は今、西粟倉村での暮らしを自分たちらしくつくっている最中です。リファさんは、これからローカルライフラボの研究生になる人たちと同じように、地域おこし協力隊として働きつつ、木と鉄の家具をつくる自分の工房で、好きな活動に取り組んでいます。
一方で亜希子さんは、海外企業サービスの日本人向けカスタマーサポートをしたり、西粟倉村の人たちが参加するヨガ教室の先生をしていたりします。
それは、「サラリーマンにならなくちゃ」と、こり固まっていた子どもの頃とは違って、自由に働き方を選んでいる証です。そして、夜遊びで身体が疲れてしまった頃に働いていた外資系IT企業での経験や、イスラエルで精神が参ってしまった時に取り入れたヨガの経験のように、これまでに身につけてきたことを素直に使った働き方でもあります。
亜希子さん つるんと脱げている時も、“顔”を被っちゃっている時もありました。でもそんな浮き沈みがあったから、今があるんですよね。長かったけど、これまでの経験が今を生きる力につながっています。西粟倉村で暮らしている中、これで良かったんだなって感じています。
そして今、亜希子さんたち家族には第二子・長女の弥亜ちゃんもいます。より一層、母業に力が入り、子どもの頃に夢を見た温かい家族をつくることに向かって、楽しく暮らしています。
亜希子さん 布団の上にみんなでゴロンとする時間も、きっと記憶に残るから。そんな時間を持つことを、大切にしています。
やっぱり、私にとって家族と健康は一番大切なものです。
22歳で海外に出てから15年が過ぎ、バックパッカーとして巡ったアジア諸国を含めて、世界35カ国を放浪した亜希子さんは家族という居場所を見つけて、今、一緒に西粟倉村に住んでいます。自分の内側の、奥の奥のほうと向き合い続けた亜希子さんにとって、この15年は自分らしい居場所を探すための、尊い猶予期間でもあったのかもしれません。
亜希子さん 知らず知らず被ってしまう“顔”を脱いで、自分らしく暮らしていくためには、小さなサインを見逃さないように、今やることを全部横に置いておける時間が大切なんだと思います。
亜希子さんのように、小さなサインを感じながら自分の内側と向き合う尊い猶予期間を、今度はあなたがローカルライフラボで過ごしてみませんか? 自然に囲まれて、おいしく健康的に生活できる地域は、きっと、あなたのほしい暮らしをつくる後押しになってくれるから。亜希子さんたちが受け入れられたように、あなたの力になってくれる人たちが待っていますよ。
– INFORMATION –
ローカルライフラボ
幸せを探求する人生研究所「ローカルライフラボ」。岡山県西粟倉村と北海道厚真町で参加者募集中です。
http://throughme.jp/lll/