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廃れていくものの中にも、これからの時代に必要なものがある。氷見の最後の船大工・番匠光昭さんが託す、未来のあなたへのタイムカプセル

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この記事はグリーンズで発信したい思いがあるライター、ブロガー、研究者の方々からのご寄稿を、そのままの内容で掲載しています。寄稿にご興味のある方はこちらをご覧ください。また、この記事はgreenz.jpライター磯木淳寛さんによる「ライター・イン・レジデンス」の一環で制作された記事です。詳しくは記事の最後をご覧ください。

3月某日早朝。霜が降りるほどにキーンと冷たい空気に、春の明るい日差しが射す。

背景には黒いシルエットの立山連邦。朝焼け色の穏やかな海の水面を滑るように、一艘の漁船が港へ入ってきた。この季節の氷見の港の風景。

今回取材させていただいた番匠光昭さん(70歳)は、漁船をつくる造船所の三代目。持ってきてくれた手作りの木造船模型は「この日が初お披露目」とのことでしたが、ちょうど、船の誕生を祝う進水式にもっとも縁起が良いという“友引”の日でした。番匠さんにとっては模型であっても、技術や思いがつまった一艘の船なのです。

高度経済成長という時代の中で新しい技術が導入され、船造りは「職人の仕事」から「工場の仕事」へ。やがて氷見の船大工が姿を消していく中でも、番匠さんは失われてゆくものの存在に気付き、技術や道具を守ってきました。今では富山県でほぼ唯一の船大工となりましたが、これからの時代を生き抜いていく私たちのために、昔の知恵や技術を残してくれています。

船大工は「継がされるもの」から「守りたいもの」へ

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富山県でほぼ唯一の船大工、番匠光昭さん。

好きで船造りを始めたわけじゃあないんだよ。

開口一番、番匠さんから意外な言葉がこぼれます。当時は本人の意志とは関係なく「子どもは家を継ぐもの」と決められていた時代。また、番匠さんは跡取りとして違う土地から来た養子だったため、その言葉にこめられた思いはなおさらだったに違いありません。

「大工に学問はいらん」と中学卒業とともに家業を継がされ、父である親方から船大工の技術を厳しく叩き込まれましたといいます。

やがて船大工を始めて7~8年経つと、FRP(繊維強化プラスチック)という新素材の船が入ってきます。その頃の番匠さんは親方への反発心もあり、いち早く新しい技術を学ぼうと単身福井へ。FRPで造る船工場で、船大工ではなく一工員として働くようになりました。
 
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模型には進水式のときにつける竹と大漁旗も。「図面に出ていない線もこれを見ればわかる」という程の精密さ。

FRP樹脂の船を造ることは体力的にもきつかったそうですが、生活を守ることに精いっぱいで気にする暇はありません。その後、結婚して子どもが生まれ、工場長にならないかという話もあったそうですが、オイルショックという時代の流れと、「家を継ぐため帰って来い」という父の強い言葉に背中を押され、29歳で氷見に戻ります。

しかし、頑丈だった父もガンには勝てず、番匠さんが帰ってきた4年後に死去。その後父の会社を閉め、新しく「番匠FRP造船」を設立します。家族の生活を支えるために、造船業で中心となっていたFRPの仕事を続けましたが、その頃から「木造船を造っていた頃の方が、職人らしくて良かったなぁ」という、木造船への自分の気持ちに気づき始めたのです。

プラスチックは穴が開いたら台無しだ。物を大事にするという、戦後の食糧難の時代に育ったから、安く物を買って、少し壊れただけで捨てていくことをもったいないなぁ、と思ってね。物を大切に使った昔が懐かしくなってきた。

そんな思いから、周りに船大工の職人が減っていく中でも、番匠さんは船大工の道具の手入れや材料の管理を続けていったのです。

「氷見市立博物館」との出会いから始まる「木造船技術の記録」

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番匠さんが仲間と設立した「和船建造技術を後世に伝える会」で作成した冊子。

そんな1980年頃のある日、氷見に博物館が設置されることになり、立ち上げに関わった小境卓治さんから「博物館に木造船を展示したい」と声がかかります。

これが、その後も番匠さんが船大工として木造船に関わり続けるきっかけとなりました。ふたりはすでに少なくなっていた木造船や漁具を探し出し、資料一つひとつの背景にある歴史をひも解いていったといいます。

面白いことに、古い木造船を集めて修理するうちに、番匠家の初代のじいさんが造った船を発見したこともありました。とにかく木造船をなんとかしたいという気持ちで約30艘を残しましたね。

続いて、2003年にはふたりは学芸員の廣瀬直樹さんと出会います。番匠さんいわく「息子くらいの若さだけど、文章力があり、図面作成が得意な頼もしい存在」。

活動の仲間に彼も加わり 「和船建造技術を後世に伝える会」を設立。昔、船大工をしていた先輩たちから技術を聞き取り、それを学芸員の方々が文や図面として記録していく活動もおこなうようになりました。

活動の集大成となったのが2015年、番匠さんらが集めた2853点の資料群の「国の登録有形民俗文化財」への登録でした。その一部は氷見市立博物館にも展示されています。
 

木造船が「アート」と出会う

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番匠さんが30年ぶりに作った木造の小船をバックに。手にしているのは模型の木造船。

このころから、番匠さんと木造船の物語はどんどん加速していきます。

博物館での活動を耳にした氷見の若い網元から「今まで話でしか聞いたことがないので、ぜひ一度木造船に乗ってみたい」と依頼を受け、番匠さんは30年ぶりに木造の小船を造ることになったのです。

さらにその小船をアートイベントで使ったのが、氷見の魅力をアートで伝える現在のアートNPO「ヒミング」(※当時は「氷見クリック」)でした。

ヒミングでは、当時1艘も現役でなかった氷見の天馬船(※定置網漁業で使用した木造船)を復活させるアートプロジェクトも始動。以来、番匠さんはプロジェクトを通して2年間で2艘の天馬船を制作することに。

また、ヒミングでのアートプロジェクトは天馬船を完成させただけでは終わりませんでした。その後は天馬船を実際に海に浮かべて行う体験を企画し、櫓(ろ)で漕いでタイムを競ったり、お花見の船として使ったりと、より多くの人に知ってもらうこととなりました。
 
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天馬船は「ひみ漁業交流館・魚々座(ととざ)」に展示され、誰でも乗ったり触ったりすることができます。新しい船が海に入っていくときは「娘を嫁に送り出す気持ち」という。

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現在氷見で毎年行われている、ゆったりとお花見をしながら天馬船で遊覧する「はる さくら てんません」の様子。漕いでいるのはもちろん番匠さん。

アートプロジェクトで新しく造った天馬船が海に入っていくのを見たとき、展示だけやと思っとったけど、まだ使い道あるな、木造船もまだ死んでないな、と感じてとても楽しくなった。

と、番匠さんは顔をほころばせます。

ヒミングの「残すだけでは終わらせない」「すべてを感じたい」というアーティスト気質からくる熱い思いが、番匠さんに「海を走る、鼓動する天馬船を見せる」という奇跡を生んだのではないでしょうか。

ワクワクから生まれる「新しい夢」

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大祭が行われるという唐島。早朝に活気あるセリが行われる港から300mほど。

また、古希をむかえた番匠さんは、新たな夢も思い描いています。

自分たちが収集した資料が文化財に登録されたし、記録として残すのは一通り終わったかな。あとの夢は…。

少し言いよどんだ後、番匠さんはつぶやきました。

春に唐島まで船で行くお祭りがあって、それに木造和船を使えたらなぁ。

唐島は氷見の海岸からほど近くにある無人島。番匠さんが子どものころに一人で小舟を漕いで行ったという思い出の島では、1年に一度の大祭の日に、住職や各町内の宮総代が弁財天像とともに大漁旗を掲げた船で島に渡るのです。

お祭りは地元の町内の人が昔から、観光ではなく地域の神事として神聖に守ってきたもの。だから地元の人の気持ちは大切にしなきゃいけないけれど、お祭りのテント船の後ろにいくつかの木造船がついてくような、そんな光景を見たいなぁ。

それを聞いた私は“水を得たテント船”が唐島に向かって隊をつくり水面を走っていく、そんな姿が頭に浮かびました。
 
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魚々座に展示された「テント船」。親子で体感することができる。

また、10年ほど前から木造船のことをヒミングがインターネットで発信し始めたところ、船を通しての出会いがどんどん広がり、たくさんの問い合わせが番匠さんの元に届くようになったといいます。こうして、気づけば今では模型も含めて年に1~2艘ずつ木造船を制作するようになったのだそう。

“船大工に戻りたい”という、叶わないと思っていた願いが、こんな形で実現したのです。

だから、今は楽しくてならんよ。こんな楽しみを叩き込んでくれた父の悪口を散々言ってきたけど、今となっては下手に足を向けて寝られんよ。

番匠さんに照れくさそうな笑顔があふれました。

残したいのは、全てに意味のあった「昔の知恵」

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「すべて循環するようにできていた」と話をする番匠さん。写真にはないが、昔の定置網のおもりは波に流されても自然に還り、小さな魚の住処となる漁礁の役割も担った。

昔の氷見には、魚を採る漁師がいたからこそ漁師を乗せる船を造るために船大工がいて、木を利用する船大工がいたからこそ地域の山の木を管理する仕事があったそう。素材を地域で循環させることによって、山、里、海にそれぞれの仕事が成り立っていたのです。その循環を絶ったのは、私たちが求めた便利さ。

しかし、便利さを捨て、すべて昔の生活へと回帰するわけにもいきません。では、私たちは今、何を大切にしていけば良いのでしょうか。

驚くかもしれないけど、木造船の技術は宇宙船にも応用されているんです。宇宙空間で太陽エネルギーを効率よく受け取るために参考になったのは、風を受けて海原を進む帆船の技術。材料やエネルギーの種類は変わっても、原理や技術は普遍的なものがあるんです。

船大工の職業は今の時代に、受け継げるものではないけれど、その技術や知恵だけは消え去らないように、いつでも昔をひも解けるように残したい。廃れていくものの中にも、これからの時代に必要なものがあるから。

古くて時代遅れだと思われているものの中にも、最先端の研究が参考にできる技術が潜む。番匠さんが木造船の記録を集め続けたのはそんな思いでした。

氷見市立博物館にある、先人の知恵や技術が詰まった資料群と、ひみ漁業交流館・魚々座に展示され、ヒミングのアートイベントでも活用される木造船は、そんな思いの詰まった番匠さんからのタイムカプセル。

氷見で、昔をひも解いて、これからの時代を生き抜く技術を見つけてみませんか。

(Text:高橋直子, Photo:笹倉奈津美,高橋直子,磯木淳寛)

– INFORMATION –

 「ローカルライト‐地域の物語を編む4日間」
この記事は、greenz.jpライター磯木淳寛による、ライター・イン・レジデンス「ローカルライト-地域の物語を編む4日間」の講座の一環として制作されました。このプログラムは、【未来の書き手の感性を育み、「善いことば」を増やすことで、地域と社会に貢献する】ことを目的として、0円からのドネーションでおこなっています。詳細はこちらよりご覧下さい→http://isokiatsuhiro.com/WRITER_IN_RESIDENCE.html