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100年後に柏原のワイナリーを新しい世界遺産にしたいんや! 「カタシモワイナリー」高井利洋さんに聞く、ブドウ畑とまちづくり

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特集「マイプロSHOWCASE関西編」は、「関西をもっと元気に!」をテーマに、関西を拠点に活躍するソーシャルデザインの担い手を紹介していく、大阪ガスとの共同企画です。

フランスのボルドーやブルゴーニュはワインの産地として世界中に知れ渡っていますが、日本のワインどころと言えばどこでしょうか? おそらく「甲州」や「北海道」が真っ先に思い当たりますよね。

じつは、驚いたことに100年前は「大阪が日本一のブドウの産地」であり、「ブドウづくりは大阪の一大産業」という時代もあったのです。

なかでも、大阪市内まで電車で40分ほどの郊外にある柏原市は、一面のブドウ畑が広がっていた地域でした。その地で4代にわたってワイナリーを営み、柏原のまちを活性させようと動きだしているのが、今回ご紹介する「カタシモワイナリー」。代表の高井利洋さんに訪ねてブドウ畑をめざしました。
 
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高井利洋(たかい・としひろ)
「カタシモワイナリー」代表。1914年創業のワイナリーの4代目。社長就任後に「河内ワイン」「柏原ワイン」などの地域ブランドを立ち上げ、日本初のグラッパを製造販売。大阪ワイナリー協会を設立して後進の育成にも力を注ぐ。平成25年には,経済産業省による『がんばる中小企業・小規模事業者300社』にも選出。

古くからブドウが伝わった柏原のまちで創業102年

日本にブドウが伝来した時期には諸説ありますが、関西では滋賀県にある遺跡 紫香楽宮跡(しがらきのみやあと)からまとまったブドウ種が見つかり、正倉院の宝物にもワイングラスがあるなど、日本でも早い時期から伝わっていたと考えられています。

また、柏原市には古寺の瓦にブドウの文様が刻まれ、300年前から家の「日よけ棚」として庭にブドウの木が植えられていました。明治からはブドウの栽培が盛んになり、大正から昭和にかけて生食用のデラウェアを中心に栽培面積全国一位を誇っていた時代もありました。最盛期には119もの醸造所が建ち並んでいたほどです。
 
mukashi_no_kashiharabudoubatake「カタシモワイナリー」が資料として集めた昭和初期の柏原のブドウ畑

ところが、外国ワインや甲州ワインに押されるかたちで少しずつ廃業が進み現在、柏原市でワイナリーを営むのは「カタシモワイナリー」1社になっています。ブドウ農家も軒並み70歳以上と、高齢化が深刻で代々耕作してきた土地を手放し戸建て住宅などに変わっていっています。

僕が子どもの頃は学校に行くまで道の両脇がずーとブドウ畑やったんやで。

と、かつての風景を教えてくれた高井さん。「カタシモワイナリー」という名前は会社がある地域の「堅下」に由来します。創業者・高井作次郎が果樹園のかたわら、ワインづくりに着手したのが1914年のことでした。実に102年の歴史がある醸造所です。

高井さんは「カタシモワイナリー」の4代目。大学を卒業後に神戸の会社に就職した高井さんは家業を継ぐつもりはなかったそうです。

子どもの頃から手伝っていたブドウ畑の農作業は、暑いし汚れるし、気を失うくらいしんどい。家業とはいえ自分にはできないと思っていました。ところが、長年ブドウ畑を守ってきた祖父が亡くなったことが高井さんの転機になりました。
 
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これだけ都市の近郊で良質なワインがつくられるのは珍しいそうです。

跡を継ぐかどうかは、ごっつ悩んだね。当時で醸造所は3軒くらいに減っていて、いよいよぶどう畑がなくなってしまうと思いました。でもやっぱり、この柏原のブドウ畑の景色を無くしたらあかんと思ったんです。

当時はブドウ農家では採算が合わなくなり、高井家の畑は一部が釣り堀に変わっていました。周辺の農家もほとんどが観光農園に。3代目である父は息子である利洋さんが継がないなら「畑を宅地にしてマンションでも建てようか」と諦めていました。

そんな折に利洋さんが後継者になると宣言したものだから、あまりの嬉しさに耕作放棄していた600坪の雑木林を元の畑に戻したのだそうです。

しかし、継ぐと言っても険しい道のりです。高井さんと両親とパートさんの5人で朝5時から畑に出て、昼から夕方にかけてワインを売り歩く毎日でした。地域ブランドが今ほど確立されていない時代ですから、どこもカタシモの商品を置いてくれません。当然毎月赤字。しかたなしに友達を訪ねて何度も買ってもらったりしていました。

売上げを助けてくれたのはおやじがつくっていた「冷やしあめ」やね。これがけっこう売れてくれた。あと一升瓶でシャンパンもつくっていてクリスマスシーズンはそこそこ売れました。でも私の月給は12万円くらいだったかな。

釣り堀のところに酒屋を出していましたけど、自分のワインは2本しか置いてなかったね。子どもも3人おったし、今みたいに、まちづくりとか考える暇がなかったし、その日暮らしやな。

はじめての地域ブランド「河内ワイン」はお芝居から

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市政30周年に誕生した「柏原ワイン」

ただ、地域のワインが全く注目されなかったわけでありませんでした。1976年には松竹の劇作家・土井行夫さんが大阪のワインの歴史に大変興味を持ち、「河内ワイン」という題材で脚本を書きました。

「河内ワイン」は、山城新伍の主演で1ヶ月間大阪道頓堀中座にて上演。その際に、「カタシモワイナリー」は「河内ワイン」という名称のワインを販売します。お芝居をきっかけにして一気に売上げが伸びることはありませんでしたが、これが最初の地域ブランドになり、1988年には柏原市政30周年を記念した「柏原ワイン」を販売。2001年には日本初の「グラッパ」の製造につながっていきました。

2002年からは自社農園の全てで有機肥料栽培に取り組み、大阪のワインとして徐々に口コミで評判が広がっていきました。さらに、ネット通販や宅急便のサービス向上といった流通の変化も後押しとなって売上げを伸ばしています。

高井さんも醸造技術を磨き、モンドセレクションや農林水産大臣賞を受賞。工場や畑を使ったイベントを企画するなどの営業努力も重ね、固定ファンを増やしていきました。
 
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大阪道頓堀中座で上演されたお芝居「河内ワイン」

毎年、ブドウ畑を地域に大開放!地元とつくるワイン祭り

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「おもろいやん!カタシモワイン祭り」で賑わう畑

「カタシモワイナリー」は100周年を迎えた2015年から、広大な畑を開放して20店以上もの地元のレストランが出店するお祭りを開催しています。名付けて「おもろいやん!カタシモワイン祭り」。なんと4000名以上のお客さんで賑わうそうです。

「ブドウをつかったエシカル手づくりコスメ体験」「ブドウ畑の謎解きゲーム」「直売所での音楽ライブ」「野菜マルシェ」「地元太平寺地区の街並みウォーキング」などイベントとワインとお料理が盛りだくさん! なんとも楽しそうな、地域ぐるみの名物イベントです。

イベントができるのも、この大阪のブドウの歴史があったからこそ、先祖があったからこそ、おやじが畑を残してくれたこと、地域にも古民家が残って伝統文化が柏原にあったということ。最後に残った私は頑張らなあかんのとちゃうんかな。自分だけでやったんじゃなくて、みんなの気持ちがあったからこそできたんです。

もともとは、売れないワインをどうしたら飲んでもらえるか苦慮したなかで、1990年に畑と工場を見てもらう見学会を始めたことがきっかけでした。チラシを配り参加者を集め文化財でもある古い道具や畑を案内してからワインの試飲会をすることにしました。

始めた頃は、まだ私も勉強中で今のワインの品質と比べるとお客様には申し訳なかったと思います。それでもみなさん買ってくださいました。畑をみてつくっている人の顔やまち並をみたら、その土地のワインに愛着を持っていただけるんです。

見学会の時だけでなく、いつでも畑と古民家の並ぶ町を散策してもらえるようにマップを制作。直売所や工場で無料配布しています。スタッフによる案内はないものの、「カタシモワイナリー」の看板のある畑は自由に立ち入って見学できます。こうして、「カタシモワイナリー」はまちと畑と一緒に育っていくことを選びました。
 
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普段の見学会で配っているマップも「まち歩きマップ」になっています。

柏原のブドウ畑を「100年後の世界遺産」にしたい。

2012年には、高井さんが中心になって大阪ワイナリー協会を設立。大阪全体でブランドをつくって行こうとしています。研修生も受け入れ惜しみなくブドウ栽培のノウハウを伝授。今、大阪で7社目となるワイナリーも設立に向けて研修されています。以前greenz.jpでもご紹介した「島之内フジマル醸造所」も、教えを受けてワイナリーとなった醸造所のひとつです。

また、高齢の農家さんから畑を引き継ぐようにもなりました。今月も1300坪の畑を80歳のおばあちゃんから譲り受け、そのために自分の給料を減らし従業員を増やしたと言う高井さん。

ブドウ畑は急斜面です。そんな車も入れない畑で、高齢のおばあさんが今でも1人で頑張っておられました。でも、そこでもし倒れたりしたら誰も助けられない。かといって手放すとなるとブドウ畑が失われますから引き受けました。まだまだそんな畑がたくさんありますよ。

高井さんは、さらに「カタシモワイナリー」の隣の古民家が戸建てになりそうだったところを買取り、改修の手を入れて「古民家醸造所」として生まれ変わらせようとしています。

取材の日、畑を案内してもらう最中に偶然にも元の家主さんが通りかかり、「ありがとうな、ほんま感謝してねん。でも家みてたらなんか泣けてきてな。ほんま、ありがとうやで」と高井さんに声をかけていらっしゃいました。

高井さんは一体なぜ、そこまでして、まちを元気にしようとされるのでしょうか?
 
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ワイナリーがある太平寺のまちには古民家や蔵が多数残り、それ自体がまちの宝だと高井さんは考えています。工場に隣接する古民家を買取り古民家醸造所に改修。まちの景観を守る役目も担っています。

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古民家改修のお披露目イベントにはたくさんの方が訪れました。

つまり、産業として発展しないようなものは発展しないでしょ。私は大阪のワイン産業を「面」で、文化として育てたい。柏原も「面」やったから残った。1社だけがドンといってもずっとは残らない。

でも地域に文化があってそこに根付いたワインだったら、外国から来てでも飲む価値があるでしょ。それが「世界遺産」にすることや、それしかあらへん。100年後に、みんなで「世界遺産」にでもしないと、文化が残らないと思っています。

力強く語る高井さんの目には責任感と、100年後に世界遺産になった柏原のブドウ畑をみつめるわくわくした気持ちが同居していました。

柏原にはね、100年もののブドウの古木が6本もあります。全部、現役で実をつけます。世界中の人にこの古木の姿を見てもらいたいねん。

100年古木
ブドウの百年古木

高井さんの言葉は決して夢物語で終わることはないでしょう。「世界遺産」と呼ばれるものは長い歴史をつないできた人々の営みと想いがあったからこそ伝わっているものばかりです。

今、高井さんの想いを継いでくれる5代目には娘さんが名乗りを上げています。100年古木の生命力に負けるなとばかりに、親子の想いはさらに地域をまきこんで広がっていくことでしょう。

さて、あなたの地域には、100年後の「世界遺産」として残したいものがありますか?

記事を読み終えたら、そんなことを考えながらちょっとだけ散歩に出かけてみませんか。いつもよりまちなみが輝いてみえるかもしれません。
 
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5代目の高井麻記子さん中央右と「カタシモワイナリー」のみなさん