一人ひとりの暮らしから社会を変える仲間「greenz people」募集中!→

greenz people ロゴ

戦争のためのタンク(戦車)ではなく、平和のためのタンク(雨水タンク)を。雨水を利用して命の問題に取り組む”天水博士”村瀬誠さん

top_murase
(PHOTO: © Rolex / Heine Pedersen)

パラパラと冷たい冬の雨。ザーザーと勢いよく打ちつける夏の雨。しとしと降り続く梅雨の長雨。

だれにでも印象的な雨の記憶がひとつはあるように、季節とともに違う表情を見せる雨は、日本の四季に彩りを与えてきました。

日本は世界平均の約2倍の降雨量がある雨の国。蛇口をひねると安全な水がほぼ枯れる心配もなく流れ出すという恵まれた環境にいると、なかなかそのありがたみに気づくことができません。

しかし世界中には安全な水を確保できずに生命の危機に直面している人が少なくとも7億人もいるのです。

今回は、水の問題に取り組むために人生をかけて”雨”と向き合い、2002年には人類のより良い未来に貢献するプロジェクトをサポートする「ロレックス賞」で準入賞に輝いた村瀬誠さんを紹介します。(ロレックス賞の詳しい説明はこちら

昔は雨が憎かった

murase2
(PHOTO:大久保 昌宏)

村瀬誠(むらせ・まこと)
1949年3月22日生まれ(世界水の日)。薬学博士。東邦大学薬学部客員教授。墨田区職員として在職中から雨水利用を推進。1994年の雨水利用東京国際会議では実行委員会事務局長を務める。2002年、ロレックス賞準入賞。東京スカイツリーなど都市の雨水利用プロジェクトや、バングラデシュにおける雨水タンク設置にも関わる。

村瀬さんは、これまでに墨田区職員として日本相撲協会に国技館の雨水利用を働きかけたり、東京スカイツリーの雨水利用の設計指導を行ってきたりしましたが、バングラデシュにも長年通い、雨水を活かして貧しい農村の人たちに安全な飲み水を供給する取り組みも進めてきました。

また、村瀬さんの活動から学びたいという人のために、海外で講演を行うこともしばしば。

海外では“ドクタースカイウォーター(天水博士)”として知られる村瀬さんですが、もともとは薬剤師で雨水利用の専門家だったわけでなく、「まさか自分が雨のことに関わるなんて少しも思っていなかった」と笑います。

最初のきっかけは大学卒業後に勤めた墨田区保健所で、環境衛生監視員としてビルやマンションの飲み水の衛生指導をしていたときのことでした。

1980年代には区内で大雨が降るたびに下水道から下水が溢れ出す、いわゆる都市型洪水が頻発しており、ビルの地下にある飲み水のタンクが下水で汚染されていました。
 
murase3
墨田区錦糸町の都市型洪水の様子(1981年)

当時は汚染されたタンクの消毒の指導に当たっていたのですが、「消毒もいいけれど、洪水そのものに対して何とかできないか」と住民から言われ頭を抱えてしまいました。

それはもう環境衛生監視員としての仕事で対応できる次元ではありませんでしたから。だから、そのころは「雨さえ降らなかったら…」と、雨を憎くさえ思っていました。

そもそも、下水道が正常に機能する条件は「降った雨の5割が地面に染み込むこと」が大前提。しかし、都市開発によって地面の大半がコンクリートやアスファルトで覆われた結果、染み込めなくなった雨が一挙に下水道に押し寄せたことが都市型洪水の原因でした。

かといって、コンクリートを剥がしていくことはできないでしょう? そこで、電車のラッシュを時間差通勤で回避するように、雨水タンクで雨を一旦貯めてから時間差で流せばいいんじゃないかと考えたのです。

しかし、アイデアはあっても当時の村瀬さんは就職してわずか5年の下っ端職員。それを実現するのは簡単なことではありません。

そこで建築・土木・環境など、部局や専門分野を越えて志を同じくする仲間を集め、都市型洪水対策についていろいろな角度から自主研究に取り組んでいきました。すると、雨水をタンクに貯めることで資源として有効利用できることがわかってきたのです。

雨水は「流せば洪水、貯めれば資源」

murase4
1985年に竣工された両国国技館。当時アジア最大規模の雨水タンクが備え付けられた。

やがて、村瀬さんに実際に都市型洪水に対処するチャンスが訪れます。戦後に台東区蔵前に移転していた国技館が、相撲発祥の地である墨田区両国に戻ってくることになったのです。当時はその両国地区でも都市型洪水が起きていました。

相撲を許可する現地の保健所の職員として、国技館の設計担当者に「都市型洪水で住民が困っているので、建設予定の国技館の大きな屋根を利用した雨水タンクをつくってもらえませんか?」と何度も提案したのです。

でも、前例もなく、お金も余計にかかってしまうため反応は芳しくありませんでした。

しかし、そうした村瀬さんと国技館とのやり取りに気付いた当時の課長が声をかけてくれました。状況を説明すると、「法律も条例も前例もないが、お前の言っていることは正しい」と言ってくれたといいます。

課長は部長に話を通してくれ、部長はさらに助役へと上申してくれたそう。やがて墨田区のトップである区長から村瀬さんに「話を直接聞きたい」と連絡が来るまでになります。そして、“まだ30代前半の若手職員”だった村瀬さんがついに区長と対面することに。

これはチャンスだ!と思って、仲間たちと一緒に構想していた5つのプランをすべて話したのです。

5つのプランとは、

・両国国技館に雨水タンクをつくること
・役所の新設の建物には雨水利用を原則とすること
・墨田区として屋上緑化に取り組むこと
・防災のために昔ながらの天水桶を道端につくること
・ソーラーシステムと雨水利用がセットになったモデル施設をつくること

というものでした。

村瀬さんの熱意が通じ、話を聞いた区長はなんとそのすべてに賛同。すぐに5つのプロジェクトチームが立ち上がることになりました。村瀬さんも各チームに参画し、提案から約10年後にはすべてが実現したというから驚きです。
 
murase5
国技館に雨水タンクを設置するために奔走した様子を話す村瀬さん。(PHOTO:大久保 昌宏)

そして、1985年に完成した両国国技館には当時アジア最大規模の雨水タンクが備え付けられ、都市型洪水の緩和に対して現在でも大きな役割を果たしています。

もちろん、貯めた雨水もトイレの流し水や、空調システムのひとつである冷却塔の補給水にと有効利用されています。

また、これを前例として福岡ドームや大阪駅など全国各地で雨水の有効利用が進み、近年では東京スカイツリーに雨水タンクをつくったのも村瀬さんの仕事です。

雨水利用の先進地となった墨田区では、500平方メートル以上のビルには雨水タンクの設置が義務付けられるまでなり、現在では区内の雨水利用を取り入れたビルや住宅の数は500を超えるまでになりました。

自分ひとりでやったことではないですし、どれもたくさんの人の協力があってはじめてできたこと。雨と人に心から感謝しています。

ただ、生きている時間は限られているなかで、自分はこれでいいのかと常に考えていました。人ひとりが持っている可能性を信じて、前向きにていねいに生きようとね。

村瀬さんが雨水に取り組んだように、素直な心でまわりを見渡してみると、きっと身近なところに自分にとっての解決すべき問題があり、はじめは何もわからなくても熱意を持って取り組むうちに、知識と経験と人が自然と集まってくるのかもしれません。村瀬さんのお話を聞いていると、そう思わずにはいられません。

世界規模の国際会議を手弁当で開催

murase6
「雨水利用東京国際会議」(1992年)

村瀬さんが墨田区で活動を進めていたころ、英字新聞『THE JAPAN TIMES』から依頼を受け、国技館の雨水利用について英語で書いたコラムが掲載されました。

コラムは世界中に配信され、それを読んだハワイ大学の国際雨水資源化学会の会長から「アジアを見渡してもそこまで大きな規模で雨水利用を進めている人はいない。ぜひ雨水の国際会議を日本で開催してくれないか」という連絡が村瀬さんに届いたといいます。

しかし、村瀬さんの所属はあくまでも墨田区というひとつの自治体。世界規模の国際会議を行うには、資金面をはじめとして難題だらけでした。

資金はどうする? 誰を呼んだらいい? 交通や宿の手配は? と、なんにもわからない状態でしたが、どうせなら準備から自分たち自身が楽しんでやってしまおう! とチャレンジすることにしました(笑)

村瀬さんは、このころ一緒に雨水利用に取り組んでいた多くの墨田区民に参加を呼びかけ、雨水利用を支援してくれていた墨田区職員や自主研究に取り組んできた仲間、学者や研究者などにも声をかけ、約200名の実行委員会をつくりました。

実行委員会は手弁当で街をあげてのキャンペーンを張り、開催のための資金集めと準備をしました。「街全体が目標に向けて一丸となっていくのはとても楽しかった」と村瀬さんは振り返ります。

1992年、こうして「雨水利用は地球を救う~雨と都市の共生を求めて~」をテーマに、世界中の識者を集めた「雨水利用東京国際会議」の開催にこぎつけたのです。
 
murase7
国際会議では水危機についても訴え、共感を得た。

世界には、安全な水を確保できずに生命の危機に直面している人が数多くいる。国際会議をやってみて、改めて自分のミッションは世界の困っている人たちに雨水の有効利用を広めることだと感じました。

のべ8,000人が参加した国際会議の最後には「世界の問題を雨水で解決します」という宣言をおこない、このことから村瀬さんの活動はやがて世界を舞台としていくことになります。

バングラデシュでの、雨水で命を救う取り組み

murase8
バングラデシュの人たちと村瀬さん。「日本に降る雨は、元々はインドやバングラデシュからやってくる。日本の雨の故郷に恩返しをしなくてはいけない」

世界に目を移したとき、水の問題を抱えている国として注目したのはバングラデシュでした。

バングラデシュでは、以前は不衛生な池や川の水を飲んでいたのですが、国際協力の支援で30年くらい前から井戸の水を飲み始めたんです。

しかし、現地の井戸水にはヒ素が含まれていました。ヒ素を長年にわたって飲み続けると皮膚ガンで死亡することもある。命に関わる水の問題が長年放置されてきたということに対して憤りを感じました。

「池や川もダメ、井戸水もダメということであれば、雨水を利用するしか手立てがない。バングラデシュは年間降水量が2500ミリを超える雨に恵まれた国なんだから」とさっそく行動を起こそうとしますが、世界的に知られるようになっていた村瀬さんもバングラデシュでは右も左もまったくわからない状態からのスタート。

政府の役人に会い、「調査のために現在使用されている雨水タンクを見せて欲しい」と依頼しても、なかなか案内してもらえなかったり、現地のNGOに騙されたり、お金を持ち逃げされたり、そんなことがたくさんあったといいます。

何度も何度も絶望しました。でも懲りずに調査していくうちに、国際協力のありかたが根本の問題だと思うようになりました。

当時、雨水利用の国際協力のやり方は無償で雨水タンクを一般市民に寄付することでしたが、これでは受益者にオーナーシップが働かない。その上に、メンテナンスなどのアフターフォローもなく、それらは一旦壊れると使われなくなり、朽ち果てていたんです。

murase9
雨水タンクの名称はその名も「AMAMIZU」。タンクの生産センターも現地につくった。

そこで、持続可能なソーシャルビジネスとして、一般市民や施設などに雨水タンクを買ってもらう事業をはじめます。

すでに雨水タンクが国連から無償で提供されていたこともあり、はじめは「わざわざお金を出して欲しがるやつなんかいない」と馬鹿にされたといいますが、村瀬さんの「アフターフォローつき雨水タンク」は、ていねいに説明すると理解され、安全な水を日常的に使える人の数を増やしていくことに成功しました。
 
murase10
1000基目のAMAMIZUがつくられたところを記念撮影!真ん中にいるのが村瀬さん。

国際会議のあと、墨田区の“雨水利用係長”になっていた村瀬さんでしたが、平日は墨田区職員として水の問題に取り組み、まとまった休日を使って「雨水市民の会」という市民団体の事務局長としてバングラデシュに通うという、文字通り雨水利用にすべてをかけた日々だったというから、その信念の強さとバイタリティには圧倒されます。

ロレックス賞を受賞し、書籍『雨の事典』を翻訳

murase11
日本語版の『雨の事典』

村瀬さんが、友人から「革新的なプロジェクトを評価する大きい賞があって、村瀬さんがぴったりだし絶対応募するべき」と勧められるかたちでロレックス賞を知ったのは、ちょうどそんな頃でした。

「バングラデシュでのプロジェクトもあって、世界に対する技術支援を行なったり、雨水の文化的情報を集めたいと思っていました」という村瀬さんは、こうして『イノベーティブレインプロジェクト』という論文でロレックス賞に応募します。

「暮らしや命も、もとをたどれば雨によって営まれているもの。だから雨は邪魔なものではなく、天の恵なんです」ということを書きました。また、ダムのような大きなものでなく、雨水タンクのような小さな技術を使うことの有用性についても訴えました。

村瀬さんは以前、東京の水の水源である多摩川上流のダムに視察に行ったことがありました。ダムの下にはまちが沈んでいます。そのまちの元住民に話を聞いたのです。

「東京の水道水の一滴一滴は、わたしたちの涙のひとしずくなんだ」と聞かされてね。大きなダムではなく、家の一つひとつに小さなダム(=雨水タンク)をつくればいいと思ったんです。

雨の文化的側面と技術的側面にフォーカスを当てた論文は、2002年のロレックス賞で見事準入賞を果たします。村瀬さんはこの時の賞金を利用して、翻訳と出版のプロを1年間雇い、雨にまつわる歌や文学についてまとめた書籍『雨の事典』の英語版を出版しました。
 
murase12
村瀬さんの書籍は世界の様々な国で翻訳、出版されている。

世界に出かけて話をするようになってくると、多くの人から「日本はいい国だね」と言われることが多くなりました。

でも、自分たちはまだまだ雨について多くのことを知る必要がある。そこで、まず自分たちが学ぶために『雨の事典』をつくったのです。翻訳版をつくったのは、雨に寄り添ってきた日本の文化を世界に発信したかったからですね。

『雨の事典』には、村瀬さんの雨に対する愛情がたっぷりと詰まっています。

ロレックス賞を取ってよかったことは、なによりも世界中の優れたイノベーターたちと出会えたことです。同じ年度の受賞者の活躍は励みになりますし、今でも親交があります。

「ロレックス賞によって、海外で活動する際に自分を理解してもらいやすくなった」とも話す村瀬さんですが、実は当初、英語にはほとんど自信がなかったそう。

ニューヨークに講演に呼ばれたときに、急に通訳がなくなるというハプニングがあったのですが、不安を抱えて自分なりの英語でなんとか話し切ったのです。

しかし村瀬さんの講演は、流暢に英語を扱っていたほかの外国人講演者以上の大喝采を受けたのだそう。熱い思いで長年取り組んできた村瀬さんの活動は、言葉を超えてまっすぐに伝わったのでしょう。

雨が心を豊かにしてくれる

murase13
村瀬さんが現在暮らす静岡の家のそばの風景。すぐそこに富士山があり、雨も湧き水もきれいな地域。(PHOTO:大久保 昌宏)

村瀬さんは現在もバングラデシュでの活動を続けるほか、大学教授として学生たちに環境論を教えるなど、忙しい日々を送っています。また、2014年には『保健環境論』という教科書も出版しています。

学生や若い世代の人たちが、命を守る仕事に関心を持ってくれたらいいですね。ぼくが仲間たちと一緒になって環境の問題に取り組んだように、ソーシャルネットワークをつくって世界に貢献してくれたらうれしいです。

murase14
村瀬さんの自宅に設置されている雨水タンク。飲み水にも使っているというほど、きれいな雨水。(PHOTO:大久保 昌宏)

墨田区職員を定年退職後の2011年には、自然と向きあいていねいに暮らしたい、自分の食べるものは自分でできるだけまかないたいという思いから、眼前に大きな富士山を望む静岡県御殿場に引っ越してきました。

昔は洪水を引き起こす雨が憎かったけど、今ではすっかり雨が大好き。畑を始めたこともあって雨が降るのがなおさら待ち遠しくなりました。

雨水は飲み水になっていくし、野菜も育むでしょう? 雨は命をつくるのですから、感謝の気持ちしかないですよね。

murase15
タンクの配管には、天からの贈り物である雨水(天水)への感謝の文字があった。(PHOTO:大久保 昌宏)

雨に親しみ、雨水利用の普及活動を行ってきた村瀬さんのお話を聞いて、「では、わたしたち個人が雨水をうまく使うにはどうしたらよいのだろう?」という問いが生まれてきました。

自宅やマンションに雨水タンクを設置するというのは少しハードルが高いようにも思えます。

必ずしも雨水タンクをつくろうと考える必要は無いのです。たとえば、鉢植えに植えた植物を雨に当ててみるだけでも雨に感謝する気持ちが生まれますし、とってもハッピーな気分になりますよ。

雨音もそのときによって様々ですし、水を飲むとき、野菜を見たとき、花を見たとき、その源になった雨に思いを馳せてみるのも豊かなことです。雨上がりの桜並木に立ち込める香りだって、雨の恵ですよね。

目で、舌で、音で、香りで、触感で。五感を開くことで、雨と親しむ方法は無数にあり、雨が心を豊かにしてくれるということを村瀬さんは教えてくれました。
 
murase16
NO More Tanks for War, Tanks for Peace/戦争のためのタンク(戦車)ではなく、平和のためのタンク(雨水タンク)を。(PHOTO:大久保 昌宏)

雨水利用もいいですが、雨と一緒に生きているという実感を楽しむのがなにより。雨水は、人が地上に生まれた数万年前からずっとわたしたちの体には循環してきたのですから。そう思ったらなんだか愛おしくなってくるでしょう?

大切な人も、苦手な人も、その体の源は雨。お金持ちにもそうでない人にも、リゾート地にも紛争地帯にも、雨は平等に降り注ぎます。雨を思うとき、意識はどんどん広い世界に向かっていくようです。

村瀬さんの雨に対しての思いを聞いていくうち、あることに気がつきました。

それは、「情緒が豊かに育まれることでまわりの困りごとに共感できる人になり、結果として世界にまでつながる活動の動機になっていく」ということ。

あなたは雨にどんな思いを馳せますか?