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生きるということ。捨てるということ。過去から未来をつくり出す空間設計ユニット「グランドライン」に聞く、これからを生きるリテラシー

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どこに住み、どんな暮らしをつくるのか。本当に必要なものは何か。「暮らしのものさし」は、株式会社SuMiKaと共同で、自分らしい住まいや好きな暮らし方を見つけるためのヒントを提供するインタビュー企画です。

長野県諏訪郡富士見町で、パン職人のためのパン小屋をつくったり、古別荘をイタリアンレストランにリノベーションしたりという活動を行っている空間製作ユニット「グランドライン」。

グランドライン代表・徳永青樹さんが中心となり、現在は使われなくなった牛舎を工房にして、もらったり拾ったりした材料からさまざまなものを生み出しています。

職人のようでもあり、アーティストのようでもある彼らの活動は、材料や技術など「過去」からやってきたモノから、「未来」にまで残る新しいモノを創り出しているように見えました。

今回話を聞いた青樹さんの語りは観念的というか、決してわかりやすいものではないのですが、そこには青樹さんの持つ世界観が表れていて、いろいろなことを考えさせられます。

グランドラインの活動と青樹さんの話から、どんなものさしを持つべきなのか、少し深く「生き方」について考えてみました。

「自分に由来する」

まずは、青樹さんたちがつくったパン小屋「Santeria(サンテリア)」を紹介します。
 
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パン小屋「Santeria(サンテリア)」photo:砺波周平

印象的な外見だけれど、内装は非常にシンプルで実用的なこの小屋は、薪窯でパンを焼いて隣の洋菓子店で販売するパン職人、西村公孝さんのためにつくられました。

まず外観に注目すると、経年変化したトタンに覆われ、その上に、「引き寄せられるように必然的に描くことになった」というアーティストKAMIさんによるグラフィティが描かれています。このように、一度は使われなくなった素材を使うのはグランドラインの「作品」のひとつの特徴でもあります。

重要なのは、そのものが“自分に由来しているかどうか”だと思うんです。

モノにしても空間にしても自分に由来していることが一番大事で、その選択を繰り返していくことで自分というものが浮き彫りになっていくんですね。

知らず知らずのうちに自分ではない誰かによって“選ばされたモノや空間”であることって、実はよくあるんです。

自分で選び取る責任を引き受けた上で次の選択をしていかないと、いつかもう一度その選択をしなければいけなくなってしまう、つまり先に進んでいることにならないんです。

物事は結局、やるかやらないかの二択。「やる」と選択するのは大変なことだけど、そこで大変なほうを選ばないと、結局より大変になって自分に帰ってくると思うんです。

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パン小屋「Santeria(サンテリア)」photo:砺波周平

「自分に由来している」というのは、あなたにとって、そのものを持ったり使ったりつくったりする必然性があるということだと思います。

どこかから与えられたものではなく、自分で自分のものとして得たもの、それが「由来するもの」なのではないでしょうか。

この「由来する」と「与えられた」という対比が重要だということは、青樹さんがどうしてこのような活動をするようになったのかを紐解くとわかってきます。

もともとは建築系の学校に行っていたという青樹さんですが、「設計事務所とかゼネコンに就職するイメージが全くできない」という悩みを抱えていました。

そんな時に、後に師匠となる空間デザイナーの木村二郎の作品に出会い、「それが何なのか全くわからないけれど、これはもうタダ事じゃない」という衝撃を受けた青樹さんは、山梨県の長坂にある木村さんのギャラリー「ギャラリートラックス」でアシスタントとして働くようになります。
 
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グランドライン代表の徳永青樹さん

青樹さんはその当時、建築の世界に抱いていた違和感を「今思ってみるとだけど」と前置きしてこう話します。

建築の世界って、時代を遡れば、「ここに何かをつくろう」という衝動があって、そこに向かって全ての物事がオリジナルに起こっていったはずなんです。それしか方法がなかったから。

それが今は、どこに持って行ってもひとまず使えるような“製品”としての建物ばかり。一般的に汎用性があるものとしてつくられていて、特定の場所に特定のものがつくられる理由が満たされていない。それで、そこにあるべき理由が存在する、木村二郎氏の唯一無二の世界観に惹かれたんだと思います。

その「世界観」とはどのようなものなのでしょうか。青樹さんは「師匠」である木村さんが亡くなったあと、東京にいったん戻ったものの、八ヶ岳の近くの富士見町に落ち着き、活動を始めます。その来歴の中で青樹さんが考え、経験し続けたのが「もの」と対峙することです。
 
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photo:砺波周平

例えば、ものをつくっている最中には、つくっている材料と自分しかないわけだけど、感じているのはもうちょっと広い範囲なんです。

例えば、テーブルの天板に使う木の一部が日に焼けてグレーになっていたり、ところどころに傷ついていたりする箇所があって、その板の全体を見て「いい雰囲気だ」と思うわけだけど、「日に焼けた色はいい」とか、「使ってる中で傷ついた傷がいい」という情報の蓄積が自分の中にあって、そうした情報が同時多発的に働いて、全体として「いい」と思わせているわけです。

これはすごく具体的な例だけど、あらゆる場面で、背後にある何かをどれだけ自分の中に感じることができるかによって、ものと対峙をする濃さが変わってくると思うんです。

言い換えると「お仕着せのもの、与えられたもの」ではなく「自分で選び抜いたもの」を使い、その場所にふさわしいデザインをつくり上げるということなのではないでしょうか。

そして、選び抜いた「自分に由来している」材料と呼べるものは、往々にしてそのもの自体にストーリーがある古い素材が多くなるのではないかと思うのです。

過去という教科書

もう1軒、古い別荘をリノベーションしたイタリアン・レストラン「Osteria agiato(オステリア アジアート)」を見せてもらいました。
 
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イタリアン・レストラン「Osteria agiato」photo:藤原一世

富士見町にはかつて、結核患者のための療養施設があり、この別荘も療養のために昭和時代初期に建てられた家だったといいます。

この土地の特徴や、建てられた時代とその背景によって、この建物だけが持つ要素はそのままに、他の部分をリノベーションしてレストランにしています。レストランの一角の印象的な壁は、もとの土壁を剥がしてそのまま白いペンキを塗ったというもの。

古いものを生かすのには、理由があります。昔つくられたものは先人の叡智が必然的に含まれていて、何を残すかは主観で決めるのではなく、最初から決まっているのだそう。

今現在まで残ってきたということは、それだけで揺るぎようのない教科書なんです。それをどう未来に転写するか、もうちょっと発展させるのか、そのまま利用するのか、応用した何かをつくるのかはケースバイケース。

全くやったことのない技術、全く使ったことのない素材で全く見たことのない空間をつくったとしても、それがいいものになるかどうかは、一見関係ないように見える、過去に存在していた絶対的な何かなんです。

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イタリアン・レストラン「Osteria agiato」外観 photo:藤原一世

そんな「教科書」の例として、曲がり梁の話もしてくれました。

古民家の改修をした際、どうしても曲がりくねった梁を掛けなきゃいけないことがあって、でもそんな作業の経験はなかったんですね。

実際に曲がり梁を眺めてみると、両側面が平らに切ってあって、そこに墨糸がバチッと引いてある。これまでに見た曲り梁は、どれもそうなっていた。そこで「この平らな面と炭がすべての基準になっていて、全部が決められる」とわかった。

それはするに理解できるものではなくて、なんとなく自分の中に落とし込まれていた情報があるからこそつながるものなんです。

この話は、“今”をつくるために、先人のつくったもの、やりかたを活かすということに加えて、情報の蓄積が重要だということでもあります。あるいは、情報の蓄積があるからこそ過去のものを引用できるのであって、それ以外のやり方では「その過去は“今”にマッチングしないかたちで現実世界に現れてしまう」ともいうのです。

自分に由来しているものや、対話すること、そして先人の知恵を大事にする青樹さんですが、それを生かすためには情報の蓄積と整理の能力がまず必要だったのです。そしてその能力が身につけば「できない」ことを「できる」ことに変えることも可能です。

できないにはできないなりの理由があって、できない理由ってなんだろうって掘り下げていくと、ここの部分を変えれば「できる」になる場所というのがあるんです。

僕の仕事は、単純に空間をつくるということではなくて、目の前に訪れたことを解決するために、自分の持っている材料や技術をそこにどう落とし込めるかに取り組んでいるわけです。

問題解決をするにあたって、誰かが既につくりあげた方法や、何かを購入して取り付ければすぐに解決できるけれど、その材料や技術といった「情報の整理」があれば、それらの方法に頼らなくても、自分に由来した方法でつくれる、もしくは自分で解決できるのではないでしょうか。

つまり、青樹さんは「何でもできる」のではなく、自分の持ちうる情報でどんな問題でも解決してしまうリテラシーを持っているということなのです。

そしてこれは、建築やデザインにかぎらず、人生のあらゆるところに当てはめることができる「生き方のリテラシー」ということもできるのではないでしょうか。

単なる与えられた情報ではなく自分に由来する生きた情報を蓄積し、それを整理することができれば、何かに頼ることをしなくても、自立して生きていけるのです。

捨てるということ

工房から八ヶ岳が一望できる
工房として使っている旧牛舎から八ヶ岳が一望できる

と、うまくまとまったところでなんですが、グランドラインの活動の本質はそのような実利的なリテラシーにあるのではないと私は思うので、もう少し踏み込んだ話をしたいと思います。

グランドラインは「何でもできる」と書きましたが、もちろん自分たちだけですべてをつくれるわけではなく、他の人に何かを頼むこともあります。

最初から誰かに頼むことを目的にはしませんが、自分の許容量を超えそうなときや、もっと良くするためにはこの人に頼むべきということはあります。

そういう時は、そういう人が必然的に現れるんです。目の前に題材が訪れて、自分だけじゃできないなって時に、それに必要な物も人も集まってくる。

青樹さんは「そういう奇跡のようなことが毎日のように起きる」といいます。「そんなこと信じられない」と思うかもしれませんが、私には信じられます。というのも、私はそれも青樹さんの情報の蓄積と「情報の整理のプロ」としての技能によるものだと思うからです。

青樹さんが「自分に由来するもの」として蓄積している情報の周りには、「曲がり梁の墨糸」のような「まだ認識されていないけれど、認識されれば自分に由来するものになりうるもの」が存在しています。

解決策を探る中で、その認識されていないものが意識に上ってきて「発見」されることが「奇跡」と認識されていると私は思うのです。

必要な物も人も、どこかから突然降ってくるわけではなく、近くにあったけれどそれと気づかなかったものなのではないでしょうか。情報の蓄積とそれを整理する技量があるから発見できる、「自分に由来するものを得る」という過程の限りない反復の末に得られた「奇跡」なのです。
 
工房に集まってきた「物」
工房に集まってきた「物」

そしてその奇跡を起こすために必要なのは「捨てる」ことだと言います。

これをやっていれば経済的に安定する、ということは誰にでもあると思うんですけど、それが 自分に由来したものでないなら捨てないと、自分の世界観をつくっていくことはできない。

自分の世界観をつくるためにマイナスでしかないものはどこかで捨てる覚悟をする、そうなった時に初めて何かが生まれてくるんです。欲することをやめた時に、何か集まってくる力が生まれるというか。

所与の一般的な価値観に由来するものは、自分に由来する生き方の邪魔になるから捨てなければいけない。わかるけれど、なかなかその覚悟はできるものではないと私は思います。

でも、青樹さんは「捨てるっていう行為をした時に大きな循環のサイクルに引き込まれていって、それがいろんな物事を引き寄せていく」のだといいます。これは、自分に由来しない「雑音」を排除することで、選ぶべき答えが見えやすくなるということなのかもしれません。

その先にある未来

最後に、そこまで突き詰めて自分の世界観をつくり上げていった先に何があるのか、青樹さんはこう言います。
 
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自分に由来した、自分の信じる道を進むのだけれど、その道に閉じ込められるのではなくて、ひらいて、循環して、その環が大きくなるほうがいい。相互負担していかないと社会全体は良くなっていかないから、すべてを自分の思い通りにしようと思わず、できる範囲でやっていこうと考えてます。

その中で、同じようにやっている人の大事なものが、僕自身にとっても大事なものであることを発見することがあります。

そのような共時性とか共通性というのは、個別性を突き詰めると一般性につながっているということだと僕は思っていて、その一般常識から引き出してきたものではない一般性を生み出していくことを、僕は背負っていくつもりです。

究極的には「自分ができることをする」ことが社会全体が良くなることにつながるということ。

しかし、そのためには全体から個人を考えるのではなく、自分に由来することを突き詰めた結果、社会に通じるような一般性に到達しなければいけない。それは、自分の信じることをやりきった結果、それが社会につながっていくということを意味します。それって素晴らしいことじゃないですか?

結局のところ、青樹さんは「常識を疑え」とか「自分にできることをやれ」ということを徹底的にやっている人なのではないかと私は思いました。

「自分に触れるものがあるかないか」で判断するとも言っていましたが、それはつまり自分の感覚を信じることであり、与えられた価値観ではなく、自分がゼロから積み上げてきた価値観の方を信じるということです。

気持ちいいとか気持ち悪いという感覚は単なる「勘」ではなく、経験に根ざしたその人の価値観の反映です。

その理由をうまく言語化できなかったとしても、その人にはその人なりの根拠がかならずあるのです。それを信じることができれば、自分に由来するものを得ることができるのだと思います。

最後に、これからのことについて少し聞きました。

最終的には、自分たちが生きやすい環境は、誰かに頼るのではなく自分たちでつくらなきゃいけないと思っています。この牛舎もアーティストのための共同アトリエにしたいと考えていて、そうなればもっといろんな人が遊びに来てくれるんじゃないかと思います。

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旧牛舎

青樹さんを中心としたこの場所には、そこに自分に由来するものを見出した人たちがまだまだ集まってくるような予感がしました。

八ヶ岳と富士山が見えるこの素敵な場所に、私もまた足を運びたいと思います。

みなさんも機会があれば、パン焼き小屋「Santeria(サンテリア)」、イタリアンレストラン「Osteria agiato(オステリア アジアート)」を訪れてみませんか?