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“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める。理論物理学者・佐治晴夫さんインタビュー[STORY OF MY DOTS]

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あなたは、惑星探査機「ボイジャー」を知っていますか?ボイジャー2号は、1977年に打ち上げられて様々な惑星・衛星を観測し、昨年9月には太陽圏を脱出したことで大きな話題となりました。空の彼方で、人がつくったものがそんなに遠くへと旅をしているなんて、なんだか不思議ですね。

このボイジャーには、55の言語による挨拶や、地球上の様々な音を収録したレコードが搭載されています。そのうちのひとつ、バッハの「プレリュード」は、理論物理学者の佐治晴夫先生の提案によって搭載されました。

特集「STORY OF MY DOTS」は、“レイブル期”=「仕事はしていないけれど、将来のために種まきをしていた時期」にある若者を応援していく、レイブル応援プロジェクト大阪一丸との共同企画です。

今回は、理論物理学者でありながら、数学や音楽、詩などにも造詣が深く、物理学や宇宙論などの難しい話をわかりやすく教えてくれることで有名な佐治先生のストーリーを聞かせていただきました。

音楽家、数学者を諦めて、物理の世界へ

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佐治先生は、東京大学大学院で物理学を専攻した後、東京大学物性研究所へ進み、研究の傍ら松下電器東京研究所で「1/fゆらぎ扇風機」や「VHS3倍速モード」といった製品を開発。数々の大学で教授を務め、2004年から2013年までは鈴鹿短期大学の学長として短大の経営危機を乗り切る仕事に取り組みました。

その一方、NASAの客員研究員として学んだ宇宙研究の成果を“平和教育へのリベラルアーツ”と位置づけ、全国の学校への授業行脚も行っています。

…と、こう書くとその経歴に圧倒されてしまいますね。先生にも、将来に悩んだ時期なんてあったのでしょうか。

傍から見ると順風満帆に見えるかもしれませんが、人間ですから、色々なことがありました。そもそも、私は物理学者になりたいと思っていたわけではありません。もともとは、音楽家になりたかったんです。

昭和18年、佐治先生が小学3年生のとき、父親からこう言われたそうです。「まもなく連合軍による日本本土空襲が始まるだろう。そうすると、日本に数台しかない貴重なパイプオルガンが焼けてしまうかもしれない。学校を休んでもいいから、聴いてきなさい」。

そこで、兄に連れられ、日本橋三越本店へオルガンの演奏を聴きに行ったんです。当時はいつ空襲がはじまるかわからない状況でしたので、オルガニストも戦闘服を着ていました。演奏する曲も軍歌ばかりです。でも、演奏の合間に、ふしぎな美しい曲が入るのです。兄が、「これがバッハだよ」と耳元で教えてくれました。

佐治先生はこのとき、なぜかとても心を打たれたといいます。兄の一人が東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の出身だったこともあり、「ぼくも芸術家になりたい」と夢見るようになりました。

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しかし、東京藝術大学にはそう簡単には入れるものではありません。それなりの基礎的能力のない私にはとても無理な話で、高校生のとき、その事実に直面して落胆し、打ちひしがれていました。しかし、なんとか気をとりなおし、「それではどうするか」を考えたのです。

なぜ私は藝大に入れないのか。演奏も基礎学力もまったく不足しているからです。だとすれば、自分には何ができるのか。自分にできるもので、音楽に感覚的に近いものは何か。私にとっては、それが数学でした。

そうして大学の数学科に進んだ佐治先生でしたが、ここでも挫折を味わうことになります。

入学直後は、「自分でも、それなりに頑張れば、いま授業を教えている助教授くらいにはなれるだろう」などと生意気なことを考えていたのです。ところが、周りは本当に優秀な学生ばかり。よく、小説や映画に「一風変わった天才」が出てきますね。本当に、社会生活には馴染めないけれどずば抜けて頭がいい天才たちがたくさんいました。

しかも、学年がすすむにつれて、いつかは追いつけるだろうと思っていた助教授との距離はせばまるどころか、広がっていくばかりです。自分のふがいなさに自信をなくしていきました。焦りましたし、「数学者などという職種には、とうていつけないだろう」と途方に暮れました。

しかし、再び佐治先生は「自分にできること」を考えました。数学に取り組んできた経験を活かせば、物理の研究者にはなれるかもしれない。少し背伸びをして、理論物理の世界へ進みました。

そうした紆余曲折の末に辿り着いた理論物理でしたが、ここで、その後活躍する活躍する基礎が築かれたのだそうです。

人に希望を語ることが、生きている人間の役目だと気づいた

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大学院を卒業してからも研究を重ねた佐治先生は、なにもないところからの宇宙創生に深くかかわる「ゆらぎ理論」の第一人者となります。NASAの客員研究員としてボイジャー計画に携わり、ボイジャーが宇宙で知的生命体に出会ったときを想定したメッセージとして、バッハの「プレリュード」を搭載することを提案しました。

なぜバッハだったのでしょう?ひとつの理由は、子どもの頃に聞いたパイプオルガンの思い出がずっと印象に残っていたから。もうひとつは、バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいからです。数学の論理こそが、宇宙の普遍的言語であると考えられることから、ETとの交信に役立つだろうと考えたそうです。

音楽や数学を学んだ後、理論物理の世界に入った佐治先生だからこそ、この提案ができたのでしょうね。

ボイジャーは何千年も何万年も飛び続け、いつか本当にETに出会うかもしれません。ボイジャーに搭載したレコードには、半減期が40億年以上のウラニウム238が塗ってありますが、これは、今から40億年以内にETに遭遇したとき、いつ、どこからやってきたメッセージなのかがわかるように、時計として塗られているのです。そのころ、地球人類はもういないかもしれませんけれどね。

人の一生は百年足らずですが、自分の生涯の長さ、いえ、ひょっとしたら人類の時間をはるかに超えて残る仕事ができたのは、とても幸せなことだったと思っています。もし、私が最初の希望通り音楽家になっていたら、こんなことはできなかったでしょう。そう思うと、人生って不思議ですよね。

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「ボイジャーに搭載されたレコードの保存版と、20年ぶりにNASAの 研究所で再会したときの佐治先生。このレコードはいま、地球から195億kmの彼方を未知の宇宙をめざして飛んでいます。

佐治先生はその後、研究やプロジェクトを通して学んだことを若者に伝えるため、さまざまな大学で教鞭を執ることになります。その際、大事にしていたのは「希望を語ること」でした。

はじめてウィーン大学に行ったとき、敬愛するシューベルトのお墓を訪れました。当時の私は、言葉の壁や、周囲にいるたくさんの秀才たちとの違いに悩んでいました。しかし、その墓碑に書いてあった言葉に、強烈な印象を受けたのです。グリルパルツァーという詩人の言葉で、日本語に訳すと、こういう内容です。

「ここに、ひとつの豊かな宝物を埋葬した。
しかし、それだけではない。たくさんの美しい希望をも埋葬した。
フランツ・シューベルト、ここに眠る」

2行目は、もしシューベルトが生きていたら、我々に与えてくれたであろうたくさんの美しい希望も埋めてしまった、ということです。私はここに胸を打たれたのです。つまり、人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。

教えるとは「希望を語る」ことであり、授業とは「相手の心に火をつける」営みのこと。しかし、二酸化炭素しかなかったら、火はつきません。まずは酸素のある環境を整えること。そこにそっと火を灯すと、心はひとりでに燃えはじめる。それが先生の持論です。

佐治先生の授業は、ピアノやオルガンの演奏から始まり、金子みすゞさんやまど・みちおさんの詩、時には聖書や仏教の教典なども引用しながら、私たちが生きる世界の不思議を紐解いていくというユニークな内容で、学生から大きな評判を呼びました。

学生時代に周囲の「圧倒的な天才たち」に引け目を感じたという佐治先生ですが、たくさんのひとにわかりやすく世界の仕組みを教え、希望を与えることが先生の役割だったのかもしれませんね。

昨日の自分はもういない

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佐治先生のアトリエがある、北海道・美瑛の風景

いま、レイブル期にある人の中には、過去の失敗から自信を失っていたり、やりたいことがあっても「自分にできるわけがない」と思ったりしている方がいるかもしれません。

でも、佐治先生によると、自分の体を構成している60兆の細胞のうち、約1%、つまり6千億が一晩のうちに入れ替わるそうです。昨日と同じ自分はもうどこにもいないし、数ヶ月後には別人と言ってもいいでしょう。そう考えると、何回でも生まれ変わって、新しい自分になれる気がしませんか。

よく、「過去・現在・未来」といいますね。この時間の流れから考えると、「これまで」が「これから」を決めると思うかもしれません。でも、いまみなさんが思い浮かべている過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。

人生というのは、編集作業に似ています。素敵な物語を、美しい暦としてつくっていきたいですね。

佐治先生は68歳のとき、子どもの頃にはじめて聞いて感動した日本橋三越のパイプオルガンを弾く機会を得ました。知り合いになった三越の社員に思い出を話すと、閉店後に演奏できるよう取りはからってくれたのです。

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当時のことを思い出しながら、オルガンと向き合う佐治先生

半世紀以上も昔、パイプオルガンをはじめて聞いた小学3年生の男の子が年老いて、いまこうしてその同じオルガンにふれている。そう考えると、とても不思議な気持ちがしました。夢なのか、現実なのか・・と。

佐治先生はそのときのことを、愛おしそうに目を輝かせながら話してくれました。

人生の半分くらいは予測できても、あとの半分はわからない。これが”ゆらぎ“です。真っ直ぐ一直線に歩こうとすると、莫大なエネルギーを必要とします。ゆらぐことによって、エネルギー消費量を少なくして余裕がでてくるものです。考えてみれば、私の人生って、ゆらぎっぱなしでしたね。

「明日何が起こるかわからない」ことに対して、「怖い」と思う方もいるかもしれません。確かに、怪我をするかもしれないし、失敗をするかもしれない。でも、素晴らしいことが起こるかもしれません。80年生きてきた私が若い人に伝えたいのは、「生きるって、悪いものじゃないよ。しかも、そのすばらしさは生きてみないとわからない」ということ。それが結論です。

いくつものたとえ話を出し、さまざまな方向から熱心に語る佐治先生からは、「人生のすばらしさを伝えたい」という気持ちがひしひしと伝わってきました。

もし、人生が灰色に思えたり、未来に不安を感じたときは、一呼吸してから空を見上げてみましょう。途方もなく長い時間と希望を乗せたボイジャーが、いつかETに出会うことを夢見て、いまこの瞬間も広い宇宙をひとりで旅しています。あなたも、この広大無辺な宇宙の中で、たったひとりだけの存在です。力む必要はないけれど、ちょっとだけ未来に向けて踏み出してみませんか。かけがえのないあなた自身の物語をつくるために。