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3年目の3.11。陸前高田で未来を誓い合う、それぞれに大震災を経験した ハタチの対話「こうべといわてのテとテ」

3年目の3.11が迫る、2月のある日。陸前高田の海辺で、二人のハタチが出逢いました。陸前高田の建設会社に勤める嶋村拓郎さんと、神戸からやってきた大学生の齋賀裕輝さん。

まったく違う場所で生まれ育った二人の共通点。それは今年成人式を迎えたハタチということと、お互いに大震災を経験しているということ。そして二人とも、自分の街の成人式の実行委員をした、ということ。

その二人の対話の様子は、今日3月11日の岩手日報と神戸新聞に、それぞれ掲載されました。
 
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岩手日報 2014年3月11日掲載 (嶋村拓郎さん)【拡大

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神戸新聞 2014年3月11日掲載 (齋賀裕輝さん)【拡大

この二人の対話は、東日本大震災直後にはじまった岩手日報による活動「いわてのテとテ」の3年目の企画として実施されたもの。「いわてのテとテ」は、岩手から/岩手への100文字の想いをウェブサイトやソーシャルメディアを通じて募集し、電気供給もままならない沿岸部へ、またインターネットに不慣れなお年寄りにも届くよう岩手日報紙面に掲載。避難所での掲出も行いました。

2011年4月11日の第1回掲載から2011年内に8回、その後も年2回のペースで、岩手の「いま」を伝え続けています。
 
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2012年3月11日の紙面。WEBサイトに寄せられた岩手から/岩手への想いとともに、大船渡市の小学校を卒業する6年生の手書きメッセージも掲載されました。(拡大 

3年目の3.11。いま何を伝えるのか?

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陸前高田市街地が見渡せる場所からの風景。土地をかさ上げするため、山を削って土を運ぶベルトコンベアーの橋が次々と建設されている。

3年という年月をどう捉え、何を伝えるべきなのか。「いわてのテとテ」は岩手日報紙面を中心とした、岩手県内中心のコミュニケーション。しかし県内でも沿岸部と内陸部では、震災に対する想いや意識も変わってきていると言います。さらに今回は、震災後にはじまった岩手日報と神戸新聞の労働組合同士の交流がきっかけとなり、同日の神戸新聞の紙面にも「いわてのテとテ」が掲載されることが決まりました。

「支援をありがとう」でもなく、「忘れないで」でもなく、それぞれがもう一度あの大震災に想いを馳せ、自分のいまを、そしてこれからを考える。岩手と神戸の未来につながる希望に満ちた紙面を届けよう。そんな想いから、東日本震災から3年が経った今年、成人式を迎えた陸前高田のハタチと、阪神淡路大震災から19年という時を経て成人式を迎えた神戸のハタチ、二人の対話が実現したのです。

“阪神淡路東日本大親友。”
それぞれに大震災を経験し、二十歳を迎えた二人の出会い。

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写真:下平桃子

お互い、生まれ育った街の成人式の実行委員。
1月に終えたばかりの成人式のことから、二人の話ははじまりました。

嶋村 高田の成人式は、そんな、これっていうことはしてないけど、黙祷して、挨拶してもらって、その後ビンゴゲームやって。俺は司会!高田って、被災して働く場所もなくなったから、みんな遠くに出ちゃうんだよね。仙台とか。だからこっちにいる同級生はあんまりいなくて。成人式で久しぶりに会う友達ばっかだったから、なんかすんごい懐かしかった。顔忘れたやつ、顔変わりすぎて分かんなかったやつもいたね。誰?みたいな。でも楽しかった。楽しかったよね?

齋賀 楽しかった。神戸の成人式はね、まず始めに阪神淡路大震災のときの映像を流して、黙祷。必ず絶対、毎年それはするって決まっていて。新成人代表は5人おんねんけど、役割分担を決めて、みんな大学とか仕事とかある中で毎週会議して、とにかく大変やった。

嶋村 高田は震災で亡くなった人たちもいるからさ。それでも一緒に成人式に出てほしくて、遺影を家族から借りるのが大変だった。

齋賀 いろんなとこ回って?

嶋村 回った。電話だったり、実際、家行ったりとかね。どこにいるかもわかんないから、最初から探して。友達の友達とか連絡して…何とか全員集められたから、よかったよ。

そうだ、何で実行委員をやろうと思ったの?

齋賀 始めはもう、成人式も行かんかなって考えとったけど、成人式って一生に一度しかないやん。もうないやん。だからやっとこうと思って。

嶋村 ちゃんとした理由があるじゃん。俺はただ単に、目立ちたいから!

齋賀 あははははー(笑)
 
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写真:下平桃子

嶋村 でも、さっき言ったようにみんな出ちゃうから、地元に残っている人がいないのさ。だから、もうこれ俺やるしかねーなって。アンケートが市役所から来てさ。仕事から帰って来て書こうかなと思ったら…母さんが書いてたのよ、もう。「やります」って(笑)

齋賀 わあ(笑)

嶋村 陸前高田市に一言みたいなところには、「俺は陸前高田が大好きだー!」とか書いてあったから。母さん勝手に。ま、やる気だったから、よかったけど(笑)

齋賀 (笑)でも、お母さんもそれほどやってほしかったってことだよね。

嶋村 うん。ちょっと似てんのかな。お調子者な感じが。でもやって良かったよね。楽しかった。うん、最高だった。

二人にとっての、それぞれの大震災

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嶋村さんのお昼休みを待つ間、陸前高田観光ガイドの菅野コハルさんと高田の街を回る。菅野さんは昨年3月11日の「いわてのテとテ」紙面にご登場いただいた。 

嶋村 阪神淡路大震災のとき、何歳?

齋賀 0歳やったから、全然覚えてない。親に聞いたことしかあらへんけど。

嶋村 聞いてどう思った?どんな感じだった?

齋賀 震災当時の状況とか全然見てないから覚えてないし、分からへんけど、やっぱり本当に怖かったって。父親の友達のお兄さんがパン屋さんやっとったんやけど、パンの機械が倒れて下敷きになって亡くなってしまったり、祖母の兄弟が家の下敷きになって亡くなったとか。

嶋村 やっぱ、やばかったんだね。

齋賀 水道も電気もガスも止まって、お風呂も当然入られへんから、父さんがせめて子どもたちだけでもって、無料で入らしてくれる温泉へね、普通やったら1時間ちょいで着くのが、3,4時間ぐらいかかって連れて行ってくれたって。あと、水とか食べ物もないから、「この人は子どもたちのこと見とって、私らは食料取りに行くから」っていうふうに、近所の人みんなで協力して何とか乗り越えたのかな。

親戚の安否確認するのにも、車で20分ぐらいで着くのが2時間かかって、もうこれやったら歩いて行ったほうが早いって歩いて行って。何とか無事、みんな大丈夫やって。あーよかったっていうこともあったみたい。東日本大震災は?
 
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菅野さんの話を無言で聴き入り、震災前の高田市街地の写真を見る齋賀さん。「ただただ言葉を失っていた。」

嶋村 俺はそのときは内陸の方にいたから波は見てないんだけど、祖父母が流されちゃって。家はめっちゃ海に近いところにあったからすぐ流されちゃった。そのとき、自分としては全然状況がつかめないじゃん。だから、寮にいたんだよね、高校のときの野球の寮に。母さんにずーっとメールしてたんだけど、迎えに来て、迎えに来てって何回も。あっちはそれどころじゃないじゃん。結局、俺帰ってきたの一週間後ぐらいかな。うちの母さんも、ほんとに、あと30秒ぐらいで危なかったというのをあとで聞いて…。

齋賀 そのとき、初めて陸前高田見てどうやった?一週間後に帰ってきて。

嶋村 言葉出ない。戦争を経験してないけど、なんか戦争みたいだなって。ほんとに、言葉になんなかったね。

齋賀 さっきも(陸前高田観光ガイドの方に)いろんなことお話ししてもらったんだけど…震災前の写真と、今の状況を見せてもらって、全然ちゃうやんと思った。
 
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何もなくなってしまった陸前高田駅前には駐車場のラインだけがそのまま残っている。山は静かに、そこにあり続ける。

嶋村 全然、違うね。

齋賀 震災後初めて来るから、びっくりした。

嶋村 俺も今でもびっくりするもんね。これほんとに現実かなって思って。なーんもなくなった。高田、高いところないから。全部流されちゃったわけだから。それがね。やばいんだって。

愛する地元のために、できること

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美しい陸前高田の朝。「景色は変わってしまったけれど、海や山、自然に囲まれている高田が一番落ち着く」と嶋村さん。

嶋村 俺、元々は大学行ってたのね。進路決めるじゃん、高校で。そんときに震災があって。最初、就職しようとしたの。すぐ働かなきゃなという気持ちだったから。でも、親に自分の好きなことやっていいよって言われて。それでちょっと迷って、野球まだまだやりたいなと思って大学行ったんだけど、親の仕送りでさ、生活するんだよね。あっちはそういう状況じゃないのに、なんか俺一人だけこんなに親のお金もらって、こんな生活していいのかなって思っちゃって。それでもう、働いた方がいいかなと思って辞めて帰ってきたんだけど、後悔はないね。

たぶん後々、あーもうちょっと続けていればよかったかなと思うときもくると思うのさ、絶対。でも、ここで、宿命じゃないけど、高田でね、生まれたからには、ずっと高田にいたいなっていう気持ちのほうが強かったから。

齋賀 おお。地元愛しとう。

嶋村 愛してる。めっちゃ愛してる。めっちゃ愛してるー!そうだね。だからもう、地元のため、なのかな。うん。復興、復興っていうけど、ま、この街で暮らしたいっていうのが一番かな。

こっち帰ってきて、おじいちゃんとか、おばあちゃんとかと一緒に、被災した街を見ながら、振り返る。思い出しちゃうんだけど。何もなくなったなーみたいな。がんばっぺなーみたいな。そういう会話が好きで、仕事の休憩時間に話したりするんだよね。高田の人、おもしろいから。話しやすいつーか。

齋賀 うん。

嶋村 都会にも行きたいけどね。

齋賀 あは(笑)

嶋村 でも、高田が一番いい。どうなったら復興完了なのかな。建物が増えて、元通りになるっていうよりは、高田の人たちが元気になるっていうか、笑顔になるっていうか。みんながみんなそうなれば、復興っていうのかな。そこまで頑張りたいね。
 
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齋賀 神戸は毎年、阪神淡路大震災があった1月17日には必ず黙祷をしてる。震災の翌年からは、「ルミナリエ」っていうイルミネーションができて、ものすごいきれいなんだけど、それは震災で被害に遭った方々への想いを込めて作られて、それで毎年募金したりもしてて。

嶋村 へー、そうなんだね。

齋賀 やっぱり、震災のときも、いろいろ岩手とか、陸前高田からもたぶん、支援をしてもらったから、今の神戸があるんだと思う。震災のとき助けてくれた人のお陰やから、次はこっちが助けていく番やなって。恩返しみたいな。

嶋村 ありがたいね。

齋賀 高校生のときに、ボランティア部に入っとって、東日本大震災のボランティア行くっていう話になってんけど、高3のときで大学受験がみんな迫っとったから、来れなくて。今回、やっと叶った。
 
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嶋村 何もないでしょ。元はあったんだけどね。…でも、よく来たね。ほんとに。

齋賀 あと、やっぱり寒いね。めっちゃ寒い。

嶋村 (笑)まだあったかいよ、今日は。ここ海、きれいでしょ。

齋賀 うん。きれい。

嶋村 でしょ。海に入りてー。泳ぎたいよ。でもね、松原あったんだけど、松も全部流されちゃってさ。すぐそっちに海水浴場あったんだ。それが全部流されちゃって。あそこに、すんごい人来てたの、昔は。だけどね、なくなっちゃったけどね。俺、松立てっかなって思って(笑)。うそだけど。そのぐらい、いっぱいあったんだよ。

ハタチのいまを、これからを、どう生きるか

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高田松原の約7万本の松の木は津波によって流されてしまったが、この一本だけが奇跡的に残った。海水により腐ってしまったので、今はモニュメントとなっている「奇跡の一本松」。

嶋村 仕事柄、復興に携わっているからね。高田は若い人がいなくなっているから、残っている自分が引っ張っていければいいかなって思ってる。とりあえずは当たり前のことだけど、一日一日を真面目に、精一杯生きようって思う。

齋賀 将来、陸前高田をどういう街とか、どういうふうにしたいか考えたことある?

嶋村 それはあれだよ。神戸みたいにしたいよ、俺は。

齋賀 神戸みたいに?

嶋村 神戸みたいにね、すんごいいっぱい店があって、若い人が「あー俺、高田から出たくねー」って思うような、そういうところにしたい。ハタチっていうか、社会人になって思ったことは、大変だね、お金を稼ぐってことは。本当に。

齋賀 うんうん。僕の場合は今も親に学費とか頼っとんねんけど、これからは自己責任も当然あるから、自分で考えて、自分で行動して、自分で決めるようにしなあかんと。まず自分で決めてから、その決めた気持ちを親に、決意を伝えることってことかなって。

今は教育学を勉強してて、臨床心理士の資格も取りたいと思ってる。子どもたちには勉強だけを教えるんじゃなくて、周りの人と助け合えるような大人に育てていきたい。全国民、全世界の人が助け合って、認め合って、絆を深めていくというのが大事だと思う。
 
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写真:下平桃子

嶋村 一日一日をね、後悔のないように、生きていきたい。もう過ぎたことは戻ってこないから。一日一日を全力で。犠牲になった人たちもいるから、その人たちの分まで、一日一日を思いっきり楽しみたい。楽しむ、かな。

齋賀 ありがとう。

(握手)

嶋村 チカラつえーよ!

(二人の話、ここまで)

今もなお「これ本当に現実かな」と思うことがあるという、3年前の震災のこと。そして覚えていないほどずっと昔、19年前の震災のこと。お互いの体験はまったく違うけれど、ハタチの二人の言葉はそれぞれに、しっかりと前を向いている。実際にこの場所に来て、見て、出逢って、向かい合ったハタチ同士だからこそ話せたリアルな気持ちは、私たちに様々なことを訴えてきます。

「俺たちは前に進むよ。夢を描くよ。さあ、あなたは?」

彼らの歩みは一歩一歩、着実に未来へ。逞しいテとテがつながった瞬間を見守って、「いわてのテとテ」はこれからも、岩手に寄り添い続けるのです。

(Text: 佐藤有美)

佐藤有美
「いわてのテとテ」コミュニケーションデザイン担当。岩手日報のみなさん、福島市内で音楽イベント「FOR座REST」をつくる多くの友人たち、盛岡生まれ仙台育ちの夫、そして震災後授かった新しい生命体である息子とともに、東日本大震災に向き合ってきた3年間。東北に一人でも大好きな友達をつくることが、一番の支援につながると信じている。