「浮世絵」と言えば、歌麿や写楽の名を思い浮かべる人も多いでしょう。
今回の<勝手に日曜美術館>は、その両人を生み出した江戸時代の名物出版プロデューサー・蔦屋重三郎を取り上げた「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展(@サントリー美術館)を訪ねます。
蔦屋重三郎、通称・蔦重(つたじゅう)は、1750(寛延3)年に生を受け、1797(寛政9)年に出版人生の幕を閉じます。彼が生きたのは、田沼時代や松平定信の寛政の改革で知られる江戸時代の中盤から終盤に差し掛かる時代です。度重なる飢饉で社会不安が高まる一方で、貨幣経済・商品経済の発展により商人が力を付け、消費都市・江戸の町は、文化の爛熟度を高めていきます。
蔦重は、当時を代表する版元(出版社)にして、江戸の文化サロンの中心を担ったと言ってもよい人物です。
交流があったのは、学校の教科書に名前が出てきそうな人だけでも、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、山東京伝、十返舎一九に滝沢馬琴(曲亭馬琴)、式亭三馬に平賀源内、杉田玄白、大田南畝などがいます。みな当代一流の文化人、知識人ばかり。実に多彩な顔ぶれです。
蔦重は吉原で生まれ育ち、出版人としての人生も吉原から始まります。23、4歳のころに、吉原の入り口付近で書物商いを始め、その後まもなく「吉原細見」の出版権を手に入れます。「吉原細見」というのは、簡単に言うと吉原のガイドブックです。
「夜遊び情報じゃないか」と蔑むなかれ。当時の遊郭、中でも吉原は、文化人が集うサロンの役割を果たしていました。遊郭通いは単なる色事ではなかったのです(というのは男の肩を持ち過ぎか……)。とにもかくにも、吉原という地の利を存分に活かして、蔦重が多彩な人脈を築いていったことは想像に難くありません。
吉原のウラとオモテを肌で知り尽くした蔦重が作った「吉原細見」は、大変な人気を博しました。それによって蔦重は版元としての礎を築いていきます。
ちなみに、蔦重が書物商いとして小売に関わった吉原細見、『嗚呼御江戸(ああおえど)』で序文を書いたのは、福内鬼外(ふくうち・きがい)と名を変えた平賀源内でした。エレキテルの発明や土用の丑の日にうなぎを売る習慣を作ったと言われる源内ですが、滑稽本や浄瑠璃本の筆を取り、狂歌も巧みだったということですから、実に多彩な才能の持ち主だったわけです。若き蔦重は、マルチに活躍する源内の背中を見て何を思ったことか……。
蔦重は、その後1780(安永9)年に、当時流行し始めていた黄表紙の刊行を始めます。黄表紙とは、絵と文章が一体になった草双紙(絵本)の一種です。今で言う青年コミックのようなものと言えば当たらずといえども遠からず、大人向けの娯楽読みものとして評判でした。
他にも、遊郭の遊び方や風俗を物語風に描いた洒落本や、世相を諷刺した狂歌本などを手がけ、ヒット作を次々生み出します。当時の記録にはこうあります。
通油町なる地本問屋鶴屋蔦屋二店にて毎春印行せる臭草紙(註:草双紙のこと)は、必ず作者を択むをもて、前年の冬より発兌して、春正月下旬までに、二冊物三冊物一組にて一万部売れざるはなし。その中にあたり作あるときは一万二三千部に至ることあり。猶甚しく時好に称ひしものあれば、そを抜出して別に袋入りにして、又三四千部も売ることあるといへり
出典:『近世物之本江戸作者部類』[滝沢馬琴著](『江戸の本屋(下)』[鈴木敏夫著、中公新書]より孫引き)
現代においても1万部を売るのはなかなか大変なことです。蔦重の本は、コンスタントに1万部を越え、時には2万部に迫ろうというのですから、いかに人気を集めていたのかがよく分かります。
なお、歌麿は、蔦重プロデュースの黄表紙や狂歌本の挿絵を手がけ、絵師としての才能を花開かせることになりました。若き北斎も、蔦重版の山東京伝や馬琴の挿絵を手がけています。
隆盛を極めていた蔦重ですが、突如ピンチが訪れます。牙を剥いたのは、「寛政の改革」の松平定信。質素倹約や風紀取締、思想統制を掲げる改革の一環で、1790年(寛政2)年に出版取締りを強化します。
その見せしめとしてスケープゴートにされたのが、当時の出版界のスター・戯作者の山東京伝とその版元の蔦重でした。二人がコンビを組んだ洒落本3点が発禁となり、京伝は手鎖50日、蔦重は財産の半分を没収されるという重い処分が課せられました。
この事件で、蔦重の版元経営には暗雲が立ち込めます。しかも、そんな蔦重の苦境を見て、手塩にかけて育てたはずの歌麿が蔦重の元を離れ、ライバル店の絵師となります。弱り目に祟り目とはまさにこのこと……。蔦重は崖っぷちに追い詰められます。
そこで、蔦重が取った大博打が、無名の新人・写楽の起用でした。
現代人にとって、写楽の名は浮世絵の代名詞とも言えるほどメジャーですが、実は、その正体はナゾに包まれています。
写楽が活躍したのは1794(寛政6)年から翌年にかけてのわずか10ケ月間。彗星のように現れては彗星のように消えていきました。その前後の生涯があまりにナゾに包まれていることから、多くの研究者が正体を突き止めるのに躍起になっています。蔦重周辺の関係者が「容疑者」とされ、北斎や歌麿、中には蔦重その人を写楽とする説や、写楽複数人説もあるほどです。
写楽複数人説にも、それなりの説得力があります。写楽は、わずか10ケ月の間に、150点近い作品を世に送り出しています。浮世絵の制作工程を考えると、尋常ではないハイペースです。そもそも、浮世絵の制作には、とても大勢の人が関わります。絵師に彫師、摺師に小売り、モデルを誰にするかも重要です。
こうした構図は、現代のコンテンツ作りやルネサンス期の芸術活動とまさしく同じです。ひとりの有名人の名を冠していても、実作業はその下にいる大勢のスタッフの手によっている、というのはよくあることです。
そんなことから、起死回生を狙った蔦重が、馴染みの絵師や文化人の腕と知恵を借りて、架空の人物「写楽」を作り上げ、自身の工房で浮世絵をつくっていたというストーリーは、お話としてはとてもよく理解できます。
と、かくまで現代を生きる私たちの探究心をくすぐる写楽ですが、当時の人々に受け入れられたかというと、そうではなかったというのが実際のようです。極端なまでにデフォルメした画風が、庶民のみならず、モデルを務めた役者たちの不興も買ったというのです。写楽が彗星のように消えざるを得なかったのには、そんな事情も影響していたのかもしれません。
写楽が消えてから2年後の1797(寛政9)年、蔦重は失意のうちに病にかかり、蔦重は48年の生涯を閉じます。写楽が当たっていれば、もう一花二花咲かせることもあったかもしれませんが、こればかりは人生の悲哀ということでしょうか。
もうひとつ、晩年の蔦重が「当たり」を見誤ったことがあります。それが、現代にも読み継がれている十返舎一九の『東海道中膝栗毛』です。
一九は当時、売れない作家で、蔦重の下で寄宿しながら、出版の手伝いをしながら糊口をしのいでいました。そんな一九が、蔦重の版元から『膝栗毛』を出したいと相談しますが、蔦重は売れる見込みなしとしてボツにしているのです。子飼いも子飼いの一九だけに、あまりに関係が近すぎて、評価を未誤ったのかもしれません……。
ちなみに、一九が『東海道中膝栗毛』を出版するのは蔦重の死後、1802(享和2)年のことでした。
現代、メディアは出版のみならず、テレビ、ラジオにインターネットと、その幅を大きく広げ、もはや蔦重が生きた時代の比ではありません。ですが、ヒットを生み出すコンテンツの作り方には、時代やメディアの形態を超えた真髄があるような気がしてなりません。ということで、200年前の時代を生きた蔦重に、いろいろ学びにいこうと思います。
出版人も、放送人も、読者も、視聴者も、インターネットな人々も、奮ってご参加あれ。
師走のただなか、慌ただしい日々を送っているとは思いますが、ちょっとゆとりを持って、200年後に語り継がれるコンテンツに思いを馳せてみてはいかが?
(と言いながら、直前すぎる告知ですいません……)
最後に余談を。
音楽・映像・書籍のレンタル・販売で名を馳せる「TSUTAYA」は、今回の主人公・蔦屋重三郎にあやかってその名を付けたということです。そして今回はしっかり協賛されています。その心意気や素晴らしいと思いますが、蔦重の名を冠するなら、もっと生み出す側に回って欲しいと思うのは私だけ?もちろん流通も大事ですが……。
(注)この記事で使用した画像はあくまでイメージです。今回展示されている作品とは限りませんので、ご了承ください。
当日の流れ
六本木駅7番出口:13時30分
*お食事は済ませてお越し下さい。
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展示観覧:13時30分~15時頃
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近くのカフェでしばし歓談:心ゆくまでw
ツアー詳細
- 日時:12月18日(土)13時半~16時頃(想定。途中参加、途中抜け可能です)
- 訪ねる美術館:サントリー美術館「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展
- 集合場所: 六本木駅7番出口(都営大江戸線側の出口です)
- 費用:実費(入館料*・飲食代)をご負担下さい。 *入館料:1,300円(和服割、携帯割なんてのものあるそうです。詳しくはサントリー美術館のサイトにてご確認ください)
- 申込方法:以下のフォーム、もしくはツイッターで@kayackまでご連絡ください。