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個が消失することの高揚感と神輿の不思議な力、映画『Mikoshi Guy 祭の男』。

『Mikoshi Guy』というタイトルを見て何を思いますか?とにかくお神輿を担ぐのが好きな男?どうして英語?なのとか?

神輿って日本で暮らしていればほとんどの人が目にしたことがあるものだと思います。でも、実際に毎年お祭りで担いでいるという人はどれくらいいるでしょうか。

馴染みのあるものでありながら、どこか遠いものという印象もある。それが私がこのタイトルを見て神輿のことを考えて思ったことでした。

そんな入り口からこの映画を見てみると、神輿を入り口に地域や暮らしのことを考えさせられ、そしてなぜ英語なのかの意味もわかってきます。

神輿は風景

映画の主人公は宮田宣也(みやた・のぶや)さん、神奈川県で神輿の製作や修理をしながら全国のお祭りで神輿を担ぐ「祭の男」です。映画は彼と彼の仲間である明日襷(あしたすき)たちがどのような思いで祭りに参加し、何をやっているのかを中心に展開していきます。

この映画には宮田さんがおじいちゃんの遺志を継いで神輿にたずさわるようになった経緯などいろいろな物語が含まれています。それも面白くはあるのですが、私は映像に目を奪われて今ひとつ一つ一つの物語を記憶に刻むことができませんでした。

それはなぜか、映像が美しいというのはもちろんですが、神輿を含んだ風景や神輿に関わる人達の顔が印象的で、どうしてもそっちに意識が行ってしまったのです。

そうやって意識を持っていかれた結果、私がまず思ったのは「神輿は風景である」というということでした。そしてその風景には人も含まれます。神輿とそれを囲む人たちという風景、それが私の印象に強く残ったのです。

それはなぜか。みこしを担いでいる人達の顔に注目するとそれが少しわかってきます。彼らは高揚し目を輝かせ一心不乱に神輿を担いでいます。その姿は美しい。しかし同時に彼らはそこで「個を消失」しているように私には見えたのです。神輿を中心とした現象の一部になっていると。

そして神輿を担ぐ人やそれを見つめる人の言葉を聞きながら、たびたび胸に迫るものを感じました。途中、東日本大震災で大きな被害を受けた雄勝のエピソードが登場します。そこの人たちの言葉を聞いて胸に迫ってくるのはわかります。でも、それ以外でも胸に迫るものを感じたのです。

それをもたらしたのは、彼らが個から解き放たれより大きなものとつながる感覚を得ているからではないかと思います。

神輿を担ぐことは現象の一部になることだと先ほど書きましたが、それは言い換えれば横に広がるつながりの一部になることです。そして同時に、受け継がれてきた伝統の一部になることでもあります。そうやって空間と時間の中に広がる大きな絵の一部になることの高揚感が画面を通して伝わってきているのではないか、そう感じたのです。

ではなぜ全体の一部になることが高揚感を伴うのか。それはそれによって個と個がギブアンドテイクの関係を介して対峙するあり方から逃れることができるからだと私は思いました。祭や神輿という現象が起こっている間、そこにあるのは基本的にみなが与えあう、ギブの関係だけです。参加者はボランティアで、みなに何らかの福を与えようとみこしを担いで練り歩きます。そこから得ようとしているのは充実感だけ。それが参加する人達の心を開放するのです。

いま神輿を担ぐということ

神輿や祭りは、今も一部ではそうかも知れませんが以前はどこでも地域コミュニティの団結の象徴という意味を持っていました。しかし地域の担い手が減っていく中で存続の危機にひんし、その意味も薄れてきました。

宮田さんは、なくなってしまいそうな神輿や祭りを存続させるために全国各地の祭りに参加し、神輿を修繕しています。

しかし、神輿や祭りが地域コミュニティにとっての意味しかないのなら彼はそんなことをする必要はありません。続けるかなくすかは地域の人達に任せるしかないからです。そうではないのは、神輿や祭りにそれ以上の意味があるからです。その意味とは一体何なのか。

それは神輿そのものなのではないでしょうか。 神輿を担ぐことに意味があるのではなく、神輿は風景でありその地域の一部なのだから、それがあること自体に意味がある。だから、それが欠けてしまうと地域から一つの意味が失われてしまうのです。

だから地域の人たちは宮田さんたちに助けを求めます。神輿を守れるならばその担い手は地域の人でなくてもいいのです。しかも神輿は個を消失させるので、その担ぎ手が誰かは基本的に意味がありません。

にもかかわらず、どこかで地域コミュニティの閉鎖性が形作られ、よそ者を拒むことによって危機に瀕するということが起きているのです。宮田さんたちはその人たちに手を差し伸べることで本来の神輿のあるべき姿を取り戻そうとしているのかもしれません。

海外でも神輿は神輿

映画の終盤に入り、宮田さんたちはフランスやドイツでも神輿を担ぎます。日本の地域社会の伝統という枠を離れて”Mikoshi”を担ぐことになるのです。

それでも、それに参加した日本人は、日本でやるのとほとんど変わらないという感想を口にします。どこでも神輿は神輿で、地元の人もよそ者も一緒になって風景を形作り、個を消失させるのです。

なんだか不思議だし、すごいですね神輿は。

宮田さんはくり返し「神輿は1人では上がらない」といいます。集団でなければ上げられない、つまり集団がかかわらなければ神輿は神輿たり得ない、その特性が神輿を特別な存在にしているのかもしれないと思いました。

ここまでが映画を観て感じた神輿のことですが、この映画はここからいろいろなことを考えることができます。

例えば地域のこと。いま高齢化や過疎化で地域社会が危機を迎えていますが、神輿を開放していくことがその危機を解決する一つのきっかけになるのではないか。それによって地域社会は形を変えるかもしれませんが、本当に守りたいものは守れるかもしれない、そんな希望を抱かせてくれます。

あるいは伝統のこと。200年前の神輿を修理しているシーンで伝統とは一体何なのか考えさせられました。変えないことが伝統なのではなく形を変えながら受け継いでいくことが伝統だとしたら、伝統の核にあるものとは一体何なのか。

まあそんな難しいことは考えなくとも、神輿のある風景とそれを捉えた映像の美しさを観るだけでもなにか得られると思います。

– INFORMATION –

『Mikoshi Guy 祭の男』

http://mikoshiguy.com/
2019年/日本/76分
監督:イノマタトシ
撮影:黒田大介、下山遼佑
音楽:濱田貴司
出演:宮田宣也