環境=文化アクティビストで、文化人類学者の辻信一さん。1999年に設立した「ナマケモノ倶楽部」での活動や、「100万人のキャンドルナイト」など、私たちの暮らしを見つめ直すことで、社会とのつながりを再定義する活動を数多く展開してきました。いわば「いかしあうつながり」をグリーンズよりはるか前から発信してきた大先輩です。
これまでも辻さんとグリーンズは、取材記事の発信や「しあわせの経済」国際フォーラムなどに取り組んできました。このたび、ナマケモノ倶楽部・辻信一さん、NPO法人GEN-Japan・片山弘子さん、そしてグリーンズの鈴木菜央がホストとなって、ローカリゼーションを考え実践に移すオンラインフォーラム「World Localization Day(ローカリゼーションデイ日本)」の開催が決定!
「スローライフ(ゆっくり)」
「弱さ」
「雑」
さまざまなキーワードを掲げてきた辻さんが今、力を注いでいるのが「ローカリゼーション」であり、分断からつながりへのシフトです。
今回は、来る「ローカリゼーションデイ日本」に向けて、2021年2月19日にNPO法人GEN-Japanが開催したイベント「コミュニティをつくって、生き抜こう! 日本のローカリゼーション大集合」における辻さんの登壇スピーチを、ご本人とgreenz challengers communityにより再編集し、記事として公開します。
辻信一(つじ・しんいち)
環境=文化アクティビスト。文化人類学者。「ナマケモノ倶楽部」代表。「スローライフ」、「ハチドリのひとしずく」、「100万人のキャンドルナイト」、「しあわせの経済」、「ローカル・フューチャー」などのキャンペーンを展開。著書に『スロー・イズ・ビューティフル』、『常世の舟を漕ぎて』など、映像作品に『アジアの叡智』(DVDブックシリーズ)など。DVDブック『レイジーマン物語―タイの森で出会った“なまけ者“』、『「あいだ」の思想』が6月に刊行される。
ー TABLE OF CONTENTS ー
▼僕たちは何を思い込み、何を信じているんだろう
▼「分離の物語」の大元にあるものとは?
▼自分の中に眠らされている「良い人」を解放してあげればいい。
▼無意味な仕事に、良心は耐えられなくなる
▼無意味さは、「あいだ」の欠如から生まれる。
▼「私」と微生物の「あいだ」にいる存在
▼助け合い・シェア・ケアの物語に立ち戻る
僕たちは何を思い込み、何を信じているんだろう
みなさんこんばんは、よろしくお願いします。辻信一です。
まず最初の質問。
みなさんは悲観的ですか、楽観的ですか。
これを、ぜひ考えてほしいんですね。
僕の今日の話は簡単にいうと「思い込みは怖い」という話なんです。
まず新型コロナウイルスです。今の時代、僕たちはコロナとどう向き合っていくべきか言うと、多くの人が「戦いだ」「戦争だ」と言うんですね。でも、ちょっと考えてみたら、これはおかしなことですよ。戦争というのは普通、相手がこちらを敵だと思っているから戦争です。
でも、果たしてウイルスは僕らを敵だと見ているんでしょうか。もう、そのあたりからおかしいですよ。
でも「戦争」と言うと、なんか”説得的”なんですよ。分かりやすくなっちゃうし、だから納得してしまうわけなんですね。この分かりやすさ、説得性が非常に怖いんです。
僕たちは人生を通じて、こうした論理をさんざん聞かされて、幼い頃から今までずっと刷り込まれてきているわけです。
例えば地動説や進化論。どちらも歴史的な世界観の大転回ですよね。
でも、どうでしょう、みなさん。例えば、進化論はみなさんの暮らしの中にどう生かされてますか? 世界観の転回に人々が馴染むには、どれだけの年月や努力が必要だったのか。
いまだに僕たちは、それに馴染んだとは言えない。アメリカを見てください。今でも多くの人が進化論を否定しているんですね。科学的な世界観が常識化する一方で、これまた信じられないくらいの人が、陰謀論を信じているんです。彼らの言う「正義の戦争」を信じているわけです。そして日本でもその影響を多くの人が受けています。ますます多くの人が不信感の塊となっています。
要するに、敵に対して、陰謀に対して戦っている。そんな絵を描いているわけです。世界中で自分なりの正義のもとに争いや暴力を肯定しています。
信仰と矛盾するからという理由で進化論を否定している人たちはともかく、進化論を知っているつもりの人々でも、いつの間にかもともとのCharles Robert Darwin(チャールズ・ダーウィン) の進化論とは別の、自分が信じたいような弱肉強食論にすり替えてしまっているんです。
いったい僕たちは何を思い込み、何を信じているんだろう。
何を信じたいんでしょうか?
「分離の物語」の大元にあるものとは?
福島第一原子力発電所の事故から10年が経ちました。僕たちは、10年目の3.11という、非常に特別な時を過ごしているわけです。
僕たちはあの時、いったい何を望んでいたんでしょう。自分は変われると思いませんでしたか?
世界は変われる、世界は変わるとみんなが信じていたんじゃないでしょうか。そして、どういう方向に変わると信じていたんでしょう。それはより良い自分ですよ。そしてより良い世界。
信じられたんですよ、あの時。じゃあその「より良い」というのはいったい何なんでしょう。それはいったい、その中身は何だったんだろう。
こうやって10年前を思い出してみると、逆に、僕たちは「どうやら信じたくないことを信じている」らしいということがわかる。そして、信じたくないことを、自分が信じたいことなのだと思い込んで、実際に信じ込み始めているんです。信じたくないけれども信じてしまう。そしてそれを信じたかったんだと思いこまされている。
それを、「セパレーションの物語」と、僕は呼ぶんです。分離の物語です。その物語の元には一種の性悪説があるんですね。
性悪説、ご存知ですよね。要するに人間の本性は悪だということ。貪欲で、自分勝手で、利己的で、競争的で人を押しのけてでも、自分のために、自分だけが良ければいい。人間はそういうものだということです。
これは生物界でいえば弱肉強食のイメージですよ。人間だけじゃない、生物もみんなこうやって戦い合っている、それが「生きる」ということなんだ。そんな物語です。
この物語はもう科学的にも道徳的にも否定されているにもかかわらず、僕らの多くはいまだに信じている。そして信じたくないはずなのに、いつの間にか信じたがってしまっている自分がいるわけです。
「The war of all against all(万人の万人に対する闘争)」という有名なThomas Hobbes(トーマス・ホッブズ)の言葉がある。自然状態にある人間は、孤独で、貧しく、悪辣で、暴力的で、放っておけば万人が万人に対して戦っている状態になると、彼は『LEVIATHAN(リヴァイアサン)』という著書で言ったわけ。そして、そういうダメな人間たちを、理性的に統制し、支配する、専制的な権力が必要だ、と論じた。
これが世に出た当時、日本は江戸時代です。それ以来ホッブズの思想はずっと人気絶大で、哲学の歴史の中でもっとも人々に影響を与えてきた哲学者が誰かというとまずホッブズの名があがるらしい。
問題は、僕たちがいつの間にか、そんなつもりじゃなかったのに、ホッブズ主義者になっちゃっているんじゃないか、ということ。そして、自分勝手なのも、悪いことをするのも、暴力を繰り返すのも、残酷なのも、人間の本性なんだ。だからこそ、法律も、刑罰も、死刑も、監獄も、国家の暴力である「正義の戦争」も必要なんだ、と正当化している。しまいには民主主義より全体主義の方が合理的だ、とさえ思えてくる。
利己的でずる賢くて残酷な人間をコントロールできるのが国家や法律です。そして罰則。罰則による脅しの最たるものが死刑。ホッブズが近代的な法学や政治学の基礎になっていますね。
それから宗教もいつの間にか、性悪な人間たちをコントロールしていくための手段になっていく。死刑制度や軍隊や核兵器といった国家暴力によって平和を実現するという、考えてみれば、明らかに逆立ちした論理がまかり通ることになった。
これはとてもシニカルな考え方です。人間というものについての、とっても否定的で悲観的な考え方です。それがどこにいきつくかというと、人間が悪いことをしないのは、罰を恐れているからで、他人に見つからなければ何でもするものだという考えです。人と仲良くしたり、友だちになったり、人を愛したり、親切にしたりするのは、みんな自分自身の利益のためにしているんだと解釈する。
悲しいでしょ、こういう考え方。でもそれが「現実的」な考え方だといわれるわけです。そしてこの考えに基づいた理論が社会で実に大きな影響を持ってしまっているわけです。孤立、喧嘩、憎しみ、争いが自然なもので、親切や、愛、寛大、といった素敵なものたちの方が不自然だというのです。
この性悪説の上に建てられ、栄えたのが経済学です。近代経済学の中心にあるのはホモ・エコノミクス(経済人)という概念で、すべての経済理論は、その上に乗っかっているわけです。
それは平たく言えば、「人間というものは他者を押しのけてでも自分の利得を最大限追求する経済的な生きものだ」という考えですが、僕たちはそれを未だに大学までいって、一生懸命学んでいる。人間はこうした利己的で貪欲なものだと人々に信じ込ませておく。実は、それはシステムにとっては、とても都合がいいことなんです。
これが有名な分割統治とか、分断統治と言われるもので、政治の常套手段なんです。
自分の中に眠らされている「良い人」を解放してあげればいい。
さて、性悪説が優勢だったとはいえ、いろいろな学問の分野でも、人々の思考の中でも、性悪説と性善説はずっとせめぎあっているんです。この数百年を見ると、さっきのホッブズの性悪説とフランスのJean-Jacques Rousseau(ジャン=ジャック・ルソー)の性善説が有名ですね。この2人ですよ。
しかしみなさん、珍しくグッドニュースです。今、性善説が急激に盛り返しています。生物学、人類学、心理学など、多くの学問分野で、性善説が復権している。これは面白いことですね。だって僕たちは今、結構絶望的なところにいるわけですから。もう人類全体が滅びるかもしれないっていう・・・。
僕は、いよいよ新しい時代が来たと思っています。性善説に基づくアクティビズムが、社会活動が、環境運動がいよいよ今、夜明けを迎えつつある。
僕が思うには、みなさんが今参加しているこのローカリゼーションやコミュニティの運動、エコビレッジなどはみんな性善説なんです。
そんな運動の夜明けに僕たちはいます。そしてそこに希望はあるんです。
とはいえ、実は僕は結構、現状に関して悲観的でもあるんですよ。なぜなら、今の気候変動を見ていると、どう考えてもまずいんです。もしかしたら手遅れかもしれない。残念ながらおそらくもう手遅れだと言っている科学者がかなり多いんです。
客観的に見たら状況は良くないんです。しかも”ものすごく”良くない。
しかし僕は、希望があると言いたい。
なぜならば僕たちの本性はこんなものではないからです。僕たちはある意味では、壁に阻まれているわけです。性悪説の壁に阻まれているんです。
でも希望があるというのは、僕たちを阻むその壁というのは僕たち自身の内にあるから。ひとりひとりの内側にあるからです。
だから簡単なんですよ。どうしたらいいかといえば、その壁を自分で取り壊せばいいんだから。そして自分の中の「良い人」、自分の中に眠らされている良い人を解放してあげればいいわけです。
先ほども話した通り、今年で福島の原発事故から10年が経ちました。あれから10年、いま何がみなさんの心にありますか。僕の心の中にいま痛みとしてあるのは、分断のことです。日米双方にルーツを持つNorma Field(ノーマ・フィールド)さんがこんな風に言っています。
2011年9月19日、東京・明治公園で福島在住の武藤類子(むとう・るいこ)さんが、何万という人たちを前に、感動的なスピーチをしました。あの時に彼女は、こう言っていたんです。
と武藤さんは訴えたんです。
でも、現実はどうだっただろう。人と人との分断、コミュニティとコミュニティの分断がつくられてきたわけです。そしてそれが固定化されてしまっている。これこそが悲劇でなくて、一体何だろう。僕は福島後の政治もまた、分割統治と分断統治の良い例だと思っています。
無意味な仕事に、良心は耐えられなくなる
さて、David Graeber(デヴィッド・グレーバー)という人類学者の『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』という本が、日本語に翻訳され、2020年7月末に出版されました。
このブルシット・ジョブ(bullshit job)という言葉は非常に重要だと思います。日本語で「クソどうでもいい仕事」と訳されている。
グレーバーによると、ブルシット・ジョブとは、単になくてもいい無意味な仕事というだけじゃなくて、その仕事を高給取りがやっている。そしてその人たちがひとつの階級を形成しているという。
高度の教育を受けて、だいたいカタカナで呼ばれるような職種に、プロとして働いて、多くがコンピューターの前で仕事している。その多くが、コロナで簡単にリモートに切り替えることができたんじゃないかな。
グレーバーによると、こうしたブルシット・ジョブに就いている人たちの本当の役割は、グローバルで新自由主義的な競争社会をこのまま続けていくしか道筋がないということを人々に納得させ、オルタナティブ(※)はない、もうこれしか生きる道はないんだと、人々に諦めさせることだというんです。
※(※)オルタナティブ:代案。既存の支配的なものに対する、もうひとつのもの。「広辞苑」参照。
世界中で大問題になっていた仕事をめぐる格差の増大が、コロナでますますはっきり見えるようになりましたね。ブルシット・ジョブの対極にある、エッセンシャル・ワークと呼ばれる、なくてはならない仕事につく人たちへの社会の苦境も浮き彫りになった。
でも、グレーバーはそれだけではなく、ブルシット・ジョブにつく人たちの多くが、たとえ高い給料をもらっていても、実は悩んでるというのを暴露した。なぜならば人間というのは無意味な、そしてどちらかといえばやらない方がいいような仕事を長くやることに耐えられない、そしてしまいには頭がおかしくなる。つまり、その仕事は単に無意味なんじゃなくて、それをする人々に害を、悪い影響を与えているというんです。
人がなぜブルシット・ジョブに長く耐えられないかというと、平たくいえば、人間の心の中に良心があるからだと思うんです。
グレーバーはなんと、去年の9月に亡くなってしまったんですが、その直前まで彼はコロナ禍でいよいよ見えてきた、人間にとっての仕事の本当の意味について語っていたようです。彼によると、本来の仕事というのは「ケア」のことではないか。他の人たちをケアするということが仕事なんじゃないのか。その意味でブルシット・ジョブというのは本来の仕事と対極にあるものです。
無意味さは、「あいだ」の欠如から生まれる。
「ケア」というと、僕たちは介護など、特定の職業を思い浮かべがちだけど、英語の「ケア」は、「関心をもつこと」や「思いやり」から、「面倒を見ること」や「助けること」まで、非常に幅広い意味をもっている。
僕はそれに付け加えて、仕事というのは、もともとはシェア、分かち合うものだったんだと言いたいんです。シェアとケア。それが人間の仕事の本質であり、そして本来の経済の中心にあったのではないか、と。
自殺や自傷、薬物依存。これこそがパンデミックじゃないかと思うぐらい世界中に広がっていますよね。そしてその原因として、ブルシット的な「無意味さ」と、「でもそれは仕方がないことだ」というシニカルな思いが世界に広がっていることがあるような気がする。ではその無意味ってどこから来るんでしょう。
僕は「あいだ」の欠如だと思います。間柄がない、つながりが感じられないから、何をやっても無意味なんです。虚しいんです。それを本当に悲劇的に残酷な形で表現してしまったのが、2016年の相模原障害者殺傷事件だったのかなと思います。
犯人の植松死刑囚はあの場で犠牲になった人たちは、「生きている意味がない」と言ったそうです。僕が想像するに、彼自身が幼い頃から、お前なんか生きている意味がないという社会からの視線や声に耐えきれなくなって、それを他者に投影してしまったんじゃないか。
さて人と人とのセパレーションの話をしてきましたけど、自然と人間との分離もまた極限に来ている。それが気候変動であり、環境危機だと思います。
ここにも自然界との戦争という物語があります。僕たち人間は長い間、放っておいたら脅威となる自然界と戦って、それを征服して、思うように支配してやろうという西洋近代の物語でずっとやってきたわけです。
その物語で、英雄的な役割を担ってきたのが科学技術です。そして今、僕たちは AIやロボット、その他のハイテク機器、それからワクチンやスーパーコンピューター、医薬品。このようなものにしか希望を見いだせないというところまで来てしまったわけです。
自分たちがつくったはずの物語なのに、自分たちが追いつめられてしまった、というわけですね。
自然との分離というのは、例えば単に森を切って環境を破壊するというだけじゃありません。
例えば、食べ物です。私たちが日々口にしている食べ物から、どんどん意味が蒸発していってしまった。単に栄養補給という意味しかない。そのうち全部ピルになって、それを飲んで生きていけるんだから、まあいいか、となるのかな。その方が手っ取り早くていい。食事や、料理の時間を省けるって?
しかしこの無意味さに人間というのは、耐えられないと僕は思います。食べ物は無数の関係性—つまり、「あいだ」でできている。空気だって、単にモノとしての空気自体じゃない。道端の花も鳥も、僕たちとの不思議な縁で結ばれ、意味に満ちている。その意味を一切感じられなくなったどうでしょう?
僕たちも生き物ですから、この無意味さ、「あいだ」の欠如、関係性の分断に精神的にも身体的にも耐えられなくなってきているんじゃないか。
じゃあ昔の人たちは、そんな科学的なことを知ってたのか、とみなさんは言うかもしれない。
もちろん今の意味で科学的には解明できてなかったかもしれない。しかし、みなさん考えてみてください。
発酵って何ですか? 微生物との付き合いですよ。科学的には解明できなくても、もう何千年と微生物と付き合って、そこに生きている「何か」によって僕たちは自分の生存を支えてきたわけです。
もちろん、自分の体に100兆個もの微生物が生きていて、それも人間の生存を支えている、ということはつい最近まで知らなかったわけだけど、それでも、人間には昔から、自然との共生という発想があったわけです。共に生きるというシェアやフェア(※)の感覚があったんです。それを僕たちは今までに相当失ってしまったけど。
(※)フェア(fair): 公正な、公平な「ジーニアス英和辞典」参照。
さて、こんな風に言う人がいるかもしれない。
いやそれは自然界との共生でも他者との共生でもない。我々は単に利用していたんだ。それは功利的な行動であって、自分たちの利得のためだ。
しかし、そうでしょうか。他の生き物を、太陽や風や火や土を、単なる資源とみるようになったのは、人間の歴史の上でつい最近のことです。
功利的な態度、利己的な態度は、むしろほとんどの社会で、忌避されていた。儀礼とか祈りも、愚かな人々の擬似科学ではなく、自然界との、そして人間同士のコミュニケーションなんです。自分が食べることになるものたちとも語り合い、つながる。食べることはつながることなんです。
一方、現代の科学技術のほとんどは、功利主義と実用主義に基づいています。そしてそれは性悪説の物語に支えられている。もう一度僕たちで性善説に基づく科学技術へと組み替えていかなきゃいけないんじゃないでしょうか。
「私」と微生物の「あいだ」としての「自分」
コロナを通して僕たちは、否いやが応でも、微生物やウイルスといった小さきものたちを目の前にしたわけです。
僕らの身体には、37兆といわれる人間の細胞の何倍にもなろうかという膨大な数の微生物の細胞たちが、共に生きているそうです。つまり、どこからどこまでが「私」で、どこから先が「他者」かと区別ができないくらいに相互に複雑に絡み合っている。
つまり、僕たちは「あいだ」に生きている、つまり、「私」と微生物の「あいだ」にあるどっちつかずの存在なんです。
それと同じことを、僕たちはウイルスについても考えさせられたわけです。ウイルス学というのも今ものすごい進展を遂げていて、ウイルスが人間の体内で健康維持を助けているとか、進化の歴史の中で決定的な役割を果たしたということがどんどん明らかになってきている。つまり、ウイルスのおかげで、人間は人間となり、今こうして生きてもいられるわけです。
でも僕たちは、ウイルスとの戦争とか、ウイルスをやっつけろとか言ってますよね。
でもみなさん、考えてみてください。ウイルスはどれだけいるか知ってますか? 海の中だけで10の31乗個だって。そして同じぐらいの数が空気中にもいる。僕たちは文字通り、ウイルスの海の中で泳いでいるわけです。
20世紀を代表する進化生物学者Lynn Margulis(リン・マーギュリス)は原核生物(※1)が共生することで、真核生物(※2)へと進化したという細胞共生説を唱えたんだけど、その「共生」という言葉がいよいよ今、真実味をもって僕たちの前に迫ってきているんじゃないかな。
(※1)原核生物:細胞内にDNAを包む核(細胞核)を持たない生物のこと。すべて単細胞生物。
Wikipedia参照。
(※2)真核生物:動物、植物、菌類、原生生物など、身体を構成する細胞の中に細胞核と呼ばれる細胞小器官を有する生物。Wikipedia参照。
これは最良のグッドニュースなんです。
弱肉強食や、適者生存、「利己的遺伝子」などの、一面的で単純化された進化論から、「共生」を組み込んだ進化論へと、進化論が脱皮するのに合わせて、僕たちの世界観もそれこそ進化しないとね。
人間は競争的であり、闘争的である前に、実は共生的なんです。
教育の世界でも今すばらしいことがいっぱい起こっていますね。全国に広がった森のようちえんや、「きのくに子どもの村学園」、「自由学園」、そのほか様々なフリースクール、これらの取り組みに共通しているのが性善説ですよ。
子どもたちよ、きみたちには素晴らしい人間性がちゃんと備わっている。それを信じよう。それを信じて、僕たちも、君たちを見守り、必要な時はいつでも手助けしよう。そういう人間同士の信頼にもう1回戻ろうよということなんです。
みなさん、ひきこもりというのが大問題ですよね。でも、彼らは競争や分離の物語に耐えられなくなった人々です。その意味では、そこにこそ希望があるのかもしれません。強がって競争しているんだ、勝ち抜いていくんだ、と言っている人たちよりもね。
助け合い・シェア・ケアの物語に立ち戻る
いやあ、限られた時間に欲張って、詰め込みすぎちゃったな。最後に今日、僕が言いたかったことをまとめてみよう。
まず、僕は性善説を信じているということ、そして、みなさんも、性善説だと、カミングアウトしてほしいということです。でも性善説をとる人は、必ずリスクを負うことになるのを覚悟しないといけない。
特に僕は学者の端くれでしょう。学者が性善説をとると、すぐ「甘い」「ナイーブだ」「ロマンチストだ」と言われるの。それは楽観論であって、「現実的じゃない」って。でもみなさん勇気を持ってください。
いいじゃないですか、ナイーブでも、ロマンチストでも、楽観論でも。甘んじてそう言われましょうよ。ずっと世界を支配してきた「現実主義」という名の性悪説が僕たちを、こんな危機的なところまで連れてきてしまったんだから。
僕たちは人間の本来の良さというものを信じているんじゃないか。
そして自然界が私たちにとっての戦争相手じゃなくて、自分たちをいつも、ずっと、これまでも、これからも支え続けてくれている、ということを信じている。
太陽や、植物、土や微生物だって、僕たちを支えてくれている。
でも、自然界のものたちには、駆け引きや見返りなんてないでしょう?
そこにあるのは、無償の愛だけですよ。
もう一度、僕たちは愛の物語、
ケアの、助け合いの物語、シェアとフェアの物語に、
立ち戻らなければいけないと思います。
それこそが「ラジカル」ということなんです。ラジカルを急進主義だなんて訳してはいけない。ラジカルというのは本来、“根源的な”という意味ですね。本当のラジカルとはそういうこと。
そして本当のムーブメントも、僕はそこにあると思いたい。僕の先生でもあり、親しい友人でもあるSatish Kumar(サティシュ・クマール)はいつも言うんです。
ぜひ、みなさんも、自分の中にいる楽観主義者に、理想論者にチャンスを与えてあげてください。
だから、みなさん、福島の事故から10年の春を「お祝い」で迎えましょうよ。
単に後悔や悲しみや挫折感で迎えるんじゃなくてお祝い。何をお祝いするのか。それは、”humankind”(ヒューマンカインド)としての自分たちを、です。ヒューマンカインドという英語は、人類とか人間とかという言葉だけど、ほら、その言葉はヒューマンとカインドという二つの言葉があり、カインドは親切という意味でもあるでしょ。ダジャレみたいだけど。
その親切な人間という意味での、ヒューマンカインドとしての自分、そしてニューマンカインドとしての、地域の人々、コミュニティの人々、子どもたち、赤ちゃんたち、そしてさらに広い世界の人々を信頼し、そして祝う。自分の中の「よき人」、「よき世界」を、僕たちはずっと守ってきているんです。だからこそ、こうやって生き延びてきて、ここにいる。
すぐに分かります。自分自身を眺めていれば、よき人は必ずみなさんの中にある。ちゃんとあるんです。それを信じ、そして祝う。そして、そんな僕たちを支え続けてくれているよき自然を、よき世界を祝おうじゃないですか。
それがもともとのアースデイの意味。そう、毎日がアースデイですよね。
毎日がお祝い、アースデイ・エブリデイなんですよ。
みなさんが取り組んでいるローカルな運動、エコビレッジの運動、エコロジーの運動、コミュニティづくりの運動というのは、小さな規模で、もう一度人間の原点に戻ってみよう、人間の性善説に戻ってみようということだと思います。それこそが、スピリチュアリティの意味だと、ぼくは思うんです。
ありがとうございました。
(編集構成: 辻信一、茂出木美樹)
(企画: greenz challengers community, 鈴木菜央)
(取材協力: NPO法人GEN-Japan)
(写真提供: 廣川慶明、鈴木菜央、スズキコウタ、パーマカルチャーと平和道場、齋藤隆夫)
– INFORMATION –
日時:2021年6月12日(土) 10:00〜20:00
会場:オンライン(Zoom)
参加費:無料
ホスト:辻信一(ナマケモノ倶楽部)、鈴木菜央(NPO法人グリーンズ)、片山弘子(NPO法人GEN-Japan)
ゲスト:たいら由以子(ローカルフードサイクリング)、古村伸宏(ワーカーズコープ連合会)、平野馨生里(石徹白洋品店)、小野寺愛(そっか)、山口愛(イマジン盆踊り部)、その他多数!
申し込み:https://peraichi.com/landing_pages/view/localizationdayjapan