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「何もないわたし」から「すでにあるわたし」へ ― “わたし” をめぐる冒険 第1回・近内悠太さん

連載『”わたし”をめぐる冒険』は、意識の探検家・三好大助が、様々な研究者・実践家のもとを訪ね、「わたしの全体性を祝福する生き方」を探求していく対談シリーズです。

ふとした瞬間に「自分には何もないなあ…」と絶望した、という経験はきっと誰にでもあるはず。そんなぽっかりあいた穴を埋めるために、大きな夢を持ったヒーローのように”生きている意味”を求めたり…

しかし「”何もないわたし”を埋めようとするアクションでは、本当に満たされることがない」と、三好さんは実体験をもとにいいます。本当に必要なのは、”何もないわたし”から”すでにあるわたし”へと認識をアップデートすることなのだと。では、具体的にどうやって?

そのヒントとして三好さんが注目したのが、”贈与”というキーワードでした。そこで対談シリーズ第一回となる今回は、『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』著者の近内悠太さんをゲストにお招きし、”贈与” というメガネを通じて世界を捉え直す方法について、お話を伺いました。

(※)本対談はオンライン上での公開トークイベントとして開催しました。

左:近内悠太さん 右:三好大助さん

近内悠太(ちかうち・ゆうた)
1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。『世界は贈与でできている』がデビュー著作となる。
三好大助(みよし・だいすけ)
意識の探検家。1988年島根県生まれ。バングラデシュのNGO、Google などで、テクノロジーを通じた社会課題の解決に情熱を注ぐ。その経験から「この世界の在りようは、わたしたち一人ひとりの意識の在りようとつながっている」と気づき、内的世界の探究を開始。
現在はファシリテーターとして独立し、企業の組織開発や個人の内的変容の伴走を行っている。とにもかくにも、スパイスカレーが大好き。

シャーマニズムと贈与

三好さん こんにちは、三好大助といいます。僕は「無意識のはたらき」や「深層心理」を専門に探究しているんですが、近内さんの本は僕の興味に明確な輪郭を与えてくれている感覚があって。とにかく感動したというか、衝撃を受けたんです。まずはそのあたりから、お話できたらと思います。

近内さん ありがとうございます。自分でもジャンルがよくわかんない不思議な本を書いてしまった気がしていますが、今日は教育に関わりながら哲学をしている人間が、どうしてこんな本を書いたのか、お伝えできればいいかなと思っています。よろしくお願いします。

三好さん さっそくなんですが、僕は「一人ひとりの意識こそが、現実をつくっている」と信じていて。「どんなメカニズムでそうなっているんだろう」とさまざまな理論を学んできたんですね。

すると、有名な理論を打ち立てた研究者たちが、ネイティブアメリカンや南米のシャーマニズムを対象にフィールドリサーチを行っていたと知ったんです。「これは本流に行くしかない!」と、3年前からネイティブアメリカンの長老や南米のシャーマンのもとを訪れるようになりました。

実際にさまざまなイニシエーション(通過儀礼)を体験してきたのですが、そこでの気づきとこの本の内容がすごく符合していて驚いたんです。

近内さん なるほど。それは気になりますね。

三好さん 僕が体験した様々な部族のイニシエーションには、共通する3つのステップがあって。まず最初に、「自分には何もない」「自分ひとりでは生きられない」ということをいろんな体験を通じて徹底的に叩き込まれるんですよ。“自我に白旗を挙げさせる”というか。

そうして「自分には何もないんだ」という体感の先に「自分を越えた存在から、実はどれだけ生かされていたか」という気づきが訪れます。これが第2のステップ。親はもちろん、先祖や自然からも、どれだけすでに与えられていたか、愛されていたか、を体感的に思い出すプロセスです。

そしてその気づきから、この“受けとってしまったもの”を「次へ分かち合いたい」という気持ちが自然に生まれる。この使命とも言える感覚を呼び覚ますのが最後のステップです。

こうした3つのプロセスを、様々な儀式体験を通じてくりかえし行い、自分の気づきを深めていく。僕自身も長老たちから様々な体験をさせてもらって、たくさんの変化がありました。その学びをちょうど振り返っていたときに出逢ったのが、まさしく近内さんの「世界は贈与でできている」だったんです。

近内さん 確かに、かなり重なるところがありますね。三好さんがなぜ興味をもっていただいたのか、そして今日の対談の意味がよくわかりました。

『ONE PIECE』も贈与の物語だった

三好さん じゃあ僕のイニシエーション体験と近内さんの本の内容が、どんな風に重なっているのかということで。こちらが贈与の5つのステップを図にしたものなんですけど。

まず①「実は与えられていた!」と気づくことからはじまる、とありますよね。自分がすでに受け取っていることに気づくこと自体が、実は与えてくれていた人たちへの返礼にもなると。

近内さん 「贈与」っていうと難しく聞こえるかもしれませんが、英語でいうと簡単で「ギフト」なんですよね。有形無形のプレゼントであり、とりあえず本の中では「お金で買えないもの」としています。例えば「大切な人からお手紙がほしいな」と思ったとしても、「ごめん、1万円あげるから書いて!」ってならないじゃないですか(笑)

親から子への愛とかも、生まれながらに子どもから「ごめん、さみしいから100万円で10年間ぐらい愛してくれる?」って絶対にならないですよね。

三好さん そうですね(笑) 取引じゃ手に入らないもの、それが贈与だというのはとっても腑に落ちます。

近内さん 図の中で、上から「私」に向かっている矢印がギフトなんですが、そこには驚きがあるんですよね。親や友人関係のありがたさみたいなものは、もらっている瞬間にはなかなか気づけなくて「実は与えられていた」っていう過去形なんです。

贈与というと、よく「与えることからやってみましょう」みたいな話になるんだけど、僕の主張は「それはできません」ということ。自分が”贈与の起源者”になるのではなく、「受け取ってしまったから誰かに贈らなければ」とどうしようもない思いから、贈与は始まると考えています。

三好さん そのときに私からパスを送る②“宛先”の存在を想起できれば、贈与が続いていくんですね。でも、それは届くかどうかはわからない、 ③“祈り”と共に贈るものであると。

近内さん そもそも私が気づかなければ受け取れなかったのだから、自分が贈ったものも今すぐ気づかれるわけないですよね。だからこそ「いつか届けばいいな」というのが祈りです。

ギフトは危ないというか、呪いにもなるんですよ。こっちには思いはないんだけど、向こうがこっちのことをすごく思ってくれているとして、500円とか1000円ぐらいだったら「あ、ありがとう」ってもらえるけど、高価なものだったり、すごく努力してつくってくれた手づくりのものだったりすると、ちょっと怖さを感じたりするじゃないですか。

どうしてかというと、受け取ってしまうことでつながりが発生してしまうからなんです。祈りではない贈り物は相手を縛ってしまうことにもなる。

三好さん そこに期待があるとよくないんですね。いつか④他者が「与えられていた!」と気づく、そのことを祈ることで純粋な贈与が成立する。

近内さん 高校生にもわかりやすいようにマンガをよく引用するんですけど、『キングダム』も『ONE PIECE』も『もののけ姫』も、売れているマンガや小説ってだいたいこの構図になってるんですよ。『ONE PIECE』第一話のシャンクスとルフィの話ってまさにこの形をしてませんか?

三好さん 確かに!!

近内さん シャンクスは片腕を失ってまで、ルフィを助ける。しかも、自分の麦わら帽を「立派な海賊になって、いつか返しに来い」って託す。ルフィが見返りも求めずに、筋の通らないことに対してどうしても動いてしまうのは、ちゃんと先行する贈与があったからなんですよね。

三好さん そうやって突き動かされるように行動した結果、周りの人から思わぬ形で感謝が返ってくる。その瞬間、 ⑤「このためだったのか」と”生まれてきた意味”の蓄積が発生すると。なるほど、とても普遍的ですね。

“セカイ系の贈与” の罠

三好さん この本には、“セカイ系の贈与”というキーワードが出てきます。自分の存在意味を分かりやすく実感したいがために、世界をより良くするアクションを僕らは試みると。たしかにこうした欲望は、僕を含め誰しもにあるよなあって思って。

さっきのルフィのように、ミッションを掲げて困っている人を助けるってやっぱりかっこいい。そしてその貢献によって人生の意味を即時的に満たしたいっていう気持ちも、理解できますよね。

近内さん たとえば、僕らと同じ世代の人間って、災害現場みたいなところに行ってボランティアをすることにすごく熱を持っているみたいです。統計を見るとその理由の多くが「誰かの笑顔を見たいから」とか「ありがとうと言ってもらいたいから」とかなんですけど。一見贈与に見えて実はこれ、贈与じゃないんですよ。そこには「~~したい」という自分の願望や期待がある。

三好さん つまり、見返りを求めてる。

近内さん 逆に若い世代は献血する人がすごく減っているみたいで、それはどうしてかというと、自分の血液がどこで使われるのか、誰に「ありがとう」って言ってもらえてるのか実感しにくいから、だというんです。自分の役割というか、”この私” の活動が世界に反映されて、世界がより良いものに変わるという実感がほしい。

三好さん なるほど。たしかに“セカイ系の贈与”の誘惑は、特に若い世代に強そうですよね。それ自体に良い悪いはないと思ってはいるものの、実は僕、実体験として”セカイ系の贈与”によって過去に痛い目にあっているんです。

近内さん おお、それはどんな?

三好さん 実は以前、3年くらいバングラデシュに住んで、教育支援の仕事をしていたんです。もちろん「子どもたちのために」っていうピュアな動機もあったし、実際に村の子どもたちや親御さんたちに喜んでもらえて嬉しかった。

でも、そうやっていっときは満たされるんだけど、しばらくすると「もっと大きなインパクトを生み出さなければ」って謎の焦りが生まれだして。だからまた頑張って結果を出すんだけど、また「もっとしないと」って焦りがやってくる。そんなことを何度も繰り返すうちに、とても苦しくなってしまったんです。「たしかに喜んでもらえてるけど、僕の心は全然満たされないぞ」って。

近内さん なるほど。

三好さん この体験から今感じているのは、“セカイ系の贈与”に走ったとき、その本人には本当の安心と充足はやってこないんじゃないか、ということなんです。それはその贈与活動自体の良し悪しとはまったく別の話で。ここに、「“セカイ系の贈与”の罠」があるんじゃないかと思っています。

近内さん それはあるかもしれないですね。

三好さん たとえば、ルフィは「シャンクスから不当にも与えられてしまった」っていう自覚を基盤にしているから、見返りも求めず行動するし、「もっと!」という謎の焦りもないわけですよね。

片や僕は、受けとった贈与への感謝や恩から動かされていたとは言いづらくて。やっぱり「自分の存在価値を満たしたい」という想いも大きかった。つまり「私はこのままでは十分な価値がない」という欠落感が、意識の根底にはあったわけです。その欠落を埋めるために、贈与者になろうとしていたとも言えるなと。

近内さん それは危ういところでしたねえ。

三好さん そして、潜在意識で「そのままの自分では価値がない」と思っている以上、どんな成果を出しても「まだ足りないんじゃないか」という怖れが消えることはない。

”セカイ系の贈与”は、「与えてもらった結果、自分にはこれが“ある”」という“充足”ではなく、「自分にはこれが“ない”」という“欠落”を起点にしているが故に、結果「やっぱりまだ“ない”」という“欠落”の体験が続いてしまう。そんな罠があると思ってるんです。

近内さん この罠にハマってしまって、結局満たされなかったのが、バングラデシュの体験だったわけですね。

三好さん そうだったんですよ。とはいえ、この罠があることは分かっているんだけど、やっぱり僕らは誘惑されちゃうじゃないですか。特に若い人たちは、この“セカイ系の贈与”の誘惑とどう向き合ったらいいと思いますか?

近内さん 実際に現場で活動している人たちにこの言葉が刺さるかどうかはわからないんですが…少なくとも僕の場合は「世界はほっとけばぶっ壊れるんだから、少しでも阻止できているなら、それでいいじゃん」と思っているんです(笑)

教育なんてまさにそうですが、子どもたちが自分の意図どおりに成長するわけないんですよ。とはいえ「僕が関わらなかったときよりは、この子たちが何かを知ったり、何かに気づいたり、あるいは『この世界は住むに値するのかな』くらい、何となく思ってくれたらいいな」みたいな、そんな気持ちなんです。

三好さん なるほど。自分が生み出している価値や意味に、過剰に期待してないんですね。

近内さん 僕の世界の見方って、デフォルトが低いんですよ。エントロピーでいえば、どんどんぐちゃぐちゃになるわけで、こうして人間同士がコミュニケーションできていること自体、物理学的には奇跡なんです(笑) そのデフォルトから考えたら、ちょっとでもこの世界にコミットできただけでも十分幸せです。

三好さん おもしろい。この“セカイ系の贈与”の誘惑との向き合い方は、今回の対談に限らず、もっと探求してみたいテーマなんですよね。

この世界との出会い直し

三好さん ちなみにさっきの話には後日談があるんです。バングラデシュでの活動に自分の心がいよいよ追いつかなくなって、「何のために頑張ってきたんだ」「これからどうしたらいいんだ」と、かなりどん底まで落ちてしまったんですね。

近内さん なんと。

三好さん その絶望感は一人じゃもうどうしようもできなくて。そこである友人に、抱えている感情すべてをありのままに吐露したんです。

子どもたちのためにと思ってやってきたのに心が追いつかない苦しさとか、応援してくれている人たちに応えられない罪悪感とか。そしたらなんと、その子の方が泣きはじめて。「理由は言わないけど、この話を聴いて救われたよ。ありがとうね」って言われちゃったんですよ。

近内さん おお。

三好さん 僕としては、衝撃で。一体何が起きてるのか分からなかった。分からなかったけど、その瞬間素直に思えたんです。「ああ、この体験にもちゃんと意味があったんだ。この体験は、今日彼女に話すためにあったのかもしれない」って。

つまり、僕としては期せずして彼女に何かを“与えてしまった”。その結果、彼女からささやかだけど“生きた意味”を贈り返されてしまった。近内さんの贈与論に照らすと、まさしくそんな体験だったんですね。

近内さん まさにそれは世界との出会い直しですね。僕はこの本は「出会い直しの哲学」だと思っているんですが、自分が受け取っていたことだけでなく、贈与していたことに後から気づくと世界の見方が一変しますよね。そうやって世界と出会い直したら、もう明確な意図から離れて、体が勝手に贈与している状況になる

三好さん 体が勝手にって素敵だなあ。このケースで言えば、僕の身に与えられたものは「挫折の体験」だったのかもしれません。それをありのままに分かち合うことが、結果として贈与になってしまい、彼女から“生きた意味”という返礼を受けてしまった。

一見ネガティブに見える体験でも、そこに与えられているものに自覚的になることで、僕たちは“セカイ系の贈与”のループからも抜け出せるのかもしれませんね。

近内さん 贈与の話をすると「私は人と比べて受け取っていない」というふうに量の話をする人もいますが、「何かを受け取っているかもしれない」という認識のアップデートだったら誰でもできると思うんです。世界と出会い直す権利は誰にとっても平等だし、案外世界はフェアにできている。そこに賭けてみたいな。

三好さん いいですね。わくわくします!

近内さん 僕は別に「贈与で世界を満たそう」と思っているわけではないんです。お金を払えば解決できることはたくさんある。でも、それはとても自由にみえるけど、それだけだとサバイブできなかったり、寂しくなってしまったりしますよね。

自由と見せかけてそんなに自由ではない、そんな資本主義の隙間に贈与を差し込んでいきたい。贈与の構造についてのレンズを持つことで、今までよりも生産的に世界の説明がつけばいいな、というのが哲学者としての思いです。もちろん「みんながかけるべき」だとかは思っていませんし。「そんなのいらない」というのもあり。

ナラティブと霊性

三好さん 最後に、せっかくなので参加者からの質問も取り上げてみますね。「僕たちが“受け取っている”ことに気づくためには、何が大切になってくるのでしょうか。身体感覚を開くことは一つかなと思っています」とあります。いかがでしょうか?

近内さん 身体感覚ももちろんですが、僕は概念と身体のあいだに”物語”、つまりナラティブがあると思っていて、それがとても大事なのではないかと思っています。

三好さん おもしろいキーワードが出てきましたね。身体でその概念を「体験」するにあたって、橋渡しとして物語の存在があると、その「体験」がより一層深まる、ということですかね?

近内さん たとえば僕たちは「犬」という概念だけでなく、その振る舞いや社会の中での位置づけによって「犬」を理解していますよね。アタマとカラダの間にある物語から世界に介入することで、贈与に気づきやすくなるのではと思っています。

三好さん なるほど。どんな物語がそのコミュニティに共有されていると、僕たちは贈与に気づきやすくなったりするのでしょうね。文学とか宗教の役割は大きそうです。

近内さん 贈与を社会的に実装するには、宗教というか”霊性”が近道だと思っています。僕らはお守りをゴミ箱に捨てたり、踏みつけたりできないじゃないですか。露骨に習ったわけでもないのに、なぜか無意識にできちゃう。

三好さん 確かに! 目に見えない“大なるもの”への畏怖って、無意識への影響が大きいですよね。すでに与えられている贈与への気づきと、誰かへ与えようという感覚、その両方を自然に喚起してくれそうです。

近内さん ある地方に「廻り地蔵」という習慣があるんですが、お地蔵さんを地域の人たちで廻していくんです。その廻すついでに「みかん余っているからいらない?」みたいな偶発的な会話が生まれていく。そうやって地域の共同体の結びが維持されているようです。

三好さん なるほど。これはおもしろいですね。せっかくの対面の機会だから贈与する、というのももちろんあるんでしょうけど、「お地蔵さんが見ている」ということが、日頃受けとっているものと自分が与えているもののバランスを内省する機会になっていそう。これはまさに“霊性”によるナラティブの力ですね。

近内さん そうした古くからの習に息苦しさもあるかもしれませんが、共通の霊的な心境を媒介に贈与を実装することは、意外とありえると思うんです。仏教でいうとカルマといいますが、「どうしてなのかはわからないけれど、しかたなくそうなった」という次元の贈与もありますよね。

三好さん そういう「気づいていたら与えてしまっていた」という贈与には惹かれるものがあるなあ。

近内さん 動物的な反応でもないし、明確な意図を持っていたわけでもなく、体が先に動いてしまう。そういうところに”人間らしさ”のようなものがある気がして、人間の本質としての霊性が贈与論を補完するんじゃないかなって思っています。またゼロからいろいろ勉強しなきゃいけないので、ちょっと時間がかかってしまうかもしれませんけど!

三好さん それは楽しみです! いまこのタイミングでこの本が出ていることも、重要な大きな流れのひとつなのかなと思いました。

近内さん 緊急事態宣言もありましたけど、何らかの形で新しい日常がまた通常運転として戻ってきますよね。そうするとまた、さまざまな贈り物に気づきにくくなってくると思います。そんなとき、もう一度世界と出会い直すにはどうしたらいいか、そんなふうにこの本を読んでいただけたらいいなと思います。

(対談ここまで)

 

– 三好大助より –

いやあ、とっても刺激的で、わくわくする対談でした!どんな体験にも、自分にすでに与えられているものがある。その体感をひらいていくこと。それがどれだけ人生の豊かさを決めるのか、身にしみた時間になりました…!

次回は、近内さんの贈与論を北極星にして、
・「では具体的にどうやって、”与えられている”という体感をひらいていけるのか?」
・「”セカイ系の贈与”の誘惑とどう向き合っていけるのか」

といったトピックを、新たなゲストの方と探求してけたらと思います。

『 “わたし” をめぐる冒険』は、続きます!次回もお楽しみに!

(企画:税所篤快)
(運営サポート:宮川卓也・山内健)
(協力:富川直泰)
※敬称略

– INFORMATION –

記事のキーワードにもあった”霊性”や古代の知恵を深堀りしていく、三好大助さんと「グリーンズの学校」学長・兼松佳宏との新クラス「いかしあう”叡智”研究室(ネイティブアメリカンから空海まで)」が10月8日(木)からスタート! 詳しくはこちら