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福岡の障害者支援施設「工房まる」の樋口龍二さんたちが変えようとしている、障害者と社会の「間(あいだ)」にあるもの

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特集「マイプロSHOWCASE福岡編」は、「“20年後の天神“を一緒につくろう!」をテーマに、福岡を拠点に活躍するソーシャルデザインの担い手を紹介していく、西鉄天神委員会との共同企画です。

福岡の開かれた障害者支援施設「工房まる」。利用者のアート作品をデザインに使ったカレンダーやTシャツなどのグッズで、福岡で有名になりました。現在は、福岡市内3ヶ所の作業所に45人の利用者がいます。

最近は全国的にもアートを切り口にした障害者支援を時々見かけますが、工房まるではなぜアートだったのでしょう?

今回は、工房まるを運営する「NPO法人まる」代表理事の樋口龍二さんに、工房まるがアート活動を始めたきっかけや経緯をうかがいました。
 
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樋口龍二(ひぐち・りゅうじ)
NPO法人まる 代表理事株式会社ふくしごと 取締役副社長
1974年生まれ、福岡在住。1997年、染色会社在職中に福祉作業所「工房まる」と出会い、障害のある人たちの表現に魅了され即転職。2007年に法人設立と同時に代表理事就任後、東京・奈良のNPOと障害のある人たちのアートを仕事にする「エイブルアート・カンパニー」を設立するなど、他団体と共同し九州/福岡を中心に障害のある人たちの表現を社会にアウトプットする環境を構築している。2015年2月には、障害のある人たちの日中活動や、就労を支援する福祉事業所の商品と物語を発信する「(株)ふくしごと」を、地元福岡の企業やクリエーターたちと共同設立。既成の「福祉」「障害者」といった概念を心地よく揺さぶり、柔軟に対応できる”まちづくり”としてさまざまな活動をおこなっている。

衝撃的だった初めてのコミュニケーション

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「工房まる」から生まれた作品

福祉作業所「工房まる」がオープンしたのは1997年。立ち上げたのは、現在も施設長を務めている吉田修一さんです。(設立当初の吉田さんの熱い思いが書かれてある「設立趣意書(PDF)」は一読の価値あり)樋口さんが工房まるを訪れたのは、その1年後のことでした。

樋口さんは、今でこそ障害者支援に関わっていますが、高校卒業後は久留米の染色会社に勤めていました。高校時代にバンドに熱中していて、バンド活動を続けるために、工場のラインの仕事を選びました。

しかし、入社して数年でバンドは解散してしまいます。一番やりたかったことが無くなってしまい、適当に決めた就職先を「辞めたい」と思うものの、同時に「辞めてどうする?」という自分もいて、「自分は何がしたいんだろう?」と葛藤する日々。

一方、会社では、仕事をがんばればがんばるほど「余計な仕事を増やさないでくれ」と言われる始末。何をすればいいのか分からないまま、とにかく始業時間になったら会社に行き、仕事をして、終業時間までカウントダウンという毎日でした。

そんなある日、会社が休みでヒマを持て余していた樋口さんは、昔のバンド仲間だった吉田さんに電話しました。そこで工房まるのことを聞いたのです。

「工房まるというのはどうやら障害者の施設のようだ」という程度の認識で、「君みたいなキャラが来ると面白いから遊びに来てよ」と言われるがまま、樋口さんは生まれて初めて障害者の作業所を訪れます。
 
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小学校の頃は特別学級の子とうまくやっていた方だったので、全然問題無いだろうと思っていたんです。それが作業所のドアを開けた瞬間に「わ、どうしよう…」とちょっと心が引いてしまって、どうしていいか分からなくなったんです。

普通に「こんにちは」と言えばいいのか、最初の一声のテンションが分からない。それに吉田の目もあるから、元気に明るく「こんにちは!」と言うのも恥ずかしい。そんな色んな気持ちが交錯して、30分くらい吉田の事務所からアトリエの方に行けませんでした。

見かねたのか、吉田さんが作業所にあったギターを「弾いてみたら?」と樋口さんに手渡すと、ギターを手にした途端利用者のみんなに囲まれ、弾くしかない状況に。

そしたら、何て言えばいいのかなあ……

彼らは、僕の弾いてる「音」を純粋に聞いてくれてる感じがしました。それまで人前でライブとかもやってたんですけど、それよりも全然楽しかったんです。

僕がギターで強弱を付けると、それに合わせて動いたり、テクニックを駆使して盛り上げたり、急に寂しい感じにしてみたりすると、みんなも盛り上がったり、寂しい感じになったり。そういうコミュニケーションが、ギターを通してあっという間にできたんですよ。

さっきまでの緊張していた気持ちと、ギターを弾いた時の楽しさとの落差が激しすぎて、泣きそうになったほど。

そこでふと「さっきまで、どう接すればいいのか分からないと思っていたのはなぜだろう?」という疑問が頭に浮かびました。

工房まるこそ自分の居場所になる

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会社で悶々とした日々を過ごしていた樋口さんは、「工房まるこそ自分の居場所になるかも」と思いました。

その日の夜、吉田さんに自分の感じた気持ちを話すと、吉田さんも最初は障害者との接し方が分からずに戸惑ったこと、そして大学で写真を専攻していた吉田さんが、カメラというツールを通してすんなりとコミュニケーションができた経験があったことを聞きます。

障害者と社会との接点は、既成概念や固定観念に囚われていることが多いのかもしれません。でも、実際に障害者とコミュニケーションした樋口さんと吉田さんは、その意識や価値観のギャップのような「間(あいだ)」に違和感を覚えました。

こういう福祉の世界に入ると、人のためにやっていると思われることが多いんですけど、僕はそれは全然無かったんですよ。

「この人のためにがんばろう」というより、「この人たちと一緒に、社会に色んなことを伝えていけるんじゃないか」と思ったんです。一緒に音楽のライブをやるような感覚です。

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樋口さんがまるで働き始めた頃は、まだアート作品をつくる前で、木工作業でマグネットや時計をつくっていました。売れない時期もありましたが、雑貨屋さんなど普通のお店に卸す委託販売を始めたところ、徐々に評判が上がり、口コミで結婚式の引出物やノベルティの依頼も来るように。

毎日つくらないと生産が追いつかないような状況になって、みんなのやる気も給料も上がっていきました。しかし、それを2年半くらい続けたある日、樋口さんは利用者さんに「毎日同じ作業で飽きた」と言われます。

分担作業だったので、色を塗る人、磨く人、磁石付ける人、袋に入れる人と分かれており、磨く人は毎日磨いているだけ。「飽きた」と言われて樋口さんは、「そういえば俺も、ここからここまで黙ってやれって言われるの嫌だったな」と会社員時代のことを思い出しました。

それで、週に1日は絵を描いたり、自由に好きなことができるようにしました。
 
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そしたら、それはまあ〜楽しそうにやるんですよ。木工作業をやって僕らに見せる時は、「これでいいでしょうか?」という確認の意味での「どうですか?」だったのが、好きな絵を描いた時は「これ見てください!」という感じの「どうですか!」なんですね。

「どうですか」の言葉の意味がまったく違うんです。

お金よりも、好きなことがしたい

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彼らの想いを聞いて、絵を描くことが仕事になればと思ったものの、その頃の樋口さんたちはどうしたらいいのかわかりませんでした。

それでも絵の商品化に踏み出したのは、利用者さんたちの声があったから。「みんなが絵を描いていたいんだったらそれでもいいけど、せっかく増えた給料が下がっちゃうよ」と聞いたところ、「それでもいいからやりたい」という答えが返ってきたのです。

その時気付いたのは、彼らは給料が増えたところで使い道がないということ。

給料は全部親に渡してたし、お洒落したいとか、外食したいとか、そういう欲求はまだなかったんですよ。

友だちがいなかったりもするし、当時はヘルパーの制度もなかったから、休日に外出するとか、新しい服を買うかとか、そういう選択は全部親の都合だったんです。

お金を稼いでも使い道がない、使いたいと思う欲求や選択肢もない。「普通」に生きていては、なかなか想像しにくい状況です。
 
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樋口さんたちはむしろお金の使い道がないことをポジティブに考え、だったら今がチャンスだと、半年から1年以内に何とか仕事にできるように、彼らの絵を商品化する知識や技術を身に付けました。

アートを売りにしていこうという思惑が先にあったのではなく、「毎日これがやりたい」という思いがあり、それを実現するために売れるものにしていこうという、とても自然な流れでした。
 
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彼らのアートは、先入観や固定観念に囚われていないのでとてもユニーク。遠近法は無視、白は最後に塗る、色を塗って最後に輪郭を描く。

職人的なものづくりは、基本的にクオリティを求められます。けれど、彼らにはそれは難しい。

アートなら人と違った方が面白いし、むしろそれが評価につながる。彼らにとって違う土俵があったのはラッキーでした。しかも、障害のあるなしに関係なく社会とコミットできるツールになったのがすごくよかったです。

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2001年から本格的に販売し始めたカレンダーやTシャツは好評で、結果的にそれが工房まるの名前を広める名刺代わりになりました。

「このカレンダーどこがつくってるの?」と聞かれたり、グッズを気に入ってくれたクリエイターの人たちが作業所に見学に来たりして、イラストの仕事の依頼も徐々に増えていきました。

障害は社会の方にある

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工房まるは、活動だけでなく、施設の雰囲気も他の障害者支援施設とはずいぶん違います。樋口さんたちが「彼らに障害があると思っていない」というのが大きな理由のようです。

目が見えない、体が動かない、計算ができない、輪に入れないとか、色んなものが障害と言われていますが、目が見えなくても、体が動かなくても、何もしなくていいなら障害ではありません。

映画を観に行きたいとか、電話をしたいとか、そういう欲求が生まれてはじめて障害が生まれるんです。

「人と違う部分を障害にしない要因は社会側にある」のだと樋口さんは言います。

例えば、学校で点字の授業があって、誰もが点字が読めれば、目が見えないことも障害にはなりません。誰もが点字が読めないから、目が見えないことが障害になっている訳です。

そこで、点字を学校の授業にしようと考えるのではなく、目が見えないことを前提に、デザインや人々の働きかけによって、コミュニケーションがうまく取れるようになれば、それは障害ではなくなります。樋口さんや吉田さんの言う、「間(あいだ)」を変えるというのはそういうことです。

違いを認め、思いやりのある社会へ

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障害を持って生まれた人たちは、「普通」じゃないから「特別」という枠(学校)に入るのであって、人よりできないことがあったり、誰かの助けが必要なことがあったりします。

学校の先生や親たちは、この子はこういうことができない、この子が動くと手がかかると、その子をネガティブと捉えていることが多いんですよ。そんなことを言われ続けていると、本人がどんどん障害者になっていくんです。

樋口さんはこれを「環境障害」と呼んでいて、このような環境障害が7割くらいあるのではないかと言っています。

本当は自分のことが説明できる人なのに説明できなかったり、好きなことがたくさんあるのに、これを言ったら人に迷惑をかけると思って言えずに抱え込んでいたり。そういうことがかなりあるのです。

障害者の特別支援学校は高等部までしかありません。その人たちがそこを卒業して工房まるに来た時に、樋口さんたちは「できないことを補うのではなくて、できることを伸ばしていきながら、まずこの環境障害の部分を解いていきたい」と言っています。
 
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しかし、環境障害を親や特別支援学校のせいにしていても、何の解決にもなりません。障害を持って生まれた人が生きていく過程には、こんなことがあると多くの人に伝え、「こんな人たちもいるんだね」という認識が社会に少しずつ生まれれば、人との違いをネガティブにとらえることは今よりも少なくなるはず。

みんな違うんだけど、違う状況を認めつつ思いやる、そういうものがあればいいんです。それがあった上で、それでもやっぱりあんた嫌い、となってもいいんですよ。

障害があってもなくても、親は子どもに対して、これができない、あれができない、と言ってしまうことがあります。そのせいで卑屈になったり、自分に自信が持てなくなったりして、本当は人とは違う能力があるのに、鬱屈したり、悩んだり、楽しく生きられなかったり、ヘタすると問題を起こしたりもします。

結局、相手が最高の自分を発揮できるような接し方というのは、どんな人に対しても同じなのかもしれません。違いに対する理解と思いやりがあれば、障害者だけでなく、老人やベビーカーやシングルマザーなど、どんな人も幸せに生きていける気がします。
 
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樋口さんたちは、作業所や施設の中で問題を解決するのではなく、彼らを外とつないでいくことで、課題が見えたり解決策が見えたりする方がいいと言います。

うちは「よかったら、出て行ってもいいよ」と言ったりします(笑)外で好きな仕事を見つけて、そこで働きたいと言ってもらえることが一番うれしい。それはまだなかなか無いことですけど。

そういう人がたくさん出てきて、工房まるのような「特別」な場所がなくなった時、社会との「間(あいだ)」にある障害がなくなったと言えるのかもしれません。