「生きていくうえで大切なこと」を聞かれたら、どんなことが思い浮かびますか?
岐阜県の山奥にある集落・石徹白(いとしろ)に移り住み「石徹白洋品店」を始めた平野馨生里(かおり)さん。この場所を選んだのは、地域の人たちと「大切にしたい価値観が同じ」だと感じたからでした。
馨生里さんは、かつて石徹白ではみんなが着ていたという仕事着の仕立て方を教わり、地域の人たちや手仕事の仲間たちに支えられながら復活させました。
地域のおじいちゃん、おばあちゃんも移住者の若い人も、みんなが洋品店に集まって、手仕事をする……。馨生里さんが描くそんな「幸せな光景」の原点についてうかがいました。
コンビニも商店もない集落に、県内外から人が集まる洋品店
岐阜県北西部、郡上市白鳥町の国道からカーブが続く峠道を車でのぼること約30分。スキー場も通り過ぎ、さらに山奥へと進んだ先に現れるのが、約120世帯・250人が暮らす「石徹白」の集落です。
樹齢数百年以上の杉に囲まれた白山中居神社があり、かつては参拝に来た大勢の人たちでにぎわったという集落も、いまでは全国の例にもれず少子高齢化が進んでいます。
コンビニも商店もないこの集落に「石徹白洋品店」がオープンしたのは、2012年5月のこと。場所は集落のまさに入り口で、石徹白を訪れた人を迎えるように佇んでいます。2年前に完成したばかりの木の香りが心地よい工房兼店舗で迎えてくれたのは、2011年に夫婦で岐阜市から移住してきた平野馨生里さん。
今年は雪が多くて。寒いでしょう?
取材に訪れたのは1月下旬。標高700メートルの石徹白では、すべてがすっぽりと深い雪のなかに埋もれていました。
ここで馨生里さんは、地域の人たちが履いていた「たつけ」という仕事着をアレンジしたパンツを中心に衣服を販売しています。ベーシックな「ノラギ」、洗練された「マチギ」のほか、オーダーメイドも可能な「ハレギ」の3つのラインがあり、草木染めの服飾小物や地域の人の手づくり雑貨なども扱っています。
昨冬、三男を出産し、3人の育児をしながら洋品店を続けてきた馨生里さん。イベントやワークショップの開催にあわせた不定期の営業ですが、営業中にはこの山深い石徹白にまで県内外からお客さんがやって来るのです。
地域のおばあちゃんに教わった、布を無駄にしない「たつけ」
かつては石徹白で日常的な仕事着だったたつけも、着る人がいなくなってからすでに長い時間が経っていました。保管されていた昔ながらのたつけを見つけた馨生里さんに、その仕立て方を教えてくれたのは、昭和8年生まれの石徹白さえこさんです。
(たつけを)つくったのは久しぶりやったね。だけど、つくり始めたら覚えておるのよね。若いときは、みんな自分でつくってきたんやで。習ったっていうより、自然のうちに身についとるの。自分の寸法だけはしっかり覚えておるんやね。
「本当に懐かしい」と話すさえこさんの表情はどこか嬉しそうです。
さえこさんが若い頃、石徹白では誰もが「たつけ」に、絣の上衣である「はっぴ」を組み合わせて着ていたそうです。敗戦直後で絣の生地が手に入らなかった時代には、白い生地に絞りをほどこして、絣のように紺色に染めました。
山に行くときでも、田んぼのときでも、それに帯してね。たすきをかけるときは肩のところで花のようにぱあっと結んで。石徹白の人はおしゃれじゃった。わたしらより前(の世代)は、石徹白で織りなさった生地を使ったんじゃね。
昔の写真を見せてもらうと、たつけの太さを好みで仕立てたり、帯とコーディネイトしたり、工夫しておしゃれを楽しんでいたのがわかります。たつけのような仕事着はほかの地域でも見られますが、どれも少しずつ違っているそうです。馨生里さんがいちばん驚いたのは、その無駄のない仕立て方でした。
洋裁で服をつくると生地の余りがどうしても出てしまう。でも、和裁のたつけはつくるときに生地を全く無駄にしない。捨てるところがないんです。しかも動きやすくて機能的。昔の人の知恵って本当にすごい。
馨生里さんがたつけを着ていると、石徹白のおじいちゃんやおばあちゃんが、「ええじゃろう、わたしも昔それを履いとったんじゃ」と誇らしそうに話しかけてくれると言います。
みんなが誇りや愛着をもって着ていたのが伝わってくる。かつては石徹白で手織りや染めもして、自分たちの手でつくっていました。そんなたつけを復活させたいと思ったんです。
カンボジアの「伝統の森」で、生きるうえで大切なことに気づく
そもそも、なぜこの石徹白で洋品店を始めようと思ったのでしょうか。そう聞くと、馨生里さんは、石徹白にたどりつくまでの道のりを、ゆっくりと言葉を紡ぎながら話してくれました。
私は高校までは岐阜市内で育って、親たちが「この町には何もない」と言うのを聞いて育ったんです。国際協力に興味があったので神奈川県にある慶応大学のSFCに進んで、1年生のときに図書館で出会ったのが、森本喜久男さんの『メコンにまかせ』という本だった。
森本さんは、カンボジアの内戦で途絶えかけていた伝統の絹織物を養蚕から復活させ、「伝統の森」と呼ばれる村をつくった人。「何かを与える」援助ではなく、村の人といっしょに前に進んでいく姿勢に共感して、本を読んですぐカンボジアに会いに行きました。
それから馨生里さんは毎年のようにカンボジアの「伝統の森」を訪れるようになります。その訪問は、石徹白に住むいまでも続いているそうです。
2002年に馨生里さんが初めて訪れたときは荒れ地だった「伝統の森」も、森本さんと地域の人たちが井戸を掘り、染めの材料になる木を植え、蚕を飼い、家を建て……と、少しずつ村の姿を築いていきました。本当の意味で伝統を復活させるには、暮らしの中に染めや織り、養蚕があるべきだということを、森本さんは知っていたのです。
お母さんたちが子どもをあやしながら糸紡ぎやはた織りをし、そのまわりを鶏や牛が歩き回っていて。そこには幸せな光景がありました。
ある日、馨生里さんは織りをしていた年配の女性に「おばあちゃんにとって織物ってなんですか」と尋ねました。すると、その女性からは「織物は私そのもの。自分と切り離して考えられないくらい大事なもの」という答えが返ってきました。
その言葉には仕事への強い誇りがこもっていて、ハッとしたんです。その仕事は彼女にとってのアイデンティティ。じゃあ自分にとって誇れるものは何だろうと考えてみたら、自分は日本のことも故郷の岐阜のことも何も知らなかった。そこから足元に目を向けるようになりました。
馨生里さんは、この村での生活から、誇りを持てる仕事をすること、暮らしを中心に生きることの大切さ、自然への感謝など、生きるうえで大切なことをいくつも教わったと言います。
なぜ「水うちわ」はすたれたのか? 外に頼らず、地域で自給していくために
2005年に大学を卒業後、馨生里さんは東京のPR会社に勤めながら、岐阜出身者を中心とした仲間たちと、岐阜にある地域づくり団体の東京支部に参加。イベントの開催やU・Iターン促進事業などに取り組むなかで、岐阜の伝統工芸である「水うちわ」の復活プロジェクトにもかかわるようになります。
それが人生で2つ目のターニングポイントだったかな。美濃の手漉き紙を使った水うちわを初めて見たときに本当に美しいと感動して、これこそ岐阜で誇れるものだと感じました。でも、当時は素材が手に入らなくて、つくり手もいなくなっていた。それで、唯一残っていた職人さんといっしょに、復活に向けて活動していたんです。
初めのうちは、東京から岐阜へ毎月通っていた馨生里さんですが、「自分の全力を好きなことに注ぎたい」と会社を退職して岐阜へと戻ります。その後は、岐阜市のイベント会社で働いたり、ライターの仕事をしたりしながら、どんどん地域にかかわる活動にのめりこんでいきました。
ただ……水うちわのプロジェクトでは挫折もあったんです。水うちわを復活させることはできたんだけど、その過程でせっかく信頼関係を築いてきた職人さんと行き違いが起こってしまって、残念な別れ方をしました。それまで私は、誰かがつくったものをPRしたり、取材したりしてきたのだけど、この出来事があってから、自分がつくるところからすべての責任を負ったほうがいいんじゃないかと考えるようになりました。
こうした活動の流れのなかで、馨生里さんは仲間たちと「長良川持続可能研究会」を立ち上げます。この研究会が石徹白との出会いにつながっていきました。
水うちわがなぜ廃れていったのかというと、美濃で自生していた紙の材料がとれなくなり、豊富にあった竹さえ外から買うようになったから。地域で循環していたはずの経済が失われ、水うちわもつくれない状況になっていました。そうした問題意識から、衣食住、エネルギーや福祉も、なるべく外に頼らず地域で自給できないだろうか、と考えるようになったんです。
そして、2007年に仲間たちと長良川の豊かな水を生かした小水力発電への試験的な取り組みをスタートさせます。発電機の設置に協力してくれる地域を探すため、長良川上流域である郡上市の各地をまわっていたときに訪れたのが、石徹白だったのです。馨生里さんにとっては、まさに運命の出会いでした。
最初に来たときから、「この場所が好きだな」と感じていました。それに、ほかの地域では私たちのような若者の提案をなかなか受け入れてくれなかったけれど、石徹白の人たちは地域への危機感もあって、「一緒にやりましょう」と言ってくれたんです。
自分で暮らしをつくり出す。その生き方が「すごく腑に落ちた」
それから馨生里さんは地元のNPOと協力し、小水力発電機の設置に向けて石徹白へ通い始めます。石徹白は森も水も豊かな場所。馨生里さんは、仲間たちと畑や田んぼを借りて、自分たちの食の自給にも取り組みました。
石徹白に通ううちに見えてきた、地域の人たちの生き方は、馨生里さんにとって「すごく腑に落ちる」ものでした。
私が育った岐阜市での暮らしは、どちらかというと都会と同じで、いかにお金を稼いで、いかに使うかということが中心。でも、石徹白には、お金を稼ぐことより、「いかに自分たちで暮らしをつくり出していけるか」を甲斐性として語る人たちがたくさんいた。水力発電のプロジェクトでも、普通のおじちゃんたちが電気関係からコンクリート工事まで何でも自分たちでする。こういう人たちがいる場所で暮らしたいなって思ったんです。
カンボジアの村での体験から足元を見つめ、「生きるうえで大切なこと」を追いかけてきた馨生里さんが、「ここで自分の暮らしをつくりたい」と思えたのが石徹白だったのです。
翌年の2008年、馨生里さんは一緒に活動してきた仲間である平野彰秀さんと石徹白に移住することを前提に結婚。本格化していく小水力発電事業を彰秀さんにバトンタッチして、家探しを進めながら、石徹白で何か仕事を始めようと洋裁学校に通い始めます。
もともとは、ミシンを触れば壊してしまうくらいの不器用(笑) でも、服って自分をすごく表現するものなのに、つくれないのは情けないなとも感じていて。苦手だからこそやるんだと決めて学校に通いました。石徹白には衣料品工場を運営するパワフルな女性や、縫いものや刺繍が得意な女性たちがいたので、一緒に働けたらいいなという気持ちも大きかったかな。
自分の力で暮らしをつくってきた、石徹白の「大先輩」たち
馨生里さんが「パワフルな女性」というのは、「石徹白衣料」を経営する石徹白すみえさんのこと。すみえさんは、27歳のときに石徹白で衣料品工場を立ち上げてから四十数年、いまも現役で活躍しています。
起業でいったら、かおりちゃんの大先輩やね(笑)! この近辺にはほとんど勤めるところがなかったし、3人目の子どもを出産したばかりだったから、家で出来るところが魅力で始めたのが縫製でした。
大きな声で明るく笑うすみえさん。なるほど、話していると元気を分けてもらえるようです。
裁縫が苦手なのに洋品店を始めた馨生里さんに負けず、すみえさんも「触ったこともなかったミシンを1時間だけ習い、その帰りには半纏100枚の縫製を受けてきた」という豪快なエピソードの持ち主。
当時、工場から離れた自宅に住んでいたすみえさんは、冬の早朝にまだ除雪されていない道を「馬力つけて、足が雪に沈む前にダーーーッと勢いよく走って、道を自分でつくりながら工場に通いました。あははは! 大変な思いも随分しました。」と、当時の苦労を冗談まじりに話します。
馨生里さんが、洋品店を始めるときにまず相談したのが、すみえさんでした。すると、「なんでも応援するから」と背中を押してくれたのです。馨生里さんにとっては起業の先輩であり、頼れる存在です。
すみえさんと話していると前向きな気持ちになる。私も70歳までは洋品店ができそうだなって。
この場所で未来に描くのは、かつて見た幸せな村の光景
こうして地域の人たちにも見守られながら、2011年に移住を果たした馨生里さんは、2012年に自宅の一角で洋品店をオープンさせました。
実は、「たつけをつくるべきだ」と馨生里さんにアドバイスしてくれたのは、カンボジアで「伝統の森」を築いた森本喜久男さんでした。馨生里さんのもとを訪ねて来た森本さんが、さえこさんの蔵に保管されていた手織りのたつけに目を留めたのです。長い道のりを経て、カンボジアの村と石徹白での暮らしが接点を結んだ瞬間でした。
「地域のたつけを復活させよう」。そんな馨生里さんの想いを周りの人たちも支えてくれました。いまも3人の子育てでなかなか時間がつくれない馨生里さんに代わって、地域の女性たちが縫製や染めを手伝ってくれたり、近所の人たちが草木染めの材料を山から持ってきてくれたりしています。
郡上市の手仕事好きな人たちに呼びかけて始めた「郡上手仕事会議」というサークルの仲間たちも、藍の栽培など、石徹白での藍染めの復活に向けてともに活動しています。仲間たちの手を借りながら、糸紡ぎ、蚕の飼育、たつけの仕立てなど、洋品店ではさまざまな手仕事ワークショップも行ってきました。
わたし一人でやれることには限界があるけれど、いろいろな人に頼らせてもらうことで、ゆっくりと人の輪が広がっていきました。2年前に工房兼店舗ができて、東京から郡上市に移住してきた若いスタッフがデザインや企画を手伝ってくれるようにもなり、最近ようやく服屋さんらしくなってきた。いつか、素材の栽培から、織り、染めまで自分たちでできるようになるのが目標です。
それにしても、大学を卒業してからずっと変化の大きな年月を過ごしてきた馨生里さん。不安を感じたことはなかったのでしょうか?
うーん、不安はなかったかな。とくに石徹白に来てからは、好きなことしかやっていないから精神的にすごく楽です。基本的には、家と畑さえあれば、たとえ失敗しても生活はなんとかなると思っているし(笑)。
夫の彰秀さんが引き継いだ小水力発電事業も本格的に稼働して、地域での経済循環を生みだしています。地域エネルギーの成功事例として、いまでは全国からの視察が絶えません。こうした取り組みや、人が集まる石徹白洋品店の存在もあって、最近では石徹白に移住してくる若い人も増えてきました。
私もそうだったけど、街での生活に限界を感じて、暮らし中心の生き方、自給的な生活に関心をもつ人が増えていますよね。いまが時代の変わり目なのかな。
そんな馨生里さんが石徹白洋品店を通じて思い描くのは、カンボジアの「伝統の森」で見た村の姿です。
工房や畑にお母さんたちが集まって子どものそばで手仕事をしたり、そこに地域のおじいちゃんが染めの材料をもってきたり。まず暮らしというものが中心にあって、そのなかに誇りを感じられる仕事がある。そんな空間をここでつくっていきたい。あと、若い人と地域をつなぐ拠点にもなればうれしいです。
やりたいことがたくさんあって、「いまからワクワクしている」と笑顔をみせる馨生里さん。
かつて、カンボジアのおばあちゃんが答えた「自分と切り離せないくらい大切なもの」。馨生里さんは、それをいま石徹白洋品店で見つけたのかもしれません。
(Text:中村未絵 撮影:奥留遥樹 写真提供:石徹白洋品店)