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人口がゼロになったことを強みに変えて。避難指示解除から1年、南相馬市小高区のまちづくりを取材しました

もし、自分の住むまちや愛着のある故郷が、一夜にして「住んではいけないまち」になったら。そして、数年後に「もう住んでも大丈夫だよ」と言われたら。私は、家族は、友人たちは、どんな選択をするだろう?

これまで幾度も想像してみましたが、「さまざまな要因が絡み合っているし難しい、とても想像しきれない」というのが正直な感想です。

2011年3月の福島第一原子力発電所事故により、福島県内11市町村、約8万1千人に避難指示が出されました。あれから6年、避難指示は徐々に解除されています。

今年3・4月には、浪江町、川俣町、飯館村、富岡町の4自治体のうち、帰還困難区域以外のエリアの避難指示が解除されました。「やっと家に帰れる」と喜ぶ人がいる一方、さまざまな面から帰還後の生活に不安を抱いている人もいて、「地元の人はこう感じている」と一概には言えない状況です。

そうした中、昨年7月に避難指示解除となった南相馬市小高区には、「人口がゼロになったまちだからこそできることがある」と、とても前向きに、力強く活動している人がいることを知りました。2014年2月に「株式会社小高ワーカーズベース」を立ち上げた和田智行さんです。

帰還する人の多くは高齢者と言われる中、30代の和田さんはなぜ、小高で起業することを選んだのでしょうか? 小高を訪問し、お話を伺いました。

小高駅舎。ボランティアが作成したという貼り紙が印象的でした

地域の100の課題から100のビジネスを創造する

まずは簡単に、小高ワーカーズベースの主な事業内容をご紹介しましょう。ひとつめは、社名と同名のコワーキングスペース「小高ワーカーズベース」の運営です。

震災直後、第一原発から20km圏内にある小高は、立ち入りを原則として禁止する「警戒区域」に指定されましたが、2012年4月に「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」へと再編され、このうち前二者では、住民の一時帰宅や病院・福祉施設・店舗等一部の営業が可能になりました。

当時僕は家族と一緒に会津若松に避難していましたが、小高区内の視察需要が高まり、案内を頼まれるようになったんです。企業の方、NPOの方、さまざまな方が小高に来てくれました。でも、一度きりで終わってしまうことが多くて。

ほかの被災地は外から来た人と上手く連携して復興プロジェクトを起こしているのに、住民がいない小高では何も始まらないし何も残らない。せっかく多くの人が関心を持ってくれているのに、すごくもったいないと焦りました。

小高にコワーキングスペースをつくれば、「ここで何かしよう」という人が出てくるかもしれない。和田さんはそんな想いから小高駅から徒歩1分の場所に「小高ワーカーズベース」をオープンしました。現在は5社が利用していて、小高区内外の人が立ち寄る活動拠点として機能しています。

ふたつめの事業は、仮設スーパー「東町エンガワ商店」の運営です。食料品を買う場所がなければ、住民は戻りたくても戻れません。しかし、原発事故後はスーパーやコンビニの経営者もすぐに逃げなければいけなかったので、放置された食品は腐り、店内は動物に荒らされ、建て直さなければとても営業できない惨状でした。

そこで小高区は、2015年に建物を用意して事業者を募集します。しかし、先行きが不透明な中で、リスクを取っても開業したいという人は中々現れません。宙ぶらりんの状態で時間だけが経つ中、「じゃあうちでやります」と名乗りを挙げたのが和田さんでした。

店内には、お弁当やスナック菓子などコンビニに置いてあるような一般的な食料品類のほか、地元の生鮮野菜・お土産等も並べています。開設当初は復興作業員の利用が主でしたが、避難指示解除後は地元住民の利用が増えているといいます。

みっつめは、ガラスアクセサリーの製造販売です。ガラスメーカーHARIOランプワークファクトリー社の協力を得て、2015年11月に工房兼店舗「HARIOランプワークファクトリー小高」をオープンしました。

若者がまちに戻ってこないのは、原発や放射能への不安もあるかもしれないけど、本質的な理由は「働きたいと思える職場がないから」だと思います。そこで、若者、特に女性にとって魅力的な職場をつくることにしました。小高での暮らしに希望を持ってもらえるように。

「ガラス職人募集」の呼びかけに集まったのは、20代から50代の女性6人。HARIOランプワークファクトリー社の研修を受け、ガラス職人として腕を上げていきました。最初は簡単なものしかつくれませんでしたが、現在は複雑な形も難なくこなすように。繊細で美しいアクセサリーはプレゼントとして購入されることも多く、周辺住民から重宝されているそうです。

また、2014年12月から2016年3月までは、「おだかのひるごはん」という食堂を運営していました。始めるきっかけとなったのは、冬の寒い日に外で作業をする工事関係者の姿。「あたたかいものをつくって食べさせてあげたい」と、地元のお母さんたちが小高の元人気店・双葉食堂の店舗を借りて、家庭料理を振る舞い始めたのです。

大半の人から「いまの小高で食堂なんて、うまくいくわけない」と言われたそうですが、結果は大繁盛。その様子を見て、当初「小高に戻るつもりはない」と話していた双葉食堂の女将も、元の場所でお店を再開する決意を固めてくれました。

「おだかのひるごはん」は場所を明け渡すため営業を終了しましたが、「小高でも商売は成り立つ」ことを証明し、多くの住民に勇気を与えました。和田さんも、「一定の役割を果たすことができた」と満足しているといいます。

これらの事業の根底にあるのは、「小高区に人が戻って暮らすために障害となる課題が仮に100あるとするならば、それらを解決するビジネスも100件創出しよう」という想いです。

福島に限らず、被災地ではよく「住民が戻るのが先か、お店が開店するのが先か」という議論が勃発します。住民としてはスーパーや病院が営業しなければ生活できないし、経営者としては住民がいなければ開店の判断ができない。どちらの言い分も理解できる話ですが、和田さんは「自分が先に戻って環境を整える」ことを決めたのですね。

小高は現代日本のフロンティア。そう思える人と一緒に挑戦したい

地域に必要なものを次々と形にしてきた和田さん。「震災以前から地域関係の仕事をしていたんだろうな」と思ってしまいますが、全く違うといいます。では、何が現在の活動の原動力となっているのでしょうか。ここからは、震災直後の状況やまちへの想いを聞いていきます。

——震災のとき、和田さんは小高にいたんですか?

和田さん はい、小高の自宅で仕事をしていました。揺れはすさまじくて、家の中のものが色々ひっくり返り、夜は片付けに追われました。翌日には原発が水素爆発したでしょう。消防団から「逃げたほうがいい」と情報が回ってきて、夕方17時過ぎに着の身着のままで避難したんです。避難所を転々として、埼玉に1年住んで、「やっぱり県内に戻ろう」と会津若松に落ち着きました。いまは家族と一緒に小高に住んでいます。

——震災前と後で、価値観や考え方は変わりましたか?

和田さん 180度変わりましたね。震災前はソーシャルゲームをつくる仕事をしていて、「若いうちにたくさん稼いでアーリーリタイアしたい」と思っていたんです。でも、被災した直後は、いくらお金を持っていても避難所に入れないし、1歳の子どものオムツを、3歳の子どもの食べ物を手に入れることすらできなくて。「お金というひとつの柱に寄りかかって生きるのは非常に危うい」と痛感しました。

それで、家族を守る延長にあること、地域に役立つ仕事がしたいと思うようになったんです。いまの収入は震災前の半分以下ですが、やりがいは感じています。

——大きな変化があったんですね。ただ、不躾な質問かもしれませんが、「家族を守る」という点では会津若松にいたほうが安心なのでは、という気も……。

和田さん 確かに、小高は課題が山積みだし、ものすごくハンデを背負ったまちです。でも、そういう場所でも自分でビジネスをつくったり、課題を解決したりできる能力が身に付いたら、どこで何が起きても大丈夫だと思うんです。

大企業に入っても安定が保証されない時代ですから、どんな環境でも自分で生きていく力を身につけることが、家族の幸せにつながるんじゃないでしょうか。小高はそのための絶好のフィールドだし、「やらない理由がない」という感じですね。

——原発や放射能に対する不安はありませんでしたか?

和田さん 原発は2度見学に行きました。廃炉に向かって着実に作業が進んでいて、「もう爆発することはないだろう」と確信しました。

放射能に関しては、ある程度勉強して、まちなかの空間線量を測りました。小高の空間線量は毎時0.1マイクロシーベルト前後(※)です。この線量を気にしていたら、福島市や郡山市にも住めなくなってしまう。

それに、ホールボディカウンターによる内部被ばく検査も定期的に受けていて、いままで引っかかったことはありません。検査結果は公開されているので、自分たちだけでなくほかの人たちがどういう状況かも確認することができます。

稀に数値の高い人もいますが、じゃあその人たちが何を食べていたのかというと、山菜やイノシシを自分で採って、検査しないまま食べていたということがわかっています。だったら、自分たちはそういうものを避ければいいわけですよね。

そういったデータは、この6年でたくさん蓄積されています。不安というのは、よくわからない、よく知らないから生じるもの。一つひとつを自分でしっかり調べて判断していけば、何も恐れることはないと思っています。

※0.1マイクロシーベルト/時がどの位の線量かというと、ラドン温泉で有名な島根県・三朝温泉と同程度です。なお、世界にはインド・ケララ(1.05マイクロシーベルト/時)など自然放射線が高い地域がありますが、疫学調査の結果、ほかの地域と比べて有意な差は出ていません

小高駅前に佇む線量計。このときは0.136μSv/hと表示されていました

——確かに……。ネット上の情報は玉石混淆ですが、自分に知識がないから何が正しい情報で何が間違いなのかわからず、不安が増幅してしまうのかもしれません。データを読み解く、自分で測る、現場を見に行く。そうやって調べることで自分の中に判断基準ができていくんでしょうね。

和田さん 世の中の大半の人が、「小高に住むなんて現実的じゃない」と考えているだろうと思います。どう捉えるかは個人の自由ですし、それが普通の反応なのかもしれません。でも僕は、大多数の人が「だめだろう」と思っているからこそ、その逆のチャンスや面白さが小高にはあると思っています。

——少し話は変わりますが、避難指示が解除となった2016年7月12日、小高はどんな様子だったのでしょうか。

和田さん その日は解除と同時に電車も再開したんです。たくさんの人が乗った電車が小高駅のホームに入ると、待ち構えていた数十人から「おお〜!」と歓声が上がりました。大昔、はじめて鉄道が通ったときってあんな感じだったんじゃないでしょうか。その日はずっとお祭り騒ぎ。「やっとスタートできたな」という気持ちでした。

小高駅に到着する一番電車

——避難指示解除前に小高を訪問したときは、不思議な感覚になりました。車の排気音や人の気配が全然なくて、建物だけがしんと佇んでいる印象で。解除後はちゃんと人の話し声や車の排気音が聞こえて、「ちゃんと音がある、人の気配がする」と思いました。

和田さん 人の姿は確実に増えていますね。今年4月には学校が再開し、子どもたちの姿を見かけるようになりました。お祭り騒ぎが終わり、日常が戻ってきたという印象です。

避難指示解除時の小高駅前

——南相馬市のウェブサイトを確認すると、2017年6月末時点の小高区の居住者数は1941人とありますね。震災時の人口が12842人だから、1割強の方が戻っている計算です。

和田さん 思っていたより多いな、という印象です。そして、人口2千人規模のまちとしては、人の暮らしを支えるサービスがまだ足りていない状態です。ニーズはあるのに、競合がいない。これってビジネスチャンスですよね。ほかの地域だと、既に競合がいたり、地域のしがらみを気にしてできないことが、小高ではできるんです。何もかも失って、これから新しくつくっていくところだから、物事を始めるハードルがとても低い。

この状況を見て、「じゃあパン屋をやろう」「学習塾を始めよう」と思いつく人に外から来てもらい、地元事業者として手助けしていく。それが今後の僕らの役割だと思っています。

東京都杉並区からの派遣職員が、子どもたちの「カフェがほしい」という声を聞いて始めたキッチンカーカフェ。小高ワーカーズベースの隣で営業しています

——最後に、greenz.jp読者に何か伝えたいことがあればお願いします。

和田さん 小高はいま、慢性的な人手不足に陥っています。面白い話はたくさんあるのに、復興を担うべき20代から30代がとても少なくて、やれる人がいない。

いままで話してきたことと重なりますが、僕は小高を現代日本のフロンティアだと思っています。どんなまちもかつては原野で、ひとりが開墾するところから発展していきました。このまちは、そのプロセスを追体験できる貴重なフィールドなんです。

勝手な印象ですが、greenz.jp読者のみなさんは、こうした考えに共感してくれる人が多いのではないでしょうか。熱意のある方と一緒に、挑戦していけたら嬉しいです。

(インタビューここまで)

greenz.jp読者に熱いラブコールを送ってくれた和田さん。もし、少しでも興味を持ったなら、まずは小高を訪れてみてはいかがでしょうか。

いま小高を歩くと、今回紹介したところ以外にも、地域の交流スペースや営業を再開した商店にちらほら出会います。それらを運営するのはいずれも、人任せにせずまちのためにできることを自分でしようと立ち上がった人たち。話をするだけでも刺激を受けるはずです。

最後にひとつだけ、福島についての議論はどうしても二項対立に陥りがちですし、誰かを傷つけたり対立を煽ったりするのは本意ではないので、蛇足かもしれませんが補足させてください。

私は「避難指示が解除になった地域の住民はみんな地元に戻るべき」とは思っていません。原発や放射能のリスクをどう捉えるかは人によって違いますし、それ以外にも「帰還する/しない」の判断にはさまざまな要因が絡んでくるので、どちらかの選択が正しい・間違っているなんてとても言えないと思っています。

(なので、もし「帰還しない」という選択をした人が、この記事を読んで責められているように感じたとしたら、それは私の力量不足です。ごめんなさい!)

その上で、和田さんの前向きで力強い姿勢にはとても感銘を受けたし、「たくさんの人に紹介したい」「和田さんと一緒に挑戦したいという人はきっといる」と思ったので、こうして記事にしました。この記事が、届くべき人に届けば幸いです。

(編集協力:東北マニュファクチュール・ストーリー