島根県江津市(ごうつし)という日本海沿いの小さな市をご存知ですか?
もしかしたら、知らない人が結構いるかもしれません。なにせ江津市は、高校の地理の教科書に“東京からいちばん遠い市”と紹介されているほど、移動が不便なところにあります。実際、都内から行こうとすると、半日近くかかってしまうのだとか。
江津市は、島根県の西側、海と山と川に囲まれた自然豊かな地域で、人口は約25000人、面積は268.51キロ平方メートルという、人口・面積とも島根県で最小の市です。他の地方都市と同じく、急激な人口減少や高齢化、雇用の不足など、さまざまな課題を抱えています。
しかし江津市は、2006年にいち早く空き家活用事業を始めたり、独自の創業ビジネスプランコンテストを実施するなど、まちの活性化事業に積極的に取り組んできた、ソーシャル的まちづくりの先進地域でもあるのです。
特にここ数年はU・Iターンの若者が増え、次々に新しい事業が生まれて、行政が想定していた以上の盛り上がりを見せています。
スローガンは「GO▶GOTSU 山陰の「創造力特区」へ」
そんな江津市が昨年度、地域創生に関する総合戦略策定に向けたブランドビジョンとして掲げたスローガンが「GO▶GOTSU 山陰の「創造力特区」へ」です。そのスローガンを体現する具体的アクションの第一弾として、3月26〜29日に渋谷ヒカリエの8/01/COURTで「東京なんて、フっちゃえば?展」を開催しました。
この企画展は“創造力特区”江津市のクリエイティブな動きを紹介し、その背景にある地方での生き方・暮らし方を示すことで、“東京で生きることと地方で生きること”を考えるきっかけの場をつくろうと実施されたものです。
江津市の現在地とクリエイティビティを体感
「東京なんて、フっちゃえば?展」の様子。日替わりで江津市のキーマンらによるトークセッションも開催されました
「東京なんて、ふっちゃえば?展」の会場に足を踏み入れると、平日にもかかわらず、常に人が絶えることなく賑わっていました。会場には、江津市でつくられているさまざまな商品や作品が展示され、江津市のものづくりの現在地やクリエイティブな動きの見本市のようになっています。
取材チームが行ったのは最終日だったので、人気の商品はすでに売れてしまったり、売約済みとなっていたり。なかには商談にまで進んだものもあったとのこと。江津市の魅力は、しっかりと東京の人々に伝わったようです。
江津市の中山間地に位置するカフェ&ベーカリー「蔵庭」の天然酵母パン。大人気で、あっという間に売り切れてしまいました(写真提供:博報堂ブランドデザイン)
江津市は石見焼の中心地。伝統的な技法によって生み出される大型陶器だけでなく、ティーカップやピッチャー、コーヒードリッパーなど、現代の生活に合わせたさまざまなデザインが生み出されています
大阪市の化粧品販売会社「ドクターリセラ株式会社」が、創業者の郷里である江津市で行政や地元農家と連携して始めたのが、苔の栽培加工プロジェクト「52 KOKE PROJECT」。年間を通じて湿度が高い島根県西部の気候を活かして、江津市の新たな特産品とすることを目指しています
ドクターリセラから誕生した「リセラファーム株式会社」の蜂蜜。島根の里山に自生する花々から集められた純粋な蜂蜜は、そのまろやかさと食べやすさが人気。ナッツを漬け込んだ「はちみつナッツ」も話題です
石州勝地半紙の和紙製品。触ってみると、紙とは思えない丈夫さです。現在、佐々木誠・さとみ夫妻がこの地に伝わる紙すきの伝統を受け継ぎ、地元産原料を使用した楮紙や紙糸などの生産に取り組む一方、和紙を使った照明など、新たな和紙製品の開発にも挑戦しています
「Design Office Sukimono」のプロダクトの数々。ひとつひとつ形の違うカッティングボード(右上)は人気商品です
「Design Office Sukimono」が手がける、働く人のための一生モノのエプロン
古材と古布を使って生み出される「Design Office Sukimono」のチェア。まるで昔からここにあったかのように、空間に馴染んでいました
仕事がないなら、ビジネスプランをもった人にきてもらえばいい
このようにオリジナリティあふれるデザインが数多く出展された「東京なんて、フっちゃえば?展」。それにしても、“東京からいちばん遠いまち”と形容される江津市に、U・Iターン者があとをたたず、クリエイティビティが結集する理由は何なのでしょうか?
ここからは、まちづくりの仕掛人である江津市政策企画課・地域振興室室長の中川哉さんと、近年の盛り上がりをつくったキーマンのひとり「Design Office Sukimono」の平下茂親さんに、江津市で起こっていることやその魅力を伺っていきます。
江津市地域振興室室長。長年、江津市の地域振興及び地域活性化事業に携わり、持ち前の人脈を活かしてNPO法人「てごねっと石見」の設立やビジネスプランコンテスト「GO-CON」の開催などを実現してきた。現在も、さらに江津市を盛り上げるべくUIターン者の創業支援やその仕組みづくりなどを行なっている
1981年江津市生まれ。高校中退後、地元での溶接工や東京で配管工として働きながら大検に合格。富山の専門学校での宮大工の修行を経て、大阪芸術大学へ編入、空間デザインを学ぶ。その後、江津市の建築会社を経て、29歳でニューヨークに渡り家具デザインに携わり、帰国。2012年、地元江津で合同会社 Design Office Sukimonoを設立。 その土地に昔からある素材や文化として残されてきた産品を基点にデザインすることを信条とする。そうして生み出されるSUKIMONOのプロダクトデザインや空間デザインは、柔らかな温もりとずっしりとした存在感を兼ね備えていると県の内外から評価が高い。地域で失われる家屋や物品の古材を使った家具制作、空き家のリノベーションなど、デザインを通した地域再生にも積極的に取り組んでいる
それまでも全国に先駆けて移住希望者に家や仕事を提供する支援事業を実施してきた江津市ですが、2008年のリーマンショックで、その方向性を大きく転換せざるえなくなったといいます。なんと、移住者に紹介できる求人がまったくなくなってしまったのです。
中川さん 空き家はたくさんあって紹介できるんです。でも、仕事がまったくない。それでどうしたものかと考えていたときに、そうだ、ビジネスプランをもっている人にきてもらえばいいんだって思いつきました。
仕事を探すのではなく、仕事を生み出したいという人を支援する。そうすれば、仕事がないという問題はクリアできます。また当時、大手企業の工場が撤退し、大勢の失業者が出ている状況に胸を痛めていたことも、仕事自体をつくりたいと考えるきっかけになりました。
中川さん その様子を見たときに、規模は小さくてもいいから、地域に密着した企業と確かな雇用をつくっていきたいと思いました。
それと、子どもたちに地元に戻ってきてほしくても、どうしても職種が限られていたんです。若い人にとって魅力的な、クリエイティブな仕事っていうのはほとんどありませんでした。だからそういう仕事を増やしたら、子どもたちも帰ってきてくれるのではないかと感じたんです。
そこで中川さんは、江津市でビジネスプランコンテストを開催したらどうかと考えました。その仕組みづくりをしていく中で、地域のキーマンに声をかけて設立したのが創業支援や人材育成を行う中間支援組織「NPO法人てごねっと石見」です。
中川さん それまでは、行政は行政という感じで、横のつながりはほとんどありませんでした。でもこれだけ人口が少なくなっているのだから、総力を結集しないと未来がないと思ったんです。それで、みなさんに声をかけました。バラバラに活動していても、江津市を元気にしたいという想いはみんな一緒でした。
「てごねっと石見」は、設立のきっかけとなった地域課題解決型ビジネスプランコンテスト「GO-CON」の運営や地域づくり講座「ごうつ道場」の開催など、さまざまな形で、多くの創業者や移住者を支援してきました。その活動が評価され「第5回地域再生大賞」も受賞しています。
中川さん 「てごねっと石見」が創業者や移住者の受け皿となったことで、どんどん人が集まるようになりました。創業した人が別の人を連れてきて、行政が知らない間にそれぞれが手を組んでまた面白いことをやって…というふうに私たちの想定を遥かに越えた動きが起こり始めたんです。
行政が住民の夢や目標を支援し、やがてそれが自走を始め、次の展開までつながっていく。江津市では、住民主体の、理想的なまちづくりの形が生まれているのです。
空き家を、すでにたくさんある資源として活用したい
自分が生まれ育った江津市が不景気で危機に瀕していると聞き、創業を機にUターンした「Design Office Sukimono」の平下さん。彼がまちを活性化させるうえで目をつけた資源が、空き家でした。
平下さん 江津市には、人がいなくて経済が活性化していないからこそ、うまく残ってくれたものがたくさんあります。そういったものを活かしていくリノベーションが必要じゃないかと思い、空き家に目をつけました。
江津市の空き家率は約20%で、2500戸ほどあると言われています。その空き家を、地方のまちならではの、すでにたくさんある資源として活用したい。そこで空き家のリノベーションを提案し、見事、2012年度の「GO-CON」で大賞を受賞しました。
平下さん 大賞を取ると、地元の新聞に大きく掲載されるんです。否が応でも注目される分、後ろを振り返ることが許されなくってスピード感が出るんですね(笑)
「なんでやっていけたんですか」って聞かれたら「スピード感があったから」としか言えませんね。のんびりやっていたら、ランニングコストで潰されて、ビジネスとして成立していなかったと思います。
今、江津市には「Design Office Sukimono」がデザイン・リノベーションした物件がたくさんあります。駅前商店街に46ヶ所あった空き店舗は20ヶ所ほど埋まり、出店したい人がいても貸せる物件がもうないという状態なのだそうです。
地方での創造力とは“自己実現”
「Design Office Sukimono」のプロダクトには、古材や古布などが活用されています。「田舎には何もないと思っていたけれど、たくさんの背景の力があった」と平下さん。そのストーリーをはらんだプロダクトはどれも空間にしっくり馴染みます
平下さん 江津市に住んでいる人は、このまちは寂しいし不便だと言います。でもIターンしてくる人や若い人がどう捉えているかというと、資源が溢れていて、見たことのない文化があって、多様性がある、と思うんです。
そう思ってる人がそこに創造力を足していくことで、何かに利用できそうだとか、これを使ってビジネスにっていう考えが生まれやすくなります。僕は、たくさんの空白を豊富な資源と捉えて活用していくことが、こんなにも贅沢なことなんだなと思いました。
地方でいう創造力とは“自己実現”だと語る平下さん。自己実現とは、人生に究極の目標を定めて、その実現のために努力するということです。
平下さん つまり夢に向かってチャレンジするのが幸せだっていう単純なこと。空白の解釈は無限だから、ここは自己実現を目指すうえでは最高の環境です。で、まちにある豊富な資源と創造力が掛け合わされると、ものすごいサービスが生まれていく。それは多様性がある、ここにしかないデザインです。
さまざまな人の自己実現が行なわれていった結果、江津市で何が起こったかというと、ひとりの動きがまた次の動きにつながる、創造力(自己実現)の連鎖でした。
平下さん 前向きな人が集まると、そこが楽しくなる。空白があるから、何かしようと思いついたらすぐに新しい場が生まれる。その場所が楽しく前向きな状態だと、また人が集まる。で、さらに新しい場所が増えるっていういいサイクルが、ここ2〜3年でできあがっています。
住民参加型で決めたスローガン
三角形は、江津市への移住および新しい働き方・生き方への移行を示す“GO”を意味する矢印であり、“江”にも“津”にも含まれている“さんずい“も表現したもの。また、三角形に施されたカラーは、それぞれ個性的な創造者が、お互いに響き合いながら前進していくことを表現しています
こういったまちの盛り上がりを受けて、江津市の総合戦略のスローガン「GO▶GOTSU 山陰の「創造力特区」へ」は誕生しました。
「博報堂ブランドデザイン」の協力を得て、まずは住民へのヒアリング、市民約80人が集まった江津市の魅力を探求するワークショップ、東京在住の島根県出身者へのヒアリングなどを実施し、まちの魅力を改めて掘り下げていったそうです。
さらに、それらの調査結果を受けて、一般公募の市民約25人が参加したコピーライティング・ワークショップを開催。市民の思いをしっかりと汲みつつスローガンを決定しました。
第1回市民ワークショップの様子
コピーライティング・ワークショップの様子
“GO”はコンテストの名前にも使われており、ワークショップでも参加者からよく出てきたキーワードでした。江津市のクリエイティブな動きを加速させていこうという意味と、U・Iターン希望者に向けて“江津へ行こうよ”と呼びかける意味とを表現しています。
それと対になっているのが“創造力特区”というワードです。“GO GOTSU”だけだと抽象的なので、よりシャープにコンセプトを規定する言葉として使いました。
平下さんは、“創造力特区”という日本語が入ったことで、江津市のイメージを伝えやすくなったといいます。
平下さん クリエイティブな人はひたすら目の前のことを一生懸命やって、今よりもっと良くしたいと思っているだけで、クリエイティブことをやっている認識はないと思うんです。でも、ひたすらそういうことがしやすいまちだということを、わかりやすい日本語で伝えるのはすごく大事だと思います。
中川さん 行政のスローガンにありがちなゴールを限定するスローガンじゃなくて、ここに住んでいる人たちが自由に、何色にでも染められるスローガンだと思います。
平下さんがおっしゃっていた江津市の“空白”はこのスローガン自体にもあるのだと感じました。
中川さん スローガンができただけでは意味がありません。もっともっと江津市に関心をもってもらい、面白いことをやりたい人が集まる、“本当の創造力特区”にしていきたいです。
そのためにどんな手法をとるかはまだまだこれから考えなくてはいけませんが、私たちは行政ですから、イベントではなく、仕組みをつくっていかなければいけないと思っています。
すっかり顔なじみのおふたり。行政と住民との垣根はまったく感じませんでした
自分たちの力で、身の丈に合った企画展を継続していきたい
実は私、江津市がここまで行政と住民の連携がとれていて、まちが大きな盛り上がりを見せているということを、今回の取材をさせていただくまで、ほとんど知りませんでした。
実際、外部への情報発信はそれほどできていなかったそうです。知る人ぞ知るまち、だったということですね。
平下さん 今まではずっと内側のことを整えていたんですけど、今回、こうやって東京にきて、蓄えていたものを外部に情報発信できたことがすごく嬉しくて。出してみて初めてわかるリアクションがありました。
今回は行政が主体となって博報堂さんと進めた企画展でしたが、今後は民間だけで意志をもって継続できればと思いました。そのためにも、自分の身の丈にあったイベントの方法だったり、場所だったり、そういうものを探していかないといけないですね。
行政の企画だからとただ乗っかって終わりにするのではなく、いいと思ったら、次は自分たちでやる。その自立心の高さに、なぜ魅力的な人たちが集まり続けているのかが、わかった気がしました。
目的のない何十人より、目的をもった“ひとり”が大切
地方に移住する人は、年々増えています。それも、ただ田舎暮らしをしたいというだけでなく、やりたいことを実現するための場として、地方という選択をする人が増えているのです。仕事をつくろうと考えたとき、あなたがクリエイティビティを発揮でき、暮らしたいと思える土地はどこでしょうか。
東京という人もいるかもしれません。小さな離島だという人もいるかもしれません。そして、江津市だと、ピンときた人もいるかもしれません。
中川さん ビジネスプランコンテストをやっていくなかで“ひとり”が重要だということがわかってきました。何十人も目的なく移住してもらうより、目的をもった“ひとり”がきてくれることが大切です。そういう“ひとり”は、100人ぐらいのネットワークがあったりするんですよね。
そのほうがすごい力が生まれるんだってわかったので、まちを変えるチカラをもつクリエティブな“ひとり”を求めて、これからも定住対策をやっていこうと思っています。
インタビューには博報堂ブランドデザイン・コピーライター/山田聰さん(右端)と博報堂ブランドデザイン・アートディレクター/高嶋紀男さん(左端)にもご参加いただき、スローガンや「東京なんて、フっちゃえば?展」のエピソードなどを伺いました。クライアントと広告会社という関係性を越えて、ここにも横のつながりが感じられ、江津市の空気感が伝わる、アットホームで和やかなインタビューとなりました
江津市では、行政も、まちの住民も、同じ境遇の移住者も“ひとり”の自己実現を信頼し、応援してくれます。なぜなら、それがこのまちでは可能で、かつ、結局はまちのためになると実感しているからです。“ひとり”として必要とされる喜びも、そこにはあるでしょう。
自己実現の場を求めているなら、“東京なんて、フっちゃって(笑)”そんな人々を歓迎してくれる“創造力特区”江津市に、半日かけても足を運んでみるのはいかがでしょうか。そこには自己実現するための生き方や新しい暮らし方のヒントが、きっとたくさん詰まっています。
(写真: 袴田和彦)