(photo: 石井麻木)
みなさんは、「PA」という仕事を知っていますか? 音楽が好きな方なら耳にしたことがあるかもしれない職業です。
PA(Public Address)とは、コンサート会場やライブハウスなどの音響をつくり出す仕事。その会場で産み出される生の音を、その場にいる人たち全員にもっとも的確な音像で届ける音楽の職人ともいえるでしょう。
日本のパンクロックを中心とした世界で、PAとしてこれまで20年以上にわたりライブハウスの音をつくり上げてきた西片明人さん。そんな彼が2011年の東日本大震災以降に「東北ライブハウス大作戦」というプロジェクトを立ち上げました。
2011年に計画を始め、2012年夏から秋にかけて岩手と宮城に計3軒のライブハウスを完成させた後、現在まで運営。
さまざまなミュージシャンが、津波被害の大きかった沿岸部で公演をするきっかけをつくってきたのは、この「東北ライブハウス大作戦」と言っても過言ではないかもしれません。
宮古、大船渡、石巻という甚大な津波被害を受けた沿岸部3地域にライブハウスを建てることを決意、実際に運営を始めるに至った思いとは何だったのか。
大震災後の街にライブハウスを建てる、という行動を通して見た、街の復興と音楽の関係性を探ります。
1968年生まれ、新潟県出身。SPC peak performance代表。’86年、新宿ロフトでPAエンジニアとしてのキャリアをスタート。’97年に独立、’00年にSPC peak performanceを設立する。これまでウルフルズ、Hi-STANDARD、BEAT CRUSADERSなど多くのバンドを担当。’11年より「東北ライブハウス大作戦」の作戦本部長を務める。
行動できないことが辛かった2011年6月までの日々
2011年3月11日に起きた東日本大震災。この当日以降、都内でも計画停電などを理由に、コンサートやライブハウスでの公演は次々と中止になりました。
そんななか、西片さんが普段からともに音楽の現場をつくり上げてきたバンド「BRAHMAN(ブラフマン)」のメンバー達は、「何かできることはないか」と、すぐに物資を集め、現地に届けるという行動を始めます。
“ハードコア”と言われるジャンルの音楽をやっている人間たちは、何かをインプットしてからアウトプットするまでが、速い。そうしないと、体がおかしくなっちゃうんじゃないのってくらい。
本当なら今こそ、自分たちの本来の行動である音楽を届けたいタイミング。だけどできないという状況を理解して、それ以外の、本来の自分たちの活動以外でもできることを探し当てて、活動に踏み切っていた仲間たちを見て。
それに対してサポートという形は取りながらも、自分が本当は何かできるっていうことを、ずっと探してはいたのね。
けれど、いつまでたっても状況のインプットはしてるのに、具体的に動けなかった3ヶ月間っていうのがめちゃくちゃ長かったし、自分は本当に遅いって思ってた。
物資を集め被災地へ届けるというシンプルな行動をすぐに始めつつ、既に震災直後の2011年3月末には、ワンコインで参加できる昼間のライブを、水戸やいわきなどで開催していたBRAHMAN。
また、被害は少なかったもののなんとなくの自粛ムードが立ちこめるなか、ライブ予定がほぼキャンセルになってしまった盛岡のライブハウスへも、彼らは連絡をとって公演をしにいこうとしていました。
その流れにはもちろん同行しながらも、自分が本来やるべきことは何か、西片さんは悩んでいたといいます。
2011年4月10日 盛岡でのBRAHMANライブの模様。もちろんこの日もPAを務めるのは西片さんだった。(photo: 三吉ツカサ)
ライブと並行して震災直後から物資を運んでいたBRAHMAN。「幡ヶ谷再生大学」というNPO法人としてこちらも活動は続いている。(写真提供:幡ヶ谷再生大学)
何も無くなった場所に“集まれる場所”をつくる
震災から1ヶ月経っても、自分は何ができるのか見つけられないジレンマを抱えていた西片さんですが、避難所へ行ったり、津波で流された友人を探すために遺体安置所へ通ったりするなかで、ある確信を持ちました。
それは、人々が自分の意志で集まれる場所が必要だ、ということ。
避難所になった学校の体育館で配給された、冷たいおにぎりなんかを食べている様子を見ていて、そういう場所は全部、半ば強制的に“集めさせられた場所”なんだよな、と思ってね。言ってみれば仮設住宅にもそういう面はあるかもしれない。
集めさせられた場所でなくて、自分の意志で集まれるような場所が必要だっていうのがなんとなくインプットされていったんだよ。
そんななか、西片さんとも親しい札幌のバンド「SLANG(スラング)」が、宮古で6月にライブをすることが決定。パンクロックを中心とした仲間のバンドが大勢集まり、宮古の人々だけに向けて駐車場でイベントを開催しました。
そこへ向かう道中、西片さんはこの震災直後といわれるタイミングでも現地で音楽イベントを開催できることの意味を噛み締めていたと言います。
本番当日、集まった宮古の人々は総勢1000人以上。地面は地震でガタガタになっていたそうですが、小さな子どもたちからおじいさんおばあさんまで集まって楽しんでくれている様子を見た後、西片さんはある決意を宮古の仲間に告げました。
なんかもう閃きだね。宮古へ向かう朝方、日が昇る4時か5時過ぎくらいのタイミングに、「あ、ライブハウスつくろう」って思って。宮古に行ったら仲間にも言ってみようって思ったんだよね。
2011年6月12日に開催された「宮古POWER STOCK」(photo: 菊池茂夫)
実は震災よりも前から、宮古では、西片さんと親交の深いバンドからつながった仲間たちが、市民会館や廃館になった映画館などで、手づくりの音楽イベントを開催していました。
そこへ何度かスタッフとして参加するうちに、西片さん自身、とても多くの刺激を受けていたのです。
震災以前から、自分は地元でがんばっている、地元を大事にしているバンドやその周りの人々が好きだったの。
宮古にはライブハウスもないのだけど、自分たちでチケットもドリンクも用意して、手づくりでライブイベントを開催している仲間を見て、正直自分は20年以上この世界でやってきてぬるま湯に浸かっているんだな、って思い知らされた。
だからこそ生まれた、「この街にライブハウスをつくろう」という思い。仲間の中心であった太田昭彦さん(現 宮古支部長)に、その意志を告げると、是非やりましょう、と即答してくれたそう。これがわずか震災から3ヶ月後のことでした。
もうひとつ、西片さんに縁の場所がありました。それは震災前から「KESEN ROCK FESTIVAL」というフェスが開催されていた大船渡です。
そこで宮古のライブが終わった後、今度は、大船渡へと向かい、同じように仲間に「ライブハウスをつくりたい」と伝えます。
とはいえ、震災からまだ3ヶ月。聞いているメンバーはまだまだ理解が追いつかない状況でした。自分たちの街が大津波によって壊滅的な被害を受け、ここでどうやってそんな場所を探すのか見当もつかないのは当然です。しかし、みんな「今すぐは無理でも、前向きに話し合っていこう」と賛同してくれました。
ここから場所探しや機材集めが徐々にスタートしてゆきます。
ライブハウスの音響は機材・設備があってこそ。場所を探すのと同時に機材の手配を開始した。(photo: 石井麻木)
そしてその1ヶ月後の7月、今度は宮城県石巻市で震災直後からボランティアとして活動していた西片さんの仲間から、石巻でもライブハウスをつくりたいという動きがあるから話をできないか、と持ちかけられます。
最初、石巻の人達はライブハウスを“つくってもらう”、“運営をやってもらう”っていう感覚だった。だけど、ライブハウスっていうのはやっぱり地元の人が運営するからこそ、そこに集まる人間も育っていくんだと思ってる。
自分も何もなくなった街に「集まれる場所」をつくりたくてやってきたわけだし、そういうことを伝えながら何度か話を重ねていったよ。
こうして、8月末には石巻の話もまとまり、宮古・大船渡・石巻3地域それぞれでの支部長として立つ地元のメンバーが決定しました。
3つの街で始まった「東北ライブハウス大作戦」
そして、震災から半年後の2011年9月11日、東北ライブハウス大作戦はスタートします。既に開始していたPA機材集めや場所探しと並行して、そもそもの費用面への募金活動も開始。
東北の3地域にライブハウスをつくろうとしている旨をまとめたフライヤーやオリジナルグッズを制作し、西片さんがPAを担当するバンドのライブの際に販売したり、物販スペースの横に募金箱を置いていました。
その頃から販売を続けている「東北ライブハウス大作戦」のシリコンバンドはパンクロックを愛聴する若者たちの間では一種のシンボルのようになり、アーティストもファンも、誰もが東北への思いを込めてライブ時などに着用しているのをよく見かけるようになりました。
また、3地域それぞれのライブハウスが完成した際に、壁一面にこのプロジェクトの賛同者の名前が並ぶことを想定した「木札大作戦」も始まります。
この木札は一口5,000円ですが、なんとこれまでに4600人以上の方がこの木札に名を連ねています(2015年3月上旬現在)。クラウドファンディングとして考えてみても、ものすごい数の賛同者!
それだけの音楽を愛する人々の期待が、この、甚大な津波被害のあった3つの街のライブハウスには込められているといえるでしょう。
賛同者の名前がそれぞれのライブハウスの壁に木札として連なっている様は圧巻だ。(photo: 石井麻木)
そうして遂に、2012年8月18日に「大船渡FREAKS」、翌日の19日には「宮古COUNTER ACTION」、そして10月31日には「石巻BLUE RESISTANCE」がそれぞれ無事オープンの日を迎えました。
それぞれのライブハウスのこけら落としには、Ken Yokoyama、ASPARAGUSといった人気のバンドが駆けつけ、大いに地元の人を沸かせこの記念すべき日をお祝いしました。
活動開始からわずか1年ほどで3軒が開店し、周囲の人々もびっくりしたほど! それでも西片さんは、こう語ります。
みんなすごく早いっていってくれたけど、俺のなかではやっぱり遅いというか、とにかく焦っていた。
早く場所をつくって、東京でウジウジしてる音楽関係の奴らにも行く理由を用意して、現地に連れて行かなくちゃと。ライブハウスをつくれば、バンドマンは行かなきゃって思ってくれるはず。
時間が経つとベクトルに違いがでてきてしまって、あとからの修正にはすごく時間がかかる。まず、目の前で倒れてるイスをみんなで一緒に起こすっていう作業をすれば、一旦は同じ方向を向けるわけじゃない? その意識合わせを早いうちにしておきたかった。
オープンの日はめっちゃくちゃ嬉しいんだけど、でもそこでやっとスタート地点に立てたという感覚の方が大きくて。なんといってもゼロ以下からのスタートだったわけだから。
津波で流されて亡くなった人がいる街が、完全に以前と同じに戻るわけがない。
だからこそ、元々ライブハウスなんてなかった街に場所をつくり、独自の新しいカルチャーをここから産み出さなくちゃならない。
その強い思いに突き動かされるままに3店舗の完成までを導いた西片さん。けれども、こだわりを持っていたのは「ライブハウス」ではなく、「それぞれの場所で必要とされるカルチャーの集合地」でした。
津波でホールをなくした幼稚園児がお遊戯の練習をする場所でもいい、ママさんコーラスの練習でもいい、じいちゃんばあちゃん呼んでカラオケパーティでもいい。
とにかく人が集まれる、対応力の大きい場所。それが、僻地に建ったライブハウスのやり方だと思うんだよね。
ライブで訪れたバンドマンも木札大作戦に賛同し、名前を書いていくケースが多いという。(photo: 石井麻木)
街にとってなくてはならない場所へ
2015年現在、木札での賛同者募集は継続しているものの、既に、3つのライブハウスでの純粋な募金は受け付けていません。自立して、かつ、どのように継続するか。それぞれのライブハウスが探っているフェーズになってきているのです。
完成して2年半が経過し、宮古では店員さんがギターの弦の巻き方講座やDJイベントを始めてみたりと、自分たちなりの企画を工夫して試すなど、それぞれのお店のキャラクターも出てきているそう。
岩手県宮古市の「宮古COUNTER ACTION」(photo: 石井麻木)
石巻ではライブハウスのはす向かいにもうすぐコンビニができる予定で、西片さんはそれをとても喜んでいます。なぜならそれは、ここに人が集まっていると周りにも認められている証拠だから。
また、2015年春には仙台と石巻をつなぐ仙石線が全線開通するため、「せめて土日は、ライブを見終わったら仙台まで帰れるように、遅めの時間を用意してほしい」と要望を出したり。
あるいは大船渡でも、ライブハウスから最も近い駅にBRT(バス高速輸送システム)が停車しなくなってしまったのを、元通りになるよう依頼したり。こうした公共交通機関への要望は、復興中のエリアではとても大事だと西片さんはいいます。
ライブハウスの通常業務ももちろん大事。でもこの「東北ライブハウス大作戦」でつくった場所っていうだけじゃだめなんだよ、と。それだけでは続かない。
だからやり方や運営に関しては、県内の別エリアのライブハウスと連携したり、街のいろいろな動きに対しても視野を広く、鼻を利かせていけって、支部長たちとも話をしているよ。
また、西片さんはこれらのライブハウスで東京からのバンドの公演を多数組むかわりに、出演者たちには、ファンをどんどんこの街へ連れてきてほしいと考えています。
出演するバンドはみんな、「被災してた人たちに元気になってもらいたい」って気持ちが強い。もちろんそれはわかりやすいんだけど。でも、東京で武道館でできる出演者が来たりもするわけで、その10分の1のお客さんを東京から連れてこれたら埋まるんだから、と。
遠征してライブにやってくる人もどんどん増やしてほしいなって思う。そしたら街にお金もおちるし、電車もバスも使う人間がいればこそだから、インフラの整備も活性化するはず。そういうのが結構、重要なんだよね。
被災地へライブを観に行くなんて不謹慎? 震災から4年が経過する今、もうまったくそんなことは無いし、むしろそこに建ったライブハウス自体がその街へ通うきっかけになればいい、と西片さんは考えているのです。
また、大船渡にできた「大船渡FREAKS」は、2014年秋をもって一旦、場所を移転しました。もとの場所は、街の復興計画によりかさ上げをすることが決定していたのです。
現在は街の復興商店街の中で、共同経営としてオープンしたハンバーガーカフェ「RACCOS BURGER」とともに、音楽ができるカフェとして営業を継続しています。
長期的視野で動いていく行政の動き・街の復興計画に合わせた柔軟な変化が求められる岩手・宮城・福島の沿岸部での活動はとてもタフですが、地域の人々と綿密にコミュニケーションを取り、各地域の支部長とともにつくってきたからこそ、今の形がある。
今後はライブのない日でも気軽に利用できる場所となる可能性も高く、ある意味、ここは西片さんが求めていた「人が集まれる場所」の新たな形なのかもしれません。
津波被害の大きかったビルの2階にオープンした「大船渡FREAKS」
移転後の「大船渡FREAKS」は復興商店街の一角にオープン。誰でも入りやすい空間だ。(photo: 石井麻木)
今年のチャレンジは自然エネルギーの野外音楽堂
西片さんは普段PAエンジニアとして関わるバンドメンバーたちからは「先輩」と呼ばれ、とても慕われています。
そんな西片さんが旗を振ったからこそ、さまざまなミュージシャンが賛同し、今回のような大きな動きにつながったはず。
お前がやるから、あんたがやるから意味があるんだっていうことが絶対あるんだな、とこの震災以降は学ばせてもらったね。
普段自分はあんまり気付いていなかったことだったけれど、人が動けば、変わる。
そしてやるって決めたらこんだけ変われるんだな、と、50手前のおっさんだって今感じているわけで、それが少しでも伝われば嬉しいよね。
ミュージシャンではなく、その最大のサポーターであるPAチームが主体となって動き、今回このライブハウスが完成したという事実は、ファンにとっても新たな視点を与えたことでしょう。
音楽を聴く環境というのは、演奏者だけでつくっているものではなく、その周りのチームも演奏者と同等、あるいはそれ以上に、音楽の生まれる環境について、そして音楽がどのように人々に必要とされるかを真剣に考えているのです。
音楽に何ができるのかっていまだに自問自答することはある。けど、音楽が好きで毎日聞いているってだけでも携わってるっていうことだと思うし。
そういう意味で言ったら、全然接点のない人たちを繋いだり何かを共有しあえる力が音楽にはあるんじゃないかなって。
東北ライブハウス大作戦は、いろんな悲惨なことがあったことを忘れないためのものでもあるから、これからもずっと続いていくよ。
2015年、東北ライブハウス大作戦は、クリエイティブディレクターの箭内道彦さんのチームと共同で、福島県の猪苗代湖に自然エネルギーで電力をまかなう野外音楽堂を建てる計画に参加しています。これは実は役所の方々からの紹介があって始まったものなのだそう。
福島県での東北ライブハウス大作戦は、恐らく沿岸部とはまた異なるものになることでしょう。西片さんたちのこれからの動きにもおおいに期待を込めつつ、夏には猪苗代湖の野外音楽堂でライブを観てみたいですね!
(photo: 石井麻木)