日本企業の海外移転や、国内外での外国人採用の増加。今後数年で日本人の仕事が激減すると囁かれ、将来に不安を感じている人も多いのではないでしょうか。そうした状況を受けて、「海外で働く」ことを目指す若者も増えています。
社会を変える人材を育てるための留学プログラム「チェンジメーカー留学inベトナム」でコーディネーターを務める唐津周平さんと川村泰裕さんは、新卒で入った企業にリストラされてベトナムに渡り、仕事をつくる挑戦をしてきた方です。少し変わった経歴を持つ二人に、海外で働いて気づいた「自分の活かしかた」や、いま海外で働く利点について伺いました。
転げ落ちたところから示せる道もある
唐津さんは2008年に大学を卒業。人材派遣会社の営業職に就いたものの、入社3か月で会社が傾き、「給料が支払えない」と通告されました。その後の一ヶ月で社員の大半が辞めましたが、唐津さんは会社に残ったといいます。
いま振り返るとアホだなと思うんですが、当時は「この会社を持ち上げたら俺かっこいいな」と考えていました。それから、昼間は無給で会社の仕事をして夜はコンビニでバイトしたり、自分自身が派遣されて派遣先で働いたりもしたのですが、3月中旬に会社がいよいよという状態になりまして。
社長と「ゆで太郎」にカツ丼を食いに行きリストラを告げられました。そういや僕、退職金もらってないんですけど、それはカツ丼だったのかもしれませんね。
衝撃的な内容を笑って話す唐津さん
傍から見ると思わず「悲惨」という二文字を当てたくなってしまう社会人生活のスタートですが、唐津さんはめげなかったといいます。
人材業界で働いていたので、リーマンショック後の混乱している日本で、「社会人経験一年」という自分の市場価値が低いことはわかっていました。だから、普通に転職するんじゃなくて、自分で仕事をつくれないかと考えたんです。
「いわゆる一般的な道からは転げ落ちたけど、そこからでも道は示せるだろう」と。もともと「日本の働きかたってどこかおかしいな、もっと多様な選択肢があっていいんじゃないか」という想いもあったし、自分がそれを体現しようと考えました。
その頃ちょうど知り合いのコンサルタントから「海外で働いて世界観を広げたらどうか」という話をされた唐津さんは、一気にその気に。「海外で仕事をつくりたい」と様々な人に相談するうちに、ベトナム中部のダナンという都市で新規事業を立ち上げようとしていた日系企業と出会いました。
「そういうことならうちの社員としてやったらどうか」と提案を受け、2009年6月に渡越。ベトナムに対する知識もなく、ベトナム語も全く話せないまま、ダナンというマイナーな都市で仕事をつくる挑戦を始めることになりました。
リストラから「海外で仕事をつくる」挑戦
一方、川村さんも入社1年3ヶ月でリストラ勧告を受け、2009年に退職。3日ほど落ち込んだそうですが、すぐに自分を励ますためのイベント「リストラワークショップ〜俺はどこへ行くのか〜」を企画したといいます。
起こってしまったことは仕方ないし、リストラを周囲から腫れものに触るように扱われるものとして捉えるのではなく、“神様からのギフト”だと考えようと思いました。深刻になろうと思えばいくらでも深刻になれるけど、こんな状況でも人を楽しませることはできるんじゃないか、と。
内容は、グループに分かれて川村さんの将来について議論を交わし、愛のメッセージや献金を届けるというもの。友人知人50人が集まり、物珍しさから全く知らない人からの申込もあったそうです。
今年(2013年)5月、無職について考える「無職説明会」というイベントが開かれ大手メディアにも取り上げられていましたが、2009年当時はまだそういった空気はありませんでした。ある意味では、川村さんは最先端を行っていたのかもしれません。
ワークショップのとき、後輩から「海外はどうですか?」と提案があって、それもありだなと思いました。それで、ベトナムで働いている人に話を聞きに行ったら、唐津を紹介されて。メールのやりとりをしていたら、お互いの境遇が似ていたので意気投合しました。
「リストラされた自分が海外で仕事をつくることができたら、これからリストラされる人に一筋の希望を与えられるのでは」と考えた川村さん。一度ベトナムに視察に行き「住める」と判断、2010年3月にベトナム中部の都市フエに移住しました。
日々の積み重ねが仕事につながっていく
ベトナム移住後、唐津さんは本社のサービスを現地の日本企業へ提案する仕事に従事。川村さんは、2ヶ月ほど“海外ニート”を経験しましたが、縁あって公立フエ外国語大学で日本語教師の職を得ました。ベトナム中部では、日本語を学びたいと思っている若者はたくさんいるものの肝心の日本人があまりいないため、「日本人の若者」というだけで重宝されたといいます。
唐津さん 「日本語交流会」を企画したところ、とても好評で継続した企画になりました。一人2万5000ドン(100円)という少額でしたけど、自分で企画したことにお金を払ってもらえたということに感動しました。
地域の仕立て屋に頼まれ日本語を教える唐津さん
二人のもとには日本からも知人友人がたくさん訪れました。日本語ガイドを目指している学生たちに案内を頼んだところ、とても喜ばれたといいます。
川村さん 学生にとっては日本語の勉強になるし、日本の友人にとってはパックツアーではわからない現地の暮らしが味わえる。お互いのニーズが合致していました。そのうち、僕たち自身に興味を持った人も訪ねて来てくれるようになって、これまでの訪問者数は100人を越えると思います。
そうしたことを情報発信している内に、日本から「一緒にツアーを企画しませんか」と声がかかるようになり、新たな仕事につながっていきました。「毎日エデュケーション」の石渡さんも声をかけてくれたうちの一人です。
「毎日エデュケーション」は留学や海外研修のサポートなど、海外での学びを支援する企業です。取締役の石渡章義さんは「これまでとは違った留学プログラムができないか」と考えているときに川村さんのツイートを目にし、「日本の若者がアジアのマイナー都市で仕事をつくるという挑戦をしている」ことに感心。川村さんや唐津さんの奮闘を見ることが若者の学びにつながるのではと考えたといいます。
唐津さん、川村さんも「ツアーを企画したい」という想いはあり、これまでの積み重ねもあったので、話はどんどんまとまりました。2011年3月には「チェンジメーカー留学inベトナム」第1回を開催。好評だったため、年1〜2回のペースで継続して行うことになりました。
ベトナムに来て「日本」に対する認識が変わった
そもそもなぜ二人はツアーを開きたいと思っていたのでしょうか。
川村さん 自分がベトナムに来て学びが多かったんですよね。日本という国を外から見るいい機会になったし、「こんなちっぽけな自分でもできることがあるんだ」と思うこともできました。
具体的には、どういったことでしょうか。
川村さん 僕は恥ずかしながら“日本語教師”という職業があることすら知らなかったんですよ。それが職業として成り立つということは、ベトナムでは日本語を勉強することがメリットになるということですよね。
僕らの上の世代が頑張って戦後に経済発展を遂げて、製造立国としてアジアに進出して、そのおかげで自分が「日本語を教える」だけで食べていける状況がある。リストラされた自分が、ベトナムでは日本人というだけで役に立てる。日本のブランド力ってすごいなと気づかされました。
でも、その実感とは逆に、僕らのところを訪れてくる日本人は、自分の国に対してネガティブな見方をしている人が多かったんです。「日本はもうヤバいから海外へ脱出したい」みたいな。でも、実際にアジアで働いている人って必ず日本の恩恵を受けているし、「日本がダメだから」ではなく「その国が好きだから」働いている人ばかり。日本にいて海外で働きたいと思っている人と、実際に働いている人の考え方のギャップはすごく感じていました。
経済の行き詰まりや過酷な労働環境。2011年から2012年にかけては、「日本脱出論」が盛んに囁かれました。しかし、「日本がダメだから」と言って海外へ移住しても、その国が傾けば同じことの繰り返しになってしまいます。国や社会のせいにするのではなく、自分から社会を変えていこうとしなくてはいけないのではないか。そういう想いもあったといいます。
川村さん まずは自分や自分の周りにある資源に気づくこと。今までいた環境から一歩外に出ることでそれに気づいて、活かせるようになるのではと思っています。
いま起きている状況をどう捉え、どう動くのか
いま、日本の労働環境は激変しようとしています。日本企業はどんどんアジアに進出し、事務系の仕事もアジアに流れていきます。本社を日本に置かない企業や、社員を駐在員として現地に送るのではなく現地の給与水準で日本人を現地採用する企業も増えることでしょう。
チェンジメーカー留学の一期に参加した原田康平さんは、実際にその現場を見て衝撃を受けたといいます。
原田さん 日本語が堪能な優秀なベトナム人たちが、安い人件費で質の高い仕事をしていました。ここと競争しても勝ち目も少ないな、と。そっちの方向ではなくて、高付加価値のものを広めていく仕事をしようと思い、MADE IN JAPANのビールを製造している会社に入社しました。
実は、チェンジメーカー留学に参加する前は、「卒業後はすぐに海外へ」と思っていたんです。でも、実力がないと買い叩かれてしまうことがわかったので、まずは日本でしっかりと実力をつけようと思いました。
「世界で起きていることをしっかりと把握することで、いま自分が何をすべきなのかわかった」と原田さんは振り返ります。
ツアー最終日、親しくなったベトナム人との別れに号泣したという原田さん
唐津さん どんな状況も捉え方次第だと思います。個人的には、現地採用も期間を決めて働くならいいのではと考えています。たとえば、大企業で支社長クラスになれるのは一握りですよね。でも、こちらではそれと同じくらいの裁量権が持てたりする。その経験は日本に帰ってからとても役に立つと思います。
また、お金の多寡よりも、自分の好きなところで働きたいという価値観を持っている人もいます。給料は低くてもアジアで暮らしたい人にはひとつの選択肢になるのではないでしょうか。
結局は、自分の価値観に基づいて、どこでどう生きるのかということだと思います。
これからは、「こっちの方向へ向かえば安全」というレールがない時代。自分が何を大事にしたいのかを考えて、自分で方向を決める必要があります。それを面白がる人もいるでしょうし、不安に感じる人もいると思います。
唐津さん 昔は自分がベトナムに行くことになるなんて全く思っていませんでした。海外で働ける人なんて、語学が堪能で優秀な「頂点」の人だけだと思い込んでいたんですよ。でも、何も持っていない僕でもベトナムで3年半生きてこれましたから。だから、そんなに不安になることはないと思います。
唐津さんは2012年冬に日本に帰国。自分がベトナムでベトナム人にお世話になったことから、今度は日本にいる外国人のサポートをしたいと、国際交流を行う財団法人や大学で働いています。
唐津さん 道はひとつじゃないですよね。ベトナムに来て某大手海運会社の社長と知り合ったんですが、学生時代に海外放浪の旅に出てミャンマーのゲリラに巻き込まれて大学を除籍になり、その後ベトナムに渡って今の海運会社にバイトとして雇われたそうです。最初はチラシの切り抜きとかしていたそうですが、今では社長ですから。励まされますよね。
アジアで生活していると、そうした生きた事例とたくさん出会い、日本で感じていた常識やある種の「枠」が取り除かれていくそうです。
すっかり枠が取り除かれた3人
川村さん 就職活動のとき、「あなたの強みは何ですか?」って必ず聞かれますよね。でも、僕はそれってそんなに重要じゃないと思っています。
ベトナムに来て思ったのは、「こうしてほしい」という手があちこちから差し出されていて、大事なのはそれを握れるかどうかということ。周りから求められることに応えていくうちに、次の仕事につながっていきました。
でも、日本では自分の出せる手は見ているのに、自分に向かって伸びている手は見ていない人が多い気がします。ロジカルシンキングができて、プレゼンスキルがあって、でもそれを何に活かしたらいいのか、なぜ活かしたいのかわからない。「HOW」はあるけど、「What」と「WHY」がない状態なんですよね。自分の中の「WHY」や、自分に向かって差し出される手、つまり「What」に気づくには、海外はいい環境かもしれません。
一見「終わった」と思える状況でも、そこには必ず「使える資源」や「自分を求める手」があるもの。リストラに負けることなく海外に渡り、日々の積み重ねから仕事をつくってきた唐津さん、川村さんが言うと説得力があります。もしかすると、ふたりの生きかたにはこれからの激動の時代を生き抜くヒントが隠されているかもしれません。
「チェンジメーカー留学inベトナム」は、現在第6期の参加者を募集中。もしあなたが仕事や人生に悩んでいるなら、参加してみてはいかがでしょうか。自分の人生を切り拓く逞しさが身に付くかもしれませんよ。