見渡す限りの雪の中、“かんじき”を履いて、ざく、ざくと一歩ずつ山を踏みしめる。雪の深さは50cmほどだろうか。かんじきがあれば、雪の上を歩くことができる。最初はなんて便利な道具なのだろうと思ったが、時間が経つにつれ、靴の上に乗る雪が重たく感じられた。両手にストックがあることがありがたい。所々で雪に足をとられながらも、森の中へと入り、斜面を上っていく。
少しひらけた場所から、すぐ近くに森吉山(もりよしざん)が見えた。山麓住民の信仰の対象とされてきた山である。山々が連なる中でも、あれが森吉山だと一目でわかった。頂上は厚い雲に覆われていて、吹雪いているかもしれない。山頂付近にはアオモリトドマツの天然林があり、東麓にはブナの天然林が広がる。秋には斜面が赤や黄の錦をまとい、香ばしいブナの実やトチの実、サルナシの果実が豊かに実る。ここに、クマをはじめとした動物たちの住処があるのだ。
雪が集めた光が、木の幹や枝の一つひとつをくっきりと目立たせている。足の運びに少し慣れてきたところで、雪の上に動物の足跡があることに気づいた。「カモシカかな」と教えてくれたのは、秋田県・阿仁のマタギでシカリ(頭領)をつとめる、鈴木英雄(すずき・ひでお)さんである。

鈴木英雄さんは、代々打当マタギのシカリをつとめる家系に生まれた。マタギの9代目にあたる。長年、森林組合で働いた山のプロでもある。マタギ学校講師、自然観察指導員、ふるさとあに観光案内人といった顔ももつ。新しい装備類も積極的に取り入れるようで、この日はスノーシューを履いていた。愛犬のココがいつも一緒だ
深い雪に閉ざされた、山の奥地で生きる
奥羽山脈と出羽丘陵に囲まれた奥地にある、秋田県北秋田市の阿仁地域。かつては、険しい峠を越えなければ辿り着けないような、隔絶された土地である。打当(うっとう)、比立内(ひたちない)、根子(ねっこ)といったマタギ集落があることから、「マタギの里」として知られる。1年のうち約5ヶ月を深い雪に閉ざされる秘境とも言われる地で、クマ狩りなどの集団猟を中心に、狩猟を生業としてきたのがマタギである。
英雄さん 雪が多くて大変だと思うかもしれないけれど、雪は、不可欠なものなんです。猟は、樹木の葉が落ちて、雪が降ってからじゃないとできない。雪があれば足跡を見つけることが簡単だし、雪がないと足場も見通しも悪くて、思うようにいかない。他にも、雪を利用して薪となる木材を運んだり、田んぼの雪の上に炭を撒いて、それを肥料にしてきました。雪があるからこそ、生活できているんですよ。
積雪地帯の春のクマ狩りは、春の彼岸から田植えまでと言われ、ブナの木の芽吹きから開くまでの短い期間に行われた。葉が茂ると狩りをするための視界が狭まるためである。かつては、冬眠するクマの巣穴を狙っていたという。狩猟の道具は、弓矢と槍から、江戸時代には火縄銃に、明治時代に火縄銃から村田銃へと代わり、やがてライフルが主役になった。ライフルをもち、クマを撃つ(ぶつ)ようになったのは、わりと最近の話であるようだ。火縄銃とライフルでは、射程距離に何倍もの開きがあるという。
獲物との遭遇や雪崩の危険、天候の急変など、平地では考えられないような緊張感がつきまとうなか、厳しい風雪に耐え、急傾斜の道なき道を、何十キロメートルにもわたって歩く。山に入っても、何日もクマに出会えないこともある。雪上に腰を下ろしてクマを探すためか、シカなど動物の毛皮を尻あてとして腰に巻くマタギも多い。5〜30人程度で向かうが、山の下からクマを追い立てる人と、逃げてきたクマを稜線から撃つ人に分かれる。
これが、「巻き狩り」と呼ばれる代表的なクマ猟である。山の麓に集まり、シカリがマタギの配置を決めて、ひとたびクマが姿を現せば、号令でそれぞれの持ち場につく。大声を出しながらクマを追い立てる役目をセコ、待ち受けて鉄砲を撃つ射手をマツバと呼び、無線機で指示があるまで、マツバは、冬山で何時間も獲物が現れるまで待つのである。
マタギたちは、クマと対峙することを「ショウブ」と言うが、勝負の結果、運よく山の神からクマを授かることができたら、解体する前に、シカリがクマの魂を山の神様にお返しするための「ケボカイ」と呼ばれる儀式をおこなう。
クマの頭を北に向け、左の足を下にしてあお向けにする。そして、シカリが塩をふって“唱え言葉”を三度繰り返す。「魂はお返ししますので、また私たちに肉と皮を授けてください」という祈りを山に捧げ、山の神に礼を述べるのだ。
英雄さん マタギにとって、クマは山の神からの授かりものです。だから、クマを『授かる』と表現します。単に獲物としてではなく、山の神への感謝と敬意を持って接しているんです。これまでずっと、授かったクマはみんなで分け合い、生薬に加工するなど、さまざまに利用してきました。
「ケボカイ」が終わると、その場でクマを解体する。林道や民家が近くにあれば、そのままシカリの家まで運ぶこともある。興味深いのは、その分け前についての考え方である。シカリだろうが、クマを仕留めたマツバだろうが、猟を始めたばかりの年少者だろうが、猟に参加したマタギは同じ分量ずつ、肉や内臓が均等にわけられるのだ。これを「マタギ勘定」という。

山の神は、とても醜い女の神様で、大のやきもち焼きなのだとか。猟の前の1ヶ月は妻と同じ部屋で就寝しない、結婚式で身につけたものは山へ持ち込まないなど、マタギたちは細心の注意を払った。オコゼを見せると「自分より醜い」とたいそう喜ぶことから、オコゼを持って山に入ったという
英雄さん みんなの協力があって授かったわけだから。誰かの取り分が多かったら、不公平だという意見が出ますよね。山の中に入ればみんな平等にもらえることで、喜びや仲間意識を感じて、また頑張ろうという気持ちが生まれてくると思うんです。クマの肉はもちろん、内臓や骨、血液、脂まで、余すことなく使いますが、クマの皮や胆嚢はお金になるので、売ることもあります。けれど、個人の利益にはせずに、そのお金も、一緒に猟をした仲間で分け合います。
現金収入がほぼない山間部の集落にとって、クマがもたらす経済的な恩恵はとても貴重なものだった。「これがクマの胆(い)だよ」と、英雄さんはクマの胆嚢を見せてくれた。冬ごもりをしていたクマたちが、越冬穴から出てくる頃を狙うのが春の猟である。この時期のクマは、長い期間、絶食していたことから、胆嚢にたっぷりと胆汁を溜め込んでいる。これを狙うのだ。

クマの胆(い)。クマから切り取った胆嚢をストーブの上に吊るして乾燥させると、大きさは四分の一程度になる。漢方薬の中では最高級品で、胃腸病など、万病に効く薬として取り引きされ、昭和60年代には、グラム2万円で売れるなど、マタギの貴重な収入源だった
マタギたちは、山のなかでの会話に、仲間だけにしか通用しない「マタギ言葉」を用いた。クマはイタズ、カモシカはアオシシ、心臓はサンペ。現在は使われていないというが、どのような厳しさをもって山と向き合っているのだろう。そう考えていると、英雄さんは、こんな言葉で場を和ませてくれた。
英雄さん ケボカイという儀式の詳細は、明文化されていないんです。マニュアルがあるわけじゃないし、教えてもらっていないから、口伝ですらない。一緒に山に入った体験を通じて覚えている“音”を、聞こえるような、聞こえないような声で、もごもごと唱えているんですよ(笑)
クマと人。山という自然の中での対等な関係性
英雄さんのご自宅の向かいにある車庫は「マタギ小屋」と呼ばれており、2階には、狩猟のために使われてきた古い道具や資料が揃う。見上げると、祖父の鈴木辰五郎さんの写真や新聞の切り抜きがあった。
辰五郎さんは、マタギで生計を立てた最後の人だという。「指一本触れずにクマをぶん投げた、空気投げの辰」と呼ばれ、晩年は雪男捜索隊に加わってヒマラヤへ向かったことでも知られる、伝説的なシカリである。
英雄さん 隠れていたクマが突然襲いかかって、銃を撃つすべもないところ、体をぐっと低く引くと、クマは勢い余って宙返りして転がり落ちていった。その瞬間を見ていた人に言わせると“指一本触れないでクマをぶん投げた”ってことで、「空気投げの辰」と呼ばれていたんです。
英雄さんは、そんな辰五郎さんの背中を見ながら、中学校を卒業後、15歳でマタギとなった。
英雄さん マタギの家系でもあり、農家の跡取りでもあるからね。出稼ぎにも行くけど、戻って春の猟をするのが楽しみでね。春の猟が終わると田植えをして山菜を採り、夏は焼畑をして川魚を獲り、秋にはミノや笠をつくるための材料を集めて、そして冬にはまた猟がある。マタギになろうと思ってなったわけじゃなくて、暮らしの中にマタギが入っているんだよ。
マタギは、山の神を敬うだけでなく、自然の営みを大切にしている。植物やキノコはもちろん、ヤマドリやウサギ、カモシカ、クマ、イノシシは貴重なタンパク源で、皮や角なども大切に利用してきたが、たくさんは捕らないし、食べない。クマであれば、大人は捕るが、子どもは見つけても逃して、大人になってから捕る。キノコや山菜も同じで、翌年も採れるように、必要な分だけ間引くように採る。このように、マタギは暮らしのサイクルを守り、持続可能な自然との共生をつくってきた人たちだ。その起源は、さかのぼって平安時代から同じであると言われている。
英雄さん クマ狩りをする人をマタギだと思っているかもしれないけれど、そうじゃない。山菜採りでも魚釣りでも、山から何かしら食べるものを恵んでいただいて、ここで生活する人はみんな、マタギと言えるんじゃないかな。

阿仁マタギが頼りにする刀は「フクロナガサ」と呼ばれる。ナガサとは山刀のことで、今でもマタギの魂とされ、最も大切な道具である。先が刀のように反り、切れ味が鋭い。山で植物をなぎ倒したり、動物の解体作業に使う。袋状になっていて、長い棒を差し込めば槍にもなり、いざというときはクマとも対峙できる
マタギたちが「授かる」と表現をするのは、クマだけではないようだ。「ウサギをたくさん授かった」とも言う。思いがけず、幸運にも「授かる」のである。
英雄さん 近頃は、役場から有害駆除の依頼が来ることもあって。でもね、箱に入って動けないものを仕留めても、授かるという感覚にはなれない。もちろん、ケボカイをしてからいただくけどね。マタギはどうであれ、捨てることはしない。でも、やっぱり山という自然の中で、クマが逃げるか人間が捕るか、対等の立場での命の駆け引きがあって、はじめて勝負したってことなんじゃないかと思うんだよ。
クマ猟は一回一回が「勝負」であって、クマと人間との間に、駆け引きがある。クマも人間も、命を守りつないでいくために、極限の世界を生き抜いているのだ。
英雄さん クマの胆は万能薬だから、自分たちが使う薬という意味でも、本当に貴重なものだったんです。これだけ山の奥地だと、病院に行くのだって時間がかかる。病院のあるまちに出るのに10キロ。入院なんてことになったら、さらにそこから20キロ。車がない時代、病人をソリに乗せたり負ぶっていくとなると、相当な距離です。だから病人が出るって大変なことで、クマに助けられた集落だと思っているんですよ。
現在は、薬機法によって、クマの胆を薬として販売することはできないのだという。「だからいまは、酒を飲む前に飲んでおくんだよ」と言って、英雄さんは、また私たちを笑わせてくれた。

マタギの里のシンボル、森吉山。標高は1,454m。冬は頂上近くで樹氷を観察することができる。この木はアオモリトドマツ(モロビ)で、マタギの集落の神棚にも捧げられている。香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられていることから、猟の前はモロビを燻して全身を清め、里の匂いを消してから山へ入る
生きるために、自然と人との境目を、またぐということ

打当マタギが猟場としている山。英雄さんは幼少の頃から山に入り、この土地のことならなんでも知っている。クマを追うと、木々の黒い線に沿って登っていくのだという。隠れることもある。「クマもただ撃たれるわけではない」と英雄さんは話す
マタギはいま、その活動範囲が狭められている。一つは、人間の関わり方によって山そのものが変容しているという背景がある。この50年で多くの山が人工林に変わったことは、広葉樹林や雑木林の木の実を好む野生動物にとって、決してよい環境になったとはいえなさそうだ。鳥獣保護区に指定されたことで、一切の猟ができなくなった山もある。現在、狩猟法によってツキノワグマの猟期は11月1日から2月15日まで、イノシシやニホンジカは3月15日までと定められているが、クマは12月半ばには冬眠してしまう。4月上旬から5月上旬まで、生息調査として捕獲の許可が下りているという状況である。
さらに、マタギの多くは高齢者で、引退する人が相次いでいるという背景もある。打当マタギでは、英雄さんが子どもの頃には40人ほどいたものの、いまは5人程度になっているのだとか。そのため、クマ猟をするときは、お互いの猟場を荒らさないという意味合いで、つい最近まで交流がなかった集落のマタギにも声を掛ける。
そうした状況の中、移住してマタギになったのが益田光さんだ。益田さんは、学生の頃に阿仁を訪問。山から授かったもので生計を立てるマタギに憧れたと話す。現在は、個人事業主としてクロモジ茶の販売を手がけるとともに、猟期になると週3日以上は山に入るという。
益田さん 山の神のおかげでクマを授かるって、そこには謙遜もあると思うんですが、それは、山ではとても大切なことだと思っているんです。山の栄養を取り尽くさないという自然の摂理を守ることや、山で過信しない、おごらないことは、こうした奥地で暮らす上で、とても大切だと思います。ここでは、一人じゃ生きていけないんです。都会だったら一人で生きていけるかもしれないけど、ここでは無理です。
農作業においても、手伝いに行ったり、手伝いに来てもらったりしながら、集落のみんなが同じタイミングで終わるようにしているのだという。集落全体の田植えや稲刈りが終わると、誰かの家に集まって飲みかわす。そうやって、田んぼも猟も集落みんなでやっていく、共同体として生きていく営みが、ずっと続けられてきたのだ。
益田さん 猟にしても、みんなでやるんですよね。ハンターとの一番の違いは、そこだと思います。僕は何も知らずにマタギという世界に飛び込んだんですが、マタギにしても農作業にしても、連帯のなかにあることは、長い年月をかけて受け継がれてきた、みんなで暮らしていくための知恵だと思います。
面白いなと思うんですけど、マタギをやっていても、猟の期間じゃないときは、クマの心配をしているんですよ。あいつら元気にしているかなって、ふと思うんです。お互いさまなんですよね。でも授かる。そこは難しいです。
また、永沢碧衣さんは、大学在学中に阿仁を訪れて、山に一年中携わるマタギの生き方を知った。卒業後に狩猟免許を取得し、秋田県横手市から各地へ赴き“旅マタギ”として狩猟に同行しながら、見えてきたことを絵画表現としてアウトプットしている。
永沢さん かつてのマタギたちは、山形、福島、新潟、長野の山まで遠征をして、その先でマタギの文化を伝えていたそうです。そんなふうに、阿仁に通って猟に入るのもありだよね、と受け入れてくださって感謝しています。
この阿仁という地域は、生きていくためにマタギという一つの手段を見つけた人たちの集落なんだと思います。山深くて、雪深くて、おそらく他に生きていくための手段がなかった。いまは、生き方として私たちが学べることがたくさんあると思っています。その根っこにある感性は、他の地域にも同じようにあるかもしれない。そんな地域を訪ね歩いてみたいと思っています。
益田さんと永沢さんは口を揃えて、信念や精神性もグラデーションがあるマタギたちにとって、シカリという存在は精神的支柱であり、シカリが英雄さんだったから、自分たちはここにいられるのだと言う。
永沢さん この人が言うなら、という説得力だったり、経験だったり、安心感だったり。いろんな意味で頼りになる存在としてシカリがいる。それぞれが山を熟知していたとしても、シカリの統率がなければ、役割分担して全体で猟をすることは難しいと思います。同じ方向を目指すことすら難しい。
益田さん シカリっていう存在は、大きいんですよ。狩猟集団として一つの意思を持って動くには、シカリの存在が不可欠なんですが、こうやって僕らがマタギについて話したりできるのも、いまシカリをやってるのが英雄さんだからだと思います。それこそ、若いもんは喋るなっていう時代もあったと思うんですよね。英雄さんがおおらかというか、新しい解釈や考え方を否定しないことが、すごくありがたいです。
シカリは、前の世代のシカリが任命するもので、なりたくてなれるわけではない。人望があって、山の知識や猟の差配に優れているだけでなく、山の神とマタギとをつなぐ術を伝授するに足りる人でなければならないとされてきた。ここでいう術とは、自然をつかさどる山の神から獲物を呼び寄せ、雪崩などの災害から自分や仲間を守り、傷病者が出れば治癒力を引き出す、そうした霊力のことである。
マタギにとって、あるいはシカリとして、山とはどのような存在なのか。英雄さんに、そのまま問いを投げてみると、こんなふうに答えてくれた。
英雄さん 山を歩くと、緊張感があってね。山に惹かれるのは、その緊張感が一つの要因だと思いますね。マタギは、ただ山へ行きたいんだよ。運のいい人しかクマに会えないって言われてきたんです。いまクマは冬眠中だけど、春になったら今度こそ、と思いながら、また山を歩きたい。前に見つけたクマ穴を、もう一度見に行こうと思っているんだよ。
マタギは、「又鬼」と書くこともある。鬼とは、ツキノワグマのことであるという。山という自然と、人が生きる里山との境界を、またぐ。マタギは、人間と自然の境界をまたぎ、つなぐ存在であるのかもしれない。
英雄さんは「クマを憎んで捕っているわけではない」と言っていた。終始、マタギとはこういう精神や掟をもっているといったことを、多くは語らない態度であった。代わりに益田さんと永沢さんの発言をやさしい表情で見守りつつ、時おり「マタギのまた聞き」なんてダジャレを披露してくれたりもした。
山とともに生きる。マタギは、その言葉のままの存在であると思った。ここでは、山が、命のやり取りの距離感が、すぐ近くにあるのだ。
山の生態系は、長い時間をかけて、自然に遷移する。その遷移の最終段階としてあらわれるのがブナ林である。ブナは、雨水を溜め込んで森に潤いを与え、希少な鳥類や大型ほ乳類もその恩恵に預かってきた。ところが、木材としては使い勝手があまり良くないために戦後は大量に伐採され、スギやヒノキに置き換えられてしまった。
現在は、その価値が見直されつつあるが、山とともに暮らす生き方が現代の暮らしに変わったのも、ここ100年ほどのできごとである。その土地の自然や地形はもちろん、動植物学、薬学といった幅広い知識を、実践を通して自身の身体に刻んでいるのがマタギなのだと思った。それらは果たして、いまのような学問としての知識で事足りるのだろうか。
私たちがいま見ている山は、マタギがいなくなった山である。現代の暮らしは、暑い、寒いも冷暖房によって簡単に調節し、土の上を歩かず、食料は自分でとらずにお金で入手するものになった。日常から自然が遠のいたいま、マタギという生き方は、根源的な問いを私たちに“授けて”くれるように思う。
“マタギはその言葉の持つイメージから、森の知恵者、賢人として思い描かれる。まさにそうなのだろう、と思う。
昭和の時代のマタギが巻き狩りをしている映像を見た。ツキノワグマを「授かった」瞬間に、マタギらは一斉に「ショウブー!」と声を上げてクマに駆け寄っていく。その姿はとても人間らしい、と感じる。張り詰めた命のやりとりから解放され、それぞれの集落に生きる一人の人間に戻る瞬間のようにも見えた。
命から少しずつ離れて生きる現代において、森のそばでざわめく命と共に生きるマタギ。シカリの英雄さんの言葉や後ろ姿を眺めながら、私たちはむしろ人間らしさのようなものをどこかに置いてきているのかもしれない、と感じる。
マタギがどんどん減っている現代において、マタギが持つ知恵や謙虚さ、頭で考えるだけでなく身体で考える自然と暮らしのつながりをどう引き継いでいくのか。マタギの「授かる」感覚を、私たちはどのように「託されて」いくのか。新たな問いを携えて私たちは雪深い秋田の阿仁を後にした。(奥田悠史)”
最後に、阿仁地域のマタギにお話が聞きたいと思ったものの、誰に、どのように連絡を取ればいいのかと考えていた折に、親切に情報をいただき、鈴木英雄さんにつないでくださった秋田県・東成瀬村在住の奈良悠生さんに、心よりお礼を申し上げます。
(編集・撮影:奥田悠史)