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企業の社会貢献部門から始まった国際協力団体「アクセス」はなぜ自立できたのか。“顔の見える関係”が生み出す、若者の共感と行動の輪

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SDGsの広まりやESG経営への転換を受け、企業の社会貢献活動は一般的なものになりつつあります。会社前の清掃ボランティア、地域のお祭りへの出店といった身近なものから、NPOへの寄付活動や災害時の物資提供、発展途上国への物資仕送りなど活動の種類もさまざまです。

そうした活動が一般的になる前から社会貢献活動に目を向け、企業が一部門として事業を立ち上げた後にNPO法人として独立した団体が京都にあります。

それが、1988年から活動する「認定NPO法人アクセス-共生社会をめざす地球市民の会(以下、アクセス)」です。2007年にはフィリピンに現地法人も設立し、日本法人と共同で事業を展開してきました。

実は、この事業を立ち上げた企業は、すでに廃業しています。そうした中でどのように活動を継続し、困難を乗り越えてきたのでしょうか。アクセスの歴史をたどることで、企業の社会貢献活動が継続するヒントが見えてくるのではないかと考え、京都市・深草にある一軒家の事務所を訪れました。

理事長・事務局長の野田沙良さんが出迎えてくれた

野田 沙良(のだ・さよ)
認定NPO法人アクセス-共生社会をめざす地球市民の会 理事長・事務局長。大学時代にドキュメンタリー映画「神の子たち」に衝撃を受け、フィリピンを訪問。企業に就職して2年働いたのち、フィリピンで2年間暮らし、2007年にアクセスに入職。2023年に理事長就任。大好きなバンド(LUNASEA)のライブがエネルギー源。1980年、三重県生まれ。龍谷大学卒。

フィリピンの貧困問題を解決する国際協力団体

アクセスは「生きる力にアクセス」を活動コンセプトに掲げ、フィリピンの貧困問題に取り組む国際協力団体。フィリピンの都市部スラムや農漁村地域を対象に、子どもへの教育支援と貧困に苦しむ女性の仕事づくり、そして日本の若者に向けたスタディツアーの実施といった3つの事業を主に展開しています。

アクセスが取り組む3つの事業領域。理事長による手書きのイラストがかわいい

子どもに教育を-就学サポート事業-

「子どもに教育を」というテーマで現地で取り組むのは、教育里親制度です。ユネスコの2024年の調査によると、フィリピンでは5人に1人の子どもが小学校を卒業できません。貧困家庭の子どもが小・中・高を卒業できるように、そして子どもの権利が侵害されることなく成長できるように支援するため、日本国内で「子どもサポーター」を募集。小学生なら年22,000円、中高生であれば年36,000円の支援でフィリピンの子どもが一人、1年間学校へ通うことができます。特徴は顔の見える一対一の支援であること。サポーターには、年2回写真つきの手紙が届き、卒業まで成長を見守ることができます。

通学に欠かせない制服やカバン、文房具などを現物で支給。土曜や夏休みに実施するワークショップではいじめや虐待、児童労働など、子どもの権利侵害から身を守れるよう、子どもの権利を学べるようにしている(画像提供:アクセス)

女性に仕事を-フェアトレード事業-

「女性に仕事を」をテーマに取り組むのは、「作る人・買う人・贈られる人みんながハッピーになれる」フェアトレード事業です。働きたいのに職に就けないフィリピンの女性や若者とともに、雑貨の製造を行っています。

生産された品物はフェアトレード商品として、オンラインショップをはじめ全国30店舗以上の取引先で販売されています。現地の生産者が安定した収入を得られるよう、アクセスの現地法人が技術指導や生産管理に、日本法人がデザイン開発や販路拡大に、それぞれ取り組んでいます。

大阪の大手百貨店のクリスマスマーケットでも毎年人気のクリスマスカード。フィリピンで一枚一枚全て手づくりしたものを日本で検品し、販売する(画像提供:アクセス)

2023年度の売上は過去最大の247万円にまで上り、「子どもにミルクを買う余裕ができた」「夫の収入が途絶える期間は借金をしていたが、自分たちの稼ぎだけで生活できるようになった」と生活が改善した声が届いています。

日本の若者に成長の場を-スタディツアー事業-

「日本の若者に成長の場を」をテーマに取組むのは、アクセスの根幹とも言えるスタディツアー事業です。アクセスでは創業初期からツアーを展開。現在は4〜8日間程度のツアーを年4〜5回開催しています。

ホームステイの機会もあり、現地の暮らしを体験することができる(画像提供:アクセス)

アクセスのツアーの特徴は、現地の人と交流する中で、貧困のリアルと構造的原因を深く理解できること。出国前にはオンラインでオリエンテーションを実施し、現地では家庭訪問や子どもたちと交流したり、フェアトレードの生産者へのインタビューを行ったりして理解を深めます。また帰国後にも振り返りの機会を設け、フィリピンでの学びを共有し、貧困の原因について話し合うことで、貧困を生み出す構造を学びます。

野田さん 例えばツアーでは、とある村の漁師さんのもとを訪れます。そこで、台湾や韓国、中国、日本から来る大型漁船が大量に魚をとっていくために、村の漁獲量が減り、収入が減り、貧困に陥っていると聞いて、参加者は日本での暮らしにつながっていることに気づくんです。その魚は缶詰になったり、低価格で回転寿司のレーンに流れたりしています。知らず知らずに買ったり食べたりしている結果として、誰かの暮らしを犠牲にしていることがあるんですよね。

フィリピンで出会った人が苦しんでいることは、自分と無関係ではないこと。安くて早くて便利な日本の暮らしを続けることは、誰かを犠牲にしていること。そうしたことを現地での出会いを通して学ぶことで、「かわいそうだから助けてあげたい」という気持ちで終わらず、自分ができることを考え、ボランティアや報告会開催などの行動に移す人が多いそうです。

ツアーには福祉や教育、経済など様々な専門分野を学ぶ若者が参加する。そのため参加者同士のディスカッションでは、多様な視点からの意見が生まれ、課題に対して本質的な理解を進めることができる(画像提供:アクセス)

こうした取組みにより、設立から37年の間に、約140名の女性がフェアトレード事業を通じて自立し、貧困家庭の子どものべ3,600人以上がアクセスのサポートを受けて小学校に通うようになりました。スタディツアーの参加者は、これまでに1,000人を超えました。

成果だけを見ると順調に成長を遂げているかのように思えますが、先にも述べたように設立のきっかけとなった企業は廃業しており、活動の継続は決して簡単なことではなかったと想像できます。アクセスはどのような変遷を経て、現在に至ったのでしょうか。

企業の社会貢献活動として始まった

アクセスの誕生は、今から遡ること37年前。1988年に洋菓子店チェーン「タカラブネ」を運営する株式会社タカラブネの社会貢献部門として設立されました。

タカラブネはシュークリームで名が知られた人気店。京都府久御山町に本社を置き、工場には日本人のみならず中国やフィリピンなどアジア圏から来ている労働者も多数いました。

当時、政府が「留学生10万人計画」を掲げていたため、留学生の数も日本全体で増加。しかし、受け入れ体制が十分ではなく、困窮する留学生もいたそうです。そこで、タカラブネは外国からの技能実習生用に運営していた寮を、留学生も使えるようにしてサポートに乗り出しました。多くの留学生と関わるうちに、留学生のみならず外国人労働者からの相談も舞い込んでくるようになります。

そこでタカラブネは、滞日外国人労働者やアジアからの留学生支援を行うため、アクセスの前身となる「京都・アジア文化交流センター(以下、文化交流センター)」を設立。タカラブネから文化交流センターへ出向した社員と労働組合のメンバーなどが立ち上げメンバーとなり活動を始めました。

病気になった方のサポートや住む場所がなくて困っている方の受け入れをする中で、活動は徐々に拡大。メンバーにフィリピン人がいたことから、90年代になると、より直接的にフィリピンの貧困問題の解決に取り組みたいと考えるようになり、日本からフィリピンへと活動の軸足は移っていきます。

野田さん 当時副理事長を務めていた大塚は、行動力の塊のような人でした。フィリピンに出かけては、次々とプロジェクトを立ち上げていったそうです。

メンバーの一部はフィリピンに移り住み、事業を推進した。2020年時点で、フィリピンは人口約j1.1億人、平均年齢は25.3歳(参照元:日本貿易振興機構)(画像提供:アクセス)

1991年には現在のアクセスの中心事業になっているスタディツアーを開始。その後も、ピナツボ火山(※)の被災地で実験農場を立ち上げたり、都市スラムで幼稚園を建設したりと、次々に新規事業が生まれていきました(現在はどちらも撤退)。

(※)1991年に起こったフィリピンのピナツボ火山の大噴火。20世紀最大級の火山災害として知られている

ところが、活動が軌道に乗り始めた矢先、タカラブネの経営状況が悪化。1999年には会社からの経済的な支援がストップします。

野田さん 活動資金を得られないだけではなく、タカラブネ本社に置いていた事務所も使えなくなりました。それで、ここ深草に引っ越してきたんです。家賃やフィリピンの現地スタッフの給料を支払うために、当時の理事たちが自腹を切ることもあったみたいです……。

そのような状況にも関わらず、驚くべきことに「団体を解散する選択肢はなかったと聞いています」と野田さん。フィリピンへの熱い想いに溢れたメンバーの志だけで、文化交流センターは継続することになります。

事務所にはフィリピンに関する資料やフェアトレード商品が所狭しと並んでいて、団体としての歴史を感じた

その後、市民団体に改組して2000年にはNPO法人格を取得。2005年には「アクセス」と改称し、再起に向けて動き出しました。野田さんが関わり出したのはこの頃です。

野田さん 通っていた大学が近くにあったため、学生時代にアクセスのスタディツアーに参加したことがありました。卒業後は企業で働いたのですが、やっぱり国際協力の仕事がしたいと思って。私は当時の経営状況のことは何も知らなくて、NGOで働きたい一心でアクセスに戻ってきました。

当時のことを懐かしそうに語る野田さん

「無給でいいからフィリピンに行かせてほしい」。当時の理事を説得し、アクセスの現地法人で2年間のボランティア活動を経験しました。

やれることを全てやり終えて、野田さんが帰国を考え始めた頃、アクセスもまた一つのターニングポイントを迎えていました。

野田さん 当時、理事たちは日中に別の仕事をして、夜にアクセスの業務をボランティアで続けている状況でした。借金を抱えていましたが、変化を起こすだけの時間的な余裕もなかったんですよね。そんな時ある理事が、「200万円を出すから誰かを雇って経営状態を好転させよう」と言い始めました。そこで白羽の矢がたったのが、私でした。

野田さんは大学4回生で初めてフィリピンを訪問した(画像提供:アクセス)

2007年、団体初の有給職員になった野田さんがまず任されたのが、ファンドレイジング活動でした。とはいえ、野田さんは資金集めの素人。様々な打ち手を検討し、試行錯誤を繰り返していきます。

立て直しのポイントになったのは、スタディツアーでした。

野田さん 私たちの事業の基軸はツアーです。ただ訪問するだけではなく、現地を支える当事者になってほしいという思いで企画をしているので、スタディツアーに参加する方には、「アクセスのサポーターになり、年3,000円の寄付をしていただくこと」を条件にしています。サポーターになっていただいた方のツアー後の退会率を下げるために、ツアー中に参加者とたっぷり話をし、安心して語り合える場づくりをすることで、本音で語り合える関係性を築くことを意識しました。

間接的なコミュニケーションでも、努力を惜しみません。例えば、年1回、サポーター継続お願いのお手紙を送る際には、職員がサポーター一人ひとりに向けて、手書きのメッセージを添えています。

野田さん 以前は、会員やサポーターの方々に年1回、「ご支援継続のお願い」という無機質なビジネスレターをお送りしていました。でも、それだと味気ないですよね。私が入職してからは、職員一人ひとりが宛先を見ては「あの時のツアーに参加してくれていた学生だな。元気にしているかな」と思い出しながら、手書きのメッセージを添えるようになりました。

アクセスが発行した2023年度の活動報告書。全10ページ(表紙・裏表紙は別)で、団体のミッションや1年間の活動内容、収支などが記載されている

そうした小さな改善を繰り返し、順調に寄付収入は増加。2016年には、年間3,000円以上の寄付者が年平均100人以上いるなどの基準を満たした団体だけに付与される認定NPO法人格を取得しました。

野田さん うちのツアーの特徴は、現地で濃密な体験ができること。現地の人や参加者同士でも仲良くなりますし、フィリピンへの愛着が湧きやすいんです。ありがたいことにツアー参加をきっかけにサポーターになってくださる方は、3年経過時点で約7割が継続してくださっています。その積み重ねで、サポーター登録は現在700名を超えています。

今では年間1000万円近くの活動費をサポーター会費で得ており、団体全体の収入のおよそ3割を占めるように。2023年度の決算では、プロジェクトごとに実施するクラウドファングによる寄付金やスタディツアーの事業売上も伸びたことで、助成金による収入は全体の約1割まで減少。ビジョンに共感するサポーターや寄付者とともに歩むNPOへと変貌を遂げました。

「顔の見える関係」を軸に関係を積み重ねる

こうした成果が認められたこと、そして立ち上げからアクセスを引っ張ってきた理事たちが高齢になったこともあり、野田さんは2011年から事務局長を務め、2023年には理事長に抜擢。現在は二つを兼任する形でアクセスを引っ張っています。

順調そうに見えますが、まだまだ大変なことも多いようで……。

野田さん 以前よりも収支は改善しましたが、団体に余裕はありません。業務量が増加するにつれてスタッフも増えましたし、コロナ禍にも大きく影響を受けました。また、円安や物価高で、収入が増えても為替レートで相殺されてしまう状況が続いています。

団体の変化を感じながらも、年々変わる国際情勢を踏まえると、予断を許さない状況だと野田さんは語る

現在は野田さんも含めてフルタイムスタッフが3名、パートスタッフが2名、そこに業務委託で関わる人もおり、人件費は膨らみ続けています。

とはいえ、アクセスらしい活動を続けるためには人材が欠かせません。有給スタッフのみならず多くのインターンやボランティアの力によって、さまざまな事業が成り立っています。

サポーターへのお便りの発送作業をするインターンとスタッフ(画像提供:アクセス)

その中でも特筆すべきは、ツアーから帰国後、継続的にアクセスに関わる若者の多さです。フェアトレード商品の検品作業やクラウドファンディングの企画運営を担う学生がいるほか、今度はスタディツアーのスタッフとして若者を連れていく側になる人も。「多くの若者にツアーを体験してほしい」と、自主的に報告会を開催したり大学の先生にお願いして授業でツアーの告知をさせてもらったりする学生もいます。

最近では、10年、20年前にツアーに参加した人が、子育てが落ち着いたことを理由に「プロボノとして関わりたい」と、時を経てアクセスに戻ってくることもあるそうです。

野田さん ツアーに参加する人って誰かの役に立ちたいとも思っているけれど、自分自身も成長したいとも思っているんです。ツアーで成長させてもらった認識があるから、次は誰かの役に立ちたいと思い、サポーターを継続したりボランティアやインターンなどで関わったりし続けてくれるんだろうと考えています。

現地スタッフの発案で2009年から取組む「子どもの権利を学ぶワークショップ&セミナー」。この活動を通して、「日本法人やサポーターの子どもの権利条約への理解は格段に上がった」と野田さんは話す。スタッフもアクセスの活動を通して成長の機会を得ている(画像提供:アクセス)

そうした行動を支えるのは、アクセスが37年間大切にしてきた「顔の見える関係」です。

例えばスタディツアーでは、参加者が貧困のリアルと原因を深く理解できるよう、定員18名の参加者に対して、ボランティアを含めた10数名がスタッフとして同行し、一人ひとりフォローします。また、子どもサポーター制度では1対1の顔の見える支援の形をとり、「ご支援継続のお願いレター」には手書きのメッセージを添えるなど、双方向のコミュニケーションをとるために手間暇を惜しみません。

アクセスがフィリピンを対象に活動し続けているのも、飛行機で4時間ほどで行ける距離で、何かあればすぐに飛んでいくことができるから。

野田さん 私たちは貧困に苦しむ人の支援数を増やして、組織を大きくしたいとは思っていません。「フィリピンで出会った人たちに恩返しをしたい」という想いを共有する人たちが集まって、できることを積み重ねていくのがアクセスのスタイルです。規模よりも、活動や関係の質を大事にしていきたいと思っています。

こうした姿勢からは、「顔の見える関係」を大切にしたいと願うアクセスらしさが活動の細部にまで浸透していることが窺い知れます。

サポーターさんから受け取った封筒にさりげなく添えられたメッセージ。お互いにコミュニケーションを大切にしていることがわかる

また、長年活動しているからこそ若者の変化を感じ取り、時代に合わせた関わりをしていることが、アクセスに関わる人が絶えない理由になっていると、野田さんは考えます。

野田さん 私が学生の頃は今よりも社会に自由な雰囲気があり、ボランティア同士が夜通し語り合いながらプロジェクトをつくっていくこともありました。でも、コロナ禍で人と会う機会が少なかったり、スマホの影響もあったりしてか、現在はメンバー同士の心の距離が縮まりにくいと感じています。だからアクセスでは打ち合わせの時にもその日の体調や近況報告を自由に話せるチェックインの時間を設けるなどして、心の通いあいが生まれやすいように工夫しています。

世界中に広がる貧困にどう向き合っていこう

アクセスの事務所でもフェアトレード商品を販売している。手づくりカードやストラップ、キーホルダーは一点300〜600円くらいのものが中心

これまでフィリピンのみを事業対象国に定めて活動してきたアクセスですが、設立した1988年とは世界が大きく変わり、日本でも相対的貧困が問題になっています。長らく国際協力団体として活動してきたアクセスは、今何を考え、これからの展開をどのように描いているのでしょうか。

野田さん 日本でも貧困問題は深刻化しているから、すごく難しいですよね……。フィリピンは経済成長しているために豊かになってきていると見られがちですが、人口が増加して経済格差も拡大しているので、貧困層の絶対数はまだ約2,000万人もいるんです。昔のように、豊かな国と貧しい国をわかりやすく区別できなくなっただけで、どの国にも貧困層がいる時代になっているんだと考えています。世界中に広まっている貧困問題をどうするのかを、世界のみんなで考える必要がある時代なのではないでしょうか。

そう前置きした上で、野田さんは「貧困の構造を理解する人を増やすことが大切」と続けます。

野田さん 入り口は日本でも海外でもどちらでもいいんです。私は海外に興味があったからフィリピンへ行きましたが、日本に興味がある人は日本で活動したらいい。変えていくべきは、「貧困は努力不足であり、自己責任」という考え方。そうした認識は、困窮状態にある人だけでなく、自分自身のことも苦しめます。

野田さん 共産主義はいろんな国で失敗して、資本主義も多くの人を傷つける側面があることが明らかになりました。では、どんな規制をかけたら「一部の人だけが豊かになり、惨めで苦しい生活を強いられる人が多くいる状況」がなくなるのでしょうか。

貧困問題を解決する方法は、世界中を見渡してもまだ見つかっていない。ですが、長く活動している野田さんだからこそ見えてきているヒントがあると続けます。

野田さん 経済的な豊かさと精神的な豊かさをセットで考えることが大事だと考えていて、一定程度の経済的豊かさ、自分らしさ、人とのつながり、この3つが揃っている状態を、世界中の人が手にできるようにしたいと願っています。

経済的豊かさばかりを追いかけてきた日本では、自分らしさが奪われ、安心できる関係性を築くことが難しい環境で生きなければならない時代が続いています。一方、フィリピンは日本に比べれば、自分らしく生き、温かい人間関係に満たされている人が多いです。でも、経済面が厳しい。

アクセスでは、今後もフィリピンでの事業を継続的に展開することで経済的な豊かさを引き上げる一方で、日本では新たに、精神的な豊かさを享受できるような環境づくりに取り組みたいと考えています。

野田さん アクセスに関わった人とは、心の豊かさを一緒に創っていきたいです。アクセスを、自分らしさを発揮し、人とのつながりを感じられる、安心安全な場所にすることで、関わった学生が将来起業をしたり、企業の管理職になったりした時に、職場を安心安全な場所に変え、誰かの人権を犯すことなく事業を推進する選択ができるんじゃないかと願っています。だから、これまでアクセスが培ってきたノウハウを習得してもらえるような仕組みをつくりたいと考えているところです。

取材している様子を撮影するアクセスの事務局次長・塩田さん(右奥)。ちょっとしたスタッフ同士の会話からも、お互いを尊重しながら関わっていることが伝わってきた

企業の一部門から始まった国際協力活動は、約40年の時を経てその輪を少しずつ広げ、誰も正解を知らない貧困問題の解決に向かって歩み続けています。

今後、メンバーや時代が変われば、組織の課題や事業内容も変わっていくことでしょう。しかし、これまで大切にしてきた「顔の見える関係」を軸に、ボランティアやサポーターとの関係を積み重ねることで、多くの方々の共感と協力を得て、困難を乗り越えていけるのではないかと思います。

どんなに外部環境が変わろうとも、団体がもつ「らしさ」を大切にすることが、長く活動を継続する秘訣なのだと考えながら、深草の一軒家を後にしました。

(撮影:小黒恵太朗)
(編集:村崎恭子)