誰もが欠かすことのできない日々の食事。価値観が多様化する現代では、食事にも効率や合理性を求める人がいます。けれども、食べるという行為は、生きるための燃料補給にすぎないのでしょうか。ドキュメンタリー映画『食べることは生きること ~アリス・ウォータースのおいしい革命~』は、食べることを通して生活や人生を振り返させてくれる作品です。
2024年5月に配給会社のユナイテッドピープルにより本作の配給が始まり、今月、1周年を迎えます。映画完成からこれまでに、国内外で190件の自主上映会が主催され、累計動員人数は13,588人となりました(2025年5月1日現在。劇場上映は除く)。英語字幕版も作成され、イタリア、タイ、アメリカでも上映会が開催されました。
配給開始1周年を記念して、昨年夏、2024年8月29日に配給会社のユナイテッドピープルによって実施された上映会での様子を振り返る記事をお送りします。田中順也監督やプロデューサーの長谷川ミラさん、小野寺愛さんによるアフタートークに加え、収益の一部が寄付される一般社団法人日本スローフード協会の代表理事でスローフード・インターナショナル国際理事の渡邉めぐみさんと、一般社団法人エディブル・スクールヤード・ジャパン代表で菜園教育研究者の堀口博子さんからの活動紹介を交え、映画の内容とそこに込められたメッセージをじっくり味わうようなひとときとなりました。
アリスの人間的な魅力と、言葉や五感、すべてを使って届けようとする発信力
アリス・ウォータースさんは、カリフォルニア州バークレーのレストラン「シェ・パニース」の創始者。この店では、地域の農家と食べ手を直接つなぎ、旬を生かした料理で人気を博しています。ここから、「地産地消」「ファーマーズ・マーケット」「ファーム・トゥ・テーブル」といったコンセプトに展開し、アリスさんはオーガニックの母とも呼ばれるようになり、日本でもその人気は高まっています。
2023年、彼女のライフワークの集大成となる書籍『スローフード宣言-食べることは生きることー』(海土の風)の出版一周年を記念して、著者来日ツアーが開催されました。日本各地をアリスさんが訪れる様子をカメラに収め、彼女の拠点であるバークレーへ足を伸ばして取材し、「おいしい革命」の出発点をさぐったのが、この映画です。
来日ツアーでは、徳島県神山町に生産者を訪ねたり、島根県海士町では小学生と一緒に給食の献立について考えたり、“食”を介して、さまざまな人たちとアリスさんが交流を深めていきます。さらに、京都で「草喰なかひがし」を営む中東久雄さんの料理を味わい、島根県太田市で築235年の武家屋敷を使った「暮らす宿 他郷阿部家」の竈婆である松場登美さんが生み出す空間に身を置き、感性が響き合うような人とも出会います。
そんな中でも、農家など生産者の方のアリスさんへの思いは特別なものがあるように感じました。農業の重要性が理解されているとは言えない日本で、経済合理性に従うのではなく、こだわりを持って農業を続けていくのは本当に大変なことなのでしょう。アリスさんからの励ましに感激する生産者の方の映像には、一消費者として感謝の気持ちが自然に湧いてきました。
アリスさんのさまざまな表情を捉えた田中順也監督が、上映会で言及したのは、アリスさんの言葉についてでした。映像では、じっくりと言葉を選びながら話すアリスさんの様子が捉えられています。
田中監督 社会を変えられるという、アリスの強い眼差しと、それを伝えようとする言葉のセンスや話し方にとても魅了されました。言葉を伝えることにすごく情熱を注いでいるんですね。そういうアリスの人柄を、映像を通して伝えられればと思っていました。“Farmers first (生産者がいちばん)”とか、“We are what we eat(食べることは生きること)”とか、すごく突き刺さる言葉ですけど、そういう言葉が出てくるまでは時間がかかっているんです。撮影では、自分の背景に火が映っているほうがいいとか、そういったこともすごく大事にしていました。人の心に訴えかけるときに環境を整えるのは、彼女がモンテッソーリの先生だったからかもしれません。
またアリスさんは、一人ひとりに対して、その場、その時間に対して、常にていねいに向き合い、決しておざなりにしていないことが映像から伝わります。そんなシーンの数々からは、アリスさんの人間的な大きさや魅力を感じられることでしょう。そこには、“食”と真剣に向き合ってきた、向き合っている強さと、包み込むような温かい包容力が感じられます。それは、根本に強い信念があるからこそでもあるはずです。
小野寺さん 自分の言葉で何を伝えるかだけではなく、五感から伝わるものをすごく大事にしている人です。日本ツアーでは、“アリスが言うようなことをやりたいけれど、どうしたらいいのかな” という質問がたくさんありましたが、彼女は必ず “仲間にしたい人を、まずは食事に誘いなさい” と言っていました。”大事なのは、ファーストフードにノーと言って論破することではなくて、スローフードで魅了することだから”って。晴れた日のピクニックでもいい、暖炉の火を感じながらの食事でもいい。美しさや心地良さのある空間で食卓を囲む時間を、本当に大切にしているんですね。
食べることは、誰もが避けられないことだけに、強い主張が反発を招くことも往々にしてあるもの。もしSNSでファーストフードを真正面から否定すれば、炎上も免れないでしょう。自分の食生活を否定されることは、たとえ食にこだわりがない人でも、自分の生き方を否定されるように感じられるからかもしれません。それこそ、食べること=生きることである証。 “食”が生活だけでなく、人生に深い影響を与えているからこそ、伝え方が重要であることを、アリスさんはこれまでの経験から深く理解しているのです。
アリスの先見性は、職場であるレストランにも学校にも
映画では、さらにアリスさんの拠点であるカリフォルニア、バークレーに足を伸ばし、「シェ・パニース」や「エディブル・スクールヤード(食育菜園)」を訪問します。エディブル・スクールヤードは、生徒が作物を育て、それを調理し、味わうことで、生命のつながりや自然のサイクルを学ぶ教育プロジェクトです。
食育の取り組みは世界中にありますが、このプロジェクトの大きな特徴は、「食」を通して国語や算数といった教科学習を行う点にあります。教室を飛び出し、季節の移ろいを感じられる畑で、どの教科のどの単元をどう教えるかが、すべて丁寧にカリキュラム化されています。毎年夏には、世界中の教育者を対象にしたトレーニングも行われており、現在では世界各地で6,000ヶ所以上の学校や団体がエディブル教育を導入しています。
そんな先見性は、「シェ・パニース」の働き方にも現れていると、小野寺さんは教えてくれました。
小野寺さん 最近になって日本でも言われ始めている働き方改革を、アリスは40年前からやっていました。『シェ・パニース』の各部門の管理職には週3回の勤務で5日分の給与が与えられ、どの従業員も1日8時間以上働くことは許されないんです。料理以外の世界にも触れる余白がなければ、食材やお客様にいい状態で向き合えないから。さらにいいのが、毎日、スタッフみんなが一緒に食卓を囲んで、その日のコース料理を食べること。そのためのアイドリングタイムが1時間用意されているんです。そうすると、チーム内に家族のような雰囲気が生まれるし、“もうちょっと塩味が強いほうがいいね”とか、“柑橘が合うんじゃないか” など、意見を交わすこともできる。結果として、より良いものを生み出すことができるようになります。得かどうか、効率がいいかじゃなくて、それがアリスがやりたいことなんですね。
ワークライフバランスという言葉が生まれるずっと前に、働き方の当たり前を見つめ直し、労働以外の生活の重要性に目を向けることができたのは、“食べること”を生きることそのものとして捉え、大切に扱っていたからこそだったのかもしれません。
バークレーの映像からは、カリフォルニアの温暖な気候のせいか、明るくのびのびとした空気感が感じられるようです。生産者や市場で買い物をしている人たちも、日本の、特に東京のような都心で行き交う人たちとは違って、ゆったりとその時間を楽しんでいます。食材を買う時間さえ、タスクのひとつとなって日々こなしている私たちの多くとはまるで違います。
「アメリカに取材に行ってから、自然に足を運ぶようになりました」と言うのは、長谷川ミラさんです。
長谷川さん 東京だと街が忙しいですから、いつもせかせかしてしまうんですけど、帰国してからは、着ている洋服やいつも使ってるスマホ、飲んでいるコーヒーに対し、誰がつくっているんだろうと考える時間を持てるようになりました。そうやって、ファーストからスローに向かうことは実は当たり前で、本来在るべきつながりを取り戻すということでもあるんですよね。忙しすぎると、“いただきます”という言葉さえ出なくなってしまいます。“いただきます”と言う時間は、有り難いということを思い出す瞬間なんですよね。食べ物は命だから、本当に有り難いんですよ。そのことを、“いただきます”と口にすることで思い出したいですよね。
たとえファーストフードを食べるにしても、手を合わせて「いただきます」と口にすれば、その瞬間だけでも、食べるという行為にていねいに向き合えるような気がします。食事を、人間らしい生活の営みのひとつに取り戻すために、まずはそんな小さな一歩でもいいから踏み出してみてはいかがでしょうか。
食卓を囲むように、映画を囲んでつながっていく
66分の上映時間に、アリスさんの思想や人柄や魅力がギュギュッと凝縮されたように味わえるこの映画は、ユナイテッドピープルのcinemoを利用して、誰でも上映会を開くことができます。日々の暮らしと切り離せない“食”がテーマの映画だけに、多くの人の関心を呼びやすく、初めて上映会を企画するという人にもおすすめのドキュメンタリーと言えそうです。
映画について大々的な宣伝は行われていませんが、全国各地で静かに、でも確かに広がっています。クラウドファンディングで592人もの人が応援して完成したこの作品は、アリスさんの信念を体現するように、ひとつひとつの上映会が丁寧に開かれ、少しずつ、観る人の心に届いています。自主上映会の多くは、地元の生産者の食材を地元の料理人が調理し、食卓を囲みながら感想を語り合うスタイル。映画を通して、人と人、土地と食がつながる、あたたかな輪が今も国内外で広がり続けています。
ファーストフードやコンビニのお世話になっていると、“食”に関する映画と聞くと、少し気が引けてしまう人もいるかもしれません。けれども、この映画は決してあなたの食生活を糾弾するものではありません。田中順也監督は、「強く言い過ぎるんじゃなくて、どんな人が観ても、自分はどうしようかなって考えるきっかけになるように、問題提起を意識して制作しました」と話していました。
映画を観て、立ち止まって考えてみる。映画を一緒に観た人たちと、言葉を交わしてみる。そんなひとときは、食卓を囲む時間のように滋味深いものになりそうです。そこで、一人でも多くの人がアリスさんの思いを共有し、さらに広がっていきますように。
(撮影:大宮 雅智)
(TOP画像:©2024 アリス映像プロジェクト/Ama No Kaze)
(編集:増村江利子)
– INFORMATION –
監督・撮影・編集:田中順也
プロデューサー:長谷川ミラ、田中順也、阿部裕志、小野寺愛
出演:アリス・ウォータース 他
制作:jam
製作:海士の風
字幕:小野寺愛
配給:ユナイテッドピープル
66分/日本/2024年/ドキュメンタリー
https://www.cinemo.info/128m