『生きる、を耕す本』vol.02が完成!greenz people入会でプレゼント→

greenz people ロゴ

200年をかけて、森を育てるということ。青森ヒバの実験林で柴田円治さんが見つめたもの

日本固有種の常緑針葉樹、ヒバ。その約8割以上が、青森県の下北半島と津軽半島に分布する。厳しい寒さや風雪に耐えて、200年から300年もの年月をかけてゆっくりと成長するヒバは、木目が緻密で腐りにくいという特徴から、神社仏閣の建材として重宝されてきた。

成長が遅いがゆえに、無計画に伐採を繰り返すとヒバは枯渇してしまう。そこで、ヒバを使いながらも持続可能な森をつくる方法を模索しようと、本州最北端に位置する青森・下北半島に、国が実験林を設定した。その管理を40年にわたって担ったのが柴田円治(しばた・えんじ)さんである。引退後も、実験林で伐採があれば選木作業を担った。また、ヒバを製材するときに出る端材をつかい、かご職人として森を暮らしの中に届けた。

その柴田さんが、2024年2月に逝去されたと聞いた。もうお話を聴くことはかなわないのであれば、柴田さんが見ていた風景を追いかけたいと思った。森との関係性のなかにあったであろう、豊かさや厳しさ、尊敬や畏れ、ぬくもりやつめたさ。柴田さんが、どんな想いで長年、実験林に向き合っていたかに、いまは離れてしまっている森と暮らしがつながり直すためのヒントがあるのではないかと考えたからだ。

手掛かりが少ないなか、青森ヒバの特性を活かした商品を扱う「Cul de Sac-JAPON(カルデサックジャポン)」というブランドがあることを知り、東京・中目黒の店舗に行ってみることにした。

少し緊張しながらドアを開けると、すっと抜けるようなヒバの独特な香りに満たされた。店舗内には、ヒバの枝葉も置かれていた。少し丸みのある、小さな鱗のような形が連なったつややかな葉。そして棚には、ヒバのかごもあった。編み目が整然としていて、凛として美しかった。

「このかごは、柴田円治さんがつくられたものでしょうか?」と店員さんに聞くと、「はい、そうです。柴田さんをご存知なんですね」と嬉しそうな顔をした。でも、次の瞬間にはとても寂しそうな表情に変わった。

「もう、このかごをつくれる人はいないんです。」

大事な人をなくしてしまった、とあらためて思った。そして、柴田さんが大事にしていたものを言葉に残したい一心で、柴田さんを知る人に片っ端から連絡をし、下北半島へと向かった。「青森ヒバの森と、そこにある暮らし」の小さな物語を、再発見する旅へ。

自然の推移に逆らわずに、部分的に人の手を加える森

青々としたヒバの森が連なっているところからその名がついたという一説のある青森県。青森ヒバは、県木にも指定されている。写真は、津軽海峡の荒波が削り上げた大自然の造形「仏ヶ浦」。約2kmに渡って、白緑色の凝灰岩の奇岩が連なる

下北半島の中心部へは、JR東北・北海道新幹線が停車する新青森駅から、車で2時間ほど。半島全体が国定公園に指定されていて、ニホンザルやツキノワグマ、ニホンカモシカの生息北限地となっている。津軽海峡に面するマグロのまち「大間」は聞いたことのある人が多いかもしれない。海に囲まれているうえに山もあるため、半島内でも地域によって降雪量などに違いはあるものの、東北地方の方言でいえば、冬は“しばれる(とても寒い)”地域である。

下北半島の太平洋岸にはエネルギー関連施設が集中しており、風力発電のほか、原子燃料サイクル施設などもある。冬に、大陸から津軽海峡を通って太平洋に吹き抜ける季節風があることから、青森県は全国的にみて最も風が強く、風力発電量も多い

下北に到着する頃には、雨が降っていた。車で半島を走ると、国道沿いはスギが目立つが、一歩中へと入れば、ヒバの天然林が広く存在している。むつ市大畑町にある「大畑ヒバ施業実験林」では、林学者の松川恭佐(まつかわ・きょうすけ)氏を中心に、大正末期から大規模な調査研究をおこなってきた。松川氏から学びながら一緒に森を歩いたのが、当時、青森営林局 大畑営林署(現東北森林管理局 下北森林管理署)の職員だった柴田さんである。息子さんの柴田正徳(しばた・まさのり)さんは、こう話す。

正徳さん 父は、下北でヒバの実験林の管理に携わるようになって、定年退職するまで40年ほど勤めました。臨時の雇いで入ったと聞いていますが、のちに正規の職員になって、異動の辞令が出ても断り続けたんです。退職後も、実験林の木を伐採するときには選木作業を担っていました。それほど実験林にこだわったんですね。

青森ヒバは、木曽ヒノキ、天然秋田スギと並んで「日本三大美林」の一つに数えられている。ヒバは直径1m、高さ30mほどの大木になるまでには200〜300年ほどかかる

約220ha(東京ドーム約47個分)という広大な実験林で柴田さんが松川氏とともに目指したのは、7割が針葉樹のヒバ、3割が広葉樹のナラ等という針葉樹と広葉樹の混交林である。計画的に施業を行う「施業区」と、人の手を全く加えない「無施業区」を20ブロックほど細かく設定し、毎年2ブロックずつ木々の成長度合いを見て伐るヒバを選び、1割ほど間引いて、森に光を入れることで次の世代が芽を出すという自然の営みを見守る。

東北森林管理局 下北森林管理署 署長の成田敏(なりた・さとし)さん、森林技術指導官の畑中賢幸(はたなか・たかゆき)さんに、実験林を案内していただいた。

薬研温泉の奥に位置する実験林には全国各地から集められたヒバの見本林があり、ヒバの特性と自然のしくみを観察することができる。林内には遊歩道があり、案内板も整備されている

畑中さん この実験林は、天然更新をしながら、樹齢や樹高の異なる樹木で構成され、樹冠の部分が何層にもなる複層林を目指しています。ヒバがもつ自身の力に任せたほうがいい木が育つんです。すごいですよ。そこらじゅう、わさわさと新芽が出てくる。施業した区画には、こうして下草があるでしょう。弱々しい木などを選んで伐採するとそこに光が入って、次の世代のヒバが出てくるんです。

数日間続いた雨で、実験林の木々は、葉の先までたっぷりと潤っていた。青々としたヒバを見上げると、神々しさを感じた。畑中さんに「稚樹の双葉を見たことはありますか?この小さな芽がヒバですよ」と言われて足元をよく見ると、小さなヒバがたくさん芽を出している。

ヒバの学名は、ヒノキアスナロ(ヒノキ科アスナロ属)。北海道渡島半島から栃木県日光付近までの範囲に分布する。青森県の森林の8%(約5万ha)はヒバを主体とする天然林である

畑中さん 相当ちっちゃいから、一見ヒバだと分からないかもしれないけど、葉っぱを見れば、ちゃぁんとヒバなんだよね。ヒバって、もうこの小ささで、上さ伸びてく準備しているんだよ。雪で押されたりしたら、土に着いだ(地面についた)ところから伸びてきて。

津軽出身の畑中さんの方言が、やわらかく耳に響く。

森の中では、草木も鳥や動物も、昆虫も微生物も、他にも水や気象まであらゆるものがお互いに影響し合って、有機的に結びついている。植物群のさまざまな動態や、自然の推移に逆らわずに、人の手を加えるのは部分的にとどめるのがいいのではないか。そうした松川氏の方針が実験林で採用されたのは1931年のこと。この実験林では、90年以上もこうして理想の森を追い続けている。

畑中さん 当時は、まちなかから実験林まで、森林鉄道が走っていたんですね。山から切り出した木材を運搬するために使われていました。柴田さんは松川先生と一緒に、1週間ほど山泊用の宿舎に泊まり込んでは、実験林の様子を観察していたそうです。実験林は、現在は複数の世代が同居する森になっています。

実は、柴田さんとは1年半ほど、現職で一緒に過ごしたんです。柴やんと呼んでいたんですけど、柴やんは、ホオノキ(朴木)を結構残しているんですよ。花が咲けば『花っこ咲いた』と言って。いい匂いがするんです。柴やんは好きだったみたいですね。

人が生きていく時間軸と、森が生きていく時間軸は異なる。実験林はまだ道半ばで、自分が生きている間には、未来の森の様子は確認できない。そうした時間軸で、どんなふうに森との関係性を育むことができるのだろう。そして、なぜ下北半島のヒバは、日本各地でそうしてきたように、成長の早いスギやヒノキといった樹種に変えることなく、守られてきたのだろうか。

成田さん 平安時代の代表的な建築とされる中尊寺金色堂にヒバが使われていますが、1,000年近く経過しても朽ちないことに信頼が置かれているのは確かですね。でもそれ以上に、特別な思いがある。青森県内の家って、50年くらい前までは、ヒバがごく普通に使われていたんですよ。私の実家もそう。宮大工の中には、ヒバでしか建てないという人がいるんですが、山を購入して、ヒバを育てているんです。もう70代だから自分は材として使うことはできないけれども、それでも、あとの世代が使えるようにって。200年後、300年後の人に託すんですね。

下北半島を統治した南部藩は、財源確保の必要性から木材生産に積極的で、林業を通じて栄えてきた。写真は、森林鉄道の貴重な線路跡。実際に走っていたディーゼル機関車(昭和36年製)は、青森市森林博物館で見学できる

択伐(抜き伐り)を繰り返した「施業区」では樹木の成長が旺盛となり、中径、小径の若い木が混じった森林に変化した。一方で、手を施さなかった「無施業区」では、成長が衰えた太い木が中心となり、若い木が育ちにくい森林へと変化した。適切な択伐を行うことで、森林が活力を増すことが実験林で証明されている

森を、暮らしの中へ届ける

この実験林から車で10分ほどのところに、柴田さんが暮らした家がある。柴田さんは晩年、青森ヒバを製材するときに出る端材をつかって、かごを編んだ。半島内はもちろん、東京都内でも販売され、パリで開催された展示会にも出品された。柴田さんの工房はまだそのままにしてあると聞き、柴田さんにかごづくりを学んだことがあるという親戚の柴田唱子(しばた・しょうこ)さんに、工房を見せていただいた。

光沢のある編み目が美しいヒバかご。もともとは白色だが、経年変化によって飴色に変わっていく。自宅とは別に小さな工房があり、そこには材料や道具、かごなどが置かれていた

唱子さん このリビングの一角で、ずっと編んでいたんですよ。霧吹きで十分に濡らして材料を伸ばしながら編んでいくんですが、すぐ硬くなって、途中で折れちゃうんですね。ちょっとずつ曲げて、形にしていく。底辺から、ひご状にしたものを4本ずつ編んでいきます。私は少し習った程度なんですが、柴田さんが忙しいときは、手伝いに来ていました。側面はある程度できるんですけど、特に角をつけるのが難しいんです。

女性誌『家庭画報』には、柴田さんと、パリ在住のアーティストである河原シンスケさんが、実験林を歩いているシーンが写真に収まっている。この二人のコラボレーションによって、『家庭画報』オリジナルのかごバッグもつくられた(『家庭画報』2019年6月号より)

かごを触らせていただくと、ごつごつとしていて、やや固い。表面は、東京の店舗で出会ったかごと同様、編み目が整然としており美しい。柴田さんは、ここでかごを編まれていたのか、と思うと、いまその場所に自分がいることが嬉しかった。そして、当時の工房をそのまま残してくださっていることに感謝の気持ちを覚えた。

唱子さんのお話によると、柴田さんのお父さんは、「日本のかごの故郷」と呼ばれる、スズ竹を使った竹細工のまち・岩手県一戸町鳥越地区の出身。実家でもよく手籠や竹ざるをつくっており、子どもの頃に見よう見まねでかごをつくって遊んだ経験もあったことから、ある程度の技術は自然と身についていたのだとか。

唱子さん これは鳥越でつくられた『行李(こうり)』と呼ばれるかごの一部なんですが、行李の編み方を、こうやって番号を書いて解読したんですね。かごを編む素地はあったのかもしれませんが、ぜんぶ独学なんですよ。どうやって編まれているのか、研究したんですね。竹と違って木はしなりがないので、ずいぶん苦労していましたよ。3〜4年くらい試行錯誤を続けていました。

行李のひご1本1本に、編む順番と思われる数字が書かれていた。スズ竹は、主に東北など寒冷地に育つ細い竹で、スズ竹ならではの弾力、しなやかさが特徴

行李を参考に、数年の年月をかけて、独学でオリジナルのヒバかごを生み出す。そこまで柴田さんをかごづくりに駆り立てた背景には、どんな思いがあったのだろう。

柴田さんは、定年退職後、地元の製材所で木材の大きさや品質を判定する仕事に携わった。そこで目にしたのが、出荷用に整形する際に出る、大量のヒバの端材だった。この端材を何かに利用できないかと考えたのが、かごづくりを始めるきっかけになった。

長方形の板状になった端材を、作業場で削り出す前に1日だけ水につけ、その板を機械をかけて1.3cmに厚みを整える。次に、カンナで厚さ1.2mmほどのテープ状に削り出す。この幅や厚みも、試行錯誤を重ねてたどり着いた。編むかごの大きさによって幅や厚さはわずかに異なるが、その精度は、100分の1ミリ単位だという

唱子さん イタヤカエデも使ってみたようですが、割れやすいのか、材料となるひごをつくるのが難しかったみたいです。ヒバの端材をつかいたかったんだとは思いますが、かごを編むための、この地でちょうどいい材がヒバだったんですね。大きいのをつくる場合は若干太く、小さいのをつくる場合は若干細く。ひいてすぐは、丸まっているんです。それで手で全部伸ばして真っ直ぐな棒状にするので、結構な工程があるんです。

実験林で40年も成長を見守ってきた青森ヒバを、定年後には材料にして、かごを編み、ヒバを暮らしのなかへと届けた柴田さん。実は、奥さまと娘さんを先に亡くし、息子さんは上京したため、晩年はお一人だったのだそう。このオリジナルのヒバかごの製作を継いだお弟子さんは、本当に一人もいないのだろうか。

唱子さん 学生さんや、講習会などでも教えてはいたんですが、お弟子さんを積極的にとる様子はなくて。あとを継いだ人はいないんです。だから、もうヒバかごはつくれないんですよ。私も、もっと習っておけばよかったかもしれないけど。編むことのできる人もいないし、このひごという材料をつくること自体、柴田さん以外、誰もできないんです。

柴田さんの晩年、息子の正徳さんは三沢空港に車を置いて、毎週末ご実家へ通い、一緒に過ごされたのだとか。「ちょっとでも体調がいいと、かごづくりをしていた」と唱子さんが教えてくれた

ヒバはなぜ、人を魅了するのか?

柴田さんのかごづくりを支えたのが、同じ下北半島の風間浦村にある青森ヒバ専門店「わいどの木」を運営する、有限会社村口産業の代表・村口要太郎さんである。青森ヒバしか製材しないというこだわりをもつ村口さんは、製材する際に出る端材を、柴田さんのもとへと届けた。村口さんはご体調が優れず、奥さまの節子さんにお話を聞いた。

木工所に隣接した住まいの庭には、ヒバで建てられた、庭を眺めるための小屋がある。店舗名の「わいど」とは、下北半島の言葉で「私たち」の意味。「わいどの木」とは「私たちの木」であり、それは青森ヒバを指している

節子さん 先代から製材業をやっているんですが、当時は養豚業もしていて。この建物は、もともと豚舎だったんです。道路の向こう側にも豚舎があって、1,000頭ほどいました。田んぼをやっていないので、ワラの代わりにヒバのおが屑を分娩舎に敷いたところ、豚舎の匂いが軽減されただけでなく、病気の発生率も低くなって。夫は、『青森ヒバは、人を健康にする』と、密かに思っていたらしいんです。

その後、事業を継いだ村口さんは、製材業のみに絞ることを決断。本格的に製材に携わるようになると、端材がたくさん捨てられているのを目の当たりにして、この端材で何かつくることはできないかと思案した。ヒバの特筆すべき効能は、殺菌、抗菌効果と、消臭、脱臭効果である。そこでまず、まな板を商品化し、販売を始めた。

「わいどの木」店舗の奥にある木工場。村口さんは、工業デザイナー秋岡芳夫氏の言葉「木は反る・あばれる・狂う・生きてるから だから好き」を大切にしながら、青森ヒバの一般建築材の製材と販売を行う。また、端材や枝など、これまでは商品とならなかった木材から様々な木工品を製作している

節子さん ヒバといえば、神社仏閣に使われるというのが謳い文句なんですが、夫は、一般の人に届けたいと言い始めたんですね。ヒバの効能は本当に素晴らしいから、それをみんなに知ってほしいと。それでまな板の販売を始めてみたら、TVで取り上げられてね。もう連日、注文の電話が鳴りっぱなしで。

まな板がヒットしたことで自信をつけた村口さんは、次々と新商品を展開する。床下に敷くヒバチップ、入浴剤、シューズキーパーなど。中でも売れているのは、除湿・防カビ・消臭剤「ヒバ爆弾」である。

写真はヒバのチップ。床下に敷けば、湿気対策になる。製材するときに発生するおが粉を円筒状に固めたのが「ヒバ爆弾」で、押し入れや靴箱などに入れておくと、臭いや湿気が取れる

節子さん ネーミングが面白いということで、また別のテレビ局が取材に来てくれたんです。これもありがたいことに、注文の電話が鳴りっぱなし。今でも毎日、機械が動いていますよ。夫は、カビのつかない真ん中の“赤み”の部分だけを商品化することにこだわって、外側は薪として販売しているんです。製材するときにどうしても出てしまう端材や削りかすを、余すところなく商品にしています。

神社仏閣の建材に使うのは、幹が太くてまっすぐに伸びた、樹齢200年を超えた一級の材。同じ200年の年月を経た木でも、曲がった木は使われない。村口さんは、青森ヒバであれば、どんな木も区別なく使うことにこだわる。

節子さん 無駄なく使ってあげれば、曲がったヒバもきっと喜ぶと言ってね。夫はね、ヒバのことばかり考えているんですけど、いまはそれ以上に、子どもたちがヒバのことばかりになっているんです。

村口さんのお子さん二人は、姉弟で青森ヒバのプロダクトを発信するブランド「Cul de Sac-JAPON(カルデサックジャポン)」を東京で立ち上げ、中目黒と恵比寿で店舗を運営していると聞き、驚いた。自分が足を運んだ店舗は、「わいどの木」のお子さんが経営されていたとは……。柴田さんがつくった青森ヒバのかごをパリの展示会へと持って行ったのも、この二人だと教えてくれた。

節子さん パリの展示ブースでは、ヒバのチップが入った大きな容器が入り口に置かれていたんですが、たくさんの人が集まっていました。ヒバの香りは、人を惹きつけるんですよね。

村口さんは、森林管理署や同業者から「ヒバだけでは事業は厳しい」と助言されても、「スギをひくくらいだったら製材所はやめる」と答えるほど、青森ヒバ一筋なのだとか。製材したヒバを、お施主さんに直接届けることも、村口さんのこだわりだ。工務店などの中間業者に売ることはあっても、決してお施主さんより安くは売らない。「(お施主さんに)あなたが使うのだから、あなたが買いなさい」と。

節子さん 夫は変わり者で通っているんですよ。近年、温暖化が進んでいるでしょう。だから、青森ヒバの生息域も緯度が上がるんじゃないかと言って、北海道でヒバの植林をして回っているんですよ。苗を50本くらい車に積んで、もう5年くらい。知り合いをたどって、1本植えてと言われたら1本。3本植えてと言われたら3本。北海道はエゾマツやトドマツばかりだけど、ヒバを植えたいと言ってね。育つのに時間はかかるけど、そこにロマンがあるのでしょうね。

村口さんは、店舗に来てくれた人に青森ヒバの家に泊まってみてもらいたいと、店舗の隣に、柱も床も壁も、全てヒバでつくられた簡易宿泊施設「わいどの家」を建てた。「そんなことをしたら、ヒバに失礼だから」と塗装はしない。通常の断熱材は使わずに、ヒバのかんなクズを外壁と内壁の間に詰めている。村口さんは、なぜそこまで、青森ヒバに魅了されたのだろうか。

「玄関など、汚れるところはタイルにしようと提案しても、ヒバを張る。夫は言うことを聞かないんです」と節子さんは笑う

ちょうどお話しに区切りがついたタイミングで、降り続いていた雨がやみ、下北半島に光がさした。「わいどの木」をあとにして、国道を走りながら、柴田さんの息子さんである、正徳さんの言葉を思い出していた。

正徳さん 父は晩年、ヒバかごの材料づくりを誰かに教えておけばよかったと、よく話していました。かごを編むことよりもむしろ、材料づくりの難しさに苦労したようです。実験林のある大畑という小さいまちに、以前は大きな製材所が10以上もありましたが、いまはもうありません。父が子どもの頃は、森で製炭をするのが家業だったそうです。10歳の頃には同行して、16歳の頃には木炭づくりを手伝っていたと聞きました。森が自分のフィールドで、もう一つの家だったのでしょうね。

下北半島をめぐり、青森ヒバと、実験林の管理に携わった柴田さんのお話を聞くなかで、全員が口を揃えて話してくれたのが、柴田さんのカラオケの話である。

畑中さん しばやん(柴田さん)はお酒が好きでね。一緒に飲みに行くと、最後はカラオケになるんだけど、必ず北島三郎の曲を歌うんだよね。ふだんはおとなしい印象なのに、お酒が入ってマイクを持つと、人が変わったように歌うんですよ。すごい声量でね(笑)

農山村に暮らす人々は、いわゆる「山仕事」を通して森とかかわりをもってきた。春は山菜採り、秋はしいたけ狩りなど森から食料をいただくことはもちろん、山の木を切り出して住まいをつくり、冬を越すための薪を調達し、牛馬を飼育するための草を刈った。

柴田さんは、そうした暮らしのなかの営みとして森とのかかわりをもつ、いわば最後の時代を、青森ヒバとともに生きたのだと思う。

ところが、この50年ほどの間に、住まいも食も、つくるものから購入するものになった。農村部にも現代的な暮らしが持ち込まれ、すぐ近くにある森の資源を使う代わりに、どこか遠くから必要な資源を取り寄せて暮らすことが当たり前になった。

「森」から「暮らし」をつくる地点に戻ることは、難しいかもしれない。けれども、「暮らし」から「森」をつくり直す方法を探ることはできないだろうか。

森にどう向き合うかは、そのまま、未来をどう生きるかだと思う。

柴田さんのような、ひたむきさを携えて、変わりゆく時間の世界で、変わることなく繰り返される時間の世界を、あきらめずに追いかけたい。

柴田さんが下北半島で育んだものはなんだったのだろうか。そんなことを考える時間だった。柴田さんは40年間実験林を見つめ、その後も籠づくりを通してヒバと共に生きた人だった。

ご存命のうちに柴田さんに会えなかった、その言葉を残せなかったことに悔しさが残る。それでも教えてもらったことがある。それは、「森の意思」と「人の意思」は重ね合わせることができる、ということだ。

青森ヒバは植林して育てようとしてもうまくいかない。しかし、自然に生えるヒバの生命力は強い。ヒバ林を人の手でつくるのは難しいけれど、共存することはできる。
その森の意思に柴田さんの意思が重なっている。

この意思の重ね合わせに大切なことは「待つ」ということかもしれない。森の成長を早送りすることはできない。ひと一人の人生では、十分ではないかもしれない。しかし、もともと自然は長い時間の中で変化するようにできている。僕らが暮らす社会が少しばかり早くなってしまったからといって、自然の速度が遅くなったわけではない。

僕らが、「待つ」ということを忘れなければ自然は必ず意思を示してくれる。そこに自分たちの意思を重ねる。柴田さんが見つめた40年は、僕らからすれば途方もなく長い。それでも、僕らも森と同じように様々な人たちがバトンを継ぎながら関与していくものだ、と考えると少し気が楽になる。

柴田さんが籠を編みつづけたように、僕らは、こうして日本中の森を旅する中で見えてくる意思を「編みつづける」ことが、次に意思を繋いでいくためにできることなのだと思う。

柴田さんと森を歩きつづけた畑中さんに案内してもらったヒバの森は美しかった。そこに、森と柴田さんの意思を見た気がした。
ヒバの香りに後ろ髪をひかれながら、下北半島を後にした。(奥田悠史)

最後に、お話をお聞きした柴田正徳さん、柴田唱子さん、東北森林管理局 下北森林管理署 の成田敏さん、畑中賢幸さん、青森ヒバ専門店「わいどの木」の村口節子さんに、あらためてお礼を申し上げます。

また、青森ヒバの実験林で柴田円治さんが見つめた風景をどうたどればいいのか、誰にお話を聞いただいいのかわからない折に、親切に情報をいただき、人をつないでくださった、まさかりプラザ売店の尾鷲信義さん、くるくる佐井村の園山和徳さん(『下北半島食べる通信』元編集長)、しもきたTABIあしすと(旧下北観光協議会)事務局長の坂井隆さんにも、心よりお礼を申し上げます。

(編集・撮影 奥田悠史)