写真のこの子、何をしているのでしょう? 「あそんでいる」と思いますか?
ただ退屈しているようにも見えますし、集中して何かに取り組んでいるようにも見えますよね。そもそも、「あそんでいる」ってどんな状態なのでしょう。
「あそび」は一般的には「鬼ごっこ」や「ゲーム」などを総称する名詞として使われることが多い言葉ですが、今日ご紹介する「あそび大学」の中山勇魚(なかやま・いさな)さんは、中国戦国時代の思想家・荘子の著書『荘子』における「遊」に関する記述(※)から、「何者にもとらわれない主体的で自由な心のあり方」のことを「あそび」だと解釈しているそうです。
(※)「逍遥遊篇」の中に『天地の正に乗じて、六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且た悪くにか待たんや。』とある。日本語訳は、「天地の自然に身を委ね、万物の生成変化に応じて無窮の世界に逍遙する者こそ、何物にも囚われぬ真に自由な存在である。」(出典:『荘子』岸陽子・徳間書店)
「あそび」を心のあり方と捉えて子どもたちを見つめると、違う景色が広がります。
行為として鬼ごっこをしていても、実は強制的にやらされていて、心はあそべていないこともあるかもしれません。逆にただぼーっと横になって何もしていないように見えても、実はその子にとってそれが「あそび」だということもあるでしょう。子どもたち一人ひとりにとって、またタイミングによって「あそび」の表れ方は違ってきそうです。
「小学生時代のあそびがあるからこそ、人生を自走できるようになる」
と中山さんは言います。子どもの自由な「あそび」が失われつつある社会の中で、それを取り戻そうと活動を続ける「あそび大学」。
「本当のあそびってなんだろう?」
「人生を自走する力はどうやって育まれるんだろう?」
問いと期待を胸に、東京都墨田区の現場を訪ねました。
大人は立ち入り禁止!あそび大学の現場へ
晩秋のある日、下町風情あふれる街並みと近代的な東京スカイツリーの共演を楽しみながら、私たちは千葉大学墨田サテライトキャンパスへと向かいました。
「あそび大学」という手書きの看板が掲げられた門をくぐり抜けると、室内へ入るところで関門が立ちはだかりました。
どう見ても低すぎるゲート。そう、ここから先は大人が立ち入ることはできません。しかしそれでは取材ができないため、特別に許可をいただきボランティアスタッフと同じビブスを着用して室内へお邪魔しました。
普段はデザインや建築を学ぶ学生の工房として使われている広大なスペースに配置されたたくさんの棚には、きれいに整列されたトレーが並びます。その中には、布、紙、革、 ウレタン、プラスチック、金属など多種多様なサイズ、色、手触りを楽しめる素材がぎっしり。
子どもたちは素材を物色し、選んだものを手に創作活動に夢中です。
部屋の一角には、ノコギリを手に木材と向き合う子どもたちの姿がありました。ボランティアスタッフの手を借りたり、しっかりと足で固定したり、それぞれの方法で取り組む真剣な眼差しが印象的です。
人だかりができているテーブルに目を向けると、「みんなのおみせ」という看板があり、カラフルなお札も見えます。店員を務める子どもに聞くと、これは“国家予算”なのだとか。
子どもたちは誇らしげな表情で「みんなのおみせ」に自分でつくったオリジナルカードやアート作品を持ち込み、販売手続きをしています。自分で値段を決め、展示して、売れたらあそび大学オリジナルの「KIDS」がこども銀行の口座に振り込まれる仕組みだそう。売りたい子と買いたい子が行き交い、“おみせ”はいつも大繁盛です。
賑やかな室内から一歩外に出ると、落書きだらけの車が停まっていて、その脇では懐かしさを感じる外あそびが展開しています。コマまわし、皿回し、平均台に、ブロックあそび。幼児も夢中になってあそんでいました。

一般社団法人SSKがつくる外あそび空間。全てのあそび道具を乗せている車の塗装は、黒板のように自由に落書きができるようになっている
大人は立ち入り禁止。ボランティアスタッフも口出し禁止。子どもたち一人ひとりの意志が尊重されるあそび大学の時間・空間は、お互いのありのままを認め合う自由で平和な空気に満ちあふれていました。
「もうどうしていいかわからない」ほどの厳しさ。
小学生を取り巻く現状に触れて
あそび大学を運営しているのは、NPO法人あそび研究会のみなさん。
学童保育など子どもの居場所づくりを行なう特定非営利活動法人Chance For All、日常とは違う子どもの体験の場づくりを行なう一般社団法人SSK、デザイン事務所を“てらこや“としても開放しているSeki Design Lab.、こどもが主体的で自由に過ごせるあそび環境のデザインを研究している千葉大学環境デザイン研究室の4団体が母体となっています。
NPO、民間企業、大学という多様な団体が手を取った運営に特徴を感じますが、どの団体にも共通しているのは、子どもの現状、特に小学生を取り巻く環境に対する課題意識です。Chance For Allの代表としてあそび大学を運営する中山勇魚さんはこう語ります。
中山さん 今の小学生はかなり厳しい状況にあります。一番わかりやすい数字でいえば、いじめが20年間で30倍(※1)になっています。件数が増えているだけではなく、自殺や刑事事件などの重大事態も7年間で約3倍(※2)になりました。悲しいことですが、子どもの自殺も下げ止まることなく、全く改善されていません。
もうどうしていいかわからない。誰も解決方法が見出せない状況になっています。
(※1)こども家庭庁の調査によると平成15年のいじめ発生件数は23,351件、令和5年度には732,568件。約31.4倍という結果になっている。(こども家庭庁「令和5年児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より)
(※2)いじめ防止対策推進法第28条第1項に規定する「重大事態」とは、 第1号「いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に 重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき」 第2号「いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき」とされている。こども家庭庁の調査によると平成25年度の179件から、令和5年度は1,306件となり、10年間で約7.3倍になっている。(こども家庭庁「令和5年児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より)
その他にも、かつては高校や中学が中心だった校内暴力も小学生の方が多くなっていること、自己肯定感が顕著に低下することなど、小学生にまつわるデータはどれも非常に厳しい現実を指し示しています。
中山さん この原因はなんなのかと考えると、やっぱり放課後の時間なんじゃないかなと思います。変化しているのは学校ではなく、社会であり放課後なのではないかと。
Chance For Allの調査では、今の子どもが自分たちの時代に比べて放課後にあそべていないと感じる親が70%というアンケート結果があり、千葉大学の研究では、平日1度も外あそびできない小学生が約8割というデータもあります。これらの背景にあるのは、都市部の子は習い事で忙しく、過疎地域の子はスクールバスで帰るため徒歩や自転車圏内で友達とあそべないという現状。
中山さん 今の小学生は家には家族、学校には先生、習い事でも常に大人がいて、いつも「あれしなさい」「これはしちゃだめ」と言われる世界の中で生きています。その結果、大人の言うことを聞くいわゆる“いい子”は増えていますが、大人の価値観に当てはまらない子はすごく苦しくなってしまっています。
特に学校では勉強ができる子やスポーツができる子、先生の言うことを聞く子が誉められますが、かつて放課後に当たり前にあったあそびの中には、そういう価値観と外れた世界がありました。例えば、お笑い芸人に詳しいとか、泥団子づくりが上手いといった子どもならではの価値観が生まれていたんですよね。
常に大人と一緒に生活することで失われたあそびを、中山さんは「汚いこと・危ないこと・バカらしいこと・秘密のこと」と表現します。
中山さん 本来これらは、子どもが大好きなことですし、自分たちの意志で何かを試す機会は、子どもたちの成長にとって貴重です。自己責任で自分のやりたいことをやっていく中で、ときに喜び、悔しい思いもして成長していくのだと思いますが、今はその機会が減少し、逆にいじめや不登校が増え、大人になりきれない若者も増えている現状があります。
まるでわらしべ長者。
「端材要りませんか?」からあそびの最高峰へ!
子どもを取り巻く環境が深刻化する中、中山さんはかつての放課後のようなあそびや体験を増やしていくことに大きな意義を見出し、「あそびこそさいこうのまなび」を信条に墨田区と足立区で8つの学童を運営してきました。
そんな中山さんのもとにあそび大学のタネが舞い込んできたのは、学童の子どもたちにコロナ禍でもあそべる環境をつくるために模索し続けていた頃のこと。ひとりの保護者から、ある提案が届きました。
「端材要りませんか?」
墨田区の町工場から譲り受けた端材を2人の小学生の子どもたちのあそびの材料として活用しているデザイナーのお母さん。後にあそび大学の運営団体の一つとなるSeki Design Lab.の關真由美(せき・まゆみ)さんからの提案でした。
關さん 仕事で訪れた町工場の方に「子どもたちとあそんでみたら?」と渡されたので持ち帰ってみたら、2人とも夢中になって探求あそびを始めたんです。息子はウレタンにテープを貼って自分で新幹線をつくっていったり、恐竜のかぶりものをつくってそのまま保育園に行ったり、娘も素材でおままごとをしたり。
町工場の端材は意図してつくられていないので、子どもたちにとっていろいろなものに見えるんです。あそびがどんどんつくり出されていきますし、どんどん進化していく。当時夫の海外出張が多く私はワンオペでしたが、夢中であそんでくれるおかげで乗り切れました(笑)
そんなある日、關さんは子どもたちから「学童に持っていっちゃだめ?」と聞かれたそう。
關さん 当時は梅雨時期で外あそびができず、子どもたちに不満が溜まっていたようで。「これから夏休みなのに遊ぶ材料がないと暇〜!」と先生たちに抗議していたらしいんです。そんな姿を見て、うちの子たちは学童を端材でいっぱいにしたいと思ったんですね。なぜ必要か私にプレゼンテーションした上で、「ママ電話して」と言われました。
關さんの申し出を受けた学童のスタッフが自宅を訪ねてみると、そこには溢れんばかりの多様な端材がいくつもの棚に並べられていました。スタッフは「子どもたちにとって宝ですね!」と盛り上がり、早速学童に導入することになったと言います。
中山さん 学童のスタッフがイタリアのレッジョエミリア教育(※3)を学んでいたこともあり、もともとそういうことをやりたいという話をしていたんです。ですのでみんな喜んじゃって、關さんのご自宅からたくさん素材を持ち帰りました。学童に段ボールでつくった棚を置き、端材を並べてみることからはじめました。
(※3)レッジョエミリア教育は、北イタリアにある都市「レッジョ・エミリア」で誕生した教育方法。自由なアート活動や保育ドキュメンテーションなどを取り入れ、子どもの自立性や協調性を養う教育をプロジェクト形式で行っている。レミダ(REMIDA)という多様な企業廃材が集められたリサイクルセンターがレッジョ・エミリア教育を支えている。
変化はすぐに表れました。工作をするのかと思いきや、子どもたちがまず夢中になったのは大量のウレタンを使ったあそびでした。
關さん パソコンの緩衝材なんです。四角いウレタンを300個くらいもらったので、これは絶対面白いと思って、工場から直接学童に持ち込みました。先生も一瞬苦笑いでしたが、子どもたちはそれですごく盛り上がってくれて。
ある日お迎えに行ったら、ウレタンを天井まで積み上げるチャレンジが行われていました。でも当然、小学生の身長では限界があります。そこで誰かが、途中まで積み上げたものをそーっと持ち上げて天井につけて、その下を埋めるという方法を思いついたんです。みんなで協力して積み上げて盛り上がっていましたね。
先生たちが写真を撮ってくれていたので、私が提案して「ウレタン日記」という記録をつくったところ、保護者からも「こういうのいいね」って声が届きました。
中山さん 普段は歳の近い男子と女子に分かれてあそぶことが多いのですが、このときは異年齢で集まってあそんでいたのが印象的でしたね。その後もウレタンを階段状に積み上げたところを登って天井に手をつけてあそんだり、これまでにない盛り上がりを見せていました。
子どもたちの熱狂に背中を押されるようにChance For Allが運営する複数の学童でも素材あそびを取り入れるようになった頃、關さんは知人の紹介で千葉大学 デザイン・リサーチ・インスティテュートの副センター長・原寛道(はら・ひろみち)教授と出会います。
子どものあそび場の環境設計を研究している原さんは、プログラムではなく環境をつくっていくことで子どもの成長や変化を促そうとする中山さんと關さんの考えとアイデアに賛同し、「ぜひ地域に広めましょう」と提案。千葉大学墨田サテライトキャンパスの工房で、まずは小さく素材あそびのイベントを開催することになりました。
”あそびの最高峰”を目指して「あそび大学」と名づけ、素材を机の上に並べ、中山さんと關さんのつながりで子どもたち20〜30名を集めて初開催したのが2021年12月のこと。その評判はすぐに広がり、4回目の2022年3月には200名を超える参加者が集まりました。
子どもたちからの「つくった作品を持って外でも遊びたい」という声に応え、原さんとつながりのあった一般社団法人SSKによる外遊びの場も加わり、その後も月1回の定期開催を継続。参加申し込みは毎回120名を超え、子どもたちから安定した支持を集め続けています。
關さん まるでわらしべ長者になった気分です。素材を渡したら次々にみなさんが食いついてくれて、みんなが集まったら「あそび大学」ができました。
中山さん 素材を提供してくれている町工場のみなさんも喜んでくれているんです。それがとても嬉しいですね。
「あそびこそさいこうのまなび」
こうして地域の子育て世代を中心に徐々に認知も定着し、あそび大学は2024年度キッズデザイン賞・内閣総理大臣賞も受賞しました。順風満帆な歩みのように感じられますが、ここで少し深堀りしてみたいのは「あそび」というものの捉え方です。
あそび大学のホームページには、こんなフレーズがあります。
果たして、あそび大学にとっての「あそび」とは?
中山さん 僕はいつも「あそびってなんだろう?」と考えていますが、「楽しいことをやる」あるいは「楽しいことをやらせてもらう」のではなく、「目の前のことを楽しんでいく」ことが「あそび」なんだと思います。
「鬼ごっこはあそびか?」と聞かれたら大抵の人が「あそび」と答えると思いますが、「3時間休憩しないでずっと鬼ごっこしてなさい」と言われていたとしたら、他のことをしたかった子にとっては全然あそびじゃなくてやらされていることになりますよね。
ですので名詞的な「あそび」というものがあるのではなくて、動詞的に子どもたちが自分たちのやりたいことに向き合っていること自体が「あそび」なんだろうなと。
そう語った後で、中山さんが教えてくれたのは、『荘子』の中にある「あそび(遊)」の捉え方。記事冒頭でも触れた通り、それは「何者にもとらわれない主体的で自由な心のあり方」です。
中山さん 日本の子どもは「あそんでないで勉強しなさい」とよく言われますが、心のあり方と捉えると、「あそび」はすごく大切なことだと思います。
「自分が今何をしたいのかな」とか、「あいつとすごい嫌な感じだけど仲直りしないとあそべないよな」とか、時には仲違いしたままクラス替えになっちゃってもうその子とはあそばなくなっちゃったりとか、いろいろな経験をして人は成長していくと思うんです。
その大きな一連の経験やその時の心のあり方も含めてあそびで得るものだと思うので、まさに「あそびこそさいこうのまなび」なんですよね。
実は今回あそび大学の現場を見学した際にも、いわゆる名詞的な「あそび」の定義では、一見「あそんでないんじゃない?」と思うような子どもの姿も目にしました。夏休みに5日間連続で開催される「なつのあそび大学」では、こんなエピソードもあったそう。
中山さん なつのあそび大学に来ても入国せず(「なつのあそび大学には入国管理庁があり、パスポートを見せて入国する仕組み)、ずっと漫画を読んでる子がいたんです。「入らないの?」って聞いたら、「うちは家庭が厳しくて、家にいるときは勉強しろと言われるからここにきて漫画読んでる」って。聞くと、学校にも行ってなかったことがあり、「でも家にいると先生に言われたクラスメイトが誘いに来てウザいから今はとりあえず登校だけしてずっと寝てる」って話してくれたんです。「ここは何も言われないし気が楽だ」って。ある種たくましいんですけど、ずっと抜け道を探して生きているんですね。
その子は漫画を読み終わったらボランティアさんとずっと話していましたが、ボランティアさんは評価したりしないので、おしゃべりが楽しいみたいで。それもその子にとってはあそびだと思いますし、それこそ「何者にもとらわれない主体的で自由な心」の状態だったのかなと思います。
だから積極的に何かに向かっている姿だけじゃなくて、何もしていないときやケンカして嫌な気持ちのときも含めて「あそび」だと思っています。
一方で「まなぶためにあそぶ」ということにならないことも大事だと中山さんは付け加えます。
中山さん 最近、あそびの習い事が出てきているんです。「あそびが子どもにとっていい」と認知されるとすぐそうなってしまいますが、それでは本末転倒で、もうあそびじゃなくなってしまいます。
何より大事なのは、子どもたちが自分の意志であそべる時間を確保してあげること。昔はそれが当たり前にありましたが、いまは大人が確保してあげないと失われてしまう時間なんですよね。だから僕らは、あそび大学でその時間を確保し続けています。
あそびを保障するための環境デザイン
子どもたちが自分の意志であそべる時間・空間を確保することがあそび大学のミッション。でも子どもたちの「あそび=何者にもとらわれない主体的で自由な心のありよう」を保障するためには、もちろんただ端材を置けばいいというわけではないでしょう。
ここからは仕組みやルール、大人の関わりなどさまざまな角度から、あそび大学の環境デザインについて見てみましょう。
大人は立ち入り禁止
まず大前提となっているのは、大人が立ち入り禁止であるということ。保護者とは受付でお別れをして、子どもたちは第三者であるボランティアスタッフが見守ります。ボランティアスタッフはあくまで子どもたちと対等の立場の見守りであり、何かを教えたり介入したりしないという姿勢は、ビブスのメッセージ「みまもりタイ」「てつだいマス」にも表現されている通り。
この日も高校生、大学生からシニア世代まで、約30名ほどのボランティアスタッフが参加していましたが、中山さんのお話にもあった通り、たとえ創作活動をしない子どもがいたとしても評価したり導いたりすることなく、その子のありのままを受け入れて過ごす姿が印象的でした。
たったひとつのルール
大人が介入しない場ではありますが、もちろんなんでも子どものやりたい放題というわけではありません。あそび大学ではたったひとつ「自分自身やお友達を傷つけない」というルールを掲げています。
初めてあそび大学に参加する子どもたちは「ケンカの大学」というミニ講義に参加し、このルールの意味と大切さを学びます。ボランティアスタッフの話を聞くだけではなく、紙をクシャクシャにするという行為を通して、心の傷は一生治らないということも体感で学び取っていきます。
このたったひとつのルールには、大人の介入がなくてもケンカは自分たちで解決してほしいというメッセージが込められています。
關さん 私も小学生の子どもの親ですが、今は子どものケンカにすぐ大人が介入しちゃいますし、学校の先生からも「子どもがケンカした」という理由で電話がかかってきます。
でも大人の介入によって、子ども時代にケンカしちゃって謝れないもどかしさを味わうとか、言葉では謝れなくても廊下でぶつかっちゃってブッて笑って仲直りするとか、そういう豊かな経験も奪ってしまっているんじゃないかなって。
あそび大学でも「うちの子は叩かれて謝ってもらっていない」というクレームが入ったことがありました。それも大事な経験だという私たちの考えを丁寧に伝えましたが、それをきっかけに「ケンカの大学」を始めたんですね。
だって、大人になったら何事も自分たちで解決しなきゃいけないじゃないですか。子ども時代に大人が全部介入して管理してしまうと、「何かあったら大人に言えばいい」と思ったまま成長してしまうのではないかと思います。
ケンカ後のモヤモヤもひっくるめて豊かな経験であり、そういった経験の欠如が、結果としていじめや暴力につながっていると中山さんは続けます。
中山さん 小さい頃にケンカをうまく解決することや自分の気持ちと向き合う練習ができていないことが、大きくなって力が強くなってからの行き過ぎた行動につながっちゃうんだろうなと。子ども同士で話し合ったり、どうしたらいいか自分で考えたりする経験が必要なんですよね。
關さん 子どもはケンカを繰り返しますし大人から見ると生産性がないなって感じますが、本人たちがやりたいことをやってその結果起きていることなので、ケンカも思考力や判断力を養う学びになります。大人が介入すると結局その学びが失われてしまうんですね。
大人は介入せず、たったひとつのルールを据えて子どもを信じて見守る。ボランティアスタッフのみなさんの姿勢も、こどもたちの場への信頼を育んでいるのだと感じます。
参加費無料
また、無料で開催することにも大きな意味があります。たとえ有料にしても保護者はお金を支払う価値を感じるように思いますが、「当初から有料にすることは考えてこなかった」と關さんは語ります。
無料のメリットは、経済的な事情によらずすべての子どもへの参加機会を提供できること。でもそれ以上に「親が結果を求めない」という良さもあると中山さんは語ります。
中山さん お金を払ったら親はなんらかの成果を期待しちゃいますよね。無料だから子どもたちも自由に来られるし、親も結果を求めない。ずっとボランティアと話していたとしても、ごろごろ寝転がっていたとしても、保護者も「子どもが楽しんでるからいいのかな」という程度の感覚になれるんだと思います。
もちろんあそび大学の運営は経済的には厳しくクラウドファンディングや助成金をもとに継続している状況ですが、子どもたちにとって本当に自由なあそび場であるためには、無料である必要があると思っています。
大人が立ち入らず、ルールをたったひとつ設定して、無料を貫いて。子どもも大人も、期待や成果を手放して肩肘張らずにあそびを楽しむためのあそび大学ならではの環境デザインは、あらゆるものがサービス化した今の社会が失ってしまった大切なものに光を当ててくれているように感じました。
子どもからまちへ。連鎖する自走
ここまでのインタビューを通して強く感じたのは、中山さんと關さん自身が、子どもたちに負けないほどあそび大学を楽しんで運営しているということです。
もちろん参加者の子どもたちとは違い、毎月継続的に開催していくことも、登録数100名を超えるボランティアスタッフを統制していくのも、大きな苦労を伴うことは容易に想像できます。でも、中山さんと關さんは「今は全部ボランティアさんがやってくれているんですよ」と軽やかに笑います。
中山さん ボランティアさんたちは僕たち以上にあそび大学に詳しいかもしれません。交通費も謝金もお渡しできていないのにコアメンバーはほぼ毎回ミーティングにも参加してくれていますし、振り返りと次回に向けた改善ポイントもボランティアさんに考えてもらっているんです。
關さん 運営マニュアルが必要だと思っていたらボランティアさん自らメモをつくってくれましたし、「ケンカの大学」の資料もバージョンアップしたいと改訂案をつくって見せてくれて、ボランティアさんのおかげで子どもにとってわかりやすい資料になりました。これからは新しいボランティアさんの育成も任せようって話もしているんです。
「それだけボランティアさんにお任せするのはある意味勇気の要ることでは?」と聞くと、關さんは「そんなのは当たり前!」と言わんばかりにこう語りました。
關さん だって現場の人が一番知ってるのに、我々が決めるなんて気持ち悪いじゃないですか。現場の声を重視した方がいいに決まっていますし、私たちほど歳が離れていないボランティアさんと話をすることを楽しみに来ている子たちもいるんです。そのうち我々がいなくてもあそび大学は回っていくと思っています。
中山さん、關さんによると、ボランティアスタッフのモチベーションは、「最初は子どもたちとあそぶことだったりしたけど今は環境を自分でつくっていけること」にシフトしているとのこと。運営そのものも関わる人々を信じて委ね、手放していくふたりの軽やかさが、あそび大学が子どもも大人もみんなの心を捉え続ける所以であり、あそび大学を「自走」へと導いているのだと感じます。
スタートから約3年。毎月のあそび大学自体の運営を手放しつつある中山さんと關さんはいま、町工場の自走にも目を向け始めました。技術力は高くても生産性の波に押されて経営状況が悪化し、また、新しいマンション住民の方々からの理解も得にくくなる中で、営業を停止する工場も増えてきています。そんな状況について、中山さんはこう語ります。
中山さん ある工場の方が「あそび大学さんの活動は、子どもたちにとって大切な学びの場であるとともに、地域と町工場の共生を後押しすることで、日本のものづくりを守っていく活動でもあります(※)」と言ってくださったんです。これからは工場の存続にあそび大学が貢献できれば嬉しいです。
(※)クラウドファンディングの応援メッセージとして、いつもあそび大学に素材を提供しているあそび大学サポーターの「有薗さん」から届いたメッセージ。全文はこちら

千葉大学のキャンパスから徒歩すぐのところにも使われなくなった町工場の姿が。一次産業(農林水産業)が存在せず、二次産業(生産業)が盛んな墨田区の工場数は、23区で第2位。そのうち8割が従業員9人以下の小規模事業所だそう。現在はマンション建設が進み、墨田区らしさが失われつつあると言う声も
そしてふたりの視点は、子どもの自走からまちの自走へ。
「あそび場100箇所構想」として、まちのあらゆるところにあそび大学魂をインストールしていく構想を進めています。墨田区の保育園や学童の先生と連携して素材をシェアし、子どもたちがやりたいと思うことを見守るあそび場でいっぱいにしようという新たなチャレンジ。これが実現すれば、まちの自走へとつながるはずです。
先生も親御さんも…。あそび大学を言い訳に使って!
飛ぶ鳥を落とす勢いのあそび大学なら、100箇所くらい一気に広まるのでは?という私の安易な考えに対し、關さん・中山さんが語ってくれたのは、「親の期待」という見えない壁の存在です。
關さん 先生や保育士さんたちはやりたいと言う方が多いんです。でも日本は四季折々の行事がありますよね。5月は鯉のぼりの創作をして、6月の父の日には感謝の手紙を書く。大人が見ている中で子どもがそういうことをやるのは、すごく素敵なストーリーで”成長っぽい”ことですし、親はそういうことを求めがちです。
中山さん でもそれを全員にやってもらおうとするので、先生にはめちゃくちゃ負担になっていますし、子どもたちも忙しくて自由な時間がないんですよね。
關さん そういう意味で一番の障壁は、親から見た理想の子ども像なのかなって。それに対して先生たちは過度に応えようとしますし、子どもはこうあるべきだというゴールを大人が設定してしまう。その結果子どもはやらされ感を抱いて、どこか他人任せになってしまう。我々が次のステージとして取り組みたいのは、もっと親御さんに楽になってもらうことかなと。
中山さん 日本は「子どもの責任を全部親が取らないといけない」とか、「お母さんは100点じゃないといけない」という風潮がありますが、そんなに一生懸命じゃなくていいんですよ。その方が楽ですし。
關さん 親がいい親であろうとすると子どもは窮屈になってルールをきっちり守ってやろうとします。でも、ルールをきちっと守ってやるあそびって本当のあそびではないじゃないですか。
私も2人の子どもの親として、「いい親でなくてはならない」という圧力をしんどく感じたことがあります。たとえば公園で、遊具の順番を守らない息子をそのまま見守りたいのに周りの空気を感じ取ってしまい制止しなくてはならなかったという、なんとも歯がゆい経験。親が感じている見えない社会の圧力が子どものあそびを奪っているという現状は、重く受け止めなくてはならないと感じます。
中山さん そんな親にとってあそび大学という場が、ある意味言い訳になるといいなと思います。「あそび大学に行かせているから悪い親じゃないよ」って思ってもらってビールでも飲みに行ってくれたらいいんです。あそびは大人にとっても大事なんです。
關さん 学校の先生も見学にきて「少しでもこういうことをやりたい」って言ってくれる方が多いんですが、そのための言い訳として「主体的にあそばせないとダメだそうですよ」って保護者や学校に伝えてくれたらいいなと。
そのうち、「たまには季節の行事よりもあそび大学へ行こう」って思ってくれるかもしれませんよね!
子どもたちを「自走」へと導いていると思って訪れたあそび大学。インタビューを通してイメージできたのは、子どもから大人、まちへとつながる自走の連鎖でした。
もちろんさまざまな壁は存在するけれど、子どもを真ん中に据えることで、社会を少しずつでも動かしていく。そんな再現性のある自走デザインのモデルを見せていただいた気がします。
実は今回の取材前、大人が素材あそびを体験する「大人のあそび大学」が開催されていて、私自身も参加させていただきました。そこで痛感したのは、自分自身がいかにあそべていないかということ。素材を前に手が止まり、取材を言い訳にただ素材を眺めることしかできない自分に苦笑いしてしまいました。こんな母のあり方を身近で感じている私の子どもたちはちゃんとあそべているのかなと一抹の不安を覚えたのも事実です。
子どもの自走を考える前に、まずは大人自身が「あるべき」という観念から解放されることから。
あなたもときにはすべてのことから解放されて、思いきりあそんでみてはいかがですか?
その時はぜひ、あそび大学という存在を言い訳に使ってくださいね。「あそび=何者にもとらわれない主体的で自由な心のあり方」は、大人にこそ必要なのですから!
(撮影:大塚光紀)
(編集:増村江利子)