「わっしょい、わっしょい!」
2024年1月7日。JR双葉駅前に、威勢のよい掛け声が響きわたりました。巨大なダルマを中心に南北に分かれて引き合う「巨大ダルマ引き合戦」は、南側が勝てば商売繁盛・家内安全、北側が勝てば無病息災・身体健固。多くの町の人たちが参加し、笑いと熱気に包まれていました。
江戸時代から続く双葉町の伝統行事「ダルマ市」は、2011年の震災により開催が危ぶまれました。それを繋ぎ、避難先で守り続けてきたのが町民有志の会「夢ふたば人」です。代表の中谷祥久(なかや・よしひさ)さんを訪ね、これまでの道のりとダルマ市に賭ける想いを聞きました。
300年以上続く伝統の「ダルマ市」
中谷さん 子どもの頃から、正月が終わるとダルマ市がやってくるのが当たり前だったんです。町の人たちは、ダルマを新しいものに買い替えて「やっと新しい一年がはじまるな」って実感が持てるんですよ。
双葉町のダルマ市は、毎年1月の第2土曜日から2日間開催される伝統の祭りです。例年、商店街にはズラリと屋台が並び、縁起物のダルマを買い求める多くの人で賑わっていました。
中谷さんの実家は、ダルマ市が行われるメインストリートのすぐそばにあり、家を出れば賑やかなダルマ市が行われているのが毎年の見慣れた光景でした。中でも印象に残っているのが、裸に晒しを巻いた大人たちがダルマを担ぐダルマ神輿。寒空の下、わっしょいわっしょいと威勢のいい男たちの姿を見て、「子どものころは絶対やりたくないと思っていました!」と笑います。
中谷さん この先も当たり前のようにずっと続いていくと思っていたんですよね。だから、ダルマ市に対してなんとも思っていませんでした。それが震災でなくなるかもしれないと知ったとき、「絶対になくしちゃいけない」って思ったんです。
ささやかな日常を奪った震災
双葉町で生まれ育った中谷さん。19歳で地元の建設会社に就職し、町に根を下ろして生きてきました。社長のすすめで「双葉町消防団第二分団」に所属。入ってから知ったことは、あのダルマ神輿を担いでいる大人たちが消防団員だったという事実でした。
中谷さん 最初は「俺も裸で担ぐのかぁ……」って引きましたよね(笑)でも、入った以上やるしかないんで、毎年担ぎましたよ。結果、めちゃくちゃ楽しかったんですけどね(笑)
中谷さんの暮らしは、消防団とともにありました。仕事を終えて家へ帰り、家族との時間を過ごして子どもたちが寝静まると、消防団の屯所へ向かい仲間と酒を飲んだり、たわいもない話をするひとときがかけがえのない時間でした。しかし、そんなささやかな日常さえも震災と原発事故が奪っていきました。
2011年3月11日。中谷さんは仕事中に被災しました。立っていられないほどの大きな揺れと鳴り響く津波警報。混乱の中、やっとの思いで家へ帰ると、家具は倒れ、ガラスは飛び散り、めちゃくちゃな状態になっていました。
中谷さんは小学校へ避難していた家族の無事を確認すると、すぐに消防の活動に向かいます。町の見回りをしたり、ストーブを避難所へ運んだり、とにかく一晩中動き回りました。そうしていないと気持ちを保てなかったのです。
翌日、町から避難指示が出されました。消防団は解散し、家族を連れて双葉町からおよそ50km離れた川俣町へ避難したそうです。その後、避難所の生活に耐えられないと判断し、祖父母を連れて横浜の親戚宅へ。そこから、双葉町民が集団で避難をしたさいたまスーパーアリーナへ移りました。
春から小学校入学を予定していた長女のランドセルは双葉町に置いてきたまま。寄贈されたランドセルを背負って編入先の加須市立騎西小学校で入学式を迎えました。
もう双葉に帰ることすら、夢なのかも
その後、同年9月にいわき市の南台応急仮設住宅へ入居。そこで消防団に所属する仲間たちと再会しました。
双葉町での日常を懐かしむように、部屋で仲間と飲んでいたときのこと。ダルマ市が話題にのぼりました。
中谷さん 「今年のダルマ市ってどうなるんだろう?」って話になったんです。町の伝統まで失ってしまったら、何もなくなってしまいます。だったら「俺らでやればいいんじゃね?」って。
中谷さんたちは、ダルマ市を開催するために有志の会「夢ふたば人」を結成します。この名にはどんな想いが込められているのでしょうか。
中谷さん 震災の翌日に町を離れなければいけなかった日から、「また必ず双葉に帰る」という気持ちで動いてきました。でも、だんだん悲惨な現実が見えてきて、心のどこかで「もう町へ戻ることはできないかもしれない」と思いはじめていたんです。
双葉に帰ること自体がもう夢なのかもしれない。けれど、夢を持ち続けていたらいつか帰れる日が来ると信じたい。そして、町の人たちにも希望を持ってほしい。中谷さんは、そんな思いで有志の会を「夢ふたば人」と名付けたそうです。
「また来年会おう」と言える場所
中谷さんたちは、当時埼玉にあった双葉町役場に何度も足を運びダルマ市開催のために奔走。商工会や観光協会などにも掛け合い、着々と準備をしてきました。許可を得て双葉町に一時立ち入りをし、巨大ダルマ1基を持ち運ぶこともできたそうです。
そして迎えた2012年1月。いわき市南台応急仮設住宅の敷地内でダルマ市の開催にこぎつけました。当時はSNSが今ほど普及しておらず、告知は町役場からのお知らせのみ。全国へ散り散りになってしまった町民へ、開催を知らせる術は持ち合わせていませんでした。
だからこそ、「町の人たちが本当に来るのかどうか、不安でたまらなかった」と中谷さんは言います。しかし、その不安をよそに当日は再会を喜び合う声で溢れました。
中谷さん 町の人たちも「本当にやるの?」って、半信半疑だったと思うんですよね。それでも、声を掛け合ってわざわざ遠方の避難先から足を運んでくれたんです。ご高齢の方は近所の人たちが車に乗せてきてくれました。離れ離れになってしまった子どもたちは、親同士が「ダルマ市で会おう」と連絡を取り合い、来てくれたそうです。
目の前で抱き合って、再会を喜び、涙を流している人たちを何度も見かけました。ダルマ市をきっかけに、日常が奪われて離れ離れになった町の人たちが再会できたんです。「やってよかった」って、心の底から思いました。
標葉せんだん太鼓の力強い太鼓の音色、巨大ダルマ引き合戦にダルマ神輿。その日だけは、かつての双葉町へ戻れたような懐かしい空気に包まれました。祭りが終わり「また来年会おうね!」と言って別れる人たちの姿を見て、中谷さんは「いつか双葉町に戻るその日まで続けていこう」と固く心に誓いました。
伝統も想いもつなげ、守り続ける
夢ふたば人が主催するダルマ市は、2014年いわき市での開催を最後に町へバトンタッチすることに。コロナ禍の1度だけ開催できない年がありましたが、避難先で毎年必ず伝統をつなぎ続けてきました。
そして2022年8月、JR常磐線双葉駅を中心とする特定復興再生拠点区域の避難指示が解除。翌年1月、震災から12年が経ってようやく双葉町でのダルマ市の開催が実現しました。当時、双葉町の住人は50人ほど。それでも町外から1,000人以上の人が集まり、待ち望んだ地元での開催を喜び合いました。
中谷さん 「やっと戻ってきたんだなあ」って、感慨深かったです。双葉町って、浜通りの中で一番最後に避難指示が解除されたんです。震災から12年って、やっぱり長いですよ。
もう俺たち主催のダルマ市ではありませんが、これからも支え続けていくつもりです。町の先輩たちが守ってきた伝統を俺たちも守らないといけないし、次の世代に伝えていきたい。
ただ、全国に町民が散らばってしまった今、若い世代がどこにいるかもわからない状況です。町の伝統をどう守り続けていくかはこれからの課題だと思っています。
複雑な想いのその先に
中谷さんが双葉町消防団第二分団の屯所まで案内してくれました。かつて7,000人が暮らしていた町は、建物が解体され更地が目立ちます。
双葉町消防団第二分団の屯所は、震災当時のままの姿で残っていました。この建物の隣には、新しい屯所が完成しています。
中谷さん 故郷を奪われて帰れないという経験をすることなんて、なかなかないじゃないですか。この気持ちは、町の人たちにしかわからないと思うんです。ここに来るたびに、変わっていく町の様子を見て「こんなの双葉じゃない」っていうのが正直な気持ちです。
本音を言えば、「新しいものなんて何もいらないから元通りにしてほしい」って思います。でも、そんなことできるわけないから、受け入れるしかないんですよね。
「そっか、じゃあ元の双葉町に戻れるのがダルマ市の日なんですね」と反射的に言葉にすると、中谷さんは「そうすっね!」とニカッと笑います。
中谷さん やっぱり俺にとっても、町の人たちにとっても、ダルマ市って心の拠り所なんです。震災があるまでは、「ここはただの田舎で、何の想い入れもない」と思っていました。でも、町を奪われてはじめて、日常の尊さや故郷への想いを実感しました。
だからダルマ市を続ける意義ってすごく大きいし、なくしちゃいけないんです。これからは子どもたちが喜んでくれるようなダルマ市に育て、次の世代につなげていきたいです。
1980年、福島県双葉町生まれ。地元建設会社に就職し、双葉町消防団第二分団に所属。震災と原発事故の影響で避難し、2011年9月よりいわき市の仮設住宅に入居。同じ避難先の仲間とともに「夢ふたば人」を立ち上げ、2022年1月より避難先のいわき市で双葉町ダルマ市を開催してきた。2023年双葉町にダルマ市が帰還したことを機に、2024年1月のダルマ市でいわき市での開催は最後になった。現在も双葉町の活性化のため、「夢ふたば人」としてイベント運営などの活動を行っている。
(編集:山中散歩)