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「ひらめき」はどこからやってくる? 学びのサイクルの質を決めるものとは。信岡良亮さんと田原真人さんが考えた。(後編)

さとのば大学の信岡良亮さんが案内人の、「学び3.0」について考える対談シリーズ。初回、田原真人さんを迎えた対談の前編では、粘菌のライフサイクルと学び3.0を対応させた図から、学びを時間軸で展開して統合していくという知恵の話、そしてカオスと秩序の間の動的平衡の話にまで及びました。この後編では、粘菌から複雑系の科学の深みへダイブします。どうぞお付き合いください。

田原真人(たはら・まさと)
早稲田大学大学院物理学及び応用物理学専攻博士課程中退。東日本大震災をきっかけに物理の予備校講師を辞めて、マレーシアに移住。2012年に「反転授業の研究」、 2017年に与贈工房、2020年にトオラスを共同で立ち上げ、オンライン対話を通したあたらしい学び、組織、社会デザインの可能性を探究。 『Zoomオンライン革命』(秀和システム)など著書10冊。国際ファシリテーターズ協会(IAF)日本支部理事。Flipped Learning Global Initiativeアンバサダー。自己組織化ファシリテーターとして様々なオンラインコミュニティの立ち上げに関わっている。

信岡良亮(のぶおか・りょうすけ)
1982年生まれ。関西で生まれ育ち同志社大学卒業後、東京でITベンチャー企業に就職。 Webのディレクターとして働きながら大きすぎる経済の成長の先に幸せな未来があるイメージが湧かなくなり、2007年6月に退社。小さな経済でこそ持続可能な未来が見えるのではないかと、島根県隠岐諸島の中ノ島・海士町という人口2400人弱の島に移住し、2008年に株式会社巡の環を仲間と共に企業(現在は非常勤取締役)。6年半の島生活を経て、地域活性化というワードではなく、過疎を地方側だけの問題ではなく全てのつながりの関係性を良くしていくという次のステップに進むため、東京に活動拠点を移し、2015年5月に株式会社アスノオトを創業。 「地域共創カレッジ」主催のほか、さとのば大学の発起人。

自律分散型のシステムとレンマ的な知性

田原さん 粘菌が分散的に最適化していく様子がよくわかる実験があって、関東地方の地図をベースにして、JRの主要な町にエサをセットし、その装置の中に粘菌を置くというものなんですけど。

田原さん 粘菌はエサを探索するために一度広がったあと、JRの路線図とほぼ同じネットワークをつくるんです。分散的に最適化していくみたいなことができるんですよね。これが粘菌の最適化する能力なんです。

信岡さん すごいな、これ。粘菌は知能があるわけではないんですよね……?

田原さん 粘菌は中枢神経などをもっているわけではありませんが、自分の流動性を利用して、知性があるかのように動きます。ただし、その知性は”ロゴス的な知性”ではなく、”レンマ的な知性”です。

信岡さん ”レンマ的な知性”というのはどういうことですか?

田原さん アルゴリズム的に、AならばBであるというふうに思考するのが”ロゴス的な知性”だとすると、レンマ的な知性とは、ネットワークの中で全体を把握するような知性です。

たとえば、エサがあったときに、コンピュータシミュレーションだったら、いろんなルートをしらみつぶしにしていきますよね。その上で、得点を決めて、点数が高いところを見つける。これはロゴス的な知性です。

ところが、粘菌はベターっと広がって、わしゃわしゃとやっている間に、全体的に最適なルートができてしまう。ネットワークの中で全体を把握し、最適化していくんですね。それがレンマ的な知性です。

粘菌って自律分散型のシステムなんです。本当は人間もそうなんだけど、人間は神経系があるから、脳で決めて、体を動かしてるととらえると中央集権のようにも見えますよね。でも、粘菌には神経系がなくて、単なるネットワークなんです。どこにもコントロールしている部分がない。

たとえば粘菌の巨大アメーバがあったとして、食べ物があると、食べ物の場所が活性化して、そこから波が広がる。波が進んでいく向きに情報処理がなされて、波の発信源の方に集まってくるんです。そして、食べ物をとりかこんでぐちゃぐちゃと振動しながら消化していく。食べ物が複数あれば、それらをどう食べるかで、ネットワークができるわけです。粘菌が紐状になるんですね。


迷路の入口と出口にエサを置くと、最短経路が紐状に結ばれ、両端でそれぞれのエサを食べる

田原さん 部分は部分で生きているだけなんだけれど、全体に秩序や知性などが創発される。これは複雑系の考え方なんですけど、その一番原始的なことを表しているのが粘菌だと思います。

粘菌のダイナミクスを頭に入れて考えると、発想が転換できる。だから僕は、大切なことはすべて粘菌から教わったと思っています。

探索と最適化をバランスする

信岡さん 粘菌をみて、生身の自分に生かせるっていう感覚があるってことですよね。

田原さん そう。たとえば、粘菌って形がないですよね。環境でいろんな形になるわけですよ。だからエサがある時には最適化のルートになるけれども、エサがなければ探索しまくるんですよ。そして、エサを見つけると、そこから最適化がはじまる。エサに向かってパイプ状になったりとかね。

これを踏まえて、僕らの活動も粘菌のようにエサを探索するような”探索モード”と、エサを見つけてから最適化して吸収する”最適化モード”があると考えてみたらどうだろうと思うんです。

粘菌はエサを60%くらい吸収すると体の半分が探索モードに移ります。探索モードと最適化モードの常にバランスしている。その感じが、僕の中では組織とかコミュニティの運営のイメージと合うんですよね。

信岡さん 人間の組織も、プロジェクト型にするとそうなるんでしょうか。

田原さん 僕はそうだと思う。粘菌のサイクルが、最も自然体の組織のあり方なんだと思います。でも、人間の場合は、いろんなものが妨げになって、粘菌のようにはできずにいるけれど、その妨げを取り払えば、人間だって最適化と探索がうまくバランスできるはずなんです。

信岡さん 人間が粘菌のようにあるにはどうしたらいいんでしょうか。

田原さん 自分の中の思考と感覚のバランスですね。あと、その主従関係。感覚が優先で、思考が後ろから追いかけて物語化していくという主従関係になると、粘菌的に動けるんじゃないかと思います。

感覚とか直観とか、インスピレーションで動いてみて、なんで動いちゃったのかを説明したり自分で納得したりするために言葉を使っていく。それが基本の構えになるかもしれないなと思っています。

カオスの中で“タオ”を見出す「カオスサーチ」

信岡さん 探索モードのとき、人間はカオスのなかで手探りで進むことになると思うんですけど、そうやってカオスのなかにとどまることは、人を非常に不安にさせるんじゃないでしょうか。

田原さん 僕はカオスをどう名付けるかで人は不安から解放されると思っていて、カオスを「カオスサーチ」と呼んでいます。次の一歩をよりよく踏み出すためには、適切な期間、適切な範囲でのカオスサーチが必要だとわかっていれば、カオスにとどまっているときの心構えができるはずです。

信岡さん カオスサーチのなかでも、よいカオスサーチ、悪いカオスサーチっていうのはあるんですか?

田原さん 心ある道を歩いて探すのがよいカオスサーチで、邪な心でやっているカオスサーチが悪いカオスサーチですね。

信岡さん どういうことですか?

田原さん カオスサーチは”タオ(道)”を見出すということだと思うんです。 個人がどう生きるのかということと、社会がよくなっていく方向性を重ねていくにはどうすればいいのかを考えるんです。

自分の中と、社会の状況を捉え直して、それらが重なることが見出されたときに、物事はうまくいく。なぜかというと、まだその瞬間には見えていないんだけど、同じように社会の問題を認識していて動いている人がいるからです。

方向を見出したら、自分と同じく心ある人たちと合流していける。この方向にはみんな合流してくるだろうっていう方向に進むと、潜在的なものと出会うことができると僕は思っているんです。

信岡さん 田原さんの反転授業の研究(※)がまさにそれにあたりますね。

(※)反転授業とは、生徒が新たな学習内容について、自宅でビデオ授業を視聴して予習し、教室では生徒同士で意見交換したり、教師がそれぞれの生徒に合わせた指導をしたりする授業形態のこと。従来の、教室での授業という形でのインプットと自宅での宿題によるアウトプットという学習を”反転”させたもの。

田原さん 反転授業の研究は2012年の12月からはじまったFacebookグループの活動なんですけれど、東日本大震災のあと、これまでの教育のあり方に疑問を持った人が日本全国にある程度いたんですよね。

正解を教える教育をしてきた結果、正解を待ってしまう人間を量産してしまった。そうすると、だれも正解がわからない非常事態に直面したとき、ただ途方にくれるしかない。

その状況をみたときに、主体的な学びってどういうことなんだろうという問いのもとに、すごい勢いで人が集まりはじめたんです。

田原さん 自分も含め、みんな本当にそのことを知りたかったし、そこでつかんだものをもとに、新しい教育をやりたかったんです。僕は自分のためにFacebookグループを立ち上げたんだけど、そのとき同じように考えていて、学びたい、動きたいっていう人があちこちから合流してきた。時代の波と個人の違和感とが重なったことでそのグループは5000人規模にまで育ちました。

信岡さん さっき、カオスサーチのところで”タオ”という話が出たときに、それは田原さんの願いであって、生物界で起きている自己組織化の話じゃないのでは……、とも思ったんです。

でも、今の話をきくと、学び3.0って共有ビジョンというか、どこに向かって共なる学びにしたいかっていうのが必要なんだと思っている僕がいて。さっきの反転授業のコミュニティが自己組織化したところは、たしかに、田原さん個人の邪な願いではないですね。

田原さん そのとき世界に発生した違和感が”僕”を通して出てきてるから、そういうものは世界の動きと共振共鳴するんですよね。だから、その重なりを見出せるところまでサーチするんです。

最初はお金は大丈夫かなとか、いろんな邪なところからはじまっていたとしても、そこからだんだん広がって、純粋に重なっていく感じになる。そうすると、ムーブメントのなかに人を巻き込み、自分も巻き込まれていく。その集合していく感じが僕のイメージの中では粘菌とそっくりなんです。

人間のインスピレーションはどこからやってくるのか

信岡さん 生命から学ぶってリアリティがあっていいなと思っていて、粘菌だったり、人工知能だったりの研究も含めて、複雑系の科学ってどんなふうに活用されているんでしょうか?

田原さん 複雑系の科学の最大の成果は、複雑系では「創発」が扱えないっていうことがわかったってことだと思うんです。

信岡さん 「創発」が扱えないとは、どういうことですか?

田原さん 複雑系って、非線形の方程式をつくったり、カオスが生まれるようなルールを入れたりしながら、いろんな複雑な模様がでてくるシミュレーションをやって、そこから「創発」と呼ばれるような何か新しいインスピレーションを引き出せるんじゃないかっていう夢を見たんですよ。

そうすると、創発の近くまではいくけれども、結局それは「最適化」に過ぎないんです。あるパターンに収束して終わってしまう。終わらないパターンみたいなもの、生きているダイナミクスっていうのはつくれなかった。

複雑系で”創発もどき”をつくるには、ランダムを入れるんです。最適化していこうというアルゴリズムと、ランダムを入れることでそれを壊していくっていうアルゴリズムと、その両方によって、収束しそうになったり壊れたりっていう風に、なんとなくそれっぽい動きをつくることはできます。

進化シミュレーションとかもそうですよね。たとえば、ダーウィンの進化論は、ランダムでバリエーションを増やして、自然淘汰で収束させて最適化するというものです。

でも、本当に生命はそうしているのかという疑問が浮かんでくる。

たとえば、人間のインスピレーションはランダムから生まれるのか、つながっている生命システムから湧き上がってくるものなのかっていう。

信岡さん それは結論が出ているんですか?

田原さん 今の量子力学などの考え方からすると、湧き上がってくるものである可能性が出てきました。でも、複雑系は”生命システムから湧き上がってくるもの”を切り離して、”ランダム”として扱ってきてしまった。

それで見ることができた世界、探索できた世界もあるんだけれども、究極的にその生命的な創発、そして、個と集団、細胞と多細胞みたいなものがどうやって調和するのかといった話に、複雑系では到達できないんじゃないかと。

信岡さん 複雑系の考え方だとまだ生命の不思議さには堪えられないんだ。

田原さん 堪えられない、と僕は思った。でも複雑系のボキャブラリーを獲得したから、そのボキャブラリーと、仏教的な理解みたいなものをうまく組み合わせるといろんなことを語れるということはあります。

信岡さん 仏教的な理解というと?

田原さん 知性にはロゴス的なものと、レンマ的なものがある。そういった考え方を複雑系のボキャブラリーと組み合わせていくと、生命の不思議さに近くと僕は考えています。

信岡さん 知能と知性という話があって、知能は数理処理だとすると、知能犯と言う言葉はあるけど、知性犯という言葉はないですよね。知性の”性”は心の方の話なんだと思うんです。知能的な人って冷たい感じがあるけど、知性的な人っていうと人間味まで含めて知がある感じがするように。

人工知能が発達して、将棋のソフトがどれだけ強くなっても、将棋ソフト自体は社会システムを変えたいという欲求は持たないですよね。それは、将棋ソフトには”湧き上がるもの”がないからということですよね?

田原さん そうです。それは複雑系をつきつめていったから、そこに複雑系の限界があるとわかったことでもある。

信岡さん 因果論で見える世界は、この範囲が限界でしたと。複雑系の世界は、それをだいぶ拡げてみました、と。でも、生命はもっとこのへんにあるってことですね。

田原さん 生きているっていうのは創発が起こる、湧き上がるっていう部分があるっていうことを、僕らは忘れがちなんですよ。

学び2.0のところも、オープンスペースの下に命の働きがあって、そこから湧き上がってくるものをそれぞれが語っているということがすごく大事で、その湧き上がりがどのぐらいあるのかが、学びのサイクルの質を決めるんですよね。

信岡さん なんかわかんないけど、石とか集めちゃうもんね(笑) どうしようもなく魅かれるってあるよね。そのエネルギーってやっぱりすごいよね。

田原さん なんかわかんないけどやっているものが、たいてい大事なんですよ。ほんとに重要な一歩を踏み出すときは、なんで踏み出してるかわかんないっていうね。わかって踏み出しているような一歩は大した一歩じゃないんですよね。

(対談ここまで)

信岡さん 田原さん、濃厚なお時間をありがとうございました。

僕の中で一番の収穫は、最後のお話で「生きているっていうのは創発が起こる」というところ。ただ「理論」として複雑系の科学を学んでいるのではなく、現実世界の粘菌や人が集まるコミュニティをたくさん見てきた田原さんが「学びの結果」として得たのは「複雑系の科学でも生命の不思議さを解明するには”足りなかった”」ということだった。それが、すごく印象的でした。

僕の好きな言葉に「生きた魚は流れに逆らって泳ぐ」というものがあるんですが、これはつまり、死んだ魚は物理法則に従ってしか動かないということ。生きているっていうのは、そういう法則を越えていけるってことなんだと。

因果論でも複雑系の科学でも解き明かせないくらい不思議なことを僕らは毎日やっていて、それこそ、この記事を読んで「半分くらいしかわからないけど、なんだかワクワクしてきた」という人が現れたら、そのワクワクは本当に生きているから起こってくることで、そういう「生きている人とだからこそ創れる未来」にワクワクしたいし、その時間こそが学び3.0の時間なのだなと思いました。