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『縄文にハマる人々』はなぜハマるのか。たくさんの土器と土偶を見て、人と自然とそして過去との「いかしあうつながり」を考えてみた。

最近「縄文がキテる」と一部で言われています。そういう私も縄文が気になって仕方がないのですが、そういう人、他にもいるのではないでしょうか。実際、現在、東京国立博物館で大規模な展覧会「縄文ー1万年の美の鼓動(以下、「縄文展」)」が開催されていて、縄文にまつわるドキュメンタリー映画も公開されています。

私は、この注目は、実は現代から失われてしまったものを取り戻すヒントを縄文に求める人が増えているからではないかと思っています。求めるものは人それぞれ違いますが、そこに共通してあるのは失われた「つながり」を取り戻すことではないかとも思っているのです。

縄文人から現代人が学ぶべきものとは何なのか、どこに「いかしあうつながり」を感じられるのか、映画『縄文にハマる人々』を出発点に解き明かしていきたいと思います。

なぜ人は縄文にハマるのか

映画『縄文にハマる人々』は、監督の山岡信貴さんがひょんなことから縄文に詳しい弁護士と知り合いになり、縄文にハマってる人たちに会ったり、遺跡や博物館を訪れていくというドキュメンタリー。

山岡信貴さん、『縄文にハマる人々』より

最初はなんとなく惹かれる程度だった監督が、「どうして人は縄文に惹かれるのか」と、すでにハマってしまっている人たちの話を足がかりにして探っていくうちに、自身もどんどん縄文にハマっていきます。

私も「人はなぜ縄文に惹かれるのか」というのが気になるので、監督と同じような目線で観ていたのですが、観ているうちに、出てくる人の中に私が縄文に惹かれる理由を説明してくれる人はいないかと探しながら観ることになりました。

それくらい縄文に惹かれる理由というのが人それぞれで、にもかかわらずみんなが熱く語るのです。しかもなぜなのか自分でもわかっていな人が多いようなのです。

私が注目した一人目は佐藤卓さん。デザイナーの佐藤さんは、縄文のデザインの現代性について語ります。特に「縄文の女神」(国宝。山形県西ノ前遺跡。高さ約45センチメートルの日本最大級の土偶)のデザインの秀逸さは現代のデザイン理論で分析しても理にかなっていると言います。

「縄文展」より、「縄文の女神」の後ろ姿

佐藤卓さんに注目した理由は、縄文に惹かれる理由の一つがその遺物の造形の魅力にあるからです。土偶や土器や石棒やらを見ると、すごくいいなと思うのです。佐藤卓さんはそれを現代のデザインの視点から解きほぐしていくことで、縄文のデザインには現代人が惹かれるれっきとした理由があるのだと説明します。それでなるほどなと思ったわけです。

もうひとりは北海道大学の教授・小杉康さん。彼は縄文の遺物や遺構について「こんな解釈もできるし、こんな解釈もできる」というように、解釈の余地が大きいことを示してくれます。文字もなく、”もの”しか残っていないがゆえに見る人が自由に解釈することができるのです。

縄文の遺物がそれ以降のものと決定的に違うのは、その用途や使われ方が明らかでないというところです。弥生以降の土器は明らかに生活用品だし、勾玉や銅鐸は儀式に使うものだし、墓は墓だし、高床式倉庫は倉庫です。

しかし、縄文は、土偶も実はなんのためのものかわからないし、土器も生活用品なのはわかるけれどどうしてあんなにゴテゴテとした装飾がついているのかもわからない。集落の中心部に巨大な6本の柱の跡があってもそれがなんのためのものかわからないし、子どもの足型の土器の意味もわからない。そして、何故、家の入口に子どもの遺体を埋めたのかもわからないのです。

『縄文にハマる人々』より、三内丸山遺跡の柱跡から想像復元された建物。

わからないということはみんな自由に解釈できるということで、それは物語を自分でつくれるということ。実際、この映画に登場する人たちは、みんな縄文について自分なりの物語を組み立てています。

いとうせいこうさんは「ギャル」という言葉を使って女性的だったり女性が主役の時代ではないかと推測してみるし、宇宙と生物の誕生の統一理論が説明できるという人もいるし、カオス理論を駆使して図像の謎を解き明かそうとする人もいます。

この映画を通して、私が縄文に惹かれる理由の一つは、それぞれが好きに物語を編めることだと気づいたのです。

土偶には女性をかたどったものが多い。『縄文にハマる人々』より「縄文のビーナス」、茅野市尖石縄文考古館蔵

縄文という物語を編んでみる

では、私自身は縄文のどんな物語に惹かれているのでしょうか。

佐藤卓さんと同様に、造型に惹かれているのは一つ確かなことです。中でも、土器の造型に心動かされます。東京国立博物館の「縄文展」でもいくつもの火焔型土器が並んでいるのについつい見入ってしまいました。

「縄文展」より、火焔型土器と王冠型土器が並ぶ圧巻の展示

縄文の土器といえば、火焔型土器を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は時代や場所によって様々な特徴を持ち、本当に豊かなバリエーションがあります。しかし、共通しているのは過剰な装飾です。縄文という名の通り縄で文様を付けたものもあれば、手描きで模様を描いたものもあれば、粘土でつくった人間や動物のモチーフを貼り付けたものもあります。

しかも、それを縄文の人たちは日常的に煮炊きや食器として使っていたと言います。効率を考えれば弥生式のシンプルなものがいいに決まっているのに、なぜ縄文の人たちはそんな過剰な土器を日常的に使っていたのか。その謎こそが私が縄文に惹かれる大きな理由なのです。

その「なぜ」を私なりに解釈すると、縄文の人たちにとってはその方が心地よかったからではないかと思います。私たちが100円ショップの茶碗ではなく気に入った作家さんのお茶碗を使いたいと思うように、縄文の人たちはあの土器を使いたかったのではないか。それを使うことで豊かさを感じることができたのではないか、そう思うのです。

それはただ生きるため以上の何かです。生きることだけを考えるなら効率を求めればいいものを、そうではなくてそれ以上の何かを暮らしの中に求める、その有り様に私は惹かれるのです。

「縄文展」より、釣手土器。用途は灯火具、香炉などの説がありますが、いずれにしても装飾は過剰です。

縄文の人たちの暮らしを考えると、生きることはそれほど容易ではなかったはずです。縄文時代は温暖化が進んで食べ物が豊富にあったため定住が進んだ時代と言われますが、それでも季節や気候変動によって食べ物に困ることもあったでしょう。それでも縄文の人々は生きるために最低限の道具ではなく、それ以上の意味を持つ道具を使っていたのです。

現代の私たちはどうでしょうか?
ただ生きるため以上の何かを暮らしの中で手にとることができているでしょうか?

私はそのような「何か」を縄文の人たちにもたらし得たのは、彼らの暮らしが「いかしあい」によって成り立っていたからだと思うのです。

縄文の人たちは狩猟や、漁撈、採集など生きるための活動を協力して行い、加えて土器づくりや祭祀といったただ生きるため以外の活動も協力あるいは分担して行っていました。それは命を支え合う「生かしあう」関係の上に、それ以上の何かを与えあう「活かしあう」関係が築かれていたともいえるのではないでしょうか。

私がgreenz.jpの新コンセプト「いかしあうつながり」について考えたときに縄文に思いを馳せることになったのは、縄文の人たちの暮らしをそのように想像していたからだったのです。

「縄文展」より、石棒にはどんな役割があったのだろう。

なぜ縄文が現代に必要なのか

さて、私が縄文に「いかしあうつながり」を見出した一つは、今言ったような人と人とのつながりですが、もう一つ感じたのは、人と自然とのつながりです。そのことについて考えるきっかけになったのは、映画にも出てきた、貝塚に人の遺体も「捨てられて」いたという話です。

貝塚というのは「ゴミ捨て場」と言われたりしますが、実際は現代人が考えるゴミ捨て場とは異なり、集落の中心部にあって貝殻や動物の骨などのいわゆるゴミだけでなく、人が埋葬されることもありました。

そのことの解釈として映画では、「人間も動物も、食べ物になるものであっても、同じ生命だという考え方があった」と示されるのですが、それはつまり、縄文の考え方は人間が自然の一部だというのを超えて、私は自然であるというものではないでしょうか。

言い換えると、もはや私は主体ではなく、自然が主体で私はその一部に過ぎないという捉え方です。そう捉えると私=人間も犬もクマも貝も役割が違うだけで同じだと考えることができます。

わけがわからないかもしれませんが、人間は「私」を主体として世界を見るのが当たり前です。でも、その前提自体を疑ってもいいのではないかと思うのです。そのように思うのは、私という主体に私自身が疲れてしまったからなのかもしれません。自分は何者なのか、自分は社会に対して何ができるのか、自分は世界とどのように関係していけばいいのかと、自分を主体として孤独に世界と対峙するよう求められることが多すぎると感じてしまうのです。

「縄文展」で個人的に一番気になった土器「顔面装飾付香炉形土器」、人面が装飾された土器もあれば、動物が装飾された土器もあります。

人間がこのように自己を規定するようになったのは、農耕が始まって以降、自然を人間と別物、コントロールできるものとすることで、そこに断絶が生まれてしまったからのような気がします。確かにそれによって世の中はどんどん便利になり、生活は豊かになりました。しかし、その断絶が息苦しさを生んでもいるのではないでしょうか。

日本でいえば縄文は農耕が始まる前の時代であり、だから今当たり前とされていることとは異なる自然とのかかわり方のヒントが縄文から得られるのではないかと思うのです。そして、その中から異なる自分のあり方のヒントも得られるかもしれないと期待するのです。

自然との「いかしあうつながり」の仮説

今回私がお伝えするのはここまでです。みなさんもぜひ映画『縄文にハマる人々』や「縄文展」を見に行って、縄文の人々の「いかしあうつながり」を感じてみてください。

縄文展の中で、私がもう一つ感動した物がありました(本当は一つどころかものすごくたくさんあったんですが)。それは「巻き貝型土製品」です。非常に精巧につくられた巻き貝(の貝殻)の焼き物で、そのリアルさと形の美しさに撃ち抜かれました。

でも私はなぜこんなものに感動しているのかと思う自分もいました。ただ貝をかたどっただけの土製品なのに。今回の縄文展には来ていませんが、北海道の森町でみたイカ形土製品にもいたく感動しました。

「縄文展」より、謎の生き物をかたどった土製品。

この感動の理由は自分でもまだわかっていません。実用的でもないし、神聖なものでも(おそらく)ない、むしろ日常的な食べ物をかたどった焼き物をなぜわざわざつくるのか。その理由を考えていくと、もしかしたら自然との「いかしあうつながり」のあり方のヒントが見えてくるのかもしれません。だから私は意味もわからず感動してしまったのではないかと思うのです。

縄文というのは謎に包まれた時代です。しかし、1万数千年前から数千年前まで日本列島に彼らはいて、私たちの祖先であることは間違いありません。彼らが1万年もの間暮らしていられたということは、彼らの暮らしの中にこの日本列島で暮らしていくための知恵がたくさん詰まっているのではないか、そんなことも思うのです。

縄文についてもっと知り、もっと考えることで、過去と現在と未来の「いかしあうつながり」を生み出すこともできるのではないか、そんなことを夢想しながら、またじっくりと土器を眺めてみることにします。

– INFORMATION –

『縄文にハマる人々』

2018年/日本/103分
監督:山岡信貴
ナレーション:コムアイ
http://www.jomon-hamaru.com

– INFORMATION –

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」

会場:東京国立博物館
会期:2018年7月3日~9月2日(月曜休館)
http://jomon-kodo.jp