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どんな存在として、何をしよう? 「beの肩書き探求ガイド」は、やっていることが多すぎて絞れない、いまのdoの肩書きに何だかしっくりこない、という読者のみなさんにお届けする「これからの働き方、生き方」をめぐる連載企画です。

こんにちは、勉強家で元greenz.jp編集長の兼松です。

いま僕は、グリーンズの学校で「beの肩書き探求クラス」を開講中です。また、個人でもグループでも、誰でもbeの肩書き=“あり方の肩書き”を探求できるように、ワークショップの進め方ブックコーディネーターの内沼晋太郎さんなど、さまざまな方へのインタビューをまとめた本も準備しています。(「beの肩書き」についての記事一覧はこちら!)

ブックコーディネーター内沼晋太郎さんの「beの肩書き」は「ジョーカー」でした

「beの肩書き」という考え方はまだまだ一般的ではないので、僕が「このことについて話をさせていただくときは、必ず最初の方に「doの肩書きとbeの肩書き、何がどう違う?」というテーマで対話をしていただくことにしています。まずはその微妙な差異と向き合ってみることから、本来の自分を表現している、とてもしっくりくる新たな言葉との出会いが始まるのです。

社会的職業/自分的職業

昨年11月に出演させていただいたTokyo Work Design Weekのセッション(テーマは『今、話したい「Being」と「Working」の関係』でした)でも、ゲストのみなさんに同じような質問をさせていただきました。

そのときゲストの一人だった圏外コピーライターの銭谷侑さんの回答は、「do/be=自分の価値を最大化するもの/自分の幸せを最大化するもの」というものでした。doの価値の尺度は外側にあり、beのそれは内側にある、そんなニュアンスだと理解しています。

greenz.jpで取材させていただいた方々も、意識的に肩書きの使い分けしている方がいます。例えば、日本の伝統を次世代につなぐ株式会社和えるの矢島里佳さんは、普段名乗っている「起業家、和えるの代表取締役」はあくまで「社会的職業」であり、もうひとつ大切にしているのが「ジャーナリスト」という「自分的職業」なのだそうです。

社会的職業は、社会から見た肩書きのことです。それに対して自分的職業は、社会からどう見られているかではなく、自分のなかでぴったりとくる肩書きだと私は考えています。

たとえば、社会的職業が「ジャーナリスト」でも、「その記事を書くことで社会を変革させたい」という人もいる。だとすると、その方の自分的職業は「革命家」かもしれません。ですから、仕事というのは、社会的職業から選ぶのではなく、自分的職業を実現できる、社会的職業を探せば良いと思うのです。

株式会社和える代表の矢島里佳さんが語る、「自分的職業」と「社会的職業」の違い-仕事は人びとを幸福にするか」(仕事旅行ウェブサイト)より

矢島さんのいう「社会的職業」と「自分的職業」、あるいは「doの肩書き」と「beの肩書き」のように、言葉にしにくいのだけれども確かにふたつのはたらきがある。そのことにうすうす感づいている人も多いのではないでしょうか。そして、その違いとは実のところ何なのでしょう?

be=可能性?

「doの肩書き」の下に「beの肩書き」がある。それを火山で表現してみたときに横から見た図

僕自身まだまだ探求中ですが、大きな区分のひとつは、doは「やっていること、できること」の紹介であり、beは「かもしれないこと、可能性があること」の紹介である、ということです。BEは「貢献できることの源泉」(マグマだまり)であり、いまのdoの下にはbeがあるはずですが、さまざまな状況に合わせて多様なdoに展開する可能性がある(島になる)ということです。

僕でいうと、「気付きを与え、気付きをえる人」としての「勉強家」という確たるbeの上に、ウェブデザイナー、編集者、大学教員といったキャリアの変遷的なdoが入れ替わり立ち替わりしてきました。とすれば、今後も役作りに熱心な「勉強家としての喜劇俳優」に挑戦することもできるかもしれません。

ちなみにdoは数年で変わっていくものですが、なんとなくの感覚としてbeは10年以上つづくものであるような気がしています。おそらく就職や転職、結婚や出産、介護などなどさまざまなライフステージによって、beも少しずつトランジションしていくのではないでしょうか。

「MEの肩書き」もある?

もうひとつ、さらに大きな区分があるような気がします。それが「他者に向かって名乗るもの」と「自分に向かって唱えるもの」の違いです。

自分のdoとbeを上から眺めた「マウナケア曼荼羅」白い部分が海面から出ている島で、それをドローンで真上から見ているようにイメージしてみてください

いま僕にとってのbeの肩書きは4つほどあります。「気付きを与え、気付きをえる人」という「考え方や行動」を表現する「勉強家」、「笑ってくれる人のそばで花開く人」という「幸せな瞬間」を表現する「喜劇俳優」、「思想を体験できるようにしたい人」という「ほしい未来」を表現する「ワークショップできる哲学者」、「言葉で遊び、表現する人」という「表現のしかた」を表現する「ことばの人」です。

図ではdoが直線で区切られているのに対し、beの肩書きは点線になっています。これは4つのbeの肩書きが融通無碍に溶け合っていて、すべてのdoにそこはかとなく影響を与えているということを表しています。

このなかで“押し”の「beの肩書き」が「勉強家」で、プロフィールはもちろん名刺でも積極的に使うようにしています。つまり「勉強家」は自分にとって大切なbeの肩書きでありながら、外向きに名乗ってしまっているのです。

一方で、外向きには恥ずかしくてあまり名乗りたくない、けれども、間違いなく僕のもっとも深い部分を表現している肩書きもあります。もっといえば、先程の多様な4つのbeの肩書きをひとつに統合するものでもあるのです。それが、恥ずかしながら「沙門」というものです。

「沙門」とは仏教の修行僧であり、僕自身は出家をしていないので、とても不遜であることは承知しています。ただ、『空海とソーシャルデザイン』について執筆するなど、僕にとって特別な存在である弘法大師・空海が自分のことを表現する際に好んで使用したのが「沙門空海」だったのです。そこには偉大なる大師の人間的な側面があるように感じています。

仏教で説かれる菩薩道とは、僕の稚拙な解釈では、自分だけが悟りを開いて楽しむだけでなく、すべての存在がそれぞれ秘めている種を育てて、悟りへと至るのを手助けすることだと思っています。「beの肩書き」というコンセプトを広げているのも、それぞれが自在に執着を手放し、“本来のわたし”というものを見つめ、それを源として表現していく手助けがしたい、その一心なのです。

こんな怪しげなことは今まであまり外向きには言及しなかったことですし、これからもあまりふれないでしょう。それでもなお、確かにすべてのbe、そしてすべてのdoは、「沙門・兼松佳宏」という源から立ち上がってきているのです。

「沙門」は「beの肩書き」ともまた質が違うので、いまのところ暫定的に「MEの肩書き」と呼んでいます。それは「それぞれが秘めている種を育てる人」という「使命/天命」を表現するものなのですが、ある人からは「それはもはや“肩”書きではなく、“命”書きですね」と言い得て妙なフィードバックをいただきました。まさに命をかけた、もしかしたら魂と呼ばれそうな何かにふれているのかもしれません。

さて、「doの肩書き」と「beの肩書き」、さらには「MEの肩書き」、何がどう違うのでしょう? きっと簡単には言葉にしずらいでしょうし、正解なんてなくて、いろんな表現のしかたがあるのだと思います。ぜひ率直に、みなさんの感じたこと、思ったことを教えていただけるとうれしいです。

– INFORMATION –

「beの肩書き」が本になりました。
詳しくはこちらから! https://greenz.jp/benokatagaki