\新着求人/「無責任なケア」がある地域を、ここから始めよう@浪速松楓会

greenz people ロゴ

大事なのは自分に正直であること。「正しい“わがまま”の使い方」を写真家と出張コーヒー屋、2足のわらじを履く興梠友香さんに聞きました

001

こちらの記事は、greenz peopleのみなさんからいただいた寄付を原資に作成しました。

みなさんは、自分の心に正直に生きてますか?

「◯◯したい」「△△したくない」というシンプルな自分の心の声に従って生きることは、大人として仕事をして生計を立てて…という「生活」を繰り返すわたしたちにとっては、“わがまま”とされてしまうことかもしれません。

そしていつしか「自分はなにがしたいんだろう」「でも」「だって」と、自分の心が迷子になってしまった経験がある方は多いはず。

“自分の心に正直に生きる”

使い古されたお題目のような表現ですが、実際にそうできている人って多くないのかもしれません。

今回お話をお聞きした興梠友香さんは、写真家兼出張コーヒー店主というユニークな肩書の持ち主。それぞれ全く異なるスキルですが、そのふたつは分かちがたい彼女のアイデンティティとなっています。その背景にあるのは、彼女が“自分の心に対する正直さ”を大事にしてきたことにあるようです。

興梠さんは、“自分の心に正直に生きる”ことで、どんな人や幸せや創造性を呼び寄せたのでしょうか?
 
012

興梠友香(こおろぎ・ともか)
写真家。出張コーヒー「corocoro coffee」店主。
写真家としての活動の傍ら、ハンドドリップによる出張コーヒーショップとしても活躍。関西圏のみならず北海道から中国地方まで飛び回る。今後は日本一周や海外進出も画策中。
http://moka5564.wixsite.com/korogitomoka5

写真もコーヒー屋さんもきっかけは他人が運んできた

大学時代は建築学科専攻だった興梠さん。そもそも、小学校の頃から建築家(しかもキャリアウーマン!)を目指していたというのは、今の姿からすると、とても意外に感じてしまいます。

建築家から写真家への転向にはどんなきっかけがあったのでしょうか。

私、建築家に必須の「空間把握能力」がまったくなくて、大学時代に唯一褒められたのは、写真と模型だけだったんです。

バイト先の先輩や、マンションの隣の部屋に住んでた先輩も写真をすごく褒めてくれる人たちで、こんなに褒められるなら、写真にしようかなって。それで大学3年生のときに写真をやろうって決めたんです。

なんともシンプルなきっかけですが、それを後押ししてくれる人が現れるというのも、後々まで続く興梠さんの強み。

「でも…」とためらうことなく、素直にそれを受け入れて方向転換した興梠さんは、大学卒業後、写真を学ぶため専門学校に入り直し、本格的に写真家としてのキャリアに舵を切ります。

そしてもうひとつのコーヒー屋さんとしての経験も、はじまりは大学時代から。
某有名コーヒーチェーンでのアルバイトを経て、大学卒業後に本格的な喫茶店で働き始め、そこでハンドドリップを習得します。

そんな興梠さん、「最初は写真なんて遊びみたいなものだったし、コーヒーも飲めなかった」というからオドロキです。

写真家としてやっていくことをきちんと意識し始めたのは、専門学校卒業後に個展をして、自分の提示した金額で買ってもらえたとき。

でも、結局、学校を卒業すると何者でもなくなって、写真家なんて名乗ればなれてしまうものだから、焦りもあって「賞を獲らな!」ってすごく思っていたんです。そうすると、撮る写真がどんどんそっち(賞を獲りそうなもの)寄りに。

賞を獲ることしか考えてないからすごくくすぶって荒れていて、うまくいかない理由もわからなくて、周りのせいにして八つ当たりしたり。今思えば自分が悪くて、努力することからも自分からもダッシュで逃げてた。それがわかったのは、コーヒー屋さんを始めてからです。

写真家として、自分の中途半端なスタンスに苛立っていた興梠さん。コーヒー屋さんを始めることになったのは、そんなときでした。学生時代から、とあるきっかけで知り合っていたグラフィックデザイナー平山健宣さんからの提案で、出張コーヒー屋さんを始めることになったのです。

彼女はそこでも持ち前の素直さで「面白そう! やるやる!」と快諾。提案から2ヶ月足らずで「corocoro coffee」はオープンに至ったのでした。
 
003
corocoro coffee初期の構想ノート。屋台でやるアイデアもあったそう。

やりたくないときはしなくていいし、やりたければまた始めればいい

corocoro coffeeでは、注文を受けてから豆を挽き、丁寧にハンドドリップで1杯ずつ淹れています。豆も、corocoro coffeeのためにブレンドしてもらったオリジナルの「コロコロブレンド」を使用しているんです。
 
004
道具はミニマム。

005
corocoro coffeeのためのスペシャルブレンド! 豆にもこだわってます。

006
1杯ずつていねいに。

ハンドドリップは、コーヒーを抽出するのにすごく時間がかかります。しかしそれを逆手にとって、その間に興梠さんの写真を見てもらったり、会話して彼女の人となりに触れてもらえばいいのでは? そんな狙いからスタートした「corocoro coffee」。

出張する形を選んだのは、自身の作品を見てもらうときに展示会の会場でお客さんを待つのではなく、コーヒーを片手にいつでもどこでも見てもらえるように飛び回ってしまおう! と考えたからでした。
 
007
この自転車に赤い折りコン積んで、出張します!

最初は、いろんな知人のつてを辿り、美容院の軒先やデザイン事務所の前、アーティストさんのライブ会場やイベント会場など、いろんなところへ出張したという、興梠さん。出張コーヒー屋さんの活動を通じて、さまざまな出会いを経験したといいます。

道端で道具をひっくり返してしまったときに助けてくれたすてきなおばさま。ライブ会場でコーヒー屋さんを幾度となく続けているうちに顔なじみになった、そのアーティストのファンたち。すっかり仲良くなって、「大好きなお姉さんみたい」な関係になれた人もいるのだそう。

やがて、“その場にいた出張コーヒー”としてではなく、ちゃんと「corocoro coffee」のファンとして、彼女の出張先に出向いてくれる人も増えていきました。興梠さん自身のファンになってくれる人の存在は、“コーヒー屋さん”と“写真家”、どちらが欠けても、ありえなかったことでした。
 
008
”大阪の秋葉原”ともいうべき場所、日本橋。知り合いの事務所前で、アニメファンの間でも人気者に!

「出会う人たち、みんなすごくいい人なんですよ。コーヒー屋さんをやってて色んな人と関わったことで、自分が出会わないはずだった感覚がダイレクトに感じられるっていうのはほんとによかった」と、興梠さんは嬉しそうに言います。

でも、不安もあったのだとか。

ネックだったのが、過去に人が嫌になってたときがあったから、人と関わりたくなくなったらどうしようってことでした。絶対目の前にお客さんはいるし。

結局は淹れたくないときは淹れにいかなきゃいいっていう結論に達したんですけど、やってるうちに人っていいなって思うようになってきたんです。

「やりたくないときはしない」。見方を変えれば単なるワガママかもしれませんが、その彼女の素直さが、ここでも功を奏します。

実はコーヒー屋さんを始めてから、人間不信のようになって、コーヒー屋さんをやらなくなったことがあります。でも、また人と関わりたくなったら、コーヒーを淹れることで関われるなって思いました。

私、もともと人を撮ってたのに、ある時、風景ばかり撮るようになったんですけど、それは人を撮りたいと思わなくなったから。でも、今はまた人を撮りたいと思って撮り始めてるんですよ。

いろんな人との出会いがあって、逃げグセがあったのが「逃げられなくなった」になり、「逃げたくない」っていう感覚になれたのは、いろんな人と関わってたおかげだと思います。自分だけやったら、どれだけでも逃げられたやろうけど。

私は、この彼女の言葉は、すごくシンプルだけどすごく大切だなと感じました。

彼女が「いやだな」と感じつつも、その心の声を押し殺して、コーヒー屋さんを開店していたら、もしかするとずっと人が嫌なままで、逃げてばかりだったかもしれません。そして、コーヒー屋さん自体も、嫌になっていた可能性だってあります。

「人が嫌」と感じて固まっていた彼女の心が自然に解けるまでのタイミングを、感覚的な興梠さんは自然と待っていたかのように思えるエピソードです。

「写真家」と「コーヒー屋さん」に境目はない

コーヒー屋さんとしての活動が、写真家として「また人を撮りたい」と思わせるきっかけとなるとは「想像してなかった!」と興梠さんは言います。

コーヒー屋さんとして人と関わることと、写真を撮ることは2つの分類があるのではなくて、ひとつになってきてるなっていうのは最近思います。

コーヒー屋さんのためにその場に行っても写真は撮れるし、写真を撮りに行ってコーヒー屋さんもできるし。もっと混ざればいいなって思ってます。

そして、彼女はすごく自分の心に正直に、“表現”というものを追い求めるようになりました。
 
009

010

011
時に幻想的で、時に絵画のような興梠さんの作品。「人の心に『ツンツン』と訴えかけるなにかがあるような、そんな写真を撮りたい」のだそう。

表現するっていうことに対して、「こうあるべき」という決めつけが自分の中でたくさんありました。それは例えば賞を獲ることだったりしたんですけど、単に写真家としてかっこいいかどうかっていう次元の話で、 “表現”してたわけではないなって今となっては思います。

思ったことは吐き出していかないと次に進めないし、ないものとして考えても、これは吐き出されてないもので、なにかのタイミングに他のものとしてぐしゃぐしゃになって出ていってしまうっていうことは、“表現”できてないことだと思っていて。

感じたことは、きちんとクリアにして出す。例えばパソコンって、ゴミ箱を空にしないと、完全には消えなくて容量変わらないじゃないですか。そういう感じ。

自分の中に、言葉にも形にもできないような“なにか”がある、というのは誰しもが感じることのはず。でも、多くの人はきっとそれを見て見ぬふりをしたり、ないものとして処理したりしてしまい、澱のようになって溜まっていってしまいますよね。

嬉しい気持ちも悲しい気持ちも、“自分の心に正直”でいなければ、キャッチできないものなんだなと、興梠さんの感覚は教えてくれます。

私にとって写真は、実験的なものなんですよ。デザイナーがデザインで表現して、ライターが言葉で表現するように、表現するっていうことのひとつの方法です。

ある時、「写真家を始めたばかりの頃ってずっと新しいこと探してたな」と思い出したんです。最初ってなにをするのも全部新しいじゃないですか。それがすごく面白かった感覚があって。

最近は仕事のなかで自分の色を出させてもらえるところがちょこちょこあって、そこで自由にいろいろやっているうちに「そもそもこれがやりたかってんな」と思って。

だからいろいろ試しながら、見たことない表現をしたいって思ってます。

012

とても芸術家肌で感覚的な興梠さんの言葉は“表現を生業とする人”にとっては拙く当然のことかもしれません。

興梠さんには正直さと同時に、自分の心や感覚を信じてブレない強さがあります。私は興梠さんの生き方を見ていて、それが正しいとか間違っているとか、また他人に受け入れられるかどうかなんて、気にすること自体が自分の生き方を狭くしているのかもしれない。いったん立ち止まって自分も心の声をきちんと聴いたほうがいいのかもしれない、と思いました。

あなたは自分の心と感覚に、迷いなく「Yes!」と言えますか?
ここはひとつわがままになって、すこしだけでも向き合ってみていいかもしれません。