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自分が気持ちよく生きられる選択肢を。若いイノベーターを応援する「アショカ・ユースベンチャー」矢部寛明さんインタビュー

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特集「a Piece of Social Innovation」は、日本中の”ソーシャルイノベーションのカケラたち”をご紹介するNPO法人ミラツクとの共同企画です。

全国の若者の心に灯る、「何かをやりたい」という気持ちの火種を大きな炎にするために日々活動している人がいます。社会起業家の支援を行っている団体「アショカ・ジャパン」で活動している矢部寛明さんは、「アショカユースベンチャー・プログラム」という若いイノベーターたちを支援するプログラムにおいてリーダーを務めています。

震災後に被災地で復興活動に従事し、以前greenz.jpでも紹介したNPO法人「底上げ」を立ち上げた後、アショカ東北ユースベンチャーの共同リーダーを経て、アショカユースベンチャー・プログラムリーダーとなった矢部さん。そんな彼のこれまでの活動の軌跡と活動にかける想いを聞いてきました。

世界の社会起業家をつなぐ「アショカ」

アショカは世界最大の社会起業家のネットワーク。1981年より、世界80カ国以上で活躍する約2,800人の社会起業家を「アショカ・フェロー」として認定し、生活費の援助、法律・マーケティングなどの専門的サービスの提供に加え、他のアショカ・フェローとの連携などの支援を行ってきました。

日本からは、2012年にテクノロジーの力で聴覚障害者の方々の生活向上を目指す「シュアール」代表の大木洵人さんがアショカ・フェローに選出されています。

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アショカ・ジャパンは、そんなアショカの初の東アジア拠点として2011年に発足しました。アショカ・ジャパンではユースベンチャー・プログラムという、若者が日常で感じた違和感を解決するために、若者自らが始める活動をアショカが支援する取り組みを実施しています。

「社会のために行動を起こしたい」という想いとアイデアを持つ12歳〜20歳の若者を、10万円の活動資金と社会人メンターによる活動アドバイスなどを通じて支援していて、これまでに28組のユースベンチャラーを輩出しています。

ユースベンチャラーの1人である中川七海さんは、兵庫県立大学2年生。彼女は震災から2年以上経ち、初めて被災地に訪れたことで「何もしらなかった自分」に気付き、少しでも動く若者を増やそうと 今年の9月にきっかけをつくるロックフェス「0→1Rock Festival」を開催しました。

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では、そんな活動を実施されている矢部さんは、どういった経緯で、若者の支援に従事するようになったのでしょうか。

自分が気持ちよく生きられる選択肢を

以前から環境問題に関心をもち、学生時代にも活動されていたという矢部さん。一体、いつごろから問題意識をもち、どういった活動をされていたのでしょうか。

小さいころから自然に囲まれて育ち、自然の中で遊ぶのが好きな子どもでした。成長するにつれて、自然と現代社会の間に横たわる溝を感じるようになりました。明確に問題意識を持つようになったのは、大学に入学した後です。

世界は経済が豊かになればなるほど、自然は減っていく状態だということが、大学で学ぶ中でわかっていったそうです。未来も、これまでと同じようにずっと成長していくことはできない、勉強すればするほど、問題の複雑さを痛感していったと当時の心境を振り返ります。

自分が生きている意味、自分に今できることについて考えているころ、グリーンズと出会いました。ブログを立ちあげてもらって、そこでママチャリで日本各地を巡りながら啓発活動を行い、その様子を発信していました。

問題は複雑で、自分に何ができるのかは明確にはなっていませんでしたが、何も行動しないで、ただじっとしていることはできなかったんです。

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複雑な問題だから取り組むことを諦めてしまうのではなく、何か自分にできることはないかと真剣に考え、行動に移していた矢部さん。

そんな彼は2011年、震災が起きた後、被災地へと赴きます。その頃、矢部さんは大学4年生。すでに就職先も決まっていた状態で、どのくらい東北のためにコミットするのか、迷っていたと言います。

被災した地域には、以前自転車で日本一周した際に訪れた土地もありました。ひとりの人間として、どう生きたいのかを考えた結果、現地で復興活動に従事するようになりました。

ただ最初の頃は、現地の人々から「いつまでいるの?」と質問された時には、「2ヶ月くらいでいなくなるよ」と答えていたんです。このことにずっと違和感を抱いていました。「結局、他人ごとなのか?」と。

自身の発言に違和感を感じていたころ、あるNPO団体のリーダーが、同じ質問をされた際に、「この土地が元気になるまでいますよ!」と答えているのを見て、違和感が払拭されたそうです。

その後、矢部さんは東北で活動する覚悟を決め、就職するのを辞退して、被災地で活動を続け、震災から1年ほどが経過してNPO団体の「底上げ」を立ち上げました。

自分が東北に残って活動しなくても、生きていくことはできます。でも、その選択は心のどこかに凝りが残る、そう思いました。自分が気持ちよく生きられるように。東北での活動を継続した理由には、そんな自分の心境もありました。

実現したいことのために必要なアクションをとる

「底上げ」の立ち上げなど、気仙沼で子どもたちに学習支援活動を実施し、少しずつ子どもたちに刺激を与えていた矢部さん。活動が実を結びつ、子どもたちからやる気の目が出始め、ようやく明るい兆しが見えてきたころ、矢部さんはアショカ・ジャパンと出会います。

私が一番大切にしていたのは、子どもたちのモチベーションを上げ、彼らが胸に秘める小さなやる気の火種を、大きな炎にしていくこと。私にとって、「底上げ」も、アショカ・ジャパンもそのために必要な燃料の役割でした。

「底上げ」の活動では、大学生を呼び込んで高校生を元気づけ、アショカ・ジャパンではグローバルな組織である利点を活かし、海外からゲストを呼んで高校生たちに刺激を与えたりしていたそうです。

そのほかにも、東北ユースベンチャーのリーダーとしては、東北のどこかにおもしろい人がいると耳にしたら、直接話を聞きに行くことをひたすらやっていた、と矢部さんは活動を振り返ります。

その頃の東北は、どこで、誰が、どんな活動をしているのかわからない状態でした。私たちはその散らばった点と点をつなげて線にし、やがて面にして共に社会課題を解決していくために、点を結びつけるために行動していたんです。

持ち前の行動力で東北の多くの若手と直接語り合い、ユースベンチャーへと誘って活動を支援し、ユースベンチャラー同士をつなげていくことで、さらに大きなパワーを生み出せるように活動していたそうです。

東北ユースベンチャーリーダーとなってからの最初のプログラムが終わった半年後、矢部さんはユースベンチャープログラム全体のリーダーとなりました。その頃には、ユースベンチャラーの中にも、矢部さんの影響を受ける人たちが生まれてきていました。

行動することで伝えられること

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私の好きな言葉に、「行動はメッセージ」というものがあります。アショカのユースベンチャーで評価されることは、実際に動いていること、現状に満足せずもがいていること。その点で、私は誰よりももがいていて、実際に行動しているという自負がありました。

プログラムに参加したユースベンチャラーの人々に、自身の行動で、生き方で示し、生き方を間近で見せることによって彼らのモチベーションを向上させることを心がけているそうです。

一生懸命走っても、より速い速度で走り、追いつくことができないような先輩の存在。矢部さんという高い目標を身近に置くことで、ユースベンチャラーたちは自分を奮い立たせることにつながっているのだと思います。

矢部さんは最後に、自身が一番大切にしていることについて語ってくれました。

私はこれまで、大事な選択は自分の意思で決めてきました。誰かに言われたとかではなく、すべては自分がやりたいから、そういう理由で決めてきたんです。

自分はどうやって生きたいのか。それを真剣に考え、常に自分はどうしたいのかを基準に、矢部さんは自分の道を自分で決めてきました。

自分で選んでいるがゆえに、その選択を誰かのせい、何かのせいにすることはない、そう矢部さんは言います。その生き方を貫くためには、一体どういったことが必要になるのでしょうか。

自分と対話し、極限まで自分のやりたいことについて考えぬくことだと思います。下手に物分かりがよくならないで、行動に移してみることが大事。アショカフェローの人たちと話していると、みんな似たようなことを言っていますね。

矢部さんの背中を見てきたユースたちに、彼のメッセージが伝わったのか、今では、ユースベンチャーのプログラムを終えた人たちが新たなユースベンチャー候補を見つけてくれたりもしているそうです。

今、若い火種はそれぞれがつながり始め、広がっています。「日本各地にある火種に燃料を送り続けるのが自分の役割」だと話してくれる矢部さんが、今後どのような活動で生き方を示してくれるのか、楽しみですね。