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【オピニオン:今本 秀爾】環境活動はサブカルチャーではない(前編)

Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by Stephen Fulljames

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はじめに

いよいよ今月末に控えた総選挙。かつてないほど政治への関心が高まっています。マスメディアでは自民党vs民主党という対立が叫ばれていますが、それ以上に21世紀の日本そして世界が、持続可能な方向へ向かっていけるのか、グリーンな争点も期待したいところです。(争点としては例えば自転車専用道路の整備、生物多様性と公共事業、自然エネルギーの導入目標などが挙げられるでしょう。詳しくはこちらのエコ議員つうしんぼをどうぞ。)

greenzでは政治の話題で盛り上がっている今、あの人の意見を伺いたい!と急遽思い立ち、日本における「政治的エコロジー」のオピニオンリーダー、国際政治ジャーナリストでありエコロジャパン代表の今本秀爾さんに今回ご執筆いただきました。

今本さんは「環境活動を消費としてではなく、仕組みそのものを変えていく力にする必要がある」と主張します。それを実現するために今日本の環境活動に必要なことは何か、そしてなぜ環境活動と政治の関わりが重要なのか、意見をまとめていただきました。前・後半でお楽しみください!


環境活動はサブカルチャーではない(前篇)

今本 秀爾(エコロジャパン代表)

 「エコポイント」「エコグッズ」「エコカー」といったように「エコ」のついた言葉が氾濫している今日、一見日本では市民レベルの環境活動への取り組みがブームであり、シンボル化されているように見える。しかし他方で依然CO2の排出量は増え続ける一方で、ゴミの総排出量も減少してはいない。こうしたギャップを環境活動に取り組んでいる当事者たちはどのように受け止めているのだろうか。
 
 少し周囲を見渡しても、エコ活動・環境活動の類は大学の学生サークルから社会人サークルまで幅広く多種多様に行われている。マイ箸・マイカップ・エコバック運動から、ゴミゼロ活動、キャンドルナイト、ロハス、パーマカルチャー、もったいない運動、3R促進、植林への寄付活動、カーフリーデー、農業体験、エコツーリングなど、呼び名も主催者もさまざまである。
 
 こうした動きに共通する点は、誰でも労力をかけずに気軽にでき、身近に参加できる限定的な活動であること、同じ思いを持っている仲間と交流できること、といった点である。

 しかし裏を返せば、それだけ社会を動かしているステイクホルダーや社会構造自体に直接的な影響力を与えない範囲で、いわば消費者個人が、自らの手を汚さない範囲での取り組みを行っている点、実効性や具体的な成果を求めていない点が共通しているといえる。ボードリヤールの概念を援用すれば、これらの活動はまさに現代人が「エコ」という「記号」を消費している経済活動なのであり、実体経済ではなく、それに付随する「エコ」という名の象徴価値を再生産・再消費する活動を繰り返しているにすぎない、ということになる。だからそれらの活動は、社会の中の一種の消費対象としての「サブカルチャー」としての意義は持ちつつも、実際の既存の大量生産・大量消費活動の根幹に影響を与えることはないのである。
 
 さらにわが国では個々人への啓発活動としても、環境ビジネスや環境教育への関心や取り組みが盛んである。しかしそれらはあくまで既存のビジネスや教育制度の枠組みの中で普及させようとする限りで、いわば既存の消費生活の延長線上にある再生産・再消費活動に還元されてしまうのである。問題はそこから既成の経済構造やシステム、教育体制そのものへの疑問視や、オルタナティブな視点が出てこないところにある。少なくとも「エコ活動」が「エコ」であるための前提は、集中的な生産・消費システムから脱却し、自足型・分散型の経済社会を構築するような志向の活動である。

 さて環境問題というのは、地球温暖化にせよ、森林破壊にせよ、廃棄物処理にせよ、化学物質汚染にせよ、今や国境を超えたグローバルなレベルで同時に起きている現象であるというだけでなく、その解決策もまた先進国の経済や貿易システムを転換し、エネルギー転換を実現させ、これ以上の破壊活動を防止するという、極めて限られた共通政策による以外にない。そのかぎりで環境問題の解決にあたっては、まさに政府、大企業やメディアなど、社会を動かしている権力主体であるステイクホルダーの行動を180度変えるような組織的な影響力を、私たちが手段として持てるようになることが必要不可欠である。ましてや社会的権力を持たない一般の個人がバラバラに意識して取り組むだけで解決できるような簡単な話ではないし、その次元や規模がまるで違いすぎる。

 もっとも「個々人の気づきを発端として、さらに次の段階にステップアップできる」と主張する人たちがいるが、私はそうは思わない。その理由は、元来そういう身近な環境活動とグローバルな環境問題への取り組みとは次元の異なる問題であるというだけではない。それ以上に身近な環境活動に取り組む人々に、次の段階にステップアップするために最低限必要な科学的・経済的・政治的な手段や知識、ノウハウや受け皿がきちんと提供されていないからである。とりわけ、こうした受け皿となる組織や戦略は、なかなか日本では見いだせないのではないだろうか。
 
 さらに「環境活動は楽しくなければ続かない」という理由を挙げる人がいるが、そうなると、活動をやること自体を楽しいと思う価値観の持ち主しか取り組みをしようとせず、楽しくなければやらなくてよい、無関心のままでよいという趣味や選好のレベルの話に帰着してしまうのではないだろうか。もちろん環境問題の解決は趣味や選好のレベルではなく、今生存している人間の死活問題として、すべての個人や組織が一種の良心の呵責、倫理的責任や使命感によって取り組む意志を持たなければ、実践への動機づけもなされず、継続性も乏しい類の緊急課題である。
 
 こうした世間一般の誤解や偏った風潮が、かえって日本の本来の意味でのエコ活動、環境活動の実効性ある成果に向かう萌芽の可能性をむしろ塞いでしまうという、一種の閉塞状況を生み出しているのではないか、とさえ私は危惧している。
 
(後編につづく)