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鎌仲ひとみ(1)自分の声に耳を澄ます

ドキュメンタリー「六ヶ所村ラプソディー」ができるまで
東京では「六カ所村ラプソディー」のアンコール上映が始まった。この映画の上映については原発に「賛成」「反対」と様々な観点からの議論もあるようだが、映画好きにたまらないのは、なんといってもその「映像の美しさ」、事実を描写する「ドキュメンタリーの持つ力」を堪能できる極玉の映像作品であること。そんな作品をつくってしまった鎌仲ひとみ監督の「視線」の奥に潜んでいるものは? 劇場でじっくりと聞いてきたお話を、2回に渡ってご紹介します。

核燃の大地に咲く花「ここに私たちのくらしがある」

ーー「六カ所村ラプソディー」を観て、描き方が中立だなと思いました。前作の「ヒバクシャ」もそうだったんですが、感情移入するでもなく、批判するでもなく、また上から見下ろすのでもなく、映し出されている人達と同じ目線に立っているなと思ったんですよ。

鎌仲 それ、すごくがんばってるんですよ。同じ目線になるように。例えばブッシュがいても、イラクの子ども達がいても目線は同じようになるように気をつけんですよ。それが映画を作る時に大事にしていることのひとつです。あと誰かの意見に偏らないとか、自分以外の誰かの意見を取り込まないとか。

「反核運動」「反原発運動」って確かにあるわけじゃないですか。でもその人達のためにつくっているわけじゃないし、自分の表現としてつくっているわけだから、そっちによってかかるとか、自分の味方になってくれそうだとか、そう言う関係性を断ち切るというか……映画として自立する、独立していないと、より多くの人に見「てもらえないと思うんですよ。

ーー映画に出演している人にはどうやって巡り会い、同じ目線に立っていったんですか?

鎌仲 誰も知らない、知り合いがひとりもいない村に行くわけです。その村が、なんて言ったらいいかなあ……そこにいるだけですごい圧迫感があるんですよ。「お前どっちなんだ?」って。行ったらわかるけれど、村人に話しかけても、みんな再処理のさの字も言わないし、放射のことにも触れない。それが目の前に大きくそびえ建っているのに、あたかもそれがないかのように暮らしている。それが話題にできないタブーの村なんですよ。

それなのにそれをテーマに映画を作りにいくわけでしょ? どっから飛びついていいのかわからない感じでした。最初は風景とか日常生活核とか再処理とか関係ないところから撮っていったのですが、そのうち農作業している人や家の庭先で鶏の世話をしている人とか、風景を撮っていくうちに田んぼの脇で草取りをしている人とかに話し分けていきました。そうしてだんだん人と人が繋がっていったんです。

そしてあの日本原燃の工場ができて、工場に関連する会社がたくさんできたんです。そういう会社で働いている人は、朝会社に入って夕方会社から出てくるんですよ。ほとんど接点がない。どうしよう、と思ってました。

六ヶ所村の商工会議所は、原燃さんから仕事をもらっている地元の下請けの会社の事業主がメンバーなんです。その会合にたまたま出させてもらったんです。カメラは持たないで私だけ行って。その時、原燃関連の仕事があるというので会社を起こした事業主が若手を含めて14〜15人いました。それでみなさんに名刺をもらって、帰ってからかたっぱしから電話を掛けました。でもみんな逃げられて……。ひとりだけ、話し聞かせてくださいというお願いに「いいよ」って言ってくれたのがクリーニング屋をやっている小笠原さんでした。

そのお店には地元から来て働いてる人もいたし、彼自身が原子力を勉強する勉強会を主催していました。その毎月1回の勉強会には村から再処理工場に働きにいっている人達が参加して、原燃の広報部長が来て講義をするというんです。それを取材させてくれと言ったらだめだと言われて、カメラを持たずにお前さんが何度かやってきたらそのうち撮らせてやってもいいと言われて、私一人カメラを持たずに東京から何度も何度も通ったんです。

そしたらだんだんそこにいる人達の顔が見えてきて、何をしてる人かわかってきて……。いつも子どもを二人連れてくる人がいて、それが上野さんって原燃の中で働いてる人だったんです。上野さんに廻り合う前に海岸で昆布を拾っているおじいちゃんに会っていて、おじいちゃんを追っかけていったらみんなで昆布を束ねている作業場に着いてね、そこは簡単に取材できたんですが、このおじいちゃんが上野さんのお父さんだってことに気がついて、繋がっちゃったんですよ(映画には上野さんの家族が描き出されている)。

取材をしていくうちに、原燃を推進している人達だって、自分の村が大事でないわけがない、自分の故郷だし生活の場だから、そこに対する愛情があるというのも、実感としてわかってきたました。

それに私自身が批判的な姿勢で最初から向き合うのは意味がない。私には批判する権利はないと。だって自分でさんざん電気を使っといてさあ、そのゴミを引き受けてくれた人に対して、「そのゴミをどうして引き受けたんですか」なんて言えるわけがないじゃないですか。だからただただ、それぞれが思っていること、表現したいことを尊厳を持って、尊重して聞くっていうことが一番大事なんじゃないかなあって思いました。

人間誰だって理解されたいじゃないですか。たまたま六ヶ所に生まれたばかりに、そういう難しい選択を迫られるっていうかね、そういうなかで生きていくことをどういう風にとらえるかを、私は本当に理解したい。そこで生きていくこと自体の難しさを……。その中で推進しようが反対しようが、村の未来はひとつしかないわけだから。

ーー描かれているのは、本当に普通の生活。お父さんが子どものことを思う姿、村の中でどうやってうまくやっていこうかと模索する様子などですね。鎌仲さんはこれから六ヶ所村とはどんな関係を築いていこうと思っていますか?

鎌仲 村の人達は村の人達でいろんな思いがあるんだけど、それを隠さないと生きにくいということになっていると思うんですよね。でも隠していても映像は映してしまうので、そういう意味では私のやっていることは暴力的な行為なんじゃないかと思うんですよ。

彼らは言葉では「必要だとか」「安心だとか」「仕事だ」とか言ってるけれども、でも全体として客観的に見てそう見えるかというと、「安心だね」「いいねえ」「六ヶ所村に住みたいわ」と思うかというと、それはちょっと違うことだと思うんです。私の偏った見方でなく、本当に客観的に見てね。大量の核廃棄物と隣り合って暮らすことをね、「いいことだ」と誰も100%ストレートに言えないわけですよ。で、そういう風にしか生きれない場所に生きてしまった時に、人間は「だめだ」とか、「ひどいんだ」とか思いながら生きていけないでしょ? やっぱり自分で自分の未来をいいものにしないと生きていけないわけだから、そこにギャップが生まれるんですよ。それを映像でみせてしまった時に、私のやったことは彼らに歓迎されないこと