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「震災前の南三陸に戻したくない」。南三陸で頑張るお店と全国のサポーターをつなぐ「南三陸deお買い物」

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2年前の3月11日の南三陸。街全体が津波に飲み込まれていく様子を、多くの人がテレビで目にしたと思います。その南三陸は今どんな様子なのでしょうか。

「震災前に戻したい!」と頑張っているのだと思っていたら、そうではなく「震災前の南三陸に“戻したくない”」と頑張っている人がいると聞いて、お話を聞いてきました。

お話をしてくださったのは「南三陸deお買い物」というウェブ店舗の店長をしている、伊藤孝浩さん。「震災前に戻したくない」というのは一体、どういうことなのでしょうか。

震災前の南三陸に「戻したい部分」と、「戻したくない部分」がある

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伊藤孝浩さん

伊藤さんは高校卒業後、大学進学をきっかけに上京。そのまま就職しました。伊藤さんはその時の気持ちをこう話します。

震災前までは南三陸が嫌で、戻らないつもりでした。当時の僕にとって、中学の修学旅行で行った東京や、中学のときに町の海外交流事業で行ったドイツやイタリアと比べると、南三陸は「何もないところ」。何もなく刺激がないのが嫌だったのです。上京後、年末年始に南三陸に帰っても2、3日したら飽きてしまっていました。

3.11が起きたのは、南三陸を離れて15年目のこと。駐在先の中国・青島で震災を知りました。中国ではtwitterやFacebookができないため、「状況を把握するのは非常に困難だったし、電話が通じず、家族の安否がわかるのに一週間かかり、非常に不安だった」と伊藤さん。

幸い家族は無事でしたが、伊藤さんが南三陸に戻れたのは震災から1ヶ月後の4月。南三陸出身者である先輩の車で戻り、山側から南三陸の街の中心部に通る道に来た時に、目を疑ったと伊藤さんは振り返ります。


震災後の南三陸の様子

本当に何もなくなっていました。全く景色が変わってしまっていました。何か話そうにも言葉が出ない状態。そのときに「ずっと“故郷には何もない”と思っていたのは、自然があること、海を見ながら暮らせる街があること、自然の恵みあふれる生活があることに気付いていなかっただけだったのだ」とわかったように思います。

そして、その帰郷の際に、伊藤さんは南三陸に戻ることを決意。海を見ながら暮らせる街や自然の恵みあふれる生活を取り戻したいと思ったそうです。ただし、無計画で帰っても何もできず、むしろ迷惑になるかもしれないし、何ができるかを整理しなくてはいけないと感じたとも。

震災前の南三陸の「閉鎖的な雰囲気」は変えていきたい

また震災前の南三陸の街や生活を取り戻したいと思う一方で、震災前の南三陸が完璧だったわけではなく、取り戻すよりは変えていきたい部分もあると思ったと伊藤さんは語ります。

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「海を見ながら暮らせる街、自然の恵みあふれる生活を取り戻したい」(伊藤さん)

もともと南三陸は、「無添加食品」「ゆるキャラ」「キラキラ丼」「体験学習」「民泊」「きりこ」「スタンプラリー」「捨てられていた“めかぶ”の商品化」「牡蠣のトレーサビリティ」などなど、人口の割には斬新なことを実現してきた町ではあります。

しかし、その進取の風土があることが、僕たちのような若者や外部の人になかなか伝わっていなかったように思います。そのため、震災前でも若者がどんどん町を出て行ってしまう状況だったのです。南三陸と外の世界との何らかの架け橋を作っていかなくてはいけないと思いました。

震災から1ヶ月後、ちょうど帰郷を決意したのと同じ4月に、伊藤さんはネット上で知り合った南三陸出身の埼玉のMさん、北海道在住のSさんとともに南三陸の情報をまとめる情報サイト「南三陸町支援情報ポータルサイト」を立ち上げました。

ネット上に散在している情報を集約し、南三陸について知りたい人が情報収集するときに必要な情報を一括で手に入れることができるようにしたり、古い情報や誤った情報、感情的で偏った主張を選別して掲載することで、利用者が余計なストレスを溜め込まなくてもすむように配慮したりという活動を行いました。

全国の「南三陸を支援したい」と思う人に向けて情報を毎日発信した結果、このサイトは南三陸を応援してくれる、いわば「サポーター」のような人や、南三陸出身の人、またその家族など、多くの人と繋がることができました。

そして、「南三陸町支援情報ポータルサイト」はピーク時には月間約5万のアクセスがあるサイトに成長。その活動の中で町内向け情報誌「月刊おぢゃとも」、再開店舗と全ての避難所を網羅する「お店再開情報マップ」など、緊急時を支えるサービスが次々と生まれたのです。

「南三陸deお買い物」との出会い

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http://www.odette-shop.com/

「南三陸町支援情報ポータルサイト」の運営を通じて知り合ったのが、東京在住で南三陸町出身の奥様を持つ、フリーランスプログラマのKさん。当初、Kさんは「南三陸町支援情報ポータルサイト」内の「お店再開情報マップ」というコーナーの技術面を担当。Kさんはその次のステップとして「南三陸deお買い物」を立ち上げました。

「南三陸deお買い物」は、南三陸で採れたり作られたりするものを、南三陸を支援したいと考えている人が購入できるウェブショップです。Kさんの「東京からできる支援はないだろうか」という思いからつくられました。

そのKさんと伊藤さんが、ようやく対面できたのは「南三陸町支援情報ポータルサイト」を丸1年運営した2012年の5月。中国赴任の任期を終えて会社を退職した伊藤さんが、起業家を目指そうと参加した、社会起業家を支援するNPO法人ETICの主催する勉強会でのことでした。

そこでKさんと伊藤さんは意気投合。伊藤さんはKさんに

南三陸出身者が運営した方が良いと思う。現地に物流拠点を設置して、代行範囲を広げることができれば、もっと多くの生産者を応援できるのだから。そして、このサイトは、単なる買い物サイトではなく一種のメディアになっているし、注文と同時に熱いメッセージがたくさん届く。買い物をきっかけに南三陸町を訪れてくれた人もいるんだ。

と熱心に誘われて、「南三陸deお買い物」店長になったのです。

多くの人にとっての南三陸の入り口になりたい

「南三陸deお買い物」は、出品している生産者の顔、決意、こだわりが見えることを最も重視して運営しています。

あるお菓子店のページでは、店長さんが震災後に避難所の生活の中でお菓子を作りたいと悶々と悩んだことや、当面の生活を支えるために土木作業のアルバイトをしながらお菓子店の再開方法を考えたことを綴られています。

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大人気の「お山のマドレーヌ」を作っているオーイング菓子工房「RYO」

また、ある水産加工工場のページでは、5つあった工場のうち4つが操業不能になったほどの被害を受けたにもかかわらず工場長が「新しくすべてやり直せるチャンスだ」と前向きに語っていることを動画で見ることができます。

ほかにも、津波で全壊するも、家族一丸となって再建を果たした民宿ご一家の歩み・思いを丹念に綴ったページや、津波で船以外はすべて流されたワカメ漁師の決意が伝わるページなど、誰がどんな想いで仕事をしているのかを知ることができるのです。

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たった一つ残った味噌樽で営業を続ける高長醸造元の味噌パッケージ

風評被害に対しても積極的に取り組み、海産物などには放射性物質の検査結果をつけて出荷しています。また、震災時に繋がった東京の南三陸を支援する人たちと一緒になって商品開発・販売促進・催事出店するなどの活動も積極的に行なっています。

こういった、売り手の顔が見えるページでおいしいものを、南三陸以外の人に買ってもらって南三陸に親近感を持ってもらうことを入り口に、最終的には多くの人に南三陸に来てもらい、南三陸をもっと多くの人に知ってもらえるようにしていきたいのだと伊藤さんは言います。

そんな伊藤さんを、Kさんはこう評します。

一見、物静かだけど、うちに秘めた熱さが凄い。伊藤さんが現地で活動するようになってから、出店者、品揃え、売上と全てが右肩上がり。ショップ運営にとどまらず、地元青年会での活動、観光協会など公的セクター、様々な外部支援団体との窓口として活躍している。大変だと思うけど、これからも有志で応援していくので頑張って欲しい。

震災前の姿に戻したいこと。震災をきっかけに変えていきたいこと。伊藤さんの精力的な取り組みに、目が離せません。みなさんも、「南三陸deお買い物」で南三陸と繋がりませんか?