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コンゴに日本の医療技術を!戦乱を乗り越え30年以上コンゴで技術者を育て続ける日本人がいた。-石田勝子さんインタビュー(前編)

greenz/グリーンズ 石田勝子さん 教え子と

あなたはコンゴと言われて、まずどこにあるかはっきりとわかるでしょうか?「アフリカの、あの辺り…」というくらいにはわかっているとは思いますが、どこの国と国境を接していて、どんな産業があって、どんな歴史を持つのか知っている方は少ないのではないでしょうか。さらには、そのコンゴで30年以上にわたって活動を続けている日本人女性がいることをご存知のかたはほとんどいないでしょう。

宣教師としてコンゴに渡り、医療の専門学校の運営に携わること30余年、独裁政治や戦乱を乗り越えいまも活動を続ける石田勝子さんにお話をうかがいました。石田さんがいま日本の人々に伝えたいこととはいったいなんでしょうか。

コンゴという国について、なぜコンゴに行ったのか?

石田さんのお話をうかがう前に、まずはコンゴのついて少し予備知識を。コンゴ(コンゴ民主共和国)はアフリカのほぼ中央のやや南にあるアフリカ第2の面積を持つ国です。公用語はフランス語、首都はキンシャサ、人口は約6600万人。歴史を紐解くと、1960年にベルギーから独立するものの、ベルギー軍の介入により直後に「コンゴ動乱」が発生、1965年にモブツがクーデターで実験を掌握し、大統領に就任します。

石田さんがコンゴに渡ったのはそのモブツ大統領が政権についていた1974年のことです。まずはそのあたりのことからお話をうかがいました。

石村 まずは、どうしてコンゴに渡ることになったのか教えて下さい。

石田さん(以下、敬称略) 私がクリスチャンになった頃、コンゴ動乱があってたくさんの宣教師が命を落としました。そのことを祈ってた時に、私自身も行くべきだという確信を得て、何もわからなかったけれど行く事にしたんです。その頃はモブツ大統領の独裁時代で非常に貧しいけれどとにかく生きることはできるという時代でした。

臨床技師の仕事をしていたので、コンゴの病院から検査技師として働いて欲しいと言われ、そのままその病院の学校で技術を教えるようになりました。その頃のコンゴは細菌や原虫による病気が多かったにもかかわらず検査技師なんていなくて、問診とか触診で治療しなければならない状態でした。お医者さんも少なかったですし。それで看護師さんの教育も、患者を見て診断して治療できるまで教育する必要がありました。

そういう学校が少なくて、特にきちんと技術を教えるところはほとんど無かったので、やがてブルンジや中央アフリカといった周りの国からも私たちの学校に学生が送られて来るようになりました。私たちの卒業生はどこに行ってもよく患者を治療できるということで評判だったんです。

石村 それはいつ頃まで続いたんでしょうか?

石田 1997年にモブツが倒されてローラン・カビラが大統領になりました。カビラは本当に民主的な国民のための政治をしたかったんだと思うんです。それで兵士の給料を上げたり、何年も給料が出ていなかった教育者に給料を払ったりした。でもそれがそれまで甘い汁を吸ってきた人たちの反感を買って2001年に暗殺されてしまいました。そのあとは群雄割拠という時代が来て、国民は非常に苦しみましたけど、2004年に新しい憲法が作られて2006年にカビラの息子が大統領に選ばれました。

瓦礫と化した手術室

瓦礫と化した手術室

戦乱で被害を受けた学校、再建への道

まがりなりにも平和だった20数年、石田さんは西部にある首都キンシャサからも遠く離れたウガンダと国境を接する東部のニヤンクンデで暮らしました。そこのCentre Médical Evangélique病院付属の医療専門学校で学生たちを教える生活を続けました。しかし、2002年、戦乱はその村にまで及びます。

石村 戦乱で学校も破壊されてしまったそうですが、どのような状況だったんでしょうか?

石田 2002年の9月に、私はその時日本にいたんですが、突然反政府軍の人達が私達の学校がある村にやってきて、村を襲いました。というのはその頃ヘマ族とゲキ族が対立していたんですが、そのニヤンクンデ村の族長というのが両方の部族からお金をもらっていたらしく、それで憎まれて村が襲われて、学校や病院も襲われました。

あっという間に病院にいた患者さんやヘマ族の看護師さんやらも手にかかって、ヘマ族とビラ族以外の人達は部屋に閉じ込められて、そんな日が何日も続いて、その間に亡くなった子どもなんかもいたんだそうです。病院内だけで60人くらい、村全体では2000人が殺されて、病院も学校も破壊されて、閉じ込められていた人達も遺体をトイレを作るんで掘っていた穴に埋めて逃げたんです。

最初はオイチャというところに逃げて、そこで学校を続けていたんですが、そこにいつまでもいるわけにいかないので、近くのベニという街で空いている倉庫を借りて病院を再開し、個人宅などで続けていた学校もそこに移転しました。でもやはり窓にガラスもないし、天井もないのでとても勉強できる環境ではなくて、2004年に元の場所に戻ることにしました。2つの校舎のうち1つは残っていたのでそこでとりあえず始めようということで。

石村 壊れた校舎はいまもそのままなんですか?

石田 まだ壊れたままで、でもとりあえず屋根だけは直して欲しいということで支援団体から5000ドルを支援していただきました。というのも、屋根がないと壁から木が生えてしまってそれが大きくなるともう直しようがなくなってしまうんですね。もともとジャングルだったところなのでほんとうに自然の破壊力が強いんです。全部修理するのにはさらに1万5000ドルくらいかかるんですが、とりあえず屋根だけでも直そうと。

石村 経済的にはかなりくるしいんですね。

石田 そうですね。学校は寄宿制で寮費をもらっているんですけど、それだけでは最低限のお米や豆を買うことしかできなくて、それで自給自足しようと畑を始めたんですが、学生たちにやらせると収穫したものをすぐ食べてしまって学校にはぜんぜん持ってこないんです。それで、近くの村の人に頼んだんだけど、その村の人達が怠け者で、何ヶ月も経ってそろそろ収穫かなっていうのにまだ植え方も終わってないなんて言うんですよ。

石村 厳しいとは思いますが、これからどのようにしていきたいとお考えでしょうか?

石田 私たちの学校は4年制の専門学校と3年制の短大とあるんですけど、短大はまだ地に足がついていなくて、専門学校の卒業生は卒業前から引く手あまたなんですが、短大の方はしばしば就職口が見つからなくて、今のところはNGO団体なんかで働いているんですが、つぶしが利かないのでこれからどうなってしまうんだろうって思っています。でも私は短大の方に頼みたいと思っているんです。そのためには教えられるような人材を育てていくことが必要なんだと思います。

少しずつそれは出来るようになっていて、うちの卒業生の一人が一般住民に対する衛生教育と衛生問題の解決のための活動を始めたんです。衛生教育をしたり、トイレを作ったり、水源をきれいにしたり、いろんな村でにそうやって住民を教育してるんです。それで、彼らの働きが功を奏したと思うのが、伝染病の問題です。紛争で避難民があちこちに行くと次に問題になるのが伝染病で、一度ウガンダでコレラが流行ったんですが、それをコンゴに入ったところで食い止めることが出来たんです。それは大きな働きだと思います。


1997年から2006年ころまでのコンゴにいったい何が起こっていたのか。日本ではほとんどその情報に触れることはありません。石田さんのお話だけでかなりショッキングでインタビューでもなかなか詳しい話を聞くことはできませんでした。しかし、そこは内戦の例に漏れず虐殺や略奪、レイプなど様々な「悪」がはびこり、エイズや伝染病が蔓延し、多くの避難民が他の地域や外国に逃れるような状況だったようです。

そのコンゴ情勢に興味のある方は、是非こちらの本をお読みください。石田さんを支援する活動を始めた英治出版が翻訳出版したコンゴのレイプ被害者たちの物語です。

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後編では、石田さんがいま日本と日本の若者に対して抱いている思いを中心にお聞きします。