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被災地に「行けなかった」人にぜひ観て欲しい、震災直後の被災者と私たちの感情を閉じ込めたような映画『大津波のあとに』『槌音』

greenz/グリーンズ 大津波のあとに メイン

『大津波のあとに』
カメラはおずおずと被災地へ向かう。最初のカットは津波被害にあった仙台市の荒浜地区の風景。道沿いの光景が淡々と映し出される。

「淡々と」とは書きましたが、そこに映っているものは圧倒的な破壊のあとであり、ひっくり返り押しつぶされた車やどこからか運ばれてきた家の屋根が重なりあい、想像したことすらないような景色がそこにあるのです。

撮影者は無言のまま、仙台から北へと向かいます。東松島から石巻へと、少しずつ被災者に話を聞くこともできるようになりながら、同時にまだ遺体の回収が行われているような場所へ足を踏み入れ、その風景と人々を記録していきます。

被災者でもなく、直後に被災地に行ったわけでもない私のような観客はスクリーンの前で、カメラの後ろで撮影者が体験した緊張感を追体験するしかありません。この先に何が待っているかわからない、恐ろしい物を目にしていしまうかもしれないという恐怖、言葉によって話す相手を傷つけてしまうのではないかという恐れ、そんな思いに身がすくむようで、緊張しながら画面に目を凝らし、耳をそばだてるのです。

この生々しい記録の中で、被災者たちは「見る」ということを盛んに口にします。被害にあったお寺の女性は「この状況を見て欲しい」といい、子供を亡くした父親は「自分で見なければ納得できない」と言います。私たちは写真や動画で現場の状況を見てはいます、しかしそれは報道というフィルターを通したものに過ぎず、そこにリアリティはあまりありません。

この映画『大津波のあとに』の素晴らしいところは、この撮影に赴き、被害の大きかった現場に足を踏み入れ、悲嘆にくれる人々に声をかけた森元さんの勇気であり、そして徹底的にその森元さんの視点から作られているということです。私たちはスクリーンの前で森元さんが感じたことを追体験することで、間接的にではあれ実際に現場を「見る」ことができるのです。

もっとも印象的だったのは小学校の卒業式のシーンです。ようやく見つかった卒業証書を丁寧にきれいにして校長先生が生徒たちに渡すというニュースは目にしました。しかしこの映画に映っているのは、その卒業式で歌をうたう卒業生たち。その顔はうつろで彼らが歌う「スマイル・アゲイン」という歌詞が虚しくすら聞こえます。このうちどれだけの子供が親や兄弟や祖父母を失ったのか、それを考えると彼らが笑顔になれないのは至極当然のことです。

greenz/グリーンズ 大津波のあとに サブ1

このシーンのあと、そんな生徒たちに担任の先生が言葉を贈ります。その言葉はぜひ映画を観て実際にその先生の口から聞いてほしいからここには書きません。ただ言えることは、その言葉にはその先生だけでなく、震災にあった子供を見つめる大人たちの思いが集約されているように思えたということ。絶望の中であっても未来を考えることをやめてはいけない。先生はそのことを生徒たちに伝え、同時に自分でもそれを信じることができるように生徒たちに最後の宿題を出すのです。

この感情はニュース映像からでは伝わって来ません。

あるいは、カメラに向かって家族や知人の死について語る大人たち顔に浮かぶ笑顔。恥ずかしいような、あるいは馬鹿にしたような。彼らはもちろん恥ずかしいわけでも、森元さんを馬鹿にしているわけでもありません。カメラというたくさんの人の目の代わりとなる機械の前で、自分の感情をそのように表すしかない、そんなこの時期の彼らの心のありようをこの映像はとどめているのです。

この映画を見た人は思うでしょう。この3月21日から31日までの間、自分は何をしていたろうかと。その時自分の心はどのような有り様だったのだろうかと。実際に「見る」ことでそのような心の動きが生まれます。そしてこれこそが私がこの映画を見ることが意義深いと考える最大の理由なのです。そしてその思いは同時上映された『槌音』を観てさらに強まります。

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『槌音』
この作品は、大槌町出身の制作者が、震災後にふるさとに帰って撮影した映像と、震災以前に撮影した映像を組み合わせて作品にしたものです。震災前の映像は、地方独特のお祭りの映像や、自分の家族の日常を撮したもの。震災後の映像はただただ破壊された街や家を撮しただけのもの。破壊された街の映像に震災前の映像の声がボイスオーバーでかぶさり、現在と過去が重なりあっていきます。

この『槌音』を観はじめると、『大津波のあとに』が一貫して外からの視線で撮られていたということがよくわかります。この2作品の視線の有り様は本当に全く違うのです。『大津波のあとに』のカメラはおずおずと探るように被災地を進んでいきます。しかし、『槌音』のカメラからはその先にあるものを確認しなくてはいられないという「焦り」のようなものを感じるのです。

そして、その焦って確認した街の破滅的な光景に、そこが本来そうであったはずの風景が連なり、さらに現在の風景に過去の音声がかぶさることで、なにか「亡霊」が映っているような錯覚にとらわれるのです。この映像から感じられるのは喪失感であり、この映像がとどめようとしているのは、震災の記憶ではなく、震災前の記憶なのだと強く感じます。

greenz/グリーンズ 槌音 サブ

記憶と記録
『大津波のあとに』のなかで森元さんはお寺の女性との会話の中で「忘れ去られてしまったら困る」ということを言いいます。私は常々、映画や映像というのは人に物事を想起させるという役目があると考えています。そのものが記録として歴史の証言になるという点については、映像が常に持つ主観的な部分もあって額面通りに受け取る事はできないけれど、人が忘れるべきではないことを忘れそうになったときに、それを思い出させるということには大きな役割を果たすと思うのです。

戦争であれ、虐殺であれ、公害であれ、災害であれ、それを繰り返さないために記憶にとどめておくべきことを、忘れやすい人間の代わりに覚えておいてくれるもの、それが映画なのです。『槌音』がやろうとしていることは、震災で奪われてしまった過去を記憶にとどめておくこと。それは震災の被害にあった人たちにとっては非常に重要なことであり、この映画を観ることで、多くの人が自分の中にある震災前の記憶をよみがえらせることができるでしょう。

それに対して、『大津波のあとに』がやっていることは、この津波を忘れないために記録にとどめておくということ。今回の震災と津波はもちろんまだ忘れ去られていはいません。しかし、原発事故が人々の意識の中で大きなウェイトを占めることで、津波の記憶は確実に縮小して行っています。これからもこの津波を忘れない、あるいは繰り返し思い出すためには、今こそその記憶を新たにするためにこの映画を観て欲しいと思います。

震災直後、私たちにできることは被災した人たちの力になることでした。それは今も変わりませんが、さらにいま私たちにできることは、一人の人間の勇気がもたらしてくれた貴重な映像と証言、これを大事にすることだと私は思うのです。

そうすれば、震災直後に「やらなければ」と思っていたことをわずかずつでもやり続けることが出来るはずです。

8月に初めて上映され、10月に開催された山形ドキュメンタリー映画祭でも上映されたこの2作品が11月19日から25日まで東京・渋谷のアップリンクXでロードショー公開されます。

『大津波のあとに』
2011年/日本/73分
監督・撮影:森元修一

『槌音』
2011年/日本/23分
監督・撮影:大久保愉伊

→公式サイト

11月19日、渋谷・UPLINK Xにて1週間ロードショー!
日程:11月19日(土) ~ 25日(金) 連日18:45 開演
場所:アップリンクX(東京・渋谷)
トークゲスト:19日(土) 泉美木蘭さん(作家)、20日(日) 渋井哲也さん(フリーライター)

11/26(土)~12/2(金) 渋谷・UPLINK X 上映延長決定!連日16時30分~